#36 Thatcher




「マジカル・ジャーニー?なにそれ?」


 私は勉強机に向かいながら、千紗に問い返した。


「『アナタが魔法使いになれる、世界で唯一の旅』だって」


 椅子を回転させて後ろに振り返る。彼女はベッドに寝そべりながら、スマホの画面を見つめていた。


「『魔法使いになれる旅』? なんか怪しい……」

「SNSで拡散されてるみたいだけど、あんまり広まってないみたいだネ」

「それ、どこが発信してるの?」

「え?『株式会社イー・トラベル』だって。旅行会社かな、ぜんっぜん聞いたことないケド」


 私も年頃の女子らしく旅行に出掛けることが多い。大学の友達を誘い合わせて、少し余裕があれば週末の二日間だって弾丸で行って帰ってくる。千紗とは今でも年一で海外に行っている。

 散財の限りを尽くす旅行もたまにはするが、自分のお財布の中身と相談をすると、そう何度も行けるものではない。格安パックツアーのようなものをネットで漁ることがある。そのため大手から零細まで様々な旅行会社にお世話になってきた。その中に、イー・トラベル(?)があったかどうかは記憶にない。


「それってどんな旅行なの?」

「えーと、ちょっと待ってネ」


 千紗がスマホ画面を指の腹で擦る。


「なんか―――――、よく分かんない」


 よく分かんない?

 それは予想外の答えだ。


「どういうこと?」


 私は椅子から立ち上がると、彼女の隣に飛び込みスマホを覗き込む。


「貴方はマジョから魔法を教わり、一人前のマホウツカイを目指します。道中、様々な困難が貴方を待ち受けています。しかし、心配することはありません。貴方の手にはマホウの力が宿っているのです。さあ、その力でマジョの館に辿り着き、真のマホウツカイの称号を得るのです――――――」


 言い終わって千紗の顔を確認する。


「なにこれ? ゲームの話?」

「ゲームではないと思うケド、怪しさ満点だネ」


 去年、千紗と行ったリアル脱出ゲームがこんな世界観だった。山中の大きな特設会場で、迫りくるモンスターが出題する謎を解き明かしながら、最深部のお宝をゲットするという作り物だった。確かあの時もこうしてSNSで話題になっているからという理由で参加を申し込んだ。当時は斬新な取り組みに感じたが、今となっては似たようなイベントが蔓延はびこっていて、あの頃の新鮮な感情は消えてしまった。


「これ、『モニターツアー』って書いてあるケド、モニターツアーって何?」


 モニターツアー?

 そういえば聞いたことがある。企画旅行を商品化して世に出す前に、その企画の採算性や安全面の検討するために、参加者を募って格安で旅行商品を提供するというものだ。


「じゃあ、ちゃんとした旅行なんだ。それ」


 私はもう一度、千紗のスマホを覗き込む。


『※本企画は実験的な試みです。同項規約に同意していただける方のみ、下記URLより参加をお申し込みください。追って詳細をご連絡します。』


 千紗が『よく分かんない』と言った理由はココにある。どういう訳かこの旅行は、その全容を電波に乗せることができないらしい。本当に参加の意志がある者にのみ、その事と次第を伝えようと言うのだ。この一文にその意味が込められている。


「これ、危ない目に会ったりしないかな」

「危ない目?」

「例えば誰も足を踏み入れたことのない秘境で、参加者だけが一週間のあいだ生き延びるツアーとか」

「文乃、想像力豊かだネ。それで一本映画撮ってみる?」

「そんなありふれた設定もうみんな飽き飽きしてるよ」


 実際、自分がそれを咄嗟に思いついたのも、過去にそういう作品を多く見てきたからだ。


「でも、どうする? この予定日、私ちょうど空いてるケド」

「ええ? 千紗行くつもりなの?」


 私は驚きの表情で彼女に振り向く。


「だって面白そうジャン。私この日バイトないよ。文乃は?」


 勉強机の上に山積みになった参考書を物憂げに見つめる。『憲法』『行政学』『ミクロ経済学』『マクロ経済学』『人文科学』……、公務員試験の問題集。その背文字が瞳にびっしりと映る。

 年内にはあの問題集を一周しておきたいんだけど、年末近くに旅行なんて行っちゃっていいのかな? 今のペースだと絶対にムリだ。確かにその日は私もオフ。でも貴重な勉強時間を、よく分からない旅行に充てちゃっていいのかな。どうせ後で焦ってやって、結果に落胆するくらいならいっそしない方がいいのかな。、そう思い始めた時にはすでに腹積もりが決まっていることを、私は知っている。


「ごめん。私、やっぱり試験勉強しないと」

「試験ベンキョー? 大学もこの時期テストあるの?」

「違う違う、公務員試験の勉強だよ」


 千紗は私の勉強机に目をやり、「ああ……」と寂しそうな声を漏らした。


「最近旅行多かったし、そろそろ小休止すべきだと思うんだよね。ほら高校の時さ、現国の浜松先生が言ってたの、覚えてる? ……人間のやる気はまるで紙風船だ。ゴム風船と違って針で一刺ししても急には割れない。でも目に見えないだけで、叩けば凹むし、押せばしぼむ。だから些細なことに思える甘えも、やがて自分の身を亡ぼすんだって……、浜松先生言ってたよね?」


