#72 スカーレット色の空

 街の一角にたどり着いたときにはすでに赤髪の青年だった肉塊はズタズタになってモルタルの壁際に転がっていた。クロエの手からリシュカの指がするりと抜け落ちた。両の手で口を覆いながらリシュカは数歩後ずさった。二人に気づいた老スカベンジャーが爪で白髪をぼりぼりと掻きながら口を開く。

 ……いやー、すまんね。止めようとしたんだがちっとばかし遅かった。

 クロエとリシュカが呆然と突っ立っている間にも虐殺は続いていた。火を噴いた散弾槍が建物の壁面をぶち破り瓦礫と血と臓物が一緒くたになって路上に散らばった。まるで巨大なテーブルを引っ繰り返して食器とメインディッシュをぶちまけたみたいに。クロエはリシュカをかばうようにして下がらせた。時折くぐもった銃声が重病患者の末期の吐息のように這い出てきた。赤服のスカベンジャー達は地下室も念入りに掃討しているらしかった。どこに隠れようとも再生機であぶり出され散弾槍で血煙に変えられる運命。赤髪の青年には連れが二人いたはずだがすでに原型を留めていないのは明らかだった。クロエの隣でリシュカが体勢を崩し地面に両膝をついた。


 ――やあ君達。危ないぞこんなところまで来ちゃ。

 ハーゲンが深黒の瞳を丸くしてクロエの肩を叩いてきた。真新しい緑の外套には血が点々と付着しており森林に咲いた紅い花の様相だった。これかい、とハーゲンが血痕を指して云った。

 連中の血じゃない。うちの若いのが一人やられた。油断していたようだ。

 殺戮が行われているのとは反対の路上の車の影で緑服のスカベンジャー達があれこれと話していた。足元には一人の若者がたおれていた。右目のすぐ上に赤黒い穴が空いており血がゆるゆると流れていた。射出口となる後頭部が熟れたザクロのように割れており飛び散った脳漿のうしょうが弾丸の威力の大きさを物語っている。


 ハーゲンは力なく笑った。いやはや失態だ。屋上から狙撃されたんだよ。連中も待ち構えていたらしい。赤服がいち早く気づいて仕留めてくれたんだが間に合わなかった。

 再生機を使わんからだ。老スカベンジャーは云った。まぁ、――頼りきりもいかんがね。

 使えば最後、我々の活動意義がなくなります。

 意義どころか全滅して存在そのものがなくなるぞ。お前さん以外で三年以上生き残った奴を見たことない。

 ハーゲンは突撃銃の弾倉に弾薬を一発ずつ手で込めながら今日の天気の話でもするかのような調子で答えた。

 ……ありがたいことに志願者は多い。赤服の諸兄とは違ってこちらの方が組織としては長生きするでしょう。

 相変わらず食えん奴だよお前さん。

 あなたがそれを云いますか。


 二人は笑い合った。その間に軍用トラックが一台やってきた。一服していた緑服のスカベンジャー達が立ち上がり緑の外套を脱いで汚れた前掛けを身につけた。そして路上に散らばる死体や肉片を丁寧に荷台へ積み込み始めた。頭の向きを揃えて一段並べ終えると次の段は頭と足の向きを前後逆にして列を整えていった。まるで缶詰めにパッキングされていく魚の油漬けのようだった。その手際の好さから彼らがこうした作業に手慣れていることは明らかだった。


 業務を眺めながら老人とハーゲンは煙草を一本ずつ交換して風味の違いを楽しんでいた。

 ――連中の死体、お前さん達がみんな持っていっちまうのかい。

 禿鷲の餌にするくらいならその方が人びとのためになりますよ。なんせこちらは犠牲を払ったのです。

 片付けたのは私らじゃないか。散弾槍の弾代も再生機の充填もバカにならんというのに。

 お連れの鳥さんが死体を貪り喰ってるさまを野次馬に見せるのですか。ますますこの街に居づらくなるでしょう。

 それはそうさな。

 連中の武器や装備には興味ありません。すべて喜んで差し上げます。

 うーむ……。


 すでに銃声も悲鳴も止んでおり街の住民が集まってきていた。戦中戦後の生活を味わった彼らは死体の山に眉ひとつひそめることはなかったがスカベンジャーに向ける視線の険しさは違った。

