第11章 Short story -version Gen3
元は眼鏡を少し上げて、手元の書類に目を通していく。
高層ビルの上層階のオフィスでは、窓越しに見える空がやけに近く感じる。しかし景色に目を向ける人間など一人もいない。広いオフィス内は、息が詰まりそうな緊張感に包まれていた。
数十枚にわたる最後のページに視線を流すと、元は小さく溜息を落とす。その一連の動作を食い入るように凝視するのは、営業第一課のポープである若手とその上司だ。
「悪いけど、この案は通せませんね」
淡々と放たれる声は、決して荒立てられている訳ではない。にも関わらず、元の声はよく通った。少し低めの声色もさることながら、その一言一句を聞き逃さんと、オフィスが静まり返ってしまうのも要因の一つだろう。表情に落胆した感情を色濃く浮かべ、若手の男性が項垂れた。
「すみません」
担当した筈の書類を早々に放棄した態度に、元の眉がピクリと上がる。そのままタブレットからプロジェクトのフォルダをクリックすると、過去の履歴に視線を流した。
『彼が出してきた案はこれで二十。相も変わらず代わり映えしない内容、と』
冷ややかな視線を画面に向けたまま、押し黙る姿に、直属の上司である部長が頭を大きく下げた。
「申し訳ございません! 私の指導不足です!」
大きく曲げられた背中を遠くに見るような視線を向けて、元は机の上で手を組んだ。ただそれだけの仕草にも関わらず、オフィスの女性達の視線は釘付けだ。
「僕に謝る必要なんてないでしょう? 僕はアドバイザーとして拝見しているだけですから」
そう微笑みを浮かべると、張り詰めたオフィスがふっと和む。そんな空気の中、元は背も垂れに深く体を沈め、太股辺りで手を組み直した。重厚な革張りの椅子がギシリと鈍い音を立てる。
「でも……ここまで有効な案が出てこないとなると、二人のプロジェクトに対する姿勢を疑ってしまいますね」
表情を全く変えず柔和な声色のまま向けられた辛辣な言葉に、二人の表情が一気に強ばった。若干二十六歳という年齢でありながら、数多くの巨大プロジェクトを次々と成功に納め、会社の利益に貢献している男の言葉だ。会長の子息という色眼鏡で見る社員など一人もいない。
「申し訳ございません!」
ほぼ九十度の角度で大きく頭を下げる姿に、
「先程から何に対して頭を下げているのか教えて下さい。頭を下げ続けていれば、このプロジェクトがいつの間にか終わるとでも? もしそんな怠慢な意識が少しでもおありなら、今すぐに外れて頂いて結構です」
言葉は柔らかいが、放たれた内容は戦力外通告である。プロジェクトから外されれば、会社から無能だという烙印を押されたのも同義だ。それはこの会社で働く意義を全て剥奪されると考えてほぼ間違いがない。
元はトントンと書類を指で指しながら、
「後藤くん、このプロジェクトの成功の為に、大勢の方が心血を注いでいるのですよ。それを理解して真摯に取り組んでいたら、こんな何処かで見たような書類なんて提出が出来ない筈です。
やっつけ仕事で僕の目を誤魔化せるとでも思っているのかな? ……僕も舐められたものだね」
この言葉にオフィス内がザワリと波立つ。年下といえど神のような存在に、後藤は顔面を蒼白とさせた。
「と、とんでもございません! もう一度、もう一度だけチャンスを下さい! 今度こそ……お願いします!!」
元は必死な姿を真正面から見据え、小さく息を吐くと姿勢を正した。オフィスに緊張が走り、皆が次の展開に意識を研ぎ澄ませる。
「分かりました。いいですか? ご自身が社運の担い手だという認識を常に忘れずに。今まで貢献して頂いた実績を評価されて、会社が貴方に託したんです。このプロジェクトに是が非でも携わりたかった方々のためにも、全てを出し切って頂かなければ困ります」
そう真っ直ぐな視線を向けると小さく微笑んだ。
「聞いた~?? 王子の話!」
「勿論でしょ~。超格好いいんだけど。あぁん、もう! 営業課の連中、マジ羨ましいわ~」
就業後の更衣室では「今日の王子様」の話で持ちきりだ。数十人の女性が色めき立ち、元の一日について声を上げた。話の中心人物は、営業事務で毎日元と同じオフィスで働く女性だ。鼻息を荒くして話す言葉を聞き逃がさんと、皆が目の色を変える。
「だっていくつもダメ出しをくらっているにも関わらず、昨日早退しているんですよ。しかも噂では彼女とデートっていう理由で! 有り得なくないですか? 王子、出張だったから知らない筈ですけど」
これには居合わせた全員が眉を上げた。後藤に対して皆が怒りの声を上げようと口を開きかけた時、恍惚とした声が弾け落ちる。
「でも! ここからが更に素敵なんです~。王子スマイルの後、一時間みっちりミーティングですよ? 後藤さんの為に、忙しいスケジュールを調整して、です。そのサポートもそつがなくて完璧なんです!
