奇縁

来条 恵夢

第1話 出会い

 そのとき劉貫詞は、蘇州にいた。

 出身は洛陽なのだが、安史の乱に巻き込まれまいと故郷を後にし、鎮圧された今なお、ふらふらとしていた。日々というのは、案外それなりに生きていけるものだと思った。


「おっと、すみません。前をよく見ていなかった」


 軽くぶつかった青年のすずやかな顔を、思わずぽかんと見上げる。

 鼻筋の通った美男子で、気品もあり、賢そうだ。これは人種が違うなと、劉はほとほと感心した。


「何か?」

「え。あー、いや。こっちも悪かった。ちょっとぼーっとしてた」


 小道で行き会った青年は、蔡霞といった。

 そうして、どこをどう気に入られたものか、気付けば、酒食を馳走になっていた。

 頭の回りが早いからか、蔡の話は実に面白く、ほろ酔い気分も手伝い、劉は、滅多になく楽しいひと時を過ごした。

 これは随分とついている日だと、満足げな息がこぼれる。


「ところで」


 既に手酌てじゃくになっている酒をそそぎ、蔡は首をかしげた。子供のような仕草だが、線の細いこの青年には、よく似合う。


「兄上は、広く世間を渡り歩いておいでのようですが、どのような目的からですか?」

「ただの物乞ものごいだよ」


 劉の方が年長だからと兄と呼ぶが、蔡のように、姿かたちも家柄もずっと優れた青年に言われると、こそばゆいものがある。

 それにしても、俺が学者や学生みたいに大したことをしてるとも見えないだろうにと、少し呆れながら、劉は肩をすくめた。

 霞は、わずかに微笑したようだった。


「何か目的があって、郡国を見聞けんぶんしているのではないのですか?」

「金がまるまで、風の吹くままに行くだけだ」

「では、どのくらい手に入れれば止めるのです?」

「十万だな」


 たった今思いついた金額だが、ただのたわむれだ、大きく言ったってかまわないだろう。

 そう思っていると、に受けたのか、蔡は思案顔になった。


「あてもなく十万を求めるのは、翼がないのに飛ぼうとするようなものですよ。例えどうにか得られたとしても、数年を費やします」

「まあ、そうだなぁ」

「どうでしょう、兄上。私は、洛陽の辺りに住んでいました。事情があって故郷を避け、便たよりも久しく絶えていますが、懐かしむ気持ちはあります。兄上も洛陽のご出身ということですが、戻って言伝ことづてを頼めないでしょうか。私は貧しくはありませんし、洛陽への旅に時間をてても、気ままな旅をするという望みは、そう年月をかけずとも実現します。如何いかがでしょう?」

「言うまでもない」


 書生というのは回りくどい言い方をするものだと感心しつつ、劉は、思いがけない話に同意した。

 いずれは戻るつもりでいたのだから、不都合もない。勢いというものは大切だ。

 蔡は、秀麗な顔に淡い笑みを浮かべると、懐を探って小さな袋を取り出した。わけもわからず受け取って、重みに目をみはる。

 のぞいてみると、相当の貨幣が納まっていた。

 

「これをどうしろって言うんだ?」

「路銀に使ってください。少々お待ちを。今、手紙を書きます」

「ちょっと待て!」

「はい、お待ちください」


 にこやかだか喰えない笑顔で、平然と言葉を受け流す。いくら頼まれて行くからといっても、この額は多い。枚数を数えなくても、そのくらいは判った。

 ところが蔡は、「貧乏ではないと言ったでしょう」「失礼とは承知ですが、今はこのくらいしか報いる術ができないのですよ」と、劉の言い分など聞こうともしない。

 やがて、書き上げた手紙の墨を乾かすと、折りたたんで差し出した。


「突然のことで、ちゃんとした御礼もできません。ですから、誠意を示しましょう」


 礼どころか、おつりが返る。そう言う劉を黙殺して、蔡は、心持俯かせていた顔を、すうと上げた。


「私の家長は、鱗のある動物です。渭水の橋の下に住んでいます」


 突然の告白に度肝どぎもを抜かれたが、言われてみれば、青年のかもし出す雰囲気は、常人とは異なる。家柄のせいと思っていたが、あたらずとも遠からずといったところか。

 それにしても、龍だとは。

 信じきれず蔡をまじまじと見てしまうが、青年は、平然と言葉を続けている。


「目を閉じて橋の柱を叩けば、きっと応じる者があり、迎え入れて住まいにおれするでしょう。母に会われるときは、妹にも会いたいと頼んでください。わたしたちは兄弟のちぎりをわしたのだから、いい加減な扱いはしないでしょう。手紙にも、妹に挨拶をするよう書きました。妹は若いけれど生まれつき頭の回転が早いから、妹に任せれば、十万の贈り物も、きっと承諾してくれるでしょう」


 思いつきで口にした金額を、律儀に礼として与えようとしてくれている。

 いささか慌てて断ろうとするが果たせず、いつの間にか、蔡の言う条件で話はまとまってしまった。

 どうしたものかと思ったが、相手が納得しているのだから問題はないのかもしれない。龍と人では感覚が違うということも考えられる。

 そんな理屈をこねて、酒盛りの翌朝、早速、劉は旅路に着いた。

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