 老人は煙草の煙に溜め息を溶かして口から吐き出した。そして上空を旋回する猛禽を見上げた。……やれやれ。寝ている間に連中に目玉を喰われんといいがなぁ。


   □


 赤髪の青年だった肉塊にも手が付けられたときリシュカがようやく我に返った。青年の死体はバッグを大切に抱え込んでいた。リシュカが盗まれたものだった。ああ、という呻き声とも嗚咽ともつかない声が少女の口からまろび出た。

 ――その青年は運が悪かった。ハーゲンは背筋を心なしか伸ばして云った。そのバッグを持って入り口から出てきたところに我々が到着したんだ。私は制止しようとしたがその時には赤服の奴らが引き金を引いていた。交渉もクソもない、――本当に性急で野蛮なやり方だ。

 クロエは軍用トラックとハーゲンの顔を交互に眺めた。そして訊ねた。

 彼の、――いえ彼らのご遺体をどうするのですか。

 持ち帰って畑の堆肥にするんだ。

 …………え?

 ハーゲンは旅行先の物産店で土産物でも選定するかのような口調でそう云った。

 これは我々なりの弔いなんだ。やられた仲間も例外ではない。家族が花を手向けたあとは例外なく大地に還る。じゃないとこの汚染された世界で新鮮な作物を育てることはできないんだ。化学肥料を浴びるほど造ってくれた便利な工場はもうどこにもないからね。

 …………。

 堆肥にすると云っても単に砕いて土に埋めるだけじゃないぞ。麦わらや木材のチップ、マメ科の草で覆ってから撹拌させつつ丸一ヶ月かけて骨まで分解するんだ。機会があれば君も見学に来るといい。――出来上がったばかりの肥沃な土を見せてやりたいよ。真っ黒くて大地の香りがする。元が血にまみれた遺骸とは思えないほどだ。


 ハーゲンはクロエの沈黙を興味津々と解釈したようで遺体の分解という自然界の奇蹟について機関銃のように語り続けた。その間もリシュカは青年の亡骸を引き渡すまいと緑服のスカベンジャーの若者に蹴りを見舞っていた。ハーゲンは一悶着持ち上がっていることに気づいていない。


 ……実は少し前に上客を一人喪ってね。戦前からタイムスリップしてきたみたいな老紳士だった。変人ではあるが礼儀正しくて中々感じの好い御仁だったよ。だが昔の従業員に撃たれて死んだそうだ。モーテルを改築して在りし日のような宿泊場に変えようとする計画の矢先だったらしい。金持ちの考えることはよく――


 リシュカが特大のバールを持ち出して緑服に襲いかかろうとしているのがようやく視界に入ってハーゲンは駆け出した。目にも留まらぬ速さで二人の間に割り込むとバールを握りしめたリシュカの手首をつかんでみせた。そして信じられないことにそのまま片腕の力だけで少女の身体を持ち上げてしまった。少女の顔が苦痛に歪み紅梅色の髪が振り乱された。

 り、――リシュカさん!

 クロエは駆け寄ろうとしたが別の緑服に行く手を遮られる。

 くそ、ああもう、――なんであたしの周りの女は揃いも揃って馬鹿力なんだっ。

 中空で暴れるリシュカをハーゲンは涼しい顔で制した。

 困るよ。実に困る。君を撃ちたくはないんだ。分かってくれ。

 分かってたまるか人殺し!

 赤服の連中と一緒にしないでくれ。我々はできることなら平和裡に――。

 あんたらも十分に狂ってる! リシュカは喚いた。禿鷲を引き連れないから何? 散弾槍を持たないからって何よ。――あんたらだって人の命を最後の血の一滴まで喰い物にしてるのは一緒じゃない!

 …………それは侮辱か。挑戦と受け取ってもいいのか。

 解釈はどうぞご自由にっ。

 結構。


 ハーゲンの手に力がこもり少女の指が酸素を求めるかのように痙攣しながら開いた。バールが地面に音を立てて落下する。クロエは若者の腕をすり抜けて駆け寄りハーゲンに体当たりをかましたがビクともしない。


 ……――その辺にしておきなさい。

 煙草を吸いながら成り行きを見守っていた老スカベンジャーが制止に入った。

 離してやってはくれんかね。そこのお嬢さん達には後で金をもらう約束になってる。

 おいジジイっ、あたしはあんたに何も頼んでない!

