#17 Starting Line

「おはようございます。大山係長は、こちらのお席になります」

「おはようございます。課長は左側奥の、前から三番目のお席でございます」


 今日は全体会議当日―――総務の皆川みながわ梨子りこが会議室の入り口に立ち、続々とやってくる幹部たち出席者を、室内に誘導する。小さな会社とは言え、幹部が一堂に会する全体会議は言い様のない緊張感を孕む。社員たちの顔つきが、いつもより固く見えるのだ。


「ああ、ご無沙汰だったな。元気してたか? ああ、そう…。こないだは、都合がつかなかったんだよ。ああ、また今度―――――」


 その中に、ひと際目立つ大きな体格をした人間がいた。同僚の社員と挨拶を交わすと、足を大きく八の字に開いて、廊下の中央を歩いてやってくる。ズボンから零れそうなぜい肉が波打ち、まるで力士が歩いてくるようだ。

 

「おはようございます!勝山経理部長は―――向かって左側、前から二番目の席になります」

 

 その男性社員が前に現れると、皆川梨子は深く頭を下げた。

 勝山はレンズの曇った黒縁眼鏡を外すと、目を細めて、梨子を上から下に舐めるように見た。


「おはよう、リコちゃん。今日もいい笑顔だねえ」

「あ、はは……、ありがとうございます」

「やっぱり女性は笑顔が可愛くないとねえ」

「そ、そうですね……」


 梨子はつとめて明るく振る舞う。


「今日の会議はやる気が出んよ。なあ、リコちゃん。どうせ、いつもと変わらん話をするんだろう。まったく時間の無駄だな。ああ、そうだ、一番無駄なのはあれか―――企画部のプレゼンだな」


 勝山は周囲の耳目から逃れるように、声をひそめた。


「無駄だと思わんかね」

「え?」

「この会社の企画部など、あってないようなモンだろう。毎年、内容の変わらない企画ばかり通してるんだからな。プレゼンだって、去年の資料を再利用してるんだよ、ありゃ」

「そうでしょうか……」

「そうさ。それにいつも経理ウチの顔色ばかり窺って、ありゃ惨めだねえ。連中の無意味なプレゼンなんて、聞く気にもならんよ。んなはっはっはっは」


 勝山が意地の悪い笑いを上げる。

 梨子の顔は笑ってはいるが、片方の口角が糸で吊り上げたみたいになっている。


 リコちゃん、頑張ってるなあ。ごめん、もう少し耐えて。あとで好きなだけ甘いモノ買ってあげるから。みやび堂のロールケーキでよければ、いくらでも買ったげる。


 にしても、あのセクハラ上司め。言いたい放題言いやがって。(説明は後でするけど)アンタの声は私の耳まで筒抜けになってるんだってのに。よくもまあ、若い女性社員を捕まえて偉そうなことを言うもんだ。


 ただ勝山の言うことも分かる。これまでの企画部は、毎年変わり映えのしない企画案を議題に上げ、テンプレみたいなプレゼンを行ってきた。企画の内容で勝負したことなどない。いつも考えるのは、予算のことばかりだ。どうやって人件費を減らすか、どの経路をたどれば交通費が安く済むか、客がギリギリ満足する旅館の等級はどの程度か。そうやって、いかに経理部の提示する条件をクリアできるか、そんなことばかり考えていた。


 だが今日は違う。今日は予算のことなんて気にしない。経費がなんだ、見積利益がなんだ、営業利益率がなんだ。そんなものくそくらえだ。


 私のしたいと思うことをする。世界中の人々が笑顔になる仕事をする。


 私は今日、そのために壇上に立つんだ。



『美佳さん、聞こえるっスか?』


 私はとっさに右耳を抑える。

 髪に隠れたワイヤレスイヤホンの位置を確認して、襟の影にピン止めしたマイクに向かって囁く。


「ちょっと待って」


 会議室入り口から離れた場所に待機していた私は、周囲に人がいないか辺りを見回す。


「……うん、聞こえる。そっちは?」

『バッチリっス』

「そう。それなら大丈夫そうね」


 イヤホンを通して聞こえる若宮の声を確認し、私はひとり頷く。


『置きカメラの方も大丈夫そうッス。会議室の中、丸見えっスよお』

「そう、じゃあ若宮の方は準備万端ね」


 プレゼン中は、若宮と密に連携を取るために、ワイヤレスイヤホンとピンマイクを装着している。ただし私は大衆の視線の的にあり、公然と話すことができない場面も多い。そこで、会議室に数台のカメラを仕掛け、同時に室内の映像を若宮に中継するようにした。こうすれば、面前で話せない状況にあっても、簡単な手信号で彼にメッセージを送ることができる。勿論、れっきとした盗撮行為なので、カメラの存在が発覚すれば即解雇になるだろう。最悪、刑事告訴を起こされても文句は言えまい。


