*


 電車で本を読むなんて、都心じゃまず、あり得ない。

 どの時間帯も席は埋まっているし、通勤帰宅ラッシュの際など、背の小さいちひろは埋もれてしまい息をするのも大変だ。ちひろは人の多さにうんざりしながら改札をくぐり、広い駅構内の階段を上り下りして目的のホームまで進んだ。ホームにも人が溢れ返っていて、こういうところは都会の嫌なところだなとちひろは小さく嘆息を漏らす。

 でも、大手出版社は都心に集中しているから仕方がない。出版社に――とりわけ校閲部にピンポイントで就職するために大学から都会に出てきたのだ。十八のときから住みはじめて七年目の今でも人の多さにはあまり慣れた気はしないけれど、意地でも慣れなければ仕事場にだって行けない。誤字を愛でるためには、頑張らないといけないことも多い。

 そうして次の電車を待っていると、向かいのホームに『誰?』の広告を見つけた。早峰カズキのデビュー作だ。一六〇〇円ほどするハードカバーの分厚い単行本だが、著者が十九歳という若者であること、内容が圧倒的だということで売れ行きは右肩上がりだとか。発売からすでに五ヵ月経っているのだが、広告はまだまだ健在だ。

 そんな彼の二作目の校閲をしているんだよなぁ……。ちひろは少し感慨深い。

 否が応にも二作目は期待されるだろうし、一歩賞受賞者という肩書きだって、今後作家活動を続けていくたびに煽り文句に使われる。まだ若干十九歳の早峰カズキにとって、それはどれほどのプレッシャーなのだろうか。一時は作家を志し、投稿生活を送ったたことはあるものの、校閲の仕事一本に絞ったちひろには想像もできない世界だ。

「……いいものにしましょうね」

 だからこそ、本好きの人間として、校閲部の人間として、早峰カズキにエールを送らずにはいられなかった。こうして縁あって校閲をさせてもらえることになったからには、うちから出す二作目はデビュー作以上のものにしてあげたいのだ。

 そんなちひろの小さな呟きは、ちょうど滑り込んできた電車の音にかき消され、誰の耳にも届いてはいなかった。ドアが開くとともに雪崩のように乗客が下りていき、ちひろがいる乗車待ちの列が徐々に動きはじめる。なんとか息苦しさが免れられる位置取りで床に足をつけると、明らかに定員オーバーの電車がゆっくりと発車した。

 ひとり暮らしのアパートがある最寄り駅までは、電車で片道三十分。

 その往復一時間×五日間を読書の時間に充てられないのは残念だけれど、部屋に帰れば好きなだけ本が読めるし、と気を取り直したちひろは、右に左に揺れる電車の中で両足を踏ん張り、その揺れに耐えることに意識を集中させることにした。


 **


 それから約三週間。

「――ん?」

 早峰カズキの新作『抹消(仮)』の第二稿を受け取ったちひろは、前の第一稿のときに囲んだ赤字がところどころ反映されていないことに気づき、眉間にしわを寄せた。

 通常であれば見逃しを防ぐために一稿ごとに校閲の担当者は変わるが、あいにくそのときの校閲部では、寒かったり異様に暑かったりしたここのところの激しすぎる気温の変動によって風邪を引く社員が続出してしまい、猫の手も借りたいほどの忙しさに襲われていた。仕事量は変わらないのに人数が減ってしまえば、それだけ出社している社員の負担は増える。それなのにどこの部署からも応援は来てくれないし、そんなことを嘆いている間にも、各編集部から次々に校閲の仕事が送り込まれ、溜まっていく。

 ここは自社お抱えの校閲部なので、どうやら上層部はどうしても外注はしたくないらしい。だったらせめて新入社員を数人ヘルプによこしてくれと思う。でも、たかだか校閲部の部長が人手を貸してくれ、外注させてくれと頼んでも聞き入れてもらえるとは思えないのが実際のところだ。最後の砦なのに会社での扱いは散々である。

