第7章 麗しき姫君‐8

【フェルディナンドの回想】


 エミリーはフェルディナンドの部屋の前に立ち、幼い日の事を思い出していた。昼間の本の続きを読んでもらいたくて、フェルディナンドの部屋を訪れた時だった。

【使用人の部屋に近づくなど何事ですか!?】

 扉を開けた途端に、普段の温厚な姿からは想像も出来ない形相で厳しく叱責された。その後、フェルディナンドが両親に深々と頭を下げる姿を見てからというもの、二度と訪れることはなかった部屋だ。

 それでも今日、訪ねたのには訳があった。

『……苦しい』

 エミリーが実際の年齢よりもずっと幼く見えるのは、病魔に侵されている他にならない。体の軋みは今や全身に広がり、立っているのにも苦痛を伴う。それでも視界が霞むのを何とか振り払うと、ドアの隙間から部屋をそっと覗き込んだ。窓際に浮かぶ光の物体に、エミリーはゴクリと息を飲む。


【Another worldの扉を開ける覚悟は出来たか】

『夢ではなかったのですね……』

 フェルディナンドは突如現れた光の物体に驚きもせず、スッと瞳を細める。寝ては覚める夢ではあったが、三ヶ月前からほぼ毎日見ている夢は、回を重ねるごとに鮮明になっていた。数週間前から、Another worldの扉を開ける話が具体化してきた時、夢と思う反面、今日という日を覚悟する自分が居たのも事実だ。

 そして昨日の夢で、【返事を聞かせて頂こう】と光(せんどうしゃ)の声が耳に届いた時、フェルディナンドは目が覚めたのである。


『わたくしの返事は決まっています』

 そう思いながらも、夜はすんなりベッドに入る気になれず、窓辺のソファに腰を下ろしていた。窓の外は既に深い闇の中で、生き物の息遣いすら聞こえて来ない。フェルディナンドは、サイドテーブルに置かれた小さいノートに手を掛けると、大事そうに抱え上げた。

 詳細な手書きのデータに目を落として、今日何度目かの溜息を吐く。視線の先にある数値は、この数日間で著しく悪くなっている。この家のお嬢様、エミリーの闘病生活を綴った記録であった。

 その時、光の玉が音も無く実現化し、部屋に現れたのだ。


【……Another Worldを救う力など私(わたくし)にはございません。そもそも私は、ここから離れる訳にはいかないのです】

 この数日間、頓にエミリーの状態は芳しくなく、こん睡状態に陥る日も少なくない。細い体に通された複数の管のお蔭で生きながらえている状態である。僅かに目が覚める数時間の間だけ、エミリーはフェルディナンドの話を聞きたがった。

『こんな老い先短い身、何かの力になればとも思いますが、お嬢様を置いていく訳にはいきません』

 フェルディナンドの強い決意に、部屋の中には重い沈黙が流れた。

【世界は貴殿を選んだ。私が言えるのはそれだけだ】

 沈黙を破り光(せんどうしゃ)が重厚な声を発したその時、ドアが鈍い音を立てる。フェルディナンドが驚き振り返ると、そこにはエミリーの姿があった。

【お嬢様!?】

 驚愕の声を上げたのと同時だ。エミリーがガクリと膝をつく。

【いけません。早くお部屋に……!!】

 悲痛なフェルディナンドの声も、エミリーの耳には入らない。夢物語が現実と成って存在している事実に、エミリーは先導者を見据えた。

 苦痛しか生まない体を呪い、自暴自棄になりそうだった。そんな自分を叱責し、如何に大切で必要なのかを切々と説うてくれたのがフェルディナンドだ。一番の理解者を失う恐怖、そして「Anotere world」に対する憧れは日を追うごとに強くなっていった。

【光は今日返事を聞きにくると言っていました】

 フェルディナンドが笑いながら話す言葉に、エミリーの心臓は早鐘の様に高鳴る。

『爺やが居なくなってしまったら……Anotere worldに行く事が出来たら、エンダに成れたら』

 そう思うと居ても立ってもいられなくなり、悲鳴を上げる体を引きずって、何とかこの部屋を訪れたのだ。


【私も、私もその世界に連れて行って!】

 その絞り出された言葉に、フェルディナンドは驚愕した。よもや本気でそんな事を所望されていたとは、考えてもいなかったのだ。いや、考えないようにしていた。

【いけません! お嬢様。わたくしは何処にも行きません。そのような事を羨望されては、旦那様も奥様も悲しまれます!】

 自分の体が限界に来ている事は、エミリー自身が誰よりも分かっている。病に抵抗出来る時間は、あと僅かしか残されていない。エミリーはグラリと床に倒れこんだ。

【エミリー様!!】

 フェルディナンドが、足をもつれさせながら必死で駆け寄った。この少女にはもう倒れた身体を起こす力も残っていない。抱き抱えたその体は驚くほど軽く、このまま折れてしまいそうだ。その不自由な体に、エミリーは無意識に涙を流す。

