#29 Calling
「杏子、さん……?」
杏子さんは指先で三角帽子の
「驚いた?これ、アタシの仕事服」
バイト先で着ている可愛いフリルの付いたワンピースとは確かに違う。アレはアレで魅力的なのだが、どうもチープなコスプレ衣装のように見えてしまうのが玉に
「この衣装を着ているときの私は桜見杏子じゃなくて『Cherry.K』、世界一のマジシャンになる、魔法使いの名前よ」
魔法使いがマジシャンになる。杏子さんは気づいているか分からないが、それはとても皮肉が利いていると思う。
「なに?引いた?」
僕はかぶりを振った。
「いえ、とても綺麗で」
「……バカじゃないの」
彼女は鼻で笑った。背後で店長の舌打ちが聞こえた気がした。
「とにかく今日は急に呼んで悪かったわね。とりあえずそっち座りなさい。あ、やっさん四番テーブル使ってもいいわよね」
店長は顔を歪ませて「好きにしろ」と手を振った。
「ありがと。飲んだ分は払うから」
杏子さんはカウンターの上のメニューを手に取ると、奥の席に座るよう促した。僕は彼女に言われるがままスタンド式の丸テーブルの上に手を置いて、腰丈ほどの椅子に腰を下ろした。彼女もローブの裾に手のひらを滑らせて、木目調の丸板に臀部を乗せた。
「それで、お話って何ですか?」
杏子さんはすました顔で、「うん」と生返事をした。
「すごく急でビックリしましたよ」
「そうね。こうして二人で飲むことってなかったものね。忘年会とか新年会くらいかしら」
「あれも全員揃うことはないですから。ご一緒させてもらった記憶はないですね」
僕たちのバイト先、ファミレス『マリンポリス』は年中24時間営業の眠ることのない飲食店だ。忘年会や新年会だからと言って、全員が集まれるような機会はない。
「その、今日来てもらったのは……、こないだの事ちゃんと説明したくて」
「こないだの事?」
彼女は視線を落とすと、ゆっくりと話し始めた。
「アタシ……、本当はさ、親に迷惑かけないようにちゃんとした仕事探したいんだけど、でもやっぱりマジシャンっていう夢が諦められなくて、こんな年になっちゃったのよね。本当は今すぐにでもやめた方がいいっていうのは分かってるんだけど、でもやめられないの。この衣装を着ると、みんなに求められてる気がするのよ。だから、美佳に企画の話を持ち掛けられた時、すごくワクワクしてる自分がいた」
三角帽子を脱ぐと、静電気でハネた栗毛がふわふわと
「でも、ちゃんと社会と向き合ってる美佳の話を聞くうちに、私は自信がなくなっていった。会社には会社の方針があって、それがいつもあの子の首を絞めていた。それでも美佳は自分のやりたいことにまっすぐで、たとえ自分の首が撥ねられてもそれを成し遂げようという覚悟があった。対するアタシは、いつ倒れてもいいポールの上で偉そうに夢を語ってる。あの子の話を聞いてどれほどアタシが惨めな気持ちになったか……、だから誘いを断ったのよ」
僕は以前、彼女の悩みを聞いた。確かにあの時、杏子さんは『自信がない』と言っていた。
「別府君にもその話をして、アタシはてっきり同情されるのかと思ってた。実際、今までも会う男はみんなそうだったから。普段強気な私が弱みを見せると、みんな決まって私に同情の言葉をかけた。この年にもなってまだまだ芽が出ないんです、全く売れないんです、可哀そうですよねこんなアタシ……って甘えてた。きっと甘えてた。不憫な思いにみんな同調してくれるのが当たり前になってた」
彼女はふと目を上げると真っ直ぐな瞳で僕を見る。
「でもあの時、別府君はアタシに同情するどころか、罵ったわよね」
罵ったつもりはないですが、と言いかけて僕は思い留まる。近しいことは言ったかもしれない。
「あの時はホントに腹が立った。なんで何にも知らない年下の男にそんなこと言われなくちゃいけないのって本気で思った。でもよく考えれば、何も知らないからこそ言える言葉だと思った。私以外の人間はみんな何も知らない。それなのに、知った気になって私に同情してくる奴の方がどうかしてるんだって分かった。世間一般の本音を言えば、アタシみたいな売れ残りのアラサーマジシャンなんてそんなもんだって、よく考えれば気づくはずなのに……」
