第3章 Another world‐6

 ハルが介抱されていた部屋は、旅人が利用する宿の一室だった。宿は大きな町へ続く道の沿いにあり客は多く、いたる場所から人々の笑い声が響いていた。基本エンダは宿を拠点として世界を渡り歩いているという。

「エンダは一箇所に留まれねぇから」

『元の言葉は、どのような意味を持つのだろう……』

 そう言葉にする元の表情は、読み取れない感情を含んでいた。ハルの体調が万全ではない為、込み入った話は敢えて避けた。

「精神的なのも回復に影響が出ちまうからな」


 宿の周辺は木々が切れる場所で、湖には暖かな日差しが降り注ぐ何とも穏やかな場所だ。宿の周りには、小さな花が咲き乱れ、鳥がさえずり、時々魚が水面を跳ねる音が聞こえてくる。

「灰色の世界かと思っていた……」

 自分が数日前まで置かれていた現状を思えば、この世界の何と美しい事か。しかし、今のハルにとって、空気もそして生き物ですら、何もかもが常識では図れない。

「……」

 背後の只ならぬ殺気を感じてグルリと振り返った。

「これだけは、慣れそうにもないな……」

 宿から少し離れた、見晴らしの良い場所に繋がれている獣……名をギヴソンという。四肢を鎖で繋がれてもなお、暴れているのだろう。獣の周りは、無残にも地表が露わになっている。元に近寄るなと言われている獣は、先程からハルに全神経を集中させている。大人しくしているように見えるが、滝のように流れている涎、奥底に怪しく赤く光る眼を見る限りでは、この獣が人間をどのような対象にしているか手に取るようだ。

「でも、本当に異質なのは自分自身か……」

 そう失笑を含みながら、自身の体に視線を移した。目に映った枯れ木の様な身体に、思わず笑いすら出てしまう。荒野を彷徨い続けたせいなのか、この世界に来たばかりの「低スキル者」だからなのか、いつ折れてもおかしくない程の骨と皮だけの体。ましてや、身長が二十cm程縮んだように感じる。身長だけではない。痩せているという次元を超えて、日本風の平たい顔が深い彫を湛えている。また髪の毛も腰程の長さになり、細い黒髪が柔らかい少しシルバーが入った栗色となっていた。

『全くの別人だ。気持ち悪い……。これには、何の意味があるんだろう』

 そう小枝の様に細く伸びた掌を見ながら、グッと握り締めた。その時、

「ちぇ、あいつら煩くて寝てらんねぇや。エンダになったばかりで、浮かれてやがる。……おいっ、あんま無理すんな? 万全じゃないと疲れるからな。ここは」

 元が不機嫌そうに宿から出てきた。その途端、獰猛な獣から発せられる殺気が、少しばかり小さくなった様に感じた。

『あんな獣を従えるなんて、一体どれ位強いのだろう』

 そんな事をぼんやり考えていたハルに向かって、タロが走り寄ってきた。スルルと体を上がり、頬に体を摺り寄せてくる。

「タロ」

 タロの陽だまりのような匂いだ。過酷な荒野とは、真逆の存在に、ハルは何とも言えない安堵感を覚えるのだった。しかし次の瞬間には、声を押し殺して呟いた。

「寝てばかりもいられない。早く体力をつけて……「始まりの地」に行かなければ」

 元に応えたつもりはなかった。動かない自分自身に言ったのだ。この動かない体が何とも歯がゆい。いつまで経っても回復しない体力に、辟易しながら瞳を閉じた。

『こんな場所で、のんびりしている場合じゃないのに……!』

 元は元で目前の頑固な女に深い溜息を吐く。枯れ木の様な細い身体で無理をする姿は、見ていて忍びない。しかし何度言い聞かせても大人しく休んでくれないのだ。低スキルの人間にとって、体力の低下は死に直結してしまう。この体にまとわりつく膜が、否応なしに体力を削げ、エンダを死に追いやってしまうのだ。

「……ま、いいけどね。俺もここではやることねぇし。もう少し付き合ってやらぁ。……タロの野郎も、お前に慣れてやがるしな」

「申し訳ない……」

 不機嫌な元の言葉に、ハルは本心から謝罪した。一見ぶっきらぼうに見えるが、面倒味の良い男だ。

『元には、本当に感謝している。行き倒れていた自分を助けてくれただけではない。体力が回復するまで面倒を見てくれている……』

「早く体力を回復させて出て行くから」

 元は頭を掻きながら、んな事言ってんじゃねぇよ、と口を尖らせた。体調の優れない相手を投げ出すつもりなど毛頭ない。居心地が悪い状況を誤魔化す様に、足元の地面をガツガツと踵で掘る。そろりと上げた目線の先に、自分を見据えるタロの視線が刺す様に見えた。

「ちっ、恨めしそうに見てんじゃねー。何だよ、俺正しいんだぜ? 何かあったら困んの自分なのにさ。たく、俺は間違った事、言ってなくねぇ?」

 認めたくはないが、どうもタロは出会ったばかりのハルを気に入ったらしい……それがまた、元には恨めしいやら羨ましいやらで、プィと顔を背けるのだった。

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