 お前さんは黙っときなさい。――とにかく解放してやっとくれ。もう邪魔はさせんよ。


 ハーゲンはふむ、とうなずいてリシュカを放した。握られていた少女の手首は青黒く染まっていた。クロエが跪いて手当てをしている間に赤髪の青年の死体はトラックの荷台に積み込まれてしまい他の肉塊と見分けがつかなくなった。黒々とした排気ガスを火葬の煙のように空へ溶かしながら車輌は走り去った。

 クロエの隣でリシュカはバッグを握りしめながら震えていた。遠ざかっていくトラックには見向きもせず。青年の血で真っ赤に染まったバッグを抱きしめ続けていた。


 仕事を終えて建物から出てきた赤服のスカベンジャー達が真紅に濡れた外套を陽の光にさらすと野次馬の人びとは潮が引くように散り始めた。彼らはスキットルに詰めた酒や紙巻き煙草を美味そうに味わいながらうずくまった少女二人に視線を落とした。

 何があったんだ?

 赤服の質問に老スカベンジャーが答える。

 感受性の豊かさが招いた悲劇だよ。

 俺達にもそんな時分があったな。

 ああ。老人は笑った。懐かしいね。


   □


 大聖堂の身廊に並べられた長椅子にリシュカは座っていた。子猫のように背を丸め唇は微かに開いている。時折天井の聖画に視線を向ける。絵が在りし日の色彩を保っているかのように夢中で。クロエは掃除を続けながらも目を配っていた。もう三日もその調子だった。右の手首にはまるでリストカット痕を隠すかのように包帯が巻かれており目の下の隈と相まって痛々しかった。ようやく取り戻したバッグを抱えていた。卵でも温めているかのように片時も手放さない。


   □


 ハーゲンから聞いた話では赤髪の青年は撃たれる前にバッグをかばうように半身をひねったという。

 ――あの瞬時にあれほどの身のこなしを見せたのは達者だったな、と彼女は顎先に親指を当てて云った。普通なら訳も分からず突っ立ったまま穴だらけにされているところだ。

 散弾槍の銃撃を受けたにもかかわらずバッグは無傷で残った。べっとりと付着した血糊を別にすれば。


 別れ際にハーゲンはクロエの肩に手を置いた。そして云った。また会おう、――なんて言葉は贅沢だ。でもなるべく死なないでくれたまえ。私は君が気に入った。

 クロエは何とも返事ができなかった。

 機会があれば我々のコミューンに遊びに来てくれ。そうすれば納得はせずとも理解はしてもらえるはずだ。

 何をですか。

 我々の足掻きを。

 あがき……。

 女性スカベンジャーはうなずく。

 旧世代の言葉で飾り立てるつもりはない。理念だとか。理想だとか……。砲弾の破片ひとつで吹き飛ぶような脆い想念だ。せいぜいが足掻きであるのは承知している。でもっておいてもらいたい。少なくとも我々は何かをやろうとしているんだ。


 その場にいた赤服の何人かは彼女の言葉に耳を傾けていた。一人は吸い終えた煙草を投げ捨てて足で踏み消した。また一人は単に鼻でわらった。老スカベンジャーは杖代わりに突き立てた散弾槍にもたれかかったまま沈黙していた。


 緑服のスカベンジャー達はそうして街から去った。さらに東へと向かい現地を視察するために。死体を満載にしたトラックは西へと進路を戻し交代に別の軍用車が彼女らの後を追いかけていった。その荷台は空っぽだった。クロエは車輌が遠ざかっていくのを見送った。荷台の空白が目に焼きついた。そこに意味さえ見い出せるならば何もない空間にさえも質量が宿ることをクロエは初めて知った。今の時代を生きるあらゆる人びとの沈黙と同じように。


   □


 少し、――お話があります。

 クロエは老スカベンジャーに向かってそう伝えた。彼は外出から大聖堂に戻ってきたばかりだった。空は魔鉱嵐のためにスカーレット色に染まっているという。昔を思い出すよと彼は云った。戦後しばらくは青空が一年中見えない年だってあったんだ。たとえ食糧と水を充分に蓄えていたってあの空を一秒も見たくないなんて理由で自殺した奴は大勢いたことだろう。

 そのまま独演会に雪崩れ込もうとしたところをクロエは遮ったのだ。

 すみません司教さん、少し抜けます。

 ああ好きにするといい。元司教の男は善き本から顔を上げてそう云った。大変な目に遭ったんだ。無理をすることはない。


 身廊を離れ僧房に続く廊下でクロエは老人と向き合った。飄々とした笑みは崩していないが目は笑っていなかった。この人は戦争が終わってから一度でも心から笑ったことはあるのだろうかとクロエは思った。なんだね、と彼は云ったのでクロエは深呼吸して口を開いた。


 リシュカさんのことです。あなたはいったい、――彼女をどうするつもりなんですか。

 どうするもこうも。老人は指で顎鬚をつまむ。私があの子に何をする必要がある。

 私はっ、――……申し訳ありませんがあなたを疑っています。あの優しい方がバッグを手に現れたとき本当にあなたは他の方々を止めようとしたのですか?