「杏子さん…」
「それからアタシは、失敗を恐れなくなった。どうせアタシ程度の人間なんて誰も期待してないんだから、思い切りやってやろうと思った。美佳にどれだけ劣等感を感じたって、プライドをなくしたって、本能の赴くままにやってやろうって」
彼女は精悍な顔をしていた。
僕がかつて彼女に抱いたイメージはこれだ。この顔だった。
「別府君には、
彼女は僕にああ言ったものの自分の本心に従って行動をした。結果それが良い方向に回ったものの肝心の僕にそれを伝えられずにいたわけだ。先日バッティングセンターで鉢合わせてしまったのは彼女にとっては誤算で、できれば全てが終わってから話してしまいたいという気持ちがあったのだろう。
「僕も……、生意気言ってすいませんでした」
「……ええ、ホントにね」
彼女の顔から笑みが零れると、僕も同じように微笑んだ。
「何飲む?」
スッと差し出されたドリンクメニューに目を落とし、僕はシャンディーガフを指差した。
「好きなの?ビールカクテル」
「あ、これビールなんですか?」
「知らないの?ビールとジンジャーエールのカクテルよ」
「そう、だったんですか。僕、実はあまりお酒得意じゃなくて」
シャンディーガフはたまたま目に付いただけ、それほど不味くはないと記憶していたためだ。
「こういう仕事してると、お酒も少し嗜むんだけどね。これだけは教えといてあげるわ―――お酒が詳しい男はモテる。これ、マメよ?」
杏子さんは器用にウインクしてみせる。
お酒に詳しい男はモテる、か。世の中には色んな価値観がある。それは世代間によっても違う。お酒に詳しい男性も今や、煙草がカッコいいと思っている男性、くらいの位置にあると思うが、それを言ったらぜったい怒るだろうな。
「夜は、ずっとこういう仕事を?」
「こういう仕事って、別府君ここが何のお店か知ってるの?」
僕はもう一度辺りを見回す。やはりそれぞれの卓には、客のほかにお店の人間が座っている。それは男性だったり、女性だったりさまざまだ。横髪揃えてパリッとしたスーツを着ている者や、杏子さんのように風変わりな格好をしている人もいる。不意に店長の鋭い眼光に気づいて、僕はとっさに目を反らした。
「すごく怪しいお店……ですよね。杏子さんも、その、そういう格好をされて」
「どこが怪しいのよ。ぶん殴るわよ」
「だってそんなこと言われても、店の風貌も怪しすぎますし」
「そういうコンセプトなのよ。ここは……、こういうお店」
彼女は懐からトランプカードを取り出すと、右手の中で扇子のようにそれを広げた。順番に並んだトランプカード、それを机の上に撫でつけ反転させると、カードは全てダイヤのエースに変わった。一瞬だった。瞬きも忘れて僕は息を飲んだ。
「え、いつの間に……」
「アハハ、ビックリした?ここはマジックバーよ、こうやって来てくれたお客さんにマジックを楽しんでもらうの。私はここのキャスト」
存在は知っていたが、来たことは一度もない。マジックと言えば、テレビで活躍するマジシャンか、路上の大道芸人しか見たことがなかったから、こんなに間近で見れるとは思ってもみなかった。
「どう?マジックって面白くない?」
「……他にも見せてください」
僕の瞳に童心が返ってくる。
思いがけないところからコインが出てきて、持っていたカードを言い当てられて、ピンポン玉がビール瓶を通過した。僕はそのたびに彼女の一挙手一投足に目を奪われ、感嘆の息を漏らした。
杏子さんは、輝いていた。とにかく目の前の客を、心から楽しませたいという思いが言葉の端々に滲み出ている。この人にしかできない、天職だと本気でそう思った。
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