 仕方がない、これが校閲だと諦めとともに受け入れつつ、ちひろはガランとした校閲部の中を進み、竹林のデスクの前に立った。少し考えすぎかもしれないが、この前のこともあるので、一度担当編集に確認してみたほうがいいのではないかと思うのだ。

「……あの、部長。本当に早峰カズキの担当編集は作品に目を通しているんでしょうか?」

「はい? と言いますと?」

「いや、あの、第一稿のときほど、ひどい誤字脱字はないんですけど、やっぱり多いような気がするんです。少し……お話してもらえないでしょうか?」

 そう、嘆願する。

 だって早峰カズキは他社から引っ張ってきた作家だ。大事にしたい作家であるはずの彼の作品を担当編集が読まずにそのまま校閲へ回すなんて、彼への冒涜だと思う。

 またもや怪訝な表情をする竹林の前に、第一稿の控えと、今回の第二稿を並べて置く。

 さすがに変換しきれずアルファベットのままになっている箇所はもうない。しかし見比べてみると一稿目と同じところが二稿目でも誤字のままだったり、一稿目にはなかった誤字が二稿目で新たに出ていたりする。「なるかもしれない」の「か」が抜けて「なるもしれない」になっているところも、見つけただけでもう三つだ。早峰カズキ自身も担当編集も気づかず読み進めてしまった可能性も考えられるが、それにしてもやはり多すぎる。

「うーん……。これはさすがに読んでいないことを疑うべきでしょうか」

「そうかも……しれません」

 竹林も難しい顔をして腕を組む。編集部も忙しいのはわかっているが、こっちだってあらゆる校閲をしなければならないのだから、忙しいに決まっている。加えて風邪で休む社員が多いこの時期に、せめて気づいた範囲でいいから誤字脱字を修正してくれないと、ますますこちらの負担が増すばかりだ。もし本当に担当編集が読まずに校閲に回しているのなら、早峰カズキと校閲部と、その両方への冒涜なのではないだろうか。

 早峰カズキは、赤字だらけの第一稿を、自分の文章のまま編集者の手が加えられていないそれを受け取って、どんな気持ちだったのだろう。もしそれがちひろ自身だったら、幻泉社にバカにされたと思う。二度と書きたくないとさえ思うかもしれない。

 大手だからこそ怠慢はしてはいけないのに、担当編集は一体何をしているのだろうか。

「……わかりました。早峰カズキの担当編集に聞いてみましょう」

 しばし逡巡した竹林は、そう言ってさっそく受話器を取った。ちひろも席には戻らず、話の内容を聞こうとその場に留まることにする。

「あ、第一書籍編集部ですか? こちら校閲部です。さっそくなんですけど、早峰カズキの担当編集にお聞きしたいことがあるのですが、今デスクにいらっしゃいます?」

 ややして、竹林が平身低頭、喋り出した。竹林は誰に対してもだいたいこんな感じだ。若い子だろうと編集長だろうと掃除のパートのおばちゃんだろうと、いつも平身低頭である。そこが竹林の好きなところでもあるが、同時に頼りないところでもある。

「はい、わかりました。失礼します」

 という間に、竹林が受話器を静かに戻した。

「……ど、どうでした?」

「担当編集さん、今からこちらに来てくださるそうですよ。電話で話すより直接話したほうが早いから、と。よかったですね。斎藤さんも準備しておいてください」

 聞けばこれから来ると言う。というか、何がよかったのか、さっぱり分からない。

 ちひろは、竹林のその言葉に愕然とする。電話で話したくないから竹林を頼って聞いてもらおうと思ったのに、それをしてくれるどころか、ここに来ることをさも当然のように「はい、わかりました」と了承するなんて、頼りがいがないにも程がある。

