Ep.41-2 舞台上の戦い(後編)

       ❆❆❆

  

 繭か、蛹のように絡めとられた如月葉月の身体を眺め、しぐれは一人、勝利の愉悦を噛み締めていた。もはや彼女は何もできない。真正面から止めの一撃を入れる前に、じっくりと戦果を確認しておくのもいいだろう。

 魅力的なアイデアに浮かれていたしぐれは、葉月の腕の中で刀身がきらめいたのに、僅かに、反応が送れた。

 結果として踏み出そうとした右半身だけが前へ出て、左半身は仰け反るようにして舞台の奥へと隠れた。

 それが、致命的なあだとなった。


 葉月は得物を逆手に持ち替え、渾身の力を込めて空中で身を捩ると、

 躊躇いもなく唯一の武器を、ずっと携えてきた日本刀を、舞台上のしぐれへと――――


 鋭い回転の加えられた刀剣は鮮やかに宙を走ると、しぐれの右膝の少し上にまず直撃し、それからすぐに、左膝にも。

 ほんの数瞬前まで体重を支えていた筈の支柱を失い、熟れた果実が弾けるように、朱鷺山しぐれは舞台の床へ投げ出された。


「え。あ、あぁ……?」

 間の抜けた声。

 何が起きたかも分からないまま、しぐれは呆然と下半身へ手を伸ばす。断ち切られた両足は壊れた玩具のように舞台の床を滑っていった。大腿骨は寸断され、輪切りにされて転がった足の断面には赤黒い血肉に交じって白い骨がのぞいている。切り口があまりにも鮮やかだからか、出血は殆どなかった。その代わりに口の端で血のあぶくが弾け、忽ちに消えた。その感触の奇妙さが、ぞわりと彼女の背を撫で上げる。 

 

「勝負あったね」 

 目の前には――見降ろすようにして、如月葉月。

 時間にしては数分。気の遠くなるような障壁を潜り抜けて、葉月は舞台上へと辿り着いていた。

 逃げ場なんて、何処にもなかった。本当は逃げる足さえもないのだけれど、朱鷺山しぐれにとってそれは笑えない冗談以外の何物でもなかった。


「ずっと、きらいだった。そうやっていっつも見下してたんだろっ、私のこと」

 生の思いを吐露するように、しぐれは葉月を睨みつけた。

「そんなこと、思ってないよ」

「絶対思ってる」

「思ってなんかない」

「……うそだ」 

「あなたがそう思うのなら、そういうことなんでしょうね」

 中身のない問答に、葉月は呆れるように目線を落とした。


 自分がやましいことをしているから、そんな風にしか考えられないのよ分からないのカナ足手まといだってコト。法条さんもアマネくんもあたしも皆頑張っているのにあなただけいつも手間取らせるのよあなたのその不安定さが調和のとれた関係を壊してしまうのよしぐれちゃん。わかってる? わかってるわかってるわかってる……?

 まただ。また思ってもいない他人の思考が頭の中で反響している。しぐれは雑音を振り払うように頭を左右に激しく振ると、

「い、いやだ。助けて、たすけてよぉ」

 みっともなく泣き喚く姿は、先ほどまでの幾重もの狡猾で残忍な罠を仕掛けた本人のものとは、到底思えなかった。アンバランスな変貌に葉月はほんの一瞬戸惑い、動きが鈍った。

 間隙を縫うようにしぐれの右腕が素早く懐へと伸び、火薬が弾ける。それは小枝を折るような軽快さで、葉月の右腕を抉った。刀は取り落とされ、からん、と乾いた音を立てて床に転がった。上腕二頭筋の辺りから、赤い血肉と白い骨が露出している。恐らくもう正常には機能し得ない。傷を確認した如月葉月の瞳は、困惑の色に見開かれている。

 

 予期せぬ奇襲の成功にしぐれが嗜虐の笑みを浮かべ、両足の再生のため左腕を下半身へと伸ばしかけたとき、

「そんなコだとは思わなかったな。今ので本当に失望したよ、しぐれちゃん」

 抑揚の感じられない声で、葉月は言った。

 つかつかと有無を言わさずしぐれへと歩み寄ると、右腕から銃を奪い取り、背後へと放る。それから朱鷺山しぐれの右腕を乱暴に掴むと、関節を本来とは逆方向に思いきり折り曲げた。ばき、と骨が砕ける乾いた音が、舞台に残響する。そのまま葉月はしぐれの右腕を毟り取り、観客席の方へと放り投げた。

