第5話 出会い

 そのとき蔡霞は、蘇州にいた。

 出身は洛陽なのだが、わけありで故郷にも実家にもいられず、この地に移ってきた。もう、数年になるか。

 別段家族を大切に思っていたわけでもなく、これはこれで面白いと思っていた。――当初は。

 この頃ではいい加減、逃亡生活にも飽きてきた。妹あたりと、他愛ない無駄話をしたいとも思わないでもない。


「おっと、すみません。前をよく見ていなかった」


 ぼうっとしていた蔡は、素直にそう言って謝った。小道の曲がり角でのことで、どっちもどっちといった状況だ。

 蔡は、そんなくだらないことでも因縁をつけて喧嘩を吹っかけてくる人間がいると知っていたが、今回は違ったようだ。

 ぬぼっとした男は、二十を幾つか超えたところだろうか。蔡の外見よりは、いくつか年長か。

 男は、蔡の顔を驚いたように見つめた。

 度々たびたびあることだが、あまりにあからさまだった。あからさま過ぎて、腹立ちよりも可笑おかしさがこみ上げてくる。


「何か?」

「え。あー、いや。こっちも悪かった。ちょっとぼーっとしてた」


 そう言って、呑気に笑う。

 その瞬間に、ひとつの策を思いついた。今の状況を、変える方法。人選を間違えなければ、上手くいくかもしれない。


「旅の途中ですか?」

「あー、まあそんなもんか。あちこち、歩き回ってはいる」

「では、色々とご存知でしょうね。私は、董家の書生の蔡霞と申します。よろしければ、お話などお聞かせ願えませんか?」


 不思議そうに目をしばたかせた男は、劉貫詞と名乗った。

 酒と食事を交えて話をするうちに、男が、経歴に似合わず呑気な性格だということがわかった。

 頭が悪いわけではないのだが、鈍さとお人よしが、利発さから遠ざけている。 

 ある種、人の上に立つ人間にとって、得がたい人材といえるかもしれない。この男の忠誠を得られれば、そこそこ使えて裏切りの心配のない部下ができる。


「ところで、兄上は広く世間を渡り歩いておいでのようですが、どのような目的からですか?」

「ただの物乞いだよ」


 もちろん本当の兄というわけではなく、劉の方が年長ということにした方が無理がないからだ。

 苦笑して肩をすくめた劉は、卑下するでもなく、苦笑いするようにして言った。楽なこととも思えないが、不満がなさそうなところが不思議だ。

 まったく、いいところでいい人間にぶつかったものだ。


「何か目的があって、郡国を見聞けんぶんしているのではないのですか?」

「金が溜まるまで、風の吹くままに行くだけだ」

「では、どのくらい手に入れれば止めるのです?」

「十万だな」

「あてもなく十万を求めるのは、翼がないのに飛ぼうとするようなものですよ。例えどうにか得られたとしても、数年をついやします」

「まあ、そうだなぁ」


 そう言いながら、酒でほんのりと顔を染めた劉は、何一つ気負うものがない。いっそ、見ていて羨ましくなるほどだ。

 もっとも、蔡が心底立場を交換したいと思うことはないだろう。

 蔡は、笑みを置いて劉を見つめた。


「どうでしょう、兄上。私は、洛陽の辺りに住んでいました。事情があって故郷を避け、便りも久しく絶えていますが、懐かしむ気持ちはあります。兄上も洛陽のご出身ということですが、戻って言伝ことづてを頼めないでしょうか。私は貧しくはありませんし、洛陽への旅に時間をてても、気ままな旅をするという望みは、そう年月をかけすとも実現します。如何いかがでしょう?」

「言うまでもない」


 即座に話に乗ってきた。実際、滅多にないもうけ話なのだから、のらない馬鹿はいないだろう。

 さして金銭に執着のなさそうな男ではあるが、必要なものくらいは判っているのだろう。

 蔡は、懐を探って財布のひとつを引っ張り出すと、中身を確認することもなく劉に渡した。渡された方は、いぶかしげに中を覗き、驚いた顔をした。 


「これをどうしろって言うんだ?」

「路銀に使ってください。少々お待ちを。今、手紙を書きます」

「ちょっと待て!」

「はい、お待ちください」


 今更何を断る必要があるのかと思ったら、なんと、返そうとしてくる。

 知識と情報さえあれば人界で金を稼ぐくらい造作もないことなのだが、劉にとってはそうではないのだろう。

 渋い顔で返そうとするのを、どうにか持たせる。

 洛陽まで、まさかこの男は、ろくに金も持たずに行くつもりなのだろうか。折角の好意なのだから、素直に受け取ればいいものを。

 書いた手紙の墨を乾かして渡すと、今度はあっさりと受け取った。


「突然のことで、ちゃんとした御礼もできません。ですから、誠意を示しましょう」


 さて、ここからが問題だ。


「私の家長は、鱗のある動物です。渭水の橋の下に住んでいます」


 蔡が龍と聞いて、劉はわかりやすく目をいた。信じがたい、と言うようにまじまじと見てくるが、負の感情や、嘘と笑い飛ばす素振りは見られない。

 これなら大丈夫そうだと、蔡は先を続けた。


「目を閉じて橋の柱を叩けば、きっと応じる者があり、迎え入れて住まいにお連れするでしょう。母に会われるときは、妹に会いたいと頼んでください。わたしたちは兄弟の契りを交わしたのだから、いい加減な扱いはしないでしょう。手紙にも、妹に挨拶をするよう書きました。妹は若いけれど生まれつき頭の回転が早いから、妹に任せれば、十万の贈り物も、きっと承諾してくれるでしょう」


 実際、妹なら、頼んだこともはっきりとは頼まなかったことも、しっかりと汲み取ってくれることだろう。

 人のいい劉は、それからもしばらく話をした後、翌朝早くに旅立って行った。

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