第1章 ありし日-2

 パスタ専門店のお昼時に、沙織は皿をつつくと侮蔑の表情を浮かべていた。

「部長が朝の会議から戻ってきたのを気付かずに、怒鳴り散らしていたんでしょう? 本当に自業自得だわ。流石、管理部長、分かってるわね」

 魚介類のパスタをパクリと頬張り、口をモグモグさせる。同じ会社で働く女性、沙織はきっぱりと言い放った。

 営業の前線で戦う沙織は強かで明るく、会社で一際目立つ存在だ。ハルは経理課に所属しているが、システム化されている現在では、営業の彼女とは接点はほぼ皆無だった。会社の誰もが知っている有名人位の認識で、違う世界の人……そう思っていた位だ。しかし廊下ですれ違いざまに、

「ねぇ、一度飲みに行かない?」

 突然、彼女から声を掛けられた。端正な顔立ちの沙織からは想像も出来ない程の毒舌は、飲み始めて五分足らずで全開になり、その竹を割ったような性格に、二人が仲良くなるのに時間は然程掛からなかった。

【偶々お昼に帰って来られたから、一緒にランチに行こうよ~。今日お弁当の日じゃないよね?】

 今日も十一時を過ぎた時間に、沙織から一通のメールが送られてきたのだ。課長から不当な扱いを受けた日は、どこからか聞き付け、声を掛けてくれる。ハルには、それが単純に嬉しく、心強くもあった。

『沙織が居なかったら、とっくの昔に会社辞めていたかも』

 そう感謝をしない日はない。沙織は尚も言葉を繋ぐ。

「本当に良かったわ。あの横柄ぶりが部長の目に留まって」

 沙織の気遣う発言に、ハルは複雑そうな表情を浮かべて視線を落とした。

「そんな事ないよ。これからは部長に隠れてやるに決まっているもん。失敗したなぁ。部長に確認したのが間違いだったかも」

 早速ネチネチと小言を言われたばかりだ。中々テンションが上がらないハルに、沙織の励ましは続く。

「だってさぁ、両面でコピーしていても、絶対片面だったって言うよ。二百部、会社の経費を何だと思っているんだ! 非生産部門のくせに、分かっているのか!? ってね。絶対にハルを陥れようとしているんだもん。自分が一番非生産人間だっつーの。毎日仕事もせずに、パワハラしているような奴に言われたくないよね。労組に訴えなよ。あいつ、全員から嫌われているからさ、絶対失脚するって。だいたい何なの? ハルにだけ雑用言いつけちゃって……アー思い出しただけでも、あの禿げニキビ、ムカつく」

 苦々しく放たれる忌憚ない言葉に、堪らなくハルは噴き出した。

「陥れか……そうだろうな。一年間、ずっとあんな感じだよね。でも、会社の対応は変わらないよ。私の上司である事は、今後も変わらない。労組も駄目。会社に居られなくなったら困るもん」

 覇気の無い声に沙織は心配そうな表情を浮かべ、『どうしたものかしら』そう溜め息を吐く。不条理な課長の行動は、日に日に目に余るものとなり、会社でも噂される程エスカレートしているのだ。

『何で会社が容認しているのか、理解できない。はぁ、何でよりによってハルの部署にあんなのが。うちでは珍しく中途入社な上に、一年前に採用されて数か月で課長だなんて。ハル……大丈夫かな』

「ハル、無理しちゃ駄目だよ。会社は経理課だけじゃないからね、最悪異動も有りだからね」

 向けられた優しい言葉に、ハルはコクコクと頷くと、パクリとパスタを頬張った。


 