ミーティングの内容が神だったのか、後藤さん、戻ってきたら別人みたいでした」
「これでまた王子の信者が増えたわけね」
皆が一様に大きく頷く。元が入社して、毎日のように繰り返される井戸端会議も、話が尽きることがない。そんな中で、
「そう言えば」
制服のボタンを外す女性が小さく声を落とした。
「ねぇ、ここだけの話だけど、秘書課の伊東さん、王子に告って玉砕したらしいよ」
「えぇ~、社内の男を手玉に取っているって噂の……っていうか、王子に告白なんて勇者~」
やっかみ半分、安堵感半分を含む失笑が更衣室に広がる。元は抜き出た容姿に、物腰の柔らかさを兼ね揃えた男だ。加えて追随を許さないビジネスセンスとくれば、なびかない女性などいない。しかしどれ程の誘いも誘惑にも、決して元が落ちることはなかった。有名なモデルと付き合っているだとか、相手は女社長だなど、憶測が憶測を呼ぶ。
「王子が好きになる人ってどんな人なのかしら」
その相手は自分ではない、それは皆が良く分かっている。しかし誰の手にも落ちて欲しくない……そう思わせるラインを元は常に保つ男だった。
誰も居なくなったオフィスで、元は白く浮き出るパソコンの光にただただ見入っていた。携わっている十以上のプロジェクトは全て元の計画(おもわく)通りに進んでいる。
ようやく合格ラインに達した書類に目を通しながら、小さく口元を上げた時、携帯の液晶が鈍く光った。映し出された名前に、元は一度目を細める。
「何? 兄さん」
「何じゃないよ。今日は食事の約束を入れていただろう? 皆揃ってんだ。早く来い」
一族の頂点を継ぐ孝一郎(あに)からの誘いに、元は大きく溜息を吐く。仲が悪い訳ではないが、有無を言わせない物言いは父親そっくりで、元が敬遠する一人である。約束も忘れている訳ではないが、行きたくない……それが正直な気持ちだった。
「……仕事が忙しいんだ」
「駄目だ。皆、お前に会いたがっているんだぞ、俺の顔を潰す気か?」
「皆って……兄さんの取り巻きの女性達だろ? 全く、麻里さんが聞いたら卒倒するよ」
「いいから早く来い」
その一言だけいい放つと、一方的に通話は切られた。少し眉を上げて液晶を見入り、椅子をぐるりと回す。
大きなガラス張りの窓の眼下には、光がこぼれ落ちたように沢山の明かりが灯っている。その光景でさえ、元の心を満たすことは出来ない。冷ややかに落とす瞳に、ただただ物質の一つとして映し出されるだけだ。
「……つまらないな」
何げに呟いた声に、思わず苦笑いが浮かぶ。元は携帯を手にすると、椅子から腰を上げた。
指定された高級料亭に出向くと、孝一郎を中心にして極上の女性達が取り囲んでいた。元は柔らかい笑顔を表情に浮かべたまま、
「ご歓談中失礼します。遅くなりました」
そう声をかけて下座に座る。チラリと孝一朗に視線を向けると、少し酔いが回っているのか顔が赤い。その様子に元は一瞬眉をひそめたが、次の瞬間には何もなかったかのように笑顔を戻した。
「遅かったな。皆、愚弟の元だ。宜しく頼む」
センスの良いスーツをきっちりと着込み、頭を下げる元に一瞬にして空気が華やかに彩る。孝一朗は三十代前半の若さでありながら、父親から徹底的に仕込まれた風格を備え、既に年齢不詳の域に達している。反して元は、母親の美貌を遺伝子にもつ美男子だ。女性群の視線が一気に集まった。
「まぁ弟さん、孝一郎さんにそっくりで素敵ですね」
「でも孝一朗さんは知的なタイプだけど、弟さんはアグレッシブな雰囲気を持っていらっしゃるのね」
おべっかで愛想良く笑いながら向けられる言葉にも、よく分からない誉め言葉にも、元はニコリと微笑み返す。
「初めまして。兄がいつもお世話になっています」
そう斜めに首を傾げ、全体に視線を流した。兄の目を盗み、熱い眼差しを向ける女性の視線を感じながら、
『全員がモデルか……。全くお盛んなことだ』
元はテーブルの下でスマホを手に滑り込ませると、ある番号を打ち込んだ。
結局、元が接待から開放されたのは、日付が変わってからだ。元は一番ゴージャスな女性が孝一郎の車に乗り込む姿を確認して、自身もタクシーに手を上げた。車のテールランプが光り発進する様子を瞳に映しながら、ポケットから携帯を取り出すと、同時に液晶画面が点る。
「あぁ今、店を出た。恐らくいつものホテルだろう。あぁ、そうだ。宜しく頼む」
短く指示を出して通話を切ると、ネクタイを緩め一息をついた。
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