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駐車場に車を停めると、近くに住んでいるので何度も来ているのだろう、美崎糸子は車を降りるなり展望台のほうへと一人歩いていく。その後ろをちひろと櫻田は追い、やがてその頂上から太陽の光に反射してキラキラと輝く海を一望する。
「やっぱり、いつ来てもいい眺めだわ」
「そうですね。吹く風もちょうどいいですし、これから夏に向けてますます緑も深くなってくる頃ですから、どこを見渡しても青々とした木や植物の緑が目に鮮やかです」
「あら。なかなか詩的なことを言うのね」
「ははは。これでも編集者の端くれですから」
海のほうから吹き上がってくる、かすかに潮の匂いのする風に吹かれながら、隣に並んだ美崎糸子と櫻田が海を眺めながらとりとめのない会話をする。
ちひろは、そんな二人から少し離れたところで柵に手をかけ海を眺めながら、いつサインしてもらおうかと、やはりミーハーなことを真剣な顔で考える。会えただけでも光栄だが、やっぱり、どうせならサインが欲しい。それも単行本と文庫本の両方に。【斎藤ちひろさんへ】なんて名前も入れてもらったりなんかしたら、かなり嬉しい。
そんなことを考えているうちに、そういえば昨日、バッグに本を入れる前にパラパラとページをめくってみたことを唐突に思い出した。作者の経歴の欄も改めて目を通したのだけれど、先ほど「一人暮らしなものだから」と言っていたことの意味がよくわかる。
美崎糸子は独身の作家だ。かの有名な大女優である
ウェブではもっと詳細に経歴を紹介していて、雑誌のインタビュー記事のものまで見ることができた。美崎糸子の大ファンである、ウェブネーム〝岬の灯台守〟さんのまとめサイトによると、なんでも彼女が今住んでいるあの家は、もともとは昔、洲崎方面に旅行に訪れた際にとてもよくしてくれた人の家だったのだそうだ。ふとしたことから、家主の老夫婦が亡くなっていることと、その家が売りに出されていることを知った美崎糸子は、居ても立ってもいられなくなって家を買い取り、住みはじめたのだという。
もともと生涯作家を貫くつもりで作品を書き続けていたから、少し寂しいけれど余計なしがらみもないし、パソコンさえあれば事足りるので、どうせなら思い出のある土地や家に住みたかった――というのが、美崎糸子がここに住む理由らしい。
まるで何かの巡り合わせのようだった、と、岬の灯台守さんは自身のまとめサイトでそのインタビュー記事を引用している。それは『ヒッチハイク・ランデブー』が美崎糸子最大のヒットを記録し、植木賞を受賞した、ほんの数ヵ月後のことだった、と。
「――ねえ、校閲ちゃん」
「あ、はい」
ふいに美崎糸子に呼ばれ、はっと我に返る。斎藤ちひろ、という名前だと櫻田にも紹介してもらったし、自分でも改めて自己紹介したが、どうやら美崎糸子は櫻田からちひろの話を聞いた時点で〝校閲ちゃん〟というイメージが出来上がっているらしい。
彼女は、綺麗に手入れされた黒い髪が潮風に煽られるのを片手で押さえながら、
「昔の作品からでも、校閲の〝目〟で何か新しいものが見つかることってあるのかしら」
「……え?」
「興味深い話を聞かせてもらったのに申し訳ないけれど、まだ新作は書けそうにないわ。でも、あなたの力をちょっと試してみたくなったの。お願いできるかしら?」
と言う。
あまりに唐突すぎる話に戸惑っていると、櫻田が目だけで〝やるって言え!〟と言っているのが横目に映った。そういえばイーグルス観戦のあとの電車の中で、愚痴をこぼしつつ「でも書いてもらわなきゃなんないから、笑顔を張り付けて満足するまで付き合うんだけど」などとも言っていた。どうやらこれが櫻田の言う〝わがまま作家〟の神髄で〝満足するまで付き合う〟――付き合わなければいけないこと、ということらしい。
だからって、どうしてまた私が……。
櫻田の眼力に愕然としていると、今度は彼は、美崎糸子がしっかりちひろのほうを向いているのをいいことに、口をパクパクさせて〝廻進堂! 廻進堂!〟と言う。
ここでもまたそれを餌にするとは、この男はどこまでちひろを幻滅させれば気が済むのだろうか。だからそう何度も釣られるものかと、ちひろは意を決して口を開きかける。もちろん、私にそんな力なんてあるわけがありません、と断るためだ。
けれど。
「あなたに見つけてもらえるなら、それが運命なのかもしれないわ」
そう言った美崎糸子の顔があまりにも切なげで。それを正面から目の当たりにしたちひろの胸は、否応なしにぎゅっと締め付けられた。ちょうどそのとき強い海風が吹いて、綺麗な黒髪が彼女の表情を隠した。彼女はふっと笑うと、そのまま海に顔を向ける。
隣では、意味ありげな発言に櫻田が血相を変えて「どういうことですか!?」と彼女に詰め寄った。ここのところ、ずっとスランプに陥っている彼女だ。暗に筆を折る、つまり作家をやめることを示唆したような言い方は、櫻田ならずとも肝が冷える思いだろう。
「なあ、ちひろちゃん……!」
美崎糸子に「さあね」と含みのある言い方であしらわれた櫻田が、ちひろを振り仰ぎ情けない声を出す。大の男が出す声にしては、あまりにも頼りなさすぎる。
これだから男は、いや、世の男性方に失礼だから、ここは限定して櫻田という男は……と、ちひろは心の底から思う。櫻田と関わると、いつもろくなことにならない。
