■第三話 代原作家の密やかな恋文
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毎日花瓶の水を替えたり、だんだんと元気がなくなってくれば、槌西さんの手紙に書かれていた通り、切り口を十秒ほど熱湯に浸けて花持ちをよくさせたりと長く楽しめたマーガレットの花もそろそろ終わりかなと寂しく思う頃――。
「ちひろちゃん、大至急この校閲をしてもらえない!? いつかやるぞやるぞと思ってたけど、とうとう原稿を落としやがってさ、あんの
いつにも増して騒がしく校閲部のドアが開け放たれたかと思えば、顔面蒼白の櫻田が転がるようにして中へ駆け込み、校閲中のちひろのデスクの前でツバをまき散らした。
紙に飛んだツバの玉を無言でティッシュで拭き取り、見上げること数秒。
「……いやです」
ちひろは足元のごみ箱にティッシュを捨てつつバッサリとぶった切った。
「なな、なんでっ!?」
「なんで? それは編集さんが一番わかっていることなんじゃないんですか?」
「え……」
「月が替わってもう七月です。お給料日も過ぎました。なのになぜいつも手ぶらなんですか? 自分の胸に手を当てて聞いてくださいよ。約束の一つも守れない人の頼みなんて聞きたくないと思われているって、いい大人なのにどうして気づけないんでしょうか」
「……ちひろちゃん、今日はいつになく刺々しいね」
「当たり前です!」
ふん、と鼻で荒く息をして、櫻田をキッと睨む。この男はまだ廻進堂の和菓子を献上する素振りもない。そのくせ自分がピンチになったら当たり前にちひろを頼ってくるのだから、樹齢四〇〇年の巨木くらい、とんでもなく神経が図太い。いや、木に失礼か。
とにかく。
どの本に何の原稿を載せたいのかは知らないが、だったらまず献上品を携えて頼みに来いという話だ。やっぱりあのとき、桃ゼリーなんかに釣られないで竹林から相原編集長に櫻田の虚言癖を訴えてもらえばよかった。櫻田の分として余ったゼリーはちひろが美味しく頂いたが、それはそれ、これはこれである。腹立たしいったら、ありゃしない。
「ご、ごめん……。でも、代原はほら、ここにあるんだ。誤字脱字だけチェックしてもらえばいいし、短編だから原稿用紙三十枚程度なんだよ。……どうしても頼めない?」
憤慨していると、しかし切羽詰まっている櫻田も必死に食い下がる体を見せる。
代原というのは代理原稿の略で、代替原稿(替原)とも呼ばれる。漫画や小説、コラムなど雑誌に本来掲載されるはずの作品が、予定されていた作家が間に合わずに落稿(先ほど櫻田が蒼白な顔で言っていた『原稿を落とした』とはこのことだ)させてしまったり、何らかの事情によって掲載できなくなったり連載の打ち切りが急遽決定した場合など、空いたページを埋め合わせるために代替として掲載される作品およびその原稿を指す、出版業界や編集者の専門用語だ。幻泉社に二年以上勤めていれば、誰々先生が落稿しただの、誰々の作品を代原に使おうだのという声とともに急ぎで校閲部に代原が持ち込まれることもしばしばだ。余談だが、そのときの各編集者は異様な迫力であることが多い。
まあ、週刊誌や月刊誌という決められた刊行ペースを繰り返している雑誌の場合は、もし落稿が発生すれば時間のない中で代わりを用意しなければならなくなるので、そんな迫力になってしまうことも致し方ない。落稿こそしないものの、いつも原稿がギリギリになってしまう作家先生の場合も、あわや代稿かという緊迫状態の中で原稿を待つ編集者はみな、疲れきっているが妙なハイ状態だ。そんな彼らの様子を見るたびに、ちひろはいつも心から思う。校閲部はなんて平和な職場なんだろう、校閲部で本当によかった、と。
――だがしかし、それとこれとは、やっぱり事情が違う。
「たとえ短編でも、代原があっても、私はいやです。そんなに急いでるんなら、私のところで油を売ってないで誰かほかの人に頼んだらいいんですよ」
プイと顔を背けて、つれない態度を取る。
子供っぽいと言われようと、仕事に私情を挟むなんて社会人失格だと言われようと、嫌なものは嫌なのだ。ちひろ以外にも、そこここにたくさん校閲部員がいるんだから、彼らにお願いすればいいと思う。話を聞いてもらえるかどうかは櫻田の頑張り次第なところがあるけれど、いつまでも首を縦に振らないちひろのそばで押し問答を繰り広げているよりは、よっぽど代原の校閲をしてくれる人が見つかる確率が上がるだろう。
