5
「野々原さん。だからあなたは甘いんですよ」
と、キヨさんの残した御守りを握りしめる三佳に、早坂がぴしゃりと言い捨てる。
「その御守りを今すぐ僕によこしなさい。巾着袋もです」
そして、三佳に向かって手を差し出す。
「どうしてですかっ。キヨさんや、キヨさんを慕ってここに集まる霊たちのことを思うなら、滅するんじゃなく、きちんと話をしてお帰りいただいたらいいじゃないですか。……まさか所長、この御守りごと消そうとしてるんじゃないですよね? この御守りは、キヨさんが生前から大事にしていたもので、きっとお嫁さんに渡すつもりで――」
「だから、いけないんです」
「……っ」
再びぴしゃりと言い捨てられ、三佳は思わず息を呑んだ。苛立たしげにこちらに手を差し出し続ける早坂は、ふと冷静になると、どこか焦っているようにも見える。
どうしてそこまで御守りにこだわるんだろう、と疑問を感じる間もなく、
「……わっ!」
痺れを切らしたのだろう、早坂のオッドアイが妖しく光り、三佳の手から御守りと巾着袋を奪った。奪われたそれらは引き寄せられるようにして空中を移動し、早坂の手の中へぽすりと収まる。妖力、である。それを使うなら、わざわざよこせと言わなくたっていいのに……と三佳は思う。あやかしの力を使われたら、三佳には敵いっこないのだから。
『もう少しだったのに……』
すると、靄が低い唸り声を上げた。今までとは明らかに違う禍々しいその声に、三佳はゾワリと寒気を感じ、背筋が凍るような感覚に襲われる。
いったい、どうしたというのだろうか。それに、何が〝もう少し〟なのだろう。
「野々原さん、伏せて!」
すると早坂の鋭い声が響き渡った。反射的に身を屈めると、三佳の頭上を電光石火のごとく早坂が飛び越えていく。かろうじて目だけで早坂の動きを追えば、その足は美しい銀色の毛に包まれ、足先からは鋭く尖った爪が剥き出しになっているのが見えた。
どうやらますますオオカミの姿に近くなっているらしい。相変わらず危機的状況を忘れてしまいそうになるほど美しい銀色の毛並みだが、果たしてここまであやかしの力を引き出す必要があるのだろうかとも、三佳は能天気に思ってしまう。
確かに今まで感じたことのなかった禍々しい雰囲気を靄から感じた。もう少し、の意味も気になる。でもそれは、早坂が霊たちの神経を逆撫でする発言をしたからだ。親しい人や慕っている人を侮辱されたら、そりゃ誰だって不愉快だ。霊だってそれは同じだろう。
けれど早坂は、三佳の思いとは逆のことを言いながら爪が剥き出しの脚を振り上げる。
「どうやらあなたたちは、キヨさんを思う気持ちが行きすぎてしまったようですね。〝びっくりするくらい憑かれやすい体質〟の野々原さんを使って、息子さんや奥さんに憑いて苦しめるつもりでしょう? 御守りや巾着袋は、その
『なぜそれを……!』
「あなたたちからは、キヨさんを慕う純粋な思いのほかに、キヨさんをひとりにした息子さん夫婦に対するねじ曲がった感情が渦巻いているんですよ。僕はイヌ科のオオカミですから。よーく鼻が利くんです。そこの騙されやすい
それ私のことだよ! 早坂の脚がヒュンと空を切る音を聞きながら、三佳は頭を抱えて伏せつつ、ほとほと耳の痛い話に顔を引きつらせる。
ということは、靄たちははじめから、三佳に憑依するつもりで気を使ってくれたり、キヨさんとの昔話をしてくれたということだろうか。巾着袋にある御守りを三佳に取り出させたのも、憑かれやすい体質の三佳を利用するため……?
