記憶の管理人
🌻さくらんぼ
第1話 事故
「アリッサ、逃げちゃダメだよ」
ポツリ、と口から言葉が溢れ落ちる。
赤いワンピースが、悲しそうにはためいていた。
「どんなに辛くても、逃げるのだけは、間違っているよ」
唸る風に踊る髪の毛の合間から、私は遠くを見つめる。
あの子が、この鍵を取りに戻ってくることを願いながら。
今や私の髪の毛は、深い絶望に浸したような黒だった。
「早く来て、アリッサ。私が消えてしまう前に」
こうやってしているうちにも、この場所は枯れていく……。
ワタシは、〈記憶の管理人〉。
あの子――アリッサの中で、体験した記憶と気持ちを繋げるのがワタシの仕事なのだ。
妖精のような存在だと思ってくれればいい。
数日前まで、ここはとても美しい場所だった。
色鮮やかな花が咲き乱れ、青い空に緑の木々が背伸びする。
そんな世界を、柔らかい日差しが、ベールのように包んでいた。
ワタシの髪の毛は、その日差しを吸い込んだかのような金色だ。
ふかふかの地面は、裸足であるワタシにとって、とても有り難い。
全て、アリッサが毎日幸せに過ごしていることの表れなのだ。
そしてこの場所の中心には、キラキラと輝く噴水がある。
この噴水は、今アリッサが感じている想いが溢れでているのだ。
つまり、この水は、彼女の気持ちなのである。
透明だったり、うっすらと色が付いていることがあるほか、温度なども微妙に違う。
彼女が何か体験するたびに芽が生えてきて、その芽に噴水から汲んだ気持ちの水を与える。
水面にはアリッサが見ているものの姿が映し出されるから、ワタシはいつもアリッサの見る世界をよくわかっていた。
成功すると、芽は伸び、蕾をつけて、最後には花を開く。
プラスな気持ちではない思い出も、花が開く頃にはアリッサの一部となって、彼女自身を救うのだ。
だから私はどんな辛い思い出でも、必ず育てた。
全ては、アリッサの未来のために。
花は、再び閉じることはあっても、消して枯れることはなかった。
記憶は忘れてしまっても、消えることなどないのだから。
――ないはずだった。
ワタシはその日、いつものように噴水の縁に座って水面を見ていた。
景色がスイスイと流れていく。アリッサは今、ついこの前買ってもらったばかりの自転車で、坂道を下っているようだ。
彼女が歩いたり、走ったり、自転車に乗ったりしているときは、水がうっすら七色に輝く。それだけアリッサは、楽しいのだ。
今日も同じだった。思わずワタシも嬉しくなる。
しかし、舗装された道は、スケートリンクのように滑らかで……。危険だった。
次の瞬間、アリッサの視界の右端から、黒い車が姿をあらわす。
慌ててブレーキをかけるが、自転車は止まらない。
車との距離がどんどんと狭まっていき……。
水面に大きく波紋が広がるのと同時に、突然全身に衝撃が走ってワタシは気絶した。
そして、次に目を覚ました時には、全てが変わり果てていたのだ。
木々は葉を失い、空は雲で覆われている。
太陽の光はぼんやりしていて、まるで無表情を向けられているかのようだった。
地面に咲いていたはずの
代わりにあるのは、冷たい雪のみだ。
噴水も、姿が見えない。
「どういうこと?」
ワタシはサクサクと音を立て、雪の道を進んだ。
裸足に雪の粒は冷たく鋭く容赦ないが、私はそれどころではなかった。
あの噴水が消えてしまったなど、あり得ない。
見間違えであってほしい。
ワタシはひたすら噴水を探した。
しかし、どこにもない。
その代わりに、一つの鍵を見つける。
持つ部分が手のひらほどもある、大きな鍵だ。
「これは……?」
鍵を拾い上げた瞬間、ゴゴゴゴ……と地面が揺れ出し、噴水が姿を現す。
私は喜びのあまり飛び跳ねようとしたが、噴水に水が流れていない事に気がつき、留まった。
「どうして?」
水が流れいないということは、アリッサは今、何も感じていない……?
でも、そんなことはあり得ない。
――アリッサに、意識がないということだろうか。
やはりあの後アリッサと車がぶつかって……。そんなこと、考えちゃダメだ!
ワタシは何かできることはないかと、噴水を観察した。
すると、鍵穴があるのを見つける。
「これって、この鍵にピッタリ」
今まで鍵が掛かっていたことなどなかったけれど、これで元に戻るかもしれない。
ところが、鍵は回らなかった。
「おかしいな」
首をかしげるワタシ。と、急に声をかけられた。
ここには、ワタシ以外に言葉を話せる者はいないはずなのに。
「あなたは、誰?」
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