美崎糸子がどの作品のことを指して言ったのかはわからないが、だいたいにして、もう世の中に出ている作品から新しいものが見つかるものなのだろうか。それにそもそも、校閲の〝目〟というのは、誤字脱字や矛盾を見つけるための発見機のようなものだ。たった一度、早峰カズキのような例があったからとはいえ、そうそう上手くいくとも思えない。
「……あの、何も見つからなかったら、それで大丈夫でしょうか?」
「ええ、構わないわ」
「わかりました。それなら、この本にサインしてもらう代わりに、お引き受けします」
「ふふ。校閲ちゃんも、ちゃっかりミーハーさんなのね」
けれど、さっきの表情も気になるし、ミーハーだと言われようとサインは欲しい。これは櫻田のためじゃない、岬の灯台守さんをはじめとした、自分も含む美崎糸子の作品を待ち望むたくさんのファンたちのためにやるのだと言い聞かせながら、ちひろは機会を得てようやくバッグの中から『ヒッチハイク・ランデブー』を取り出すしかなかった。
「ああぁ~、一時はどうなることかと思った~……」
「そんなこと言ってないで、前見て運転してください」
「だってさぁ……」
「廻進堂、次はちゃんと買ってきてくださいね。もう猶予はありませんからね」
帰りの車中、櫻田に対しては厳しい口調を続けながら、ちひろは待望の美崎糸子の直筆サインに、こっそりほくほくと頬を緩ませていた。【校閲ちゃんへ】ではなく、ちゃんと【斎藤ちひろさんへ】と書いてもらったから、なおさら嬉しい。
ほとんどペーパードライバーの櫻田の運転は、気づいてしまえばとても危なっかしいものに見えるが、駅に歩いて戻れる距離ではないし、あのあとまた家に戻ってマシンガンを全身に浴びたので、日はもう暮れかけだ。シートベルトをしっかり閉め、暮れなずむ房総フラワーラインを北上する。こうなったらもう、旅の安全を切に祈るしかない。美崎糸子のサインを愛でる前に何かあったら、死んでも死にきれないから念入りに。
「で、見つけてほしいものって、どの作品にあるの?」
廻進堂のことはわかりやすくはぐらかしつつ、櫻田が尋ねる。
そういえば、美崎糸子にどの作品から見つけてほしいという話をされとき、櫻田はトイレだとか言って席を外していた。戻ってきたときにはもう東の空がオレンジ色に染まりつつあって、さすがの美崎糸子もちひろたちを帰そうという雰囲気だった。あいさつをしてそのまま家を出てきたので、櫻田がわからないのも無理はない。
ちひろは、逃げたな……と半眼で櫻田の横顔を
「……『ヒッチハイク・ランデブー』なんだそうですよ」
「あ、そうなんだ?」
「はい。よくデビュー作にはその作家のすべてが詰まっているなんて言われるそうですけど、美崎先生は、それなら私は『ヒッチハイク・ランデブー』に私のすべてが詰まっているわ、と仰られました。でも、それを抜きにしても、あの作品は先生の正真正銘の代表作に違いありません。見つけられるかどうかは、やってみないとわかりませんけど、先にサインをいただいてしまったので、私なりに頑張ってみるつもりでいます」
すると櫻田は、あっけらかんとした口調で言う。
「なんだ、そこまでヒントをもらったんなら、案外簡単そうじゃん」
「はい? 何を言ってるんです、そんなわけないじゃないですか。あの作品には誤字脱字や矛盾点なんてどこにもないんです。完璧なんですよ、気楽なこと言わないでください」
「……だってさぁ」
「そんなに言うなら、編集さんがやればいいんですよ。それでも〝編集者の端くれ〟なんですよね? 私よりよっぽど作品に精通しているんじゃないですか?」
一体何なんだろう、この男は。腹が立って、ついキツい言い方になる。
でも、巻き込むだけ巻き込んでおいて、あとは丸投げするような言い方にカチンとこないわけがない。本当にどこまで虫がいいんだろう。幻滅するのもけっこう疲れるのに。
「あ、いや、読書経験ならちひろちゃんのほうがずっと上だと思うよ。ほら、誰だかの詩で『目に青葉 山ほととぎす 初鰹』ってあるでしょ? 先生と一緒に展望台から海を眺めたときだって、何か感想言わなきゃって思っても、それくらいしか浮かばなかったし。結局俺は、先生に面白い話を聞かせることもできないし、作品を書いてもらうこともできない。担当編集が聞いて呆れる。……自分の力じゃどうすることもできないんだから」
すると櫻田が、しんみりした口調で言った。もしかしてこれは、櫻田も櫻田なりに、思うところがあったり、それなりに悩んだりしているということだろうか。
ちひろには編集者の気持ちはよくわからない。でも、早峰カズキのことがあってから少しずつ意識が変わりつつある今の櫻田にとっては、ちひろの力を借りなければ作家の心一つ満足に動かすことができない自分に幻滅しているところがあるのかもしれない。
ペーパードライバーでも、調子のいい男でも、プライドもあるのだろう。担当編集の自分にではなく、一塊の校閲部員でしかないちひろに何かを求めた美崎糸子に言葉にできない感情を覚えることもあるのだろう。それくらいは、なんとなく想像できる気もする。
「あの、たくさん訂正したいところがあるんですけど、いいですか?」
「ん?」
「さっきのは、詩じゃなくて俳句です。誰だかのじゃなくて、
「え、マジで?」
「国語の教科書にも載ってると思いますけど」
「マジかー……」
「はい、マジです」
でもとりあえず、いろいろ間違っているから、ちゃんと訂正しておくけれど。
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