御守りを手にした瞬間に憑依されなかったのは、早坂が見ている手前、迂闊な真似はできないと思い、様子をうかがっていたのかもしれない。その点では大いに助かった。
とはいえ、ここでも持ち前のプチ不幸体質を発揮してしまったような気がして、三佳はものすごくバツが悪くなった。再三、早坂に警告されていたというのにまんまと騙され、憑依されたらどうなるかはわからないが、憑依までされそうになっていたなんて……。
これは叱られるだけじゃ済まないかもしれない。だって雇い主に歯向かった挙げ句、集まってきたという霊の味方についていたのだ。三佳には靄以外は見えないのに。その中には、キヨさんに
もしそうなってしまったら、三佳の身が危ないどころか、早坂に余計な手間まで取らせてしまう。かなり特殊な職場ではあるが、ようやく就職できた会社から追い出されてしまうことも考えられる。そんなのは二重の意味で完全なる自殺行為である。
そこまで考え至り、三佳がひえぇぇっと肝を冷やしていると、
「家の取り壊し工事を妨害していたのも、野生動物たちを誘導して台所付近だけを汚させていたのも、お嫁さんが掃除に来るたびに脅かしていたのも、すべては行きすぎた愛情が原因です。キヨさんにどれだけ良くしてもらっていたかは知りません。ですが本来、霊やあやかしたちは、人のそばでひっそり存在するのが好ましいんです。人も同じ。むやみやたらに施しを与えたり仲良くするものじゃありません。人に化けられないほど低級なあなたたちがいくら寄せ集まったところで、この家は更地に戻りますし、その邪魔はさせません。受けた仕事は完遂する――それが僕のモットーです!」
早坂が低く唸り声を上げ、オッドアイを大きく見開いた。その圧は、三佳の頭上で風を巻き起こす。さながら、かまいたちか神風といったところだろうか。
最後の一陣が三佳の前髪をそっと押し上げる。風が止んだのを感じて恐る恐る顔を上げると、まるで家の中の空気が入れ替わったように清々しかった。
「しょ、所長……」
もしかして、全部滅したんですか? ――三佳が問うより早く、
「たとえ厚意を誤解して受け止めたままでも、掃除に来るたびに気味の悪いことが起きても、それでもお嫁さんは年に数回は必ず遠くから足を運んでいたというのに、その気持ちが霊たちには伝わらなかったんでしょうかね。……年に数度でもここへ足を運ぶ時間を確保するのは、そう簡単なことではないはずです。遠方なら、なおさらに」
早坂はオオカミの姿を解き、いつものあの恐ろしく綺麗な顔立ちの〝早坂慧〟に戻りながら、ぽつりと言葉を落とした。シルクハットからぴょこんと生えていた耳はいつの間にか消え、ふさふさの尻尾も、もう見えない。足は人間の素足に草履。埃臭い雑居ビルの一室で初めて出会ったときのように、どこからどう見ても〝早坂慧〟だった。
……どうやら終わったらしい。最後に何か言葉を残す間もなく、ここにいた霊たちはみな、早坂が発したあやかしの力で一掃されてしまったようだ。
澄んだ空気に、三佳の鼻の奥がツン、と痛む。
一掃したということは、おそらく御守りや巾着袋も一緒に消えてしまったのだろう。それらだけは、どうにかしてお嫁さんの手に渡したかったのだけれど……。人に害を及ぼそうとするものが――キヨさんを思う気持ちが間違った方向へ向いてしまったものが憑いていたのだから、むしろ消えてなくなったほうがお嫁さんのためになる。
頭ではわかっているのに、気持ちが追いつかない。
もしかしたら霊たちも、こんな気持ちでキヨさん亡きあとの十数年を、朽ちていく家を見守りながら過ごしていたのかもしれない。キヨさんにとっても、霊たちにとっても、胸が締め付けられるほど切ない話だ。誰も――何も悪くないのに……。
きゅ、とこぶしを握ると、早坂が言う。
「お嫁さんは、よく気を保っていられたと思いますよ。息子さんの話しぶりから、お嫁さんだけしか掃除に来ないことはすぐにわかりました。この家に数時間だけでもひとりでいるのは、さぞ気が重かったことでしょう。それでも定期的に掃除に訪れていたのは、お嫁さんだってキヨさんのことを思っていたからだと、僕は思うんですよ。そうではなかったら、この家はもっと暗くどんよりした空気が蔓延していたはずです」
「そう……ですよね。奥さんだって、心の底からキヨさんの言うことを誤解していたわけじゃなかったのかもしれないですよね。掃除なんて、業者に頼めばいい話ですし」
「そうですね。ひょっとすると、お嫁さんの体や精神に実害がなかったのは、何十年と御守りに込められ続けてきた〝キヨさんの思い〟が守ってくれていたからなのかもしれません。あの靄や動く仏壇は、そういった思いが〝おのれ自身の心〟に目覚めてしまったがゆえのものです。皿を飛ばしてきたのは、低級ですが悪質な霊の仕業でしたけど――何はともあれ、これで掃除は終わりました。あとは散乱した皿や仏壇を片づけるだけですね」