 ハルは浴室の天井をジッと見据えた。髪から水滴がポトリと落ちる。

「最近、輪を掛けて執拗だし……ホントにやだ」

 そこまで呟くと、またブクブクと水面に顔を沈めた。

「……駄目だよ、私はここを守るんだ。絶対に会社を辞める訳にはいかないの」

 その呟きは、湯船に溶けて消える。お湯をそっとすくい上げると、小さな溜息を落とした。


 濡れた髪をタオルで押さえ、ハルは洗面台のドアを開けた。美味しそうな匂いに、ホッと一息を付く。

 ここから見える母親は、温めた鍋から煮魚をよそっている。テーブルには、所狭しと手料理が並び、温かな湯気を立てていた。

『幸せだなぁ』

 ハルは暫しタオルを口に当てながら、その光景に見入っていた。


 母が作る料理は、少ない生活費をやりくりしながらのクオリティの高さだ。何品も並ぶテーブルに視線を落として、ハルは毎度唸り声を上げた。

「すっご~い、超、超! 美味しそう~。お母さん、超天才!」

 そう言いながら、パクリと里芋の煮ころがしを頬張る。里芋の甘さと醤油の塩気が合間見合って、口の中にじゅんわりと煮汁が広がった。

「うわ、美味しい〜。私じゃ、こうはいかないもん。お母さんの子供で良かった〜」

 頬に手を当てて、堪らんと言わんばかりの表情を浮かべる我が子に、母親は「大げさねぇ」そう言いながら微笑んだ。仕事で遅くなる日が多い日々。先に食事を済ませる様に言っても、何時になろうと待っていてくれる母だった。

「ハルの料理の腕も、悪くないわよ。ねぇ、そういえば仕事は大丈夫なの?」

 母の言葉に内心心臓が跳ねながらも、とぼけた表情を浮かべ、鳥の笹身の酢和えを口にする。

「へ? 何、どうして?」

「だって、最近毎日遅いじゃないの。必ず九時以降なんだもの」

「何言ってんのぉ。それ位、常識の範疇だって。全然、私なんて早い方なんだから~。それに私は恵まれている方! 家の事、全部お母さんがやってくれてるんだもん。一人暮らしの同僚なんて、ホントに羨ましがってるよ」

 母親の言葉にプッとハルは吹き出してみせた。そうなの? そんな表情を浮かべる母親に、ハルは言葉を繋げる。

「昔のお母さんに比べたら、全然だよ。朝何時だった? 五時前には、弁当屋と新聞配達だったじゃん。んで、会社で事務勤めして、夜は居酒屋でバイト。夜の十時まで働いていて、もういつ寝てたのって感じだったじゃん」

 昔を思い出してニッコリと笑う。ハルの母親は、世間で言う【働かない駄目な夫】を地で行く男の為に、苦労を重ねて来た人だった。幼い時の記憶の母は、一日中働いている思い出しかない。



 帰宅時間が遅い母親の帰りを、ハルは小さいアパートの塀の前にうずくまりいつも待っていた。どんなに寒くても、天気が悪くても、父親と同じ部屋に居る苦痛に比べたら幾分もマシだったからだ。

【あ、ハル!! 危ないから家の中に居るように言っているのに】

 小さい我が子の姿を見つけ母親が駆け寄った。冷たくなったハルの頬に掌を乗せると、涙の後に気付きボソリと呟く。

【お父さん、また暴れたの?】

 ハルは恐ろしさから声が出ず小さく頷いた。父親は酒癖が悪く、事ある毎にな暴力を奮う男であった。アパートの一室から何かが割れる音が響き、ハルがビクリと身体を揺らす。母親は目線を上げ小さい溜息を吐いたが、ハルの小さい手を取ると、優しい声で言った。

【ハル、こっちにおいで】

 母親はアパートの階段に腰を下ろした。膝にハルを乗せて薄いコートで包み込むと、ギュッと抱きしめる。ハルは母親の温もりを肌で感じ、身体の緊張が解けるのが分かった。

【温かいね】

 娘の言葉に、母親は力を込めて抱き締めた。

【お母さん、お唄歌って】

 ハルの小さな願いに、母親は消え入りそうな声で唄を紡ぐ。そうしてハルは、優しい匂いに包まれながら、やっと得られた安息の場所で、急激に眠りに落ちて行く。コクリコクリとうたた寝を始めた娘の姿に、