【爺や……私はまだ死にたくない。私の存在が意味のないものだったなんて思って死にたくないの】

 止めどなく流れる涙を拭うことも出来ない、か弱き命に、フェルディナンドの鼓動がドクンと跳ねた。切なる声が、正気のない頬に流れる涙に胸が締め付けられる。

【何を! お嬢様こそが、旦那様や奥様の生きる希望なのですぞ。その様な事を申されてはなりません!】

『一人娘を病で失う恐怖に、毎日涙を流されている奥様、気丈に振舞われているが、仕事に没頭する事で悲しみから逃れようとなさる旦那様……お二人の苦悩は図り知れません!』

 しかし、エミリーの「死にたくない」その言葉に、心が強く揺さぶられる自分が居る。無意識に考えない様にしていたエミリーの死を、今更ながらに痛感した瞬間だった。

【ごめんなさい。でも、もう嫌なの……。この動かない体も、一人きりの時間も、何もかも、もう嫌……。死にたくない。お願い……爺や……連れて行って】

 エミリーの青白い顔に、フェルディナンドの心は、今や様々な想いが入り乱れていた。どうするべきなのか、なんと言えばいいのか自棄に思考が曖昧になって判断がつかない。

『馬鹿な!! 獣を狩るなどとそんな世界にお嬢様をお連れする訳にはいかない。もとより旦那様方の気持ちを考えると、悩むべき所ではないぞ』

 頭では重々理解して居る事だ。しかし……と心がざわつく。

【こんなに若いのに、こんなに優しい聡い子なのに、世界を何も知らず、今にも命が終わろうとしている……】

 仕える立場ではあったが、生まれた時から孫のように想っていた。幸せになってほしい、何とか病に打ち勝ってほしい、そう願わない日は無い。それなのに、半年は持たないかもしれない……そう医者から先日告知をされたばかりだ。

『お嬢様は、生まれた時から不自由な体で、一生の殆どをベッドの上で過ごされている。何一つ人間らしい事も出来ず、友達もおらず、このまま命が尽きるのをベッドの上で待つだけだとは、それではあまりにも不憫ではないのか』

 


「わたくしは、仕える者として……いえ、人として許されない事をしてしまったのです」

 今やフェルディナンドは、苦悩に顔を歪め、曇った瞳でエミリーを見ている。当の本人は、何かの話で盛り上がっているのか、豪快に笑う姿がそこにはあった。

「爺さん……」


 

【お嬢様が御一緒ならば……参りましょう】


 

 元は様々な意味で驚いた。知り合い同士でこの世界に来た人間を初めて見たし、フェルディナンドはエミリーの為だけに、あの扉を開けたのだという。

「そのように、申し上げました」

「光(せんどうしゃ)はなんて?」

「光(せんどうしゃ)は……」


 

【それは認められない。苛酷かつ残酷な世界なのだ。何度も話したが、エンダの役割は獣を倒し世界の民を救う事だ。お前がその娘を大切に思うのならば、この世界で人間としての生を全うさせてやるべきだろう。そうするべきだったと、後悔する日が必ず来る】

 一切の感情を排除したその物言いに、フェルディナンドはエミリーを支えながら涙ながらに訴えた。

【わたくしが、わたくしがお守り致します。お願いです! お願いですから!】


 

「そして、わたくしとお嬢様は肉体から精神が離され、この世界に来たのでございます」

 その地の底から絞り出すような声だった。

「……あいつは、今、幸せそうだけど」

 フェルディナンドの苦渋の選択と、エミリーが生まれながらに受けてきた苦痛を思うと、こんな気休めしか言葉に出ない。エミリーだけを思えば、最善の選択だったと応えてやりたかった。しかし元は、どうしてもフェルディナンドの手前、言葉に出来なかった。

「そうですね。しかし、わたくしの一時の同情心から、お嬢様をこんな修羅の道に引きずり込んでしまいました。あの世界に居れば、無垢な魂のままでいられましたのに。

 あんな極限の状態で、お嬢様が下された判断を正して差し上げるべきだったのです。……そして何より、あんなにエミリー様を愛されていた旦那様方から、永遠に奪ってしまった。この大罪を神はお許しにはなられないでしょう」

 そう言葉を締めて、フェルディナンドは胸の中心で十字を切った。

「爺さん……」

 どれ程考えてもフェルディナンドをフォローする言葉が見つからない。何を言っても思考を蝕む苦悩は解消されないと思うのだ。エミリーは、それこそ第二の人生を謳歌しているように見える。しかしフェルディナンドが抱える苦悩は、もっと根が深い。

「うぅ。何て言えば。あいつが望んだ事だ? ここまで来て何言ってんだ? いやいや、違う~。そんなこたぁ、爺さんが一番良く分かってんだ」

 元はフェルディナンドの隣で、思考が口から零れ落ちていた。元が真剣に悩んで考えている姿に、小さく頭を下げて、

『ありがとうございます』

 そう心の中で、声に成らない礼を述べた。

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