ふぅ、とひとつ息をつくと、早坂は屈んだままの三佳にそっと手を差し伸べた。
恐れ入ります、とその手を掴んで立たせてもらいながら、三佳は散々なありさまとなった周囲を見回して、これは朝までかかるぞ……と微苦笑した。
掃除完了の期限は確か、明日までだったと記憶している。霊たちの妨害に遭い、取り壊し工事のスケジュールがおしているとか。工事業者が入るまでがリミットだ。
『早坂ハウスクリーニング』のほうとしても、もう少し余裕をもって依頼を受けたいのは山々だったのだが、飛び込みの依頼だったことと、工事業者に確認を取ったところ、明日しか時間が取れないこと。早坂も、一度あやかしの力を使えば回復に丸一日かかること、そして三佳の〝憑かれ体質〟もそれなりに体力の消耗が激しいため、毎日ホイホイ憑かれるわけにもいかないことが重なり、こちらも今夜しか空いていなかったのだ。
早坂の正体がオオカミのあやかしで、かつ強い力を持っているとはいえ、どうやら万能ではないらしい。三佳もあまり立て続けに〝掃除〟に入ると、霊気に
入社して早々、体調が悪くなり、でもここで休むわけにはいかない!と根性で出社したら、早坂に「憑いてますね」と言われて仰天したのは記憶に新しい話だ。その霊は、早坂が三佳の頭を撫でただけで消えてしまうほど弱いものだったようで、直後から今までの具合の悪さが嘘のように元気ハツラツとしてきたのは言うまでもない。
ただ、その言葉には聞き覚えがあった。
「あの……もしかして面接に行ったときの『ついてますね』って、あなたはラッキーですねって意味じゃなくて、霊が『憑いてますね』ってことだったんでしょうか?」
ほぼほぼ確信を持って尋ねた三佳に、早坂は妖艶な笑みを浮かべて言った。
「おや、ようやくわかったようですね。野々原さんほど憑かれやすい人は滅多にいないんですよ。今まで就職が決まらなかったのも、すぐにバイトをクビになったのも、入れ代わり立ち代わり、あなたに霊が憑いて、あなたの〝運〟の邪魔をしていたからなんです」
「――はい?」
そんなバカな、と目を剥く三佳に、早坂は続ける。
「でも、もう大丈夫です。ここに身を置いている限りは、僕が霊から野々原さんを守ります。面接のときに言いましたよね、僕はあなたのような逸材をずっと探し求めていたんですよと。幸い野々原さんは新卒の二十二歳。現在の定年は六十五歳ですから、この先、四十三年ぶんの生活は保障されます。その頃はどうなっているかわかりませんが、定年を迎えたら再雇用する手もありますね。今の高齢者は元気ですから。医療がもっともっと発達すれば、九十歳まで現役で働くなんてことも、十分に期待できそうじゃないですか」
「……」
それは死ぬまで働けということですか。
三佳は右目の涙袋をピクピクさせながら、守られているんだか脅されているんだかわかりゃしないんだけど……と、内心でおおいに悪態をついた。
四十三年は途方もない年数だ。それだけの長い間、自分の生活を保障してくれるのはとてもありがたい話だけれど、第一この人は何歳なんだろう? 早坂ハウスクリーニングの経営はどうなんだろう? と疑問や不安に思う気持ちのほうが勝るのもまた、事実。
それに、九十歳まで現役で働きたくはない。四十三年も働いたんだから、残りの人生は悠々自適に過ごしたい。加えてそこまで生きていられるかどうかも謎だ。
「あの、話が飛躍しすぎじゃないですかね……?」
おずおずと物申した三佳に、しかし早坂は恍惚とした表情で笑った。
「何を言っているんです。偏差値も能力値も人並みで、見たところ仕事に役立つ特技を持っていそうもない野々原さんに一般企業は向きません。ともすれば、その〝憑かれ体質〟によって会社を潰してしまうことも往々にしてあるでしょう。それよりは、僕のもとでその体質を活かしながら生涯現役を貫いたほうが、世のため人のため、社会のためになると思いませんか? とはいえ、もとより僕は辞表の受け取り方なんて知りませんけど」
「……」
そうして三佳は、ほとんど脅されるような形で『早坂ハウスクリーニング』の一員として迎え入れられ、とりあえず定年までの生活の保障を手に入れた。
拾ってもらった恩は多分にあるが、なんとなく解せないのはなぜだろうか。人並みの生活を手に入れたかっただけなのに、なんだかとんでもない代償を支払わされた気分だ。
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