 ああ。正確には一言話し終える前に連中はぶっ放していた。屋上からの狙撃さ。それで緑服も一人死んだ。目を戻したときにはあの可哀想な赤毛も挽き肉になってた。


 クロエは右手で口元を押さえた。現場にいたときは何事もなかったのに今になって鉛の塊を頭に埋め込まれたかのような鈍痛が走った。

 大丈夫かい。見かねた老スカベンジャーが云う。下らないことを振り返っていないで今日は休んではどうかね。

 そうは、いきません。クロエは咳払いして胸を張る。始めからおかしかったのです。あなたはリシュカさんのバッグが盗まれるのを止めなかった。あの方を殺さないよう、――もっと云えばあれ以上の流血を避けるよう道中でお仲間に忠言することもできたはずです。その不作為が私には解せません。

 私はあのお嬢さんとは――。

 ――ええ仰りたいことは分かりますよ何の関係もないのに助ける義理はない何の得もないのに厄介ごとに口を挟みたくない何の思い入れもないのに赤の他人のために旧くからの仲間に物申したくはない。

 クロエはそこまでをひと息で云った。

 でも、――あまりに酷です。そうしたあらゆる不作為が世界を壊してしまったのではないですか。何か理由があるのですか。


 老人は顎鬚をなでながら一つ頷いた。

 強いて云うならその方が面白いことになりそうだからかな……。

 彼は淡々とそう呟いた。日頃使っている散歩道を気まぐれに外れてみたかのような軽やかさだった。

 クロエは口を何度か開いては閉じた。あなたは不道徳です、というお馴染みの台詞さえも浮かんで来なかった。面白い、という老人の言葉を繰り返すのが関の山だった。


 そうさね、――もう少し誠意をもって正確に答えるとだね。あのキンキン五月蝿うるさいお嬢さんがしつけを喰らった子犬みたいにしおらしくなる瞬間を見たかった。そういうことになる。

 そのために――、クロエは一歩踏み出して掠れた声で叫んだ。それだけのために・・・・・・・・人一人を見殺しにしたのですかっ?

 私にとってはそれだけの・・・・・価値があったんだよ。――いや我ながら酷いとは思うが本当にそうなんだ。――私は常々考えているんだがこの世に不変のものは何もないという真理はある意味では救いでもあるということだ。何事にも終わりがあるってことだからね。ご覧なさい。戦時中この街を舞台にどれだけの血が流されどれだけの悲鳴が木霊したことか。ところが今は無音だ。何もない。その静けさは何十年もかけてこの街が取り戻した原初の時代の静寂だ。私も今ではこの静けさが好きになった。あるいは人類はこのまま緩やかに滅びるのかもしれんが少なくともあの戦争・・・・は二度とやってこない。分かるかいシスターのお嬢さん。あれに比べればこの世には取り立てて騒ぎたてるような出来事など何もない。だからお前さんもそろそろ居所を定めて足掻くのは止めたほうがいい。――――せっかくの機会だ。好いものを見せてあげよう。


 老人はクロエの返事を待たずに再生機を起動した。普段は使用を渋っていたのが嘘のように機敏な動作だった。映像が映し出された途端に人の波が目の前に迫ってきたためクロエはその場に尻餅をついてしまった。人びとは彼女の身体をすり抜けて身廊へと走り去っていく。老人の再生機に使われている魔鉱石はアリサの持っているものよりも赤みがかった緑だった。そのため映し出される人びとの姿も紅葉の色に染まっている。


 今のは……?

