これは校閲の仕事に含まれますか?
白野よつは
■第一話 本当のストーカーは誰?
1
本好きの人間にとって、誤字を発見するのは一種の楽しみだ。
重版になるとその誤字は修正されてしまうので、初版本の誤字は特に希少価値が高い。
それが自分の好きな作家、好きな出版社のものなら、なおさらラッキーだ。
作家も校閲部も誤字脱字には細心の注意を払っているにも関わらず、いじらしくも何度となくその目をかいくぐって世に出てきたのだ。それを発見したときの喜びは至福としか言い表しようがない。その誤字をそっとシャーペンで囲んだ日には、一日中楽しい。
そんな偏った本への愛を仕事にするにはどうしたらいいか。
考えるまでもなく
幻泉社は、ほかの大手出版社と同じく、あらゆる書籍を発売しているマンモス社だ。文芸書籍はもちろんのこと、ライトノベルやライト文芸、ファッション誌や週刊誌、漫画雑誌にコミックス、幼児向け雑誌と、その形態は多岐に渡っていて、アニメやドラマ、映画の原作となる作品も多く出している。昨今、書籍の電子化や本離れなどで出版不況が叫ばれる中であっても、雑誌類は休刊や廃刊になることもなく、賞金の出る小説賞も各文芸レーベルで毎年開催しているとなれば、幻泉社の大きさも簡単に想像できるというものだ。
校閲部は、それらの書籍のありとあらゆる文字を一つの間違いもなく世に送り出すための最後の砦となっている部署だ。誤字発見に恍惚としてしまう偏愛の持ち主であるちひろにとって、これほどスリリングでワクワクする仕事はない。
会社は安定しているし、
窓がないのはときに閉塞感を覚えることもあるけれど、紙の本をこよなく愛しているちひろには、電気さえついていれば何も問題はないのである。だって、電子書籍なら誤字を発見しても丸で囲みようがない。誤字発見用のシャーペンは、液晶画面には不向きだ。
一時は作家に憧れ、高校生から大学を卒業するまでの間、文芸賞に応募していた時期もあった。しかしどれも箸にも棒にも掛からず落選続きで、幻泉社に内定をもらったその日に作家の夢は捨てた。それにちひろは、やっぱり読むほうが好きなのだ。幾多もの厳しい校閲の目をかいくぐって世に出てきた愛しい誤字を
そうして二年、校閲の仕事を続けてきたちひろは、この仕事を天職に思う。
ほかの部署の人たちは、校閲部を地味だ、暗いと陰で囁いてはいるが、気にもならないし勝手に言っていろと思う。ちひろは誤字さえ発見できればそれでいいのだ。昔から好きだったその楽しみで自分の食い口が稼げているのだから、誰に何と言われようと構わないというのが、入社当時から変わらないちひろのポリシーであり、信条なのである。
そんなちひろにとある校閲の仕事が振り分けられたのは、桜が満開を迎えた頃、四月上旬のことだった。部長の
ちょうど前の原稿――『世話焼き主夫とヒモ男』の校閲が終わったばかりだったので、暇ではないが手は空いていた。幻泉社はBLレーベルも軌道に乗っていて、漫画も小説もけっこうな数が出版されている。TL小説や漫画もそれに準ずる。
『世話焼き主夫とヒモ男』という小説は、バリバリのキャリアウーマンを妻に持つ専業主夫が主人公だ。妻が海外に転勤し、幼い一人娘と暮らす専業主夫が、ある日、行き倒れの若い男と出合い、なんやかんやと丸め込まれて最終的にはエッチでハッピーエンドというストーリー展開の小説である。妻は? 娘は? と疑問が山盛りのまま進んでいくので、ちひろは誤字脱字やルビの振り間違いにだけ気をつけ、校閲を終えた。
この仕事をしていると、そのとき校閲しているものによって調べもので得た知識や教養が期間限定で身についたりする。詳しくは割愛するが、『世話焼き主夫とヒモ男』でも男同士のあれやそれやを調べるために、校閲中はものすごくBLに詳しかった。
文字を通して様々な分野、世界を知ることができるのは校閲の醍醐味ではあるが、BLに興味のないちひろにとっては、顔には出さないまでも、けっこうな苦行であったのは言うまでもない。これならTLのほうが自分が女であるぶん少しは楽だ。といっても、幼少の頃から本の虫だったちひろは、恋愛とは程遠い場所で生きてきたのだけれど。
「じゃあ、よろしくお願いしますね、斎藤さん。ミステリー界の超新星・
「そうですね。精進します」
竹林に原稿を渡され、さっそく自分のデスクにつき一枚目をめくる。
早峰カズキは、まだ若干十九歳ながらミステリー賞の最高峰の一つと言われる〝
ラスト数十ページで明かされるストーカー犯の正体が彼女の実の父親だったという狂気的な展開は身の毛もよだつほど恐ろしく、審査員を務めた名だたる作家たちも満場一致で早峰カズキを大賞に推したというのだから、どれほどの才能なのかがよくわかる。
もちろんちひろも『誰?』を読んで同じ感想を持った。犯人が実の父親という設定の奇抜さもさることながら、読者へのミスリードも巧みで、ちひろも自身、何度も騙された。最終的には父親は家族の告発で逮捕されるのだが、後味の悪さも癖になる。〝いやミス〟という言葉があるように、何とも言えない嫌な気分で終わるのだ。
地上何十階の窓のある環境で仕事をしている書籍編集部も、早々に十九歳の超新星に目を付けたのだろう。他社の賞でのデビューだったので、うちの編集部がどうやって早峰カズキを引っ張ってきたのかは知らないが、義理立てしてしばらくはデビューさせてもらった出版社でしか書かない作家も多いと聞くのに、よく新作を書かせたものだ。