「あ、ひ、ひぎいいっ。ああああぎぃやああああああぁぁぁ‼」

 凡そ人のものとも思えない咆哮じみた悲鳴さえも無視して、

「もう左腕しか使えなくなっちゃったね」

 自分でも驚くほど冷たい声音で、葉月は淡々と事実のみを告げた。

 あくまで淡々とした結果を述べただけ。


 それでも、いくら憎しみを覚えていたとしても。凍えるように怯える目の前の少女に、これ以上の仕打ちはしたくはなかった。

 ゲーム開始直後の、桜杜自然公園での襲撃。

 変わり果ててはしまったが、あのとき葉月の腕を治癒してくれたのは、紛れもない朱鷺山しぐれの意志であり、彼女の同盟の申し出に快く賛同してくれたのも、間違いなく、朱鷺山しぐれという少女の善意だったのだ。

 最後に残された慈悲と呼ぶべきもの。自分にとってのそれは、一体なんだろう。

 翼をもがれた死にかけの小鳥のように力なく地を這いずっている少女を眺めた。


 必要以上に苦しめるのは本意ではない。

 十分すぎるほどに相手を苦しめた。

 もう十分すぎるほどに、苦しんだ。


 だから――――これで、終わり。


 葉月は自由が利く左腕で器用に刀を掴み取ると、可能な限り高く掲げた。それから真っ直ぐに、切っ先をしぐれの左胸へ墓標のように突き立てた。そのまま舞台の床ごと垂直に心臓を刺し貫くと、反撃の余地を与える暇なく真横へと引く。

 布を無理やりに割いたようなざらついた感触だけが、手に残った。

「え、あ……が」

 しぐれは喘ぎながら、『時計仕掛けの少女』で心臓を再生する。だが、もう手遅れだった。血液が一気に肺腑へと流れ込み、呼吸すらままならない。脳に酸素は行かず、酸欠状態の激痛の中で床をのたうち回りながら、生と死の狭間の中で精一杯の敵意を葉月に向けていた。肺は空気を求めるものの、とめどなく侵入する血液によって気道は塞がれている。

「こ……ろす。お前は、ぜったい、わたしが、」

 凄絶な死相。

、しぐれちゃん」

 冷たく言い捨てたものの、葉月の顔は悲嘆で歪んでいた。

「どうして、こうなっちゃったんだろうね……本当に」

 

「うるさい! うるさいうるさいうるさいっ!

 大体うざいんだよ……その一方的な上から目線。

 あんたなんか……。あんたなんか、大嫌い、だ……」 

 声にもならない声で、しぐれは叫ぶ。

 涙交じりの怨嗟の声は、やがて純粋な悲嘆へと変わった。

「いやあぁぁ……。しにたくないぃ……。しにたく、ないよぉ」

 壊れた身体を無意味にばたつかせて、しぐれは全身で号泣していた。

 そんな憐れな彼女に、葉月は疑問する。

「しぐれちゃん。ずっとわからなかったことがあるの。どうしてあなたは、金牛宮に手を貸したの? 私たちに助けを求めることだって、戻ることだって、いくらでも出来た筈でしょう」

「わからないよぉ、そんなの……。わからないよぉ……」

 しぐれは喘ぎながらそう口にする。

「そう。じゃあ、仕方ないね」

 葉月は本当にさしたる興味もなさそうに反応した。 

 何処までも無関心な瞳。

 どうして。どうして、なのだろうか。

 どうして金牛宮の流言に耳を貸したのだろうか。

 守ってくれると、信頼したからか。

 甘い囁きを期待したからか。

 それとも単に、これまで通りに、短絡的な肉欲に身を委ねたかったからか。

 他者との深い関係を望まず、いつもいつも逃げるようにして、辛うじて援助交際という便りのない承認で、自らの存在価値を認めていたのではなかったのか。

 

 確かなことは、金牛宮にさえ与さなければ、葉月や法条たちと同盟を継続していれば……他ならぬ如月葉月を敵に回さずには済んだ、ということ。

 葉月にこういった形で、殺されることはなかったということ。

 金牛宮。

 彼は果たして、私のことを愛していたのだろうか。

 私は、彼に都合の良い駒として使われただけではなかったのか。

 どちらにしろ、こんな身体では、もう、抱いてもらうことも出来ないだろう―― 


 両親。クラスメイト。街で関係した幾人の男。事なかれ主義の学校の教師。殺人ゲームの渦中で知り合った幾人かの参加者たち。

 いつもいつも見降ろし見下してくる人間たち。

 誰もかれもが、自分を否定し、蔑んでいる気がする。ちょうど道行く若い女性たちの笑いが、気落ちした自分に向けられている底なしの悪意に感じるように。

 誰もかれもが自分を嫌ってくる。

 でも目の前の彼女は違うと否定した。

 何故だろう。

 ああ……そうか。

 