 来なさい。

 老スカベンジャーはクロエの手首をつかんで立たせた。老体からは想像もつかない力で引っ張られ来た道を戻っていく。

 身廊では突然に再生機の映像を見せられたリシュカと司教が立ち上がって何事かと目を向けていた。司教は入ってきた老くず鉄拾いに詰め寄った。

 あなたは――。

 黙って見てな。懐かしいだろう。


 映像に映し出された人びとは多くが女性や老人、そして子供だった。何事かを叫びながら身廊から奥へと続く扉を凄まじい勢いで叩いている。百数十人はいようかという群衆の中で転んだ幼い子供が殺到する大人達に踏みつけられるのが見えた。しかし誰もそんなことは気にしなかった。老スカベンジャーは音声を切っていたがもし再生していたら耳をつんざく怒号や悲鳴が飛び交っているはずだった。

 騒動は唐突に終わった。人びとが何かに気づいたように一瞬振り返ったかと思うと光の奔流が身廊を覆い尽くした。一瞬の間を置いて全員の髪から服に至るまでに火が点いた。一人残らず。数人は即死してその場に斃れて焼かれていったが残りの人びとはそこまで幸運ではなかった。クロエやリシュカ、老人達が見守る中で人びとは生きたまま肺を焼かれていった。ある母親が自分の肉を焼く炎など気にもせずにのたうち回る我が子の火を消そうと腕を振り回していた。そうして人びとは折り重なって薪となり死んでいった。


 クロエの隣でうめき声がした。元司教の男がその場に跪いていた。何事かを繰り返し口にしていたが聞き取れない。

 老スカベンジャーは再生機をかざしながら云う。――これで分かるだろう。この司教さんは信者も同僚も見捨てて一人地下にこもって生き延びた。責めるつもりはない。誰だって同じ立場ならそうしたさ。

 クロエは無言で司教を見下ろした。それからぐつぐつと燃え立つ炎に視線を戻した。火は平等だった。彼らに与えられた使命はただ一つでありそれは目についた有機物を手当たり次第に分解していくことだった。

 頭の中でガンガンと音がした。今や脳そのものが鉛と化したかのように重かった。クロエはそばの柱に手を突いて身体を支えた。


 実はもうひとつあるんだ。老スカベンジャーは笑いながら云った。むしろこっちが本命だ。

 リシュカが口を挟む。あんた何を――。

 老人は無視した。再生機のダイヤルをいじり魔鉱石に特別に保存されている映像を呼び出した。今度は音声付きだった。映し出されたのは老人とスカベンジャーの少女アリサだった。ベランダらしき手すりのそばで二人は並び立って遠くを見ていた。


 映像の中の老人の声が身廊に反響する。

 ……聖職者だった父親が実は生きていて追い剥ぎになっていたと知ったらお前さんの依頼人はどう思うかね。

 あまり愉快な想像じゃないな。


 アリサの声。クロエにとっては懐かしい声だった。その声でアリサは続けて云った。

 ……依頼人からは遺骨や遺品の回収を頼まれてる。生きた父親・・・・・を連れてこいとは云われてない。

 まあそれが落としどころだろうな。


 映像は切り替わった。


 次に映った時にはアリサは成人男性の生首を手にしていた。そして老人から手渡されたのみと金槌を使って頭蓋骨に穴を空けると集まってきた禿鷲に喰わせ始めた。くず鉄拾いの少女は橋の欄干のそばにうずくまってクロエの父親の一部が空に還されていく過程を見守っていた。

 彼女は呟く。……私はやっぱり父さんのようにはなれないよ。

 老人は答える。ああ。なりたくてなれるような生き方じゃない。


 事が終わると彼女はナイフを取り出し頭蓋骨に貼り付いた皮を削ぎ落としてから全体を魔鉱石の炎で焼いた。それから土で汚してまるで数年前に焼け死んだ男の遺骨であるかのように細工した。出来を見てから形見のロザリオと共に頭蓋骨を布で包んでリュックに入れた。若者のスカベンジャーが合流して三人は立ち去った。血と脳漿、髪の毛の束が貼り付いた頭皮の欠片がその場に残された。


 映像はそこで終わった。


 再生機を外套の裏に戻した老人はクロエの顔を透明な瞳で見つめてきた。元司教の男も同じだった。リシュカは唇を震わせて何かを云おうとしていた。だが彼女が何かを云う前にクロエは身体をくの字に曲げて胃の中身を吐き戻していた。かびと煤で色褪せた敷物に吐瀉物が新たな汚れを追加した。


 ――クロエ、だいじょう――


 背中をさすろうとしてきたリシュカの腕を払いのけてクロエは立ち上がった。そして荒い呼吸を整えることなく背を向けて走り出した。聖堂の出口に向かって。振り返らずに。リシュカのすがるような声が背中に叩きつけられたが無視した。そしてスカーレット色の空の下へと飛び出した。

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