#21 Decision

 毎年のように、同じ企画書を提出した。ある年は数字を変え、ある年は担当者を変え、ある年は言い回しを変え、ある年は段落を変え、ある年は一昨年度のシートをそのまま使用した。新人の時にこそあった罪悪感の、感情の濁りを今はもう思い出せない。先輩に言われても、チーフに言われても、経理に言われても、どうしても貫きたかった鋭い針のような己の信念が、今はもう影も形もない。

 日々私を小さな箱に押し詰めようとする、目に見えない圧力。いつも言葉の前によぎる、『誰かのため』という犠牲心が、私を小さくする。しかし、組織のため、会社のためなんて思ったことは一度もない。いつも社会が私たち若者に向けて、『権利意識』というシュプレヒコールを起こす。それを間に受けて私たちは大きくなった気になって、権威のある大人たちに牙を向く。すでに義務教育の過程で面取りされた、牙をむき出しにした。何も噛み千切れない、牙を突き立てた―――。


 だから私は、この企画を通してみたかった。


 社会の小さな歯車だって、一所懸命に駆け回れば、大きな力を生み出すと証明したかった。夢という原動力で、関節の節々が油脂で凝り固まったこの会社を駆動させたかった。先の見えない暗い道程を、力強く走る、そんな会社にしていけたら…、若輩ながらそんなことを考えていた。


 スケッチブックに描いた夢の企画を、私は幾度と眺めた。たくさんの人々が喜ぶ顔を想像して、笑みが零れた。高鳴る鼓動が私の血潮を熱くした。目頭が熱くなり、頬を伝う涙を隠した。感情の高まりに込み上げる涙など、人に見せたくなかったからだ。


 一歩踏み出した足を止めるわけにはいかない。

 気づけば…、来るところまで来たと思う。あの格式ばった会議の中心に、ローブ姿の私。『魔法』を見せるといい気になって、これ見よがしにマジックを披露する私。こんな日が来るなんて、誰が想像しただろう。


「部長の……、おっしゃる通りです」



―――――白居ちゃんの熱い情熱が心に響くはずだよ。



「私……、この会社のこと……」



―――――美佳さんに花持たせてあげたいっス!



「何も考えず、荒唐無稽な企画を……」



―――――それを実現しようなんて考えるのは、アンタか科学者くらいよ。



 私の背中を押した、友人や後輩の声が走馬灯のように蘇る。皆はこの景色を想像していただろうか。屑鉄のように互いに絡み合い、掃き溜めで徐々にさび付いていく、折れたの前で、絵空事を説くこの景色を。想像していただろうか。


 ああ、頭が真っ白になる。

 嗤うのなら嗤え。正論を突きつけられて、何も言い返せなくなった、哀れな小娘を―――。




「臆病者は引っ込んでいなさい」



 ふと歪む視界の端で誰かが立ち上がった。小さな背丈の、勇敢な淑女の立ち姿が見えた。


 な、長瀬チーフ…?


 長瀬チーフは私と勝山の間に割って立つと、社長越しに彼をまっすぐに見つめた。


「勝山さん。勘違いしていらっしゃることが、三点あります」


 人差し指を立てる。


「一つ。私たちが、長年に渡って売上先を堅持できたのはイー・グループという大きな後ろ盾があったからに過ぎません。決して保守的な経営が功を奏した訳ではありません。結果と手段を見誤るなんて貴方らしくない。随分とお年を召されたものです」


 そして、中指を立てる。


「二つ。企業という集合体はヒト、モノ、カネ、これらを常に循環させなければなりません。生きとし生けるもの皆に血が巡るように、動き続けなければいけない。『変わらない』ものを作る組織などこの世に一つもありません。私たちはこれまでも、そしてこれからも、『新しい』ものを作り続ける組織なのです」


 最後に、薬指を立てる。私の方に一瞬振り返って、また勝山を睨む。


「三つ。私の部下への辞職勧告を取り消して下さい。不変を信仰する悪しき慣習は、この会社から滅さねばならない。よってこの会社を去るべくは―――あなたの方です、勝山経理部長」


 静まり返る会議室内に、何かが切れる音がした。


「長瀬ぇ!!貴様、何のつもりだ!!」


 激昂した勝山を部下たちが慌てて押さえる。

 長瀬チーフも少しばかり息を荒立て、目の前の吠える獅子を黙殺していた。


「代筆屋風情がぁ!!偉そうなことをぬかすなぁ!!貴様らの体たらくを見過ごしてきてやった恩を忘れたのか?!」

「豆数えにそんな恩を売った覚えなどありません」

「ぬかせっ!元はと言えば、貴様らが前例踏襲で怠けてきたせいじゃないかっ!今更、偉そうにするなっ!」

「それは、貴方たちが予算を緊縮するからでしょう。一度通した企画でなければ通らないようにしたのは、貴方たちの方です」


 勝山の吊り上がった唇が、痙攣している。

 長瀬チーフは勝山の顔を見て黙ったまま、私の背後にゆっくりと回った。


「あ、あの、チーフ、どうして…?」

「貴方には大変、窮屈な思いをさせました。数年前、貴方を企画部に推したのは私です。あなたの勇気ある行動を応援するのが、私の役目です」


 いつもの「思います」という言葉がないが、いま目の前にいるのは確かに長瀬チーフだった。まるで別人のように見えるのは、その言葉がないからではない。彼女の目に意志が宿っているからだ。大切な部下を守る、という使命を胸に。


「もう一度、あなた自身の言葉で、社長に伝えるのです。この企画に掛ける思いを」


 長瀬チーフは、祖母のような優しい声で、私の背中を押した。

 私は不意に込み上げる涙を堪えて、一歩前に出た。



「社長!私、をしてみたいんです。是非、この会社で―――――!」



 社長は目を閉じて、天を仰いだ。社長は、長瀬チーフと勝山のやり取りを黙って聞いていた。ただ彼にも、長瀬チーフの言葉が勝山だけではなく、自分に向けられたものであることにも気づいていたのだろう。今それを噛み締めて、私の言葉にゆっくりと頷いた。


 永遠にも思える時間が流れる。


 それは数秒という短い時間だったかもしれない。


 ただ、社長の頭の中で巡る未来と過去の葛藤を、決して「短い」などと言ってはいけない。


 彼の眼には、日々の単調な一幕に思えるこのシーンが、社の運命を懸けた分岐路に映っているからだ。


 みなが固唾をのんで、彼を見守った。社の歩むべき路の先を、見守った。


 


「承認しよう」



 社長の短い言葉。その力強い言葉が私の心を打ち、波打つ拍動に乗って、全身に染みわたる。やがて私の足元から、この地に根を張る我が社に言葉の力動が共鳴する。


 この日、『イー・トラベル』は長き魔法の旅路の一歩を踏みしめた。

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