「でもほら、俺、ちひろちゃん意外に知り合い、いないし……」
「だったら編集さんの対人スキルで早々に知り合いに昇格して、その虚言癖を使って美味しい餌を撒きつつお願いしたらいいと思いますけど。――私みたいに」
「……ちひろちゃん、今のはさすがにひどいよ……」
「何がひどいもんですか。自分の行いの非を正してから言ってもらいたいものです」
「そうでした……。すみません……」
手をコネコネしつつゴマを擂る櫻田を一蹴し、再び、ふんと鼻を鳴らす。二度あることは三度ある、と言う。きっと櫻田に負けて代原の校閲をしても、その分の上乗せも期待できないどころか、いつまで経っても廻進堂の和菓子は手に入らないだろう。
早峰カズキのときも、美崎糸子のときも櫻田は口先ばかりだった。竹林のおかげで二回とも廻進堂にありつけはしたけれど、大好物なだけあって、ちひろの中での食べ物の恨みはかなり深くなっている。まずはそこを海抜ゼロメートルにしてもらわないと、今後もあるかどうかはわからないが、櫻田との付き合いも考えさせてもらうしかない。
と。
「まあまあ、斎藤さん。櫻田君も、そんなにカリカリしないでください。誰の原稿を代原にするんです? とりあえず、詳しい話を聞かせていただけませんか」
やはりそこで竹林が二人の間に入ってきた。もしかしてと思って振り返ると、応接テーブルには、ほうほうと湯気の立つお茶と水羊羹が三人分すでにセッティングされていて、ちひろたちを眺めながら竹林がにこにこと微笑んでいた。
そんな竹林の笑顔に適うわけもなく、櫻田とは一時休戦し、むっすりしながら仕方なく応接テーブルにつく。けれど、もしやまた廻進堂かしらと内心で期待を膨らませていたものの、水羊羹は違うメーカーのもので、ちひろは少し残念に思う。
廻進堂の和菓子たちに巡り合ってしまってからというもの、どうもほかのメーカーのものだと一味足りないような気がしてならない。間違いなくこの水羊羹も美味しいだろうけれど、やはりちひろにとって廻進堂は別格の位置付けなのだ。
「それで、代原にするのは、この原稿なんですけど……」
早々にお茶を飲み干し、冷えた水羊羹も平らげた櫻田が、まだゆっくりと水羊羹を食べていた竹林の前に改めて原稿を差し出す。どうやら櫻田は相当焦っているようだ。本当はのんびり休憩している暇なんてないと言いたいところなのだろうけれど、たとえ部署は違えど、上司から誘われれば断るわけにもいかないのが平社員のつらいところだ。
櫻田が、原稿を手に取った竹林に悲壮感を滲ませながら説明していく。
「原稿を落とした西窪クボタっていうのは、俺の高校時代の一つ後輩なんです。もともと魔法とかドラゴンとか出てくるライトノベルを得意として書いていたんですけど、最近では、ほんわりと心が温まるような文芸作品に作風が移行していて、これがまた読者さんたちからのウケもとてもいいんです。直接の担当ではないんですけど、先輩後輩の間柄ですから、相談に乗ったりアドバイスをしたり、まあ、担当編集みたいなことをするのも少なくありませんでした。で、今回クボタの代原として、月刊文芸誌『小説つばき』本誌に読み切りの形で載せたいのが、俺の一つ先輩の彼――
「引っ張り出してきた、というのは?」
「あ、はい。小野寺さんは一度、うち主催の短編文学賞で読者賞を受賞して、俺が担当に付かせてもらってるんです。その短編を含む連続短編集でデビューしましょうってことで執筆を続けてもらっていたんですけど、そのデビュー作に入る予定の『東雲草の恋文』を書いて以降、全然書けなくなってしまって……。でも、デビューの話自体は、まだ生きてはいるんです。編集長も小野寺さんの作風をとても気に入っていますし、度々『小野寺はどうなってる?』って気にかけてくれています。けど小野寺さん……『すっげー駄作』って言ってこの原稿を俺に渡したきり、もう二年も執筆を中断してしまっているんです。せっかく書いたのにどこにも出せないなんて、作品が可哀そうじゃないですか。読めばわかります、小野寺さんにしか書けない、とてもいい短編なんです。だから、小野寺さんにもう一度筆を取ってもらうためにも、この校閲が大至急、必要なんです」
竹林の質問に、櫻田が熱弁で応える。
もしかしたら、こんなに熱くなっている櫻田を見るのは初めてかもしれない。