 ちひろの最も苦手とするものの第一位は人だ。校閲部の人なら自分も含めて変人ばかりだから、必要があって話す際は多少オドオドするだけで済む。しかし、その他はまるで別だ。わざわざこんなところまで出向いてくれることは喜ぶべきことなんだろうけれど、こちらとしてはそんなことは一つも望んでいない上、はっきり言ってしまうと迷惑だ。

 知らない人と話すことほど嫌なことはない。校閲の仕事をするために面接スキルを磨き、入社してからも一日でも早く仕事を覚えるためにコミュニケーションを頑張った。あの頃は自分でもよくやったと思うほど人と関りを持っていたが、今はどうだろうか。

 この二年、必要最低限の人間関係の中で生きてきたちひろにとって、ここはまさにぬるま湯の中である。対人スキルも使わなければ衰え錆びるし、元に戻ってしまう。それに元来、ちひろは活字さえあれば一人でも十分楽しく生きていける本の虫だ。直接話したほうが話が早いのはわかるが、上手く事情を説明できる気もしない。大爆死必至である。

 しかし、盛大にオドオドしているうちに勢いよく校閲部のドアが開けられ、

「早峰カズキの担当編集は俺だけど、話って何?」

「ひっ……!」

 三分と経たないうちに担当編集が乗り込んできた。

 部内全体に響き渡るほどの大声に、ちひろは思わず声にならない悲鳴を上げてしまう。準備だって一つもできていない。早峰カズキの原稿を胸に抱いたまま、どうしよう、どうしようと自分のデスクの周りをウロウロしていただけである。担当編集が男であるのは今の声からも明らかだが、第一声からしてバカデカく、怖くて顔が上げられなかった。

「お? 話があるのって、あんた?」

 ちひろに気づいた担当編集が革靴の底を鳴らして近づいてくる。ちひろはますます縮み上がりながら、竹林が緩衝材となって間に入ってくれることを切に願った。

 しかしタイミング悪く内線が鳴ってしまい、さらに絶望的なことに部長が「はい、校閲部です」と呑気な声で受話器を取ってしまった。しかも、誰か助けてと周りに目を走らせるも、校閲部の変人たちは誰もが知らんぷりを貫いている。こちらの状況には一つも目もくれず、机にかじりつくようにして膨大な量の校閲を進めているだけだ。

 仕事が立て込んでいてそれどころじゃないのも確かだが、基本的にここの人たちは、こういう人たちだ。余計な人間関係がないのは楽だし、とても気に入っているが、このときばかりはちひろもさすがに「裏切り者!」と校閲部の人たちを心の中で盛大に罵った。

「つーか、こっちだって忙しいんだよね。何の話かは知らないけど、早くしてくんないかな。俺が入ってきても誰も顔を上げないし、正直、校閲部って態度悪くない?」

 ちひろの前で足を止めた担当編集が苛立ちを含んだため息をこぼす。同僚たちを罵っている間にすっかり距離は詰まり、気づけば目の前だ。ジャケットの前を開けたアクティブなリーマン風な編集から聞き捨てならない言葉たちを間近で頭から浴びせられ、正直ムッとなる。でも極度の人見知りだから反論はしない。というか、できるわけもない。

「……あ、あああの、失礼を承知で聞かせていただきますけど、この早峰カズキの新作、もちろん編集さんもちゃんと目を通してますよね?」

 仕方なくちひろは、就職活動中のことを思い出し意を決して口を開いた。誰も助けてくれないし、竹林は何の話をしているのか、まだ電話中だ。校閲部の中で動ける人はちひろしかいないのだ。それに早峰カズキの原稿を担当しているのはちひろ自身でもある。誤字脱字のあまりの多さに、編集が目を通さずそのまま校閲に回しているのではないかと思ったのも、ちひろだ。本当は竹林に話してもらいたかったが、致し方ない。

 早峰カズキの新作を最高の形で世に送り出すため、背に腹は代えられなかった。

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