#27 Quick Response
「でもいいよな、ジップは。ちゃんとしたとこ就職できて……。銀行だろ?人生、安泰だな」
「あ、ああ……」
コージの言う通りだ。これでいい。人生安泰なんてこの上ない幸せじゃないか。
「でもさ、一時はどうなるかと思ったよ」
「……?」
「いや、お前かなり就活に息詰まってただろ。みんな心配してたんだからな」
僕だけを置いて、周囲の友人たちは早々に就職を決めた。三年生の時から熱心に就活をしていた学生たちが春先に続々と内定を貰う、第一の波。中小より大手企業を志望する学生たちが幾次もの面接を勝ち抜き、次々に内定を手にする初夏、第二の波。僕はこの二つの大きな波に乗り切れず、失意のどん底にいた。誰も自分を認めてくれない、生きている価値がない、そんな弱音を吐くようになっていた。面接をするたびに色んな自分の顔が剥き出しになって、どれが本当の自分か分からなくなる。就活支援係の職員は言う、「芯を通せ」。己の意志、考え方、哲学、全てに「芯を通せ」と言った。だがどうしても内定が欲しい僕らはこう思うのだ、「通せと言われれば、どんな芯でも通せます。どの芯が一番ウケますか」と。そんな途方もない自分探しに躍起になっていた。
あの頃の自分は―――と言っても数か月ほど前の話だが―――まるで屍のようだった。毎朝、虚ろな目で姿見の前に立ち、くたびれたリクルートスーツに袖を通した。今となってはあの日の心の機微を思い出せない。
「心配かけて悪かったよ」
「いや、ホントに心配したんだからな。まさかあんなことがあ―――って」
「なに?」
「そういえば、結衣ちゃんに報告したのかよ」
「いや、まだ」
僕が信金から内定の電話を貰ったのは、つい二日前のことだ。先ほどから電話をしても一向に出ないので、伝えそびれてしまっている。
「ラインは?したのか?」
「しといた方がいいのかな」
「そりゃそうだろ。多分、お前のこと結衣ちゃんが一番心配してたぜ?」
彼女が、僕の就活に対して何かを言っていた記憶はない。僕が適当に面接の愚痴をぼやいて、彼女がそれを大人しく聞いていただけだ。いつものようによく分からない心理学の知識を持ち出して、揚げ足を取ろうということもなかった。今にしてみれば、それはそれで不気味だった。あれは彼女なりの配慮だったのだろうか。
「じゃあ、あとでしとくよ」
「ああ、絶対しとけ?」
コージはそれから黙々とノートパソコンのキーボードを叩き、しばらくして高橋先生の授業に向かった。足が軽やかに見えたのは、目の錯覚ではなかったと思う。
*
その日、陽の落ちる夕暮れ時になってようやく、結衣から僕のケータイにメールが来た。未だにメッセージアプリの使い方を知らないという彼女は決まって僕の携帯番号宛にショートメールを送信してくる。
『ピロリン』という短い電子音が、ポケットの奥でくぐもった音を立てる。
『すみません。今気づきました。何か御用でしたか?』
僕は素早く画面をタップすると、そのまま送信ボタンを押した。
『大した用事じゃない。伝えたいことがあって』
『会ってお話しした方がいいでしょうか』
『できれば、その方がいい』
『分かりました。では明日、四時間目の講義のあとに、いつものカフェでどうでしょう』
『了解』
僕はスマホの電源を落とすと、自室のソファに深く腰掛けた。
彼女から連絡があったことにホッとしている一方で、僕は妙な不安感を覚えていた。彼女からの返信がこれほど遅れることは、未だかつてなかったからだ。彼女はマメに連絡を取る方で、少なくとも僕に対しては三十分以上遅れた試しがない。それは僕に対する愛情だと、自惚れているわけではない。彼女はそういう人間なのだ。
『クイックレスポンス』、結衣は短くそう答えた。とあるイギリスの研究チームの報告によれば、メールの返信は速ければ速いほど、相手の自分に対する好感度が高まりやすく、その傾向は同性間より異性間の方が顕著だという。
この時、研究対象となったある連絡無精の女がこれを実践したところ、数週間のうちになんと十二名の男性からデートに誘われるようになった。それまで異性に興味のなかった女は、男の衆目の的にあることに酔狂し、色欲に溺れた。自分を求める男たちに目移りした彼女は、結婚と離婚、不倫を繰り返し、生活費と遊興費を得るために借金を重ねた。結局、資金繰りに上手くいかなくなった彼女は自己破産をし、研究チームを相手取って告訴をした。結果敗訴となったが、彼女はこの時の経験を著書に起こし、その年のベストセラーとなった。来年、映画化もするらしい……、とこれは余談だが、彼女は概ねそんなことを僕に話してくれた。
『ミランダの場合は、これを色んな男に試したので自分の首を絞めることになりましたが、要はこれを自分の好きな人にだけ実践すればいいんです』
ミランダ、というのはその研究対象となった女性の名前だ。
『だから私、先輩のメールにはすぐ返信しますよ。電話なんて来たらワンコールで出ます』
結衣は誇らしげにそう言った。
そんな彼女のことなのだ。ワンコールどころか、三回も不在着信にするなんて天地がひっくり返ってもあり得ないはずなのだ。
『そういえば、今日なんかあった?』
僕は無意識のうちにそんなメッセージを打ち込んでいた。まだ送信はしていない。
さっきのやり取りで会話は終了した。突然新たな話題を提供するほど大した内容でもない。この後の展開は見えない。これを訊いたところで、彼女がどう答えたところで、どうしようもない。
それでも彼女に背景を問いたいという衝動が抑えきれなかった。いまこうして思いとどまっていなければ、僕はきっとこのまま送信ボタンを押していたに違いない。
無意識のうちに―――かつて彼女は、それは魂が欲しているからだと言った。もしかして今、僕は彼女を心の底から欲しているとでもいうのだろうか。
そんなはずはない。いつもちょこちょこと僕の後ろを追ってくるから構ってるだけだ。心の底から、なんてあるわけがない。魂が求めているはずもない。
僕は無言のまま、そのメッセージを削除した。
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