『カメラ……大丈夫っスかね。バレないといいんスけど』

「ここまで来たら腹くくるしかないでしょ。それとも今からモールス信号覚える?」

『あ、あれは……無理だってなったじゃないスか』

 

 壇上に立つ私が会議室に入れない若宮と連絡を取る方法として上がっていた別の案がある。それは、お互い無線で遠隔操作できるリモコンバイブを持ち、それを『トン(一回押し)』『ツー(長押し)』の二種類の振動を使い、モールス信号で連絡を取り合うというものだった。しかし、それは素人が手を出すには、あまりに無謀な計画であるという考えに至り、却下となった。


「だったら、もうカメラに頼るしかないでしょ」

『そうなんスよねえ』

「どっちにしても今から計画を変えることはできないわ。会議の終わる二時間後まで最善を尽くすのみね」

『そっスね!気張っていきましょう!』

「ええ、必ず―――――」


 何か気の利いた言葉を掛けようとしたその時、私の脇を小柄な女性が過ぎ去った。肩幅の狭い小さくまとまった背中、覇気のない、後ろ姿。

 

 あれは、長瀬チーフだ。


「あ、あの!長瀬チーフ!」


 彼女は振り返って、私を見る。


「白居さん。あら……、てっきりお電話をされてるのかと思いました」

「え? ええ、あはは、そうなんです。お、弟が急に連絡をしてきまして…」

「そうでしたか。会議中は電源を切っておいてくださいね」


 危なかった。電話と勘違いしてくれたとはいえ、若宮と話しているところを目撃されるとは。ホントこの人、存在感ないからなあ。すぐ近くを通ったことに気が付かなかった。


「あの、チーフ」

「はい?」

「今日のプレゼン、頑張りますので……、どうか応援のほどよろしくお願いします」


 長瀬チーフはじっと私の目を見つめ、そのまま固まった。


「……」

 

 ……え?

 もしかして、今日私がプレゼンするって知らないのかな。こないだ提出した企画のプレゼンをすることも知らなかったりしないよね。でも彼女には、このプレゼンの仕込みも何も話してないから、今日もいつもと変わらないプレゼンをすると思ってるかも?


 と、ここまで私に思案させるほど、その沈黙は長く、私を不安にさせた。


「あ、あの、チーフ……?」

「あ、はい」


 私の問いかけにようやく彼女は反応した。


「チーフ、どうかされました?」

「い、いえ……、頑張ってくださいね」


 チーフはそれだけ言うと、体の向きをくるりと変えて、会議室の中に姿を消した。


「……」


 私はその後ろ姿が自分の視界から消えたところで、ピンマイクにそっと呟いた。


「若宮、聞こえる?」

『はい、聞こえるッス。それにッス』

「チーフ…、なにかあったのかな?」

『プレゼンの準備に参加できなかったこと、悔やんでるんじゃないんスか』

「それ本気で言ってる?」

『冗談ッス』

「よね」


 確かに、彼女は私たちが毎日残業をしていることを知っていた。しかしそれは、私たちの監督責任者という立場のものであって、その実態を残業日数という数字でしか把握していなかったはずだ。参加できなかったことを悔やむわけがない。


『ただ本当の事言うと―――――』

「なに?」

『チーフ、転勤するかもって、もっぱらの噂ッス』

「ええ?それホント?どこ情報?」

『これマジでオフレコなんすけど、人事の先輩OBに聞いたんス。親会社のイー・サービスに栄転するって噂ッス』


 私も若宮もチーフのことを快く思っていないが、彼女は仕事がよく出来る人間であることを知っている。そして、社長の大好きな人間であるということも。こんな会社の企画部でも、その頭として、最前線を走って来られた方だ。いつか出世しても可笑しくはないと思っていたが、まさかこのタイミングとは……。


『美佳さん、ちょっと嫌な予感しないスか?』

「……」

『この一週間、チーフは明らかに俺らを避けてたッスよね。プレゼンの準備は各々でやってくださいね、的な』

「ええ……」

『あれって、つまり、自分は無関係だってことを周りに知らせたかったんじゃないスか?』


 これまで無難に仕事をこなしてきた彼女が、出世を前に危惧することはなんだ。それは、会社に余計な火種を残さないことではないか。今までそうしてきたように、平穏無事のまま、清廉潔白のまま、この職場を去りたいのだろう。いつも通り、恒例の春のウォーキングツアーや雪見温泉旅行を企画すればいい。魔法使いになれる夢のツアーなどという馬鹿げた企画は闇に葬るべきだ。そうしなければ、栄転の話は無かったことに……、社長や人事にそう告げ口されていても可笑しくない。

 

 だとすれば、彼女がこの会議で取るべき行動は―――――私たちを陥れることだ。


 

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