あっぱれ。
――それにしても。
原稿を五枚めくって数行。あ、と口の形だけで呟いたちひろは、
「すみません、部長。変なことをお聞きしますけど、この『抹消(仮)』って、担当編集も目を通してますよね?」
それを抱え、竹林のデスクの前に立った。
「ええ。うちの会社は、文芸書籍は実際に本になるまでに第三稿まで刷りますし、そのたびに担当編集も目を通す決まりです。その都度校閲も入りますから、斎藤さんの第一稿にも、ちゃんと担当編集が目を通しているはずですが……どうかしました?」
すると竹林は、怪訝な顔をしながらもそう言う。ちひろもそれはわかっている。
「……いえ、それにしては、初歩的な誤字が目立つような気がして」
しかし看過できずに五枚目までの誤字をパラパラとめくって見せる。
明らかな誤字は赤で囲むことになっている。この『抹消(仮)』は、竹林が言った通りまだ第一稿目だ。けれど、見つけただけでも誤字はもう十箇所、一ページにつき平均して二つもあり、中には変換しきれず「t」のままになっているところや、同じ言葉が繰り返されているところもある。担当編集が目を通しているなら、校閲に回す前に気づいてもよさそうなものばかりだ。一稿目ということを差し引いてもちょっと多すぎる気がする。
「あれ、本当ですね。担当編集に内線かけてみましょうか」
「……あっ、いえ。見逃すこともありますし、作家さんのほうも単なる変換ミスだったりキーの打ち間違いだったりする場合も多いのでっ。このままやります」
「そうですか?」
「はい、大丈夫です」
赤で囲まれた箇所を確認するなり受話器に手をかけた竹林を慌てて止める。内線といえども、電話はちひろの最も苦手とするものの一つだ。
堂々の第一位は人。二位が電話。三位は気持ち悪い生き物全般だ。
竹林とこうして話していることさえ緊張して声が上ずってしまいそうになるのに、目に見えない相手との会話なんて必要最低限のものだけでいい。少し変だと思い、思いきって相談してみただけで、なにもそこまで望んでいないのだ。誤字はこちらで一つ一つ地道に片づけていけばいいだけのこと。だってそれが校閲の仕事なのだから。
こういう性格だから彼氏どころか友達の一人すらいないまま二十五歳を迎えようとしているのは重々承知している。だが、そうそう改善できるものでもないのも、ちひろは重々承知していた。自分なりに努力はしてみた。でも惨敗だった。それがすべてである。
「じゃあ、引き続きお願いしますね。何かあったら、また言ってください」
「はい。失礼します」
一礼し、原稿を抱えて自分のデスクに戻る。あまり人と話さなくてもいい仕事、という面でも校閲の仕事は天職だ。活字さえあれば生きていけるちひろにとって、好きなだけ活字に触れられ、かつ誤字を発見する楽しみを味わえるだけでなく、必要最低限の人間関係さえ築けばお給料がもらえるこの仕事は、三種の神器と同じ意味を持つのである。
「……よし」
小さく呟き、気を取り直して校閲の続きに取りかかる。五枚目以降はまだ目を通していないので何とも言えないが、このままのペースで誤字が続発すれは、忍耐力と集中力勝負になるだろう。再び早峰カズキの手に戻るまでに綺麗に修正してあげなければという思いで、赤ペン片手に原稿と向き合う。超新星への期待は、ちひろとて大きい。最高のものを世に送り出してもらうために、校閲としてできる最上級のことをするのみだ。
そんなちひろと竹林のやり取りを気にする人は、この校閲部には一人もいない。
二十人ほどいる校閲部の社員たちは全員、ちひろと同じようにちょっと変わった本への愛を仕事にしている人たちばかりだ。ちひろ以上に人と関わることへ抵抗を感じている人もいるし、校閲中はヘッドフォンを耳にかけて外の音を遮断している人もいれば、耳栓をしている人もいる。ここにいる誰もがもう、自分の内側にどっぷりと籠りながら机にかじりついて誤字発見機と化しているのだ。共通することはただ一つ――本を愛しているということだけ。その愛をもってして、最後の砦の責を背負っているのだ。
その後、誤字発見機となったちひろは、早峰カズキの新作『抹消(仮)』第一稿の校閲と、もう二つほど校閲を終え、退社時刻の午後五時半きっかりに校閲部をあとにした。
ちひろは入社三年目だが新入社員の校閲部への補充はなく、ちひろはまだ一番の下っ端だ。しかし校閲部の人たちはそういうことも気にしない変人ばかりなので、仕事さえちゃんとしていれば、定時きっかりに帰ろうが、それが誰であろうが、別に構わないらしい。
社畜と化しているほかの部署とは、やはりそういう面でも校閲部は違う。付き合いだの接待だのと煩わしいこともないので、しっかりアフターファイブを満喫できていい。
エレベーターで地上一階に上り、エントランスを抜けて外へ出る。一日中ほとんど同じ姿勢で仕事をしていたため、凝り固まった肩や首の筋肉をほぐしながら駅へと向かう。
エントランスを抜ける際、受付嬢が「お疲れ様でした」の中に明らかに嘲笑を含めていたが、気にしない。綺麗に着飾っていても、所詮、若いだけ。賞味期限がくればどこかの部署へ異動させられるのだから、今のうちだけちやほやされていればいい。
……モテない僻みではない。と思いたい。
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