早峰カズキのときは後半になってやっとエンジンがかかってきた状況だったし、美崎糸子のときははじめからエンジンはかかっていたものの、なかなかいいところがなかった。今はそりゃあもう、粉骨砕身、ふんどしを締め直して彼女と彼女の書く作品に向き合っているとは思うけれど、今回は相手が高校時代の先輩で、しかもまだ無名の作家だということもあって、櫻田の熱の入りようは鬼気迫る凄まじいものがある。
自分が担当編集だから、なんとか作品を本誌に掲載したい、という気持ちよりは、彼の作品を待ち望んでいる一ファンとして、編集者の立場から彼の背中を押してあげたいのだろうと、なんとなく察せる。きっと櫻田は、彼の作品が心から好きなのだ。……そうじゃなかったら、ちょっと泣きそうになんてなったりしないと思う。
「――だそうですけど、斎藤さん、どうなさいますか?」
竹林に話を振られ、ちひろは皿に静かにスプーンを置いた。
廻進堂ではなかったが、この水羊羹もとても美味しかったし、確かにカリカリしすぎもいけない。ここは出版前の最後の砦。自分たちは幻泉社という城を陰から守る御庭番であり、忍びの集団だ。いついかなるときも心は凪の状態でなければ、初歩的な間違いを見逃してしまい、会社の信用にも関わる重大なミスをやらかしてしまうかもしれない。
それに、代理原稿には、新人作家の作品や新人賞の入選作品がよく用いられる。通常なら【〇月号発売の本誌に〇〇新人賞入選作品の掲載があります】なんていう次号予告が巻末に入るのだけれど、ともかく、新人作家が商業デビューする機会や、名前を知ってもらったり、読者の声を聞ける手段の一つとして重要な役割を果たしているのは事実だ。
櫻田が熱く語っていたように、もしかしたらこれがきっかけで小野寺さんが再び作品を書きはじめることもあるかもしれない。そして何より、櫻田の熱弁と熱涙によって、ちひろ自身が小野寺康介というまだ無名の作家に興味をそそられてしまった。
のっけから櫻田の頼みを突っぱねもしたけれど、そんなにいい作品なら、ぜひ読ませてもらいたい。そんな気持ちがムクムクと膨れ上がり、根っからの読書人の血が騒ぐ。
三度目の正直、という言葉もあることだ。今回は特に急を要するため、仕方がないので一肌脱いであげなくもない……かもしれない。なんて思う。
と、まあ、いろいろと心の中で言い訳をしてはいるが、結局、自分の知らない物語に対する飽くなき探求心や欲求は、自分の力ではどうすることもできないものなのだ。
「……わかりました。ちょうど手が空くところだったんです、すぐに回してください」
「ちひろちゃん……っ! だからちひろちゃんって好きだよ! 今すぐ結婚して!」
「校閲してもらいたくないんですか……?」
「はい、すみません調子に乗りすぎましたごめんなさい」
「ほんっと調子のよさだけは誰にも負けませんね、編集さんは。ため息も出ませんよ」
「ふふ。いいコンビですね」
「誰がですかっ」
「ええー……。ひどいよ、ちひろちゃーん……」
かくして、竹林の誘導になんだかんだと上手く乗せられてしまったちひろは、三度、櫻田とともに原稿に向き合うことになった。原稿を受け取り、仕事にかかる。
データの入稿は午後十時厳守だそうだ。時間もないことから、櫻田は誤字脱字のチェックだけでいいとは言う。けれど、こちら校閲部側の人間としては、そういうわけにも、なかなかいかない。矛盾点や事実と異なるものが見つかったら、どんなに時間がなくてもそこに踏み込んでいき、正しいものに修正しなければデータの入稿なんてできないのだ。
本音を言えば、そういうものはない、あるいは少ないに越したことはないけれど。でもこれも、職業病だ。宝永社の長浜さんなら、絶対にわかってくれる。
やるからには一つも手を抜かないのが、ちひろの――校閲に携わる者の信条である。
「じゃあ、俺は小野寺さんのところに行って、掲載の許可、取ってくるから。実はメールは送れるんだけど返信がなくてさ。まだ本誌に載るのを知らなかったら、いくら先輩後輩の関係でも、さすがにマズいでしょ。あとはお願いね、行ってきます!」
そう言って櫻田はスーツの裾を翻し、校閲部をあとにしていった。なんだよ、まだ許可もらってなかったのかよ、と心の中で盛大にツッコミを入れつつ、ちひろも自分のデスクについて定規と赤ペンをそれぞれの手に、本格的に校閲作業に取りかかる。
厳しいリミットだけれど、自分にできる最大のパフォーマンスだけはしなくては。
だって、読者の人たちには、こちらの事情なんて関係ないのだから。
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