 何よりも、誰よりも私自身が、一番私を否定している。私の幸福を望んでいない。

 だからみんな、みんな……。

 

「みんな、きらい。……大っ嫌い」


 それから時間にして数十秒の壮絶な苦悶を経たのち、何処にも届かない呪詛の言葉を残して、宝瓶宮アクアリウス、朱鷺山しぐれは絶命した。

 舞台にはマネキンのように細い足が二本、ばらばらの方向を向いて転がっている。何かを掴み損ねたかのように奇妙な形のまま硬直した左腕。名のある芸術家の畢生の作品、と説明されれば納得させられてしまいそうな、グロテスクなオブジェのまま。

 それはまるで、長い人形劇の終演のような。一つの世界の終り、夢が砕け散った終焉の瞬間を永遠に繋ぎ止めたかのような、仮想のような風景だった。

 一時間が経ち、二時間が経ち、辺りに立ち込めていた濃密な血の香りはますますその濃度を高め、辺り一帯を視えない霧で包み込んでいるかのようだった。

 先ほどまで交わされていた行為の残虐さは掻き消え、ホールには清廉な静謐さえもが回復しつつある。

 けれど。

 紛れもなく、疑いようもないほどに。先ほどまで確かに朱鷺山しぐれだったものの生命は文字通り断たれていた。あまりにも、惨憺さんたんな形で。

 舞台上には如月葉月、ただ一名のみの姿があった。

 葉月はしぐれの死に顔に手を伸ばす。しぐれは最期に何かおかしいものでも見たかのように、口の端に薄っすらと微笑を浮かべたまま事切れていた。眼球が零れだすかというほどに大きく見開かれたその双眸は灰色に濁り始めている。死者へのせめてもの配慮で、葉月は手を伸ばしてそっと目を閉じさせる。


 葉月はその後小一時間ほど、静かに胸の前で手を合わせ弔悼ちょうとうの意を示し、その場に佇み続けていた。

 彼女にとっての殺人にかつてのような信念は既になく、正義の鉄槌もない。

 麻痺して、摩耗していた。何のために戦っていたのかさえも、彼女の心の奥底に燻る信念の色さえも、漂白されてしまったかのようだった。


「終わったな……」

 起こった事実を確認するように、傍らの悪魔が呟く。

「ええ」

 葉月は頷き、黒く煤けた頬を袖で拭った。全身に沁みつく濃密な血の匂いは、当分消えてくれそうにない。

 疲労の色は濃い。

 時間にしては数十分の攻防。

 なのに数時間も、数年間も、雪のように時が降り積もったかのような戦いだった。

 朦朧とした思考は深い霧の迷宮の中へ沈み、浮かび上がる気配を見せない。

 他のホールの戦闘を助太刀に行く、などという現実的な発想も今の彼女には困難だった。何よりも、より現実的に、深い手負いの身で、あの剣山の海を再び渡るだけの体力が残されていなかった。

 魂の一部が壊死してしまったかのような、不可逆な破壊。

 その右腕には、嘗ての仲間を殺めた感触が確かな実感を持って焼き付いている。震え続ける傷ついた腕を全身でかき抱いて、葉月は何時間も立ち尽くしていた。

 自身の罪を懺悔するように首を垂れるでもない。

 形だけの罪悪感に打ちひしがれることも、ない。

 決して泣くことはしなかった。何もかもが、終りへと向かっていく。


「ごめんね……。あたしの勝ちだよ、しぐれちゃん」


 そう言い残して朱鷺山しぐれの物言わぬ躯から踵を返そうとし、数時間前に自分が潜り抜けたホールの入り口近くに、誰かが佇んでいることに気付いた。どこか柔らかな、中性的な雰囲気を醸した、儚げな少年である。

「また一つ、罪を重ねましたね、あなたは」

 見るも無残に打ち捨てられた朱鷺山しぐれの遺体を遠目から確認し、彼は呟いた。あくまで淡々とした飾り気のない口調。だが、その端々には隠しきれない怒気が帯びている。仲間の死。彼が初めて味わう、生々しいまでの、味方の死だった。


「……獅子宮レオ……如月葉月。ボクは金牛宮タウラス。ボクが最後の悪魔憑き、そして、あなたにとって最後の敵です」

 侮蔑を含んだ視線で、何処までも他人行儀な声で、彼は彼女へと言い放った。 

 

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