「さて! たまちゃんは、息継ぎなしで何メートル泳げるの?」

桜は玉次郎に尋ねた。

「十メートルぐらい」


「そんなら、ちゃんと息の継ぎ方覚えれば、すぐ二十五メートルぐらい泳げるようになるよ」

「に、二十五メートルじゃだめなんだ。…五十メートル泳げないと!」

玉次郎は首を激しく振った。

「大人用プールは五十メートルあるから…」


「よし! たまちゃんのその心意気、気に入った!」

桜は玉次郎にウインクした。


「翠、とりあえずさ、バタ足でも練習させてあげてよ」

「それは構いませんが…桜さんは?」


「ちょっと、更衣室」

桜は意味ありげな笑みを浮かべた。

「取ってきたいものがあるんだ」


翠は玉次郎の手を取り、子ども用プールの小さな階段を降り、水に足を踏み入れた。

「さあ、わたくしが手をひいてあげますから、まずバタ足、やってご覧なさい」


玉次郎はそろそろと体を水に滑らせ、意を決したように顔をつけた。

そして、バシャバシャと水を散らせてバタ足を始める。


「ちょっと、お待ち」

翠は玉次郎の手を放した。


「ぶはぁっ!」

玉次郎が顔をあげる。


「そんなバタ足じゃ前に進めませんですことよ」

「…ど、どうして?」


翠は、玉次郎のモモの付け根をパンパンと叩いた。

「ここに力を入れるんですわ。そこから下は、力を入れない」


「…うん。やってみる」

玉次郎は、翠に手をひかれながら、再びバタ足を始めた。

今度は、さっきのような派手な水飛沫は上がらない。


翠は、息が続かなくなって顔を上げた玉次郎に笑いかけた。

「そうですわ。その感じ。たまちゃん、呑みこみが早いですわね。…では、息継ぎの仕方の練習に、入りますわよ」


「えーっ、も、もう?」

「当然ですわ。わたくし、早く向こうのプールで博斗先生と泳ぎたいのですから」

「ちぇーっ、ずるいの! 自分だけ」


「ちっちっちっ。それは違うな、たまちゃん」

二人の背後から、戻ってきた桜の声がした。


「お、お姉ちゃん…それ、なに?」

桜の手に握られたものを見て、玉次郎は、じりじりと後ずさりした。


「…ふふ。よくぞ聞いてくれました。特訓といえば、やっぱりこれだよね! …息継ぎ養成ギプス」

「ぼ、僕、やっぱり急用が…」


「問答無用! 翠!」

「たまちゃん、ご覚悟ですわっ!」


「ええい、見苦しいぞ! うりゃ!」

桜は、手品のような手際の良さで、ギプスを玉次郎にかっちりはめこんだ。


「な、なんだよお、これって?」

「ふふ。ふふふふふ。このギプスは強力だよ。特殊形状記憶合金で出来てるