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「コロさーん、マルくん、チビちゃーん。三佳です、どこにいますかー?」
やがて三佳は、雑木林から続く裏山へと足を踏み入れた。
この辺りは田んぼと畑がメインで、民家は点々としている。まったくと言っていいほど手入れのされていない雑木林もそこかしこにあり、昼間でも奥へ進むにつれて日は陰り、鬱蒼と絡み合った草や木のツルが若干の薄気味悪さを感じさせる。
だがタヌキは、そういう場所を好んでねぐらにしている。もしかしたら生前ねぐらにしていた場所に戻っているのではないかと思い、三佳はしらみつぶしに雑木林に分け入り、いないとわかればその範囲を徐々に広げていった。
これ以上のタヌキの生態も、昼間に見つけられるかもわからないが、自分にできる最低限のことだけはしたかった。こちらが何もしなくても自然に成仏すると早坂は言うが、だったらそれまでの間、親子水入らず家の天井裏で静かにその時を待ってくれたらいい。
その行き着いた先が、裏山である。
といっても、山と呼べるほど高低差があるわけでもなければ、獣道しかないような険しいところでもない。むしろ雑木林の延長といった感じで、スニーカーにジーンズ、上はTシャツというラフな格好でも十分通用するような、そんな山である。
「コロさん、マルくん、チビちゃーん、一緒に帰りましょー」
今でこそ人の出入りはないが、昔は林業も盛んに行われていたというトラックの轍の跡に生えた下草を踏みしめながら、三佳は母子を探して名前を呼び続けた。
家を出る前にミネラルウォーターのペットボトル二本とおにぎりを三個用意したので、三匹がなかなか見つからなかったとしても、空腹にも喉の渇きにも耐えられるだけの備えはある。加えてここは、野々原家のほぼ真裏の山だ。野々原家の私有地ではないにしろ、子どもの頃に何度も遊びに入って土地勘もあるし、何より轍の跡を辿れば難なく山を下りられる。これでは迷うほうが無理だという話で、だからこれだけの軽装なのだが……。
「あれ? ここ……」
ふと気づくと、幼い頃に見慣れたはずの裏山に違和感を覚え、三佳は轍を進む足を止めて辺りをきょろきょろと見回した。すると、三佳の周囲を囲むように伸びてくる冷気を含んだ靄が目に映る。それに嫌な既視感が募り、もしかして……と背筋を這うように込み上げてくる恐怖に恐る恐る足元に目を移す。と、今まで確かにあった轍もすっかり消え、あるのは伸び放題の草ばかり。獣道すらないものが、そこには広がっていた。
「……え?」
三佳は、頭が混乱しつつも驚きに目を瞠る。もしかしなくても、これは〝掃除〟のときに何度も体験した霊障というものではないだろうか。まさか実家に帰ってまでこんな目に遭うとは思いもよらなかったが、頭で理解する前に体でわかってしまう。
「どうしよう、裏山で遭難なんてシャレになんないんだけど……」
あっという間に気温が下がり、三佳は白い息を吐きながら両腕を抱く。
岩田のときもそうだった。彼は甘い顔で三佳の警戒心を解き、自分と同じように自殺させようとして、霊障を起こし気を失わせたのだ。あのときの底知れない寒さがぶわりと蘇り、三佳は恐怖と寒さに震える体を抱きしめ、その場に蹲るしかなかった。
コロたちを探しているだけなのに、どうしてこんな目にばかり遭うのだろう。肝心の母子の姿も見つけられないし、早坂に啖呵を切った手前、助けも呼びにくい。
そうしてウダウダと考えている間にも気温は下がる一方なので、変な意地を張っている場合ではないことはわかるのだけれど。でも、ひどく冷たい物言いをした早坂のことを思い出すと、スマホに伸びかける手も寸前で引っ込めてしまう。
「……よ、よーし。頑張れ、私。頑張ったらなんとかなるべ!」
そうして三佳は、なけなしの元気をなんとか奮い立たせ、再び道なき道を歩きはじめる。
だいたい、霊障の中で電波が通じるとは思えなかった。それに、ここは低くても山の中だ。この地域にも各携帯電話会社の電波塔は立っているが、山の中となれば、話は多少、違ってくると思う。とにかく、自分で蒔いた種は自分で回収しなければ、責任を取ったことにはならない。ここで早坂を頼ったら、意味がない気がした。
「コロさん! マルくんに、チビちゃんも! よかった、こんなところにいたんですね」
『三佳さん!?』
その甲斐あってか、しばらく歩くと木の穴に寄り添うようにして丸まっている三匹を見つけ、三佳は急いで駆け寄った。顔を上げた三匹は、どうしてここに!? といった様子でつぶらな瞳をまん丸に見開き、歯をガチガチ鳴らして穴を覗き込む三佳に仰天している。
「成仏までの間、やっぱりウチにいてもらおうと思って探してたんです。お盆は先祖の魂が帰ってくるって言うじゃないですか。家に帰る魂たちの中を漂わせるわけにはいきませんよ。だってそんなの、寂しすぎます。獣臭いのは我慢してもらうしかないですけど、ここにじっとしているよりは、ずっといいと思うんです。それを伝えに来ました」
白い息を吐き吐き、三佳は筋肉が強張る顔でなんとか笑顔を作った。霊障に遭ってしまったことは思わぬ誤算だったとしか言いようがないけれど、こうして無事に三匹を見つけられたのだから、体の芯から凍えるような寒さも吹き飛ぶというものだ。
『だからですか……』
しかしコロは、そう言って三佳の後方に目をやった。
「え?」
『さっきから、山に潜むものたちの魂がやけに騒がしいのです』
「ど、どういうことですか……?」
こわごわ尋ねる三佳に視線を戻し、コロは言う。
『三佳さんは今しがた、お盆は先祖の魂が帰ってくると仰いましたけれど、帰ってくるのはなにもそれだけではありません。命があったものはみな、例外なく帰ってくるのです。その中には、気性の荒いものもいれば、人間そのものに強い恨みを持っているものもいます。三佳さんが山に分け入ったことで、帰ってきていたそれらのものの気に障ったのかもしれません。けして三佳さんが悪いわけではないのです。ですが、まだご自身の足で帰れるうちに山を出たほうがいいと思います。これくらいの靄でしたら、私たちでもなんとか道案内できます。来ていただいて申し訳ないのですが、急いだほうがよいでしょう』
「そんな……」
愕然とする三佳の脇を通り抜け、コロたちがサッと草の上に立つ。振り向き、さあ行きましょうと三佳を促すが、その三佳は、なかなか一歩が出なかった。
これではまるで親切の押し売りではないか。動物たちの事情もよく知らずに自分勝手な正義を振りかざして母子を連れ戻そうとしたりなんかして。自分は一体、何を思い上がったことをしていたんだろうと途端に恥ずかしくなり、体の力が抜けてしまったのだ。
そのせいで、母子は危険を承知で三佳を山から出してくれようとしている。人間に肩入れしているとなれば、それこそ、この霊障を引き起こしているほかの霊は気分を害すだろうに、母子を危険な目に晒してまで自分は何をしたかったんだろうか。
「コロさん、ごめんなさい……」
悔しくて、申し訳なくて、三佳の目には涙が滲む。こんなことになるくらいだったら、早坂の言うことを聞いて大人しくしておけばよかったと後悔しても、もう遅い。
『なにを言っているんですか。三佳さんだけですよ、死んでいるのに、それでもわたしたちのことを親身になって考えてくださったのは。そのお気持ちだけで十分です。さあ、山のものたちが姿を現す前に出ましょう。この寒さです、早いほうがいいですから』
するとコロはそう言い、尻尾を大きく一度、ふわりと振った。マルやチビも三佳のもとへ駆け寄り、クンクンと鼻を鳴らして『立って』『早く行こう』と促す。
「……ごめんね、余計なことばっかりして」
手で涙を払って立ち上がると、三佳は母子の気遣いを無駄にしないよう、彼らの案内に従って歩きはじめることにした。こうなれば、三佳にできるのは無事に山を下りることだけだ。役に立つどころか、余計な手間をかけさせてばかりだけれど、自力で歩ける体力が残っているうちに山を出なければ、それこそ母子に申し訳が立たない。
山はいつの間にか、先ほどよりも濃い靄で覆われ、一メートルほど前を先導しているコロのポテポテした丸いお尻がかろうじて確認できるくらいだった。足元にはマルとチビがぴたりと寄り添い、トコトコと動き回ったり、ときおり位置を入れ替えたりしながら、両腕をさすり続ける三佳を気遣わしげに見上げている。
そんな二匹の子ダヌキたちに、大丈夫だよ、と笑いかけながら、三佳はコロのお尻を見失わない程度に改めて周囲を見回してみることにした。
体の芯から凍えるような寒さは相変わらず。山に分け入ったときにはひっきりなしに聞こえていた野鳥や虫の声は、そういえばずいぶん前から消えている。三佳が草や落ちた枝葉を踏みしめる足音だけが規則的に響き、その音だけが唯一だ。靄が濃いせいで森の木々や草の輪郭が曖昧で、気を抜くとオバケのようにも見えてきそうなほど、薄気味悪い。
「お願いだから何も出てこないでよ……」
心が恐怖で支配されていると、なんでもないものが大袈裟に見える。視界の端にチラリと入った何かの生き物のようにも見える影に一瞬ビクリと肩を震わせつつ、三佳は神頼みに近い形でそう口にする。夜中のトイレがめちゃくちゃ怖いのと一緒だから、と強く自分の心に言い聞かせて再びコロのポテポテしたお尻に目を戻せば、コロは地面スレスレに鼻先を近づけ、匂いを確かめるように帰りのルートを必死で探してくれていた。
『お母ちゃん、すごく鼻が利くんだよ』
『だから大丈夫。ちゃんと帰してあげるからね』
「……チビちゃんたち。ありがとう、本当にありがとう」
胸にこみ上げる温かなものは、すぐに三佳の涙腺を緩ませる。コロが先導役なら、チビたちはさしずめ小さなSPといったところだろうか。なんとも可愛らしく頼もしい母子に導かれながら、三佳はサッと涙を拭いてコロのお尻をひたすら追うことに専念した。
三佳が無事に山を出ることこそ、母子の望みなのだ。絶対に見失ったりなんかするもんか。よし、と気合いを入れ、三佳はそれからも、ひたすら山を歩き続けた。
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