【ごめんね、ハル……】

 そう呟く母親の声を遠くに聞きながら、深い眠りにつくのだった。



『あの直後からだよね。パート先に私を連れて行ってくれるようになったのって』 

 絶え間なく注がれる愛情を受け、ハルは父の事だけが悩みの種で済んでいた。飲んでは暴力を振るう父親から、いつも守ってくれた母の姿に、

『無償の愛……母から受けたこの愛で、私はこの世界で生きる事が出来ている』

 そう思うと、母には感謝してもしきれないのだ。その父親が数年前に病気で亡くなった時には、安堵の息を人知れず吐いた。

『こんな事お母さんには絶対に言えないけど……あいつが作る借金に、お母さん、苦労しっぱなしだったもんね。女の所に入り浸って、家には帰らないくせに借金だけお母さんに押し付けて。やっと、やっと普通の生活が出来る様になったもん……』

「ハル?」

 母親の声に、ハッと我に返ったハルはニッコリと笑った。

「私の事よりもお母さんの人生なんだからね。お金はあまりないけど、やりたい事してよね」

 パクリとご飯を口にしながらそんな言葉を繋ぐ。母親には、これからの人生を心穏やかに暮らしてほしい、そう思わない日はない。

「今までも自分の為に生きてきたわよ」

 ハルの言葉に、そっとそう笑った。


「せっかく家も買ったんだもん! 今が頑張り時だしね!」

 ハルは、グルリと自分達の城を見渡し弾けるような声を発した。ローン二五年、金利が安い時代とはいえ、ボーナス時期には倍返済、固定資産税も結構な額に上る。正直な所、残業代が付く会社で有り難い。

「本当に無理していない? こんな立派な家に住めるのは嬉しいけど……」

「全~然。それに、家賃を払い続ける事を考えたら、絶対持家が得だって。私今二十五でしょう? 返済が終わるのが五十歳、今が買いだよ。金利も安いし」

「でも貴方、結婚する時困るでしょう? モテナイわよ、家持ちの女なんて」

 母親の口から「モテナイ」などという言葉を聞くとは思っていなかったハルは、ブッと口に含んだお茶を噴き出した。家を買う時からハルの結婚の足枷になるのではないかと、事あるごとに心配する母親に何度も説得を重ねる。

「だ~か~ら~、言っているでしょう? 絶対入り婿だって。何の為に、二LDKのマンションを買ったって思ってんの? それ以外考えてないもん。お母さんと一緒に私をもらってくれる人じゃないと、願い下げ!! それ絶対だから」

 結婚が女の幸せだと言えないが、娘には幸せになってほしい母親は、小さな溜息を吐く。

「お母さんの事は大丈夫だから。年金もあるし、少しだけどパート収入もあるもの」

「その年金も収入もあいつのせいで、全て借金で消えているじゃない」

 ボソリと呟いた声を戒める様に、ジッと母親は視線を投げかける。あいつとは言わずと知れた父親だ。母親を苦しめていた父親の事を、ハルは断固として「お父さん」と呼ばない。正直一度も「父親」などと思った事がなかった。母親の視線を受けて、ハルは口を尖らせたが、

「ごめん。死んだ人の悪口は言わない約束だったね」

 そう謝罪の言葉を口にすると、小さく頭を下げた。ハルは心配症の母親に安心させるように言葉を繋ぐ。

「お母さん、大丈夫。心配しないで。将来の事はちゃんと考えているから。仕事だってこの上なく良好よ。帰宅が遅いのも期待されている証拠なの」

 にっこりと笑うハルにつられる様に、母親もようやく安堵の表情を浮かべる。それから二人は、初めてこのマンションで迎えるクリスマスやお正月の話しに花を咲かせるのだった。

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