 千紗は目を細める。


「私、あのセンセー嫌いだったし」


 その一言で一蹴しようという態度がありありと見える。


「千紗が嫌いとか関係ないでしょ。今でもそれは私の信条なの」


 千紗が眉根をひそめて険しい表情をする。言い返される前に、舌根の乾かないうちに、私は彼女の肩を諫めて言う。


「ごめん、今が踏ん張り時なの。何より一番、自分に負けたくないから」






 『鉄の女』、私がそう呼ばれたのはいつからだったか。


 記憶しているのは、『鉄の女』と呼ばれたイギリスの元首相『マーガレット・サッチャー』の名が授業で上がったときのことだ。第二次大戦以後、イギリスは手厚い社会福祉政策により財政がひっ迫していた。『ゆりかごから墓場まで』というスローガンのもと行われた政策は、国民の政府依存を過剰に強め、人々の勤労意欲は低下し、国際競争力を著しく弱めた。

 そこで現れたのが、マーガレット・サッチャーだ。彼女は金融面において大胆な改革を強行し、とにかく機能不全に陥った財政を『破壊』した。愛する母国のために身を削る彼女を称賛する声は多く、十一年に及ぶ在任期間は歴代首相の中で最長であり、その支持の声の大きさを象徴している。

 しかし一方で、その強硬な姿勢や強気な発言がメディアに取りざたされることも多く、彼女のことを人はこう呼んだ―――――血も涙もない”The Iron Lady(鉄の女)”。



 佐々ささ 文乃ふみの

 私の名前を呼ぶとき、人は少し決まりの悪い顔をするので、私はそのたびに申し訳ないとも、悪いことをさせている罪悪感とも、何と言えばいいのか分からない感情を抱く。

 『佐々さん』と言っているのだろうが、多くは『さささっ』くらいにしか聴こえない。大学の音声学で学んだことによれば、サ行は舌端と呼ばれる舌の先を下前歯に当てながら発声するという。サ行の発音が苦手な人はこの舌端を上前歯や歯茎に当ててしまうことで、タ行やハ行のように聞こえてしまうらしい。また呼気の通り道である歯間の並びが悪いと上手く発声ができない、とかなんとか。ただこのようにサ行というのは絶妙のバランスが成り立って初めて聞き取れる、デリケートな音なのである。にも関わらず、私の『佐々』という名字は敬称『さん』を付けることで、その意味で難読名字と化してしまっている。


 そんな状況を回避するために、友人は私のことを下の名前で呼ぶか、『佐々ちゃん』がつづまって『サッちゃん』と呼ぶことが多い。


 このサッちゃんというあだ名がのちに『マーガレット・サッチャー』と結びつくのだが、理由はその一つではない。むしろ、そこではない。




 すっきりとした目鼻立ち、細く濃い眉、何事にも物怖じしない度胸を備えた佐々文乃は、髪を長く伸ばした男の子のようだった。完璧を求める教育熱心な母親のおかげで、文武両道の才女として世間に知られていた。交友関係は広くないが、同性の友人にめっぽう好かれた。ただある日クラスの男子生徒から女っ気がないとはやし立てられ、悔しさから見よう見まねでオシャレを始めた。これが意外にもギャップに弱い男子のツボを突き、連日彼女に交際を申し込む者たちが列をなした。

 文乃は思う。この時の態度がよくなかった。それまで異性というモノを意識したことがなかった文乃は、来る相手をバッサバッサと切り捨てるように交際を拒否し続けた。「興味ない」「そんな暇ない」、費やす時間を必要最低限に済ませたい文乃の気持ちが前面に現れていた。

 未練がましい男子たちの執着は留まることを知らず、今度は文乃の気を引くために露骨に彼女を糾弾し始めた。「いい気になるな」「思いあがるな」、そんな男子たちの醜い感情が彼女の周りで蠢いていた。当然、文乃はそんなことに動じたりはしない。誰もそんな負の感情に同調したりはしない。どうせこの小さな社会も動かせぬ、ちっぽけな言葉なら初めから耳に入れぬ方がいい。文乃はそうした心構えで日々を過ごしていた。


 しかし、予想外だったのはそのうちの一人が文乃を指して呼び始めた『鉄の女』というあだ名が、あまりに言い得て妙だったことだ。


 相手の気持ちも考えず、無感情に切り捨てるその姿はまさしく、『鉄の女』マーガレット・サッチャーに重なるものがあった。『サッちゃん』というあだ名も相まって、文乃を指す『鉄の女』はその年の学年誌で校内ホットワード第一位に堂々選出された。惨めな男子陣だけの盛り上がりと思われていたが、女子生徒の中にも文乃のことをそう感じていたような節があり、なんと形容していいか分からないがとても冷徹な女生徒・佐々文乃は『鉄の女』という端的明快な言葉に集約され、文乃はその後もずっとその十字架を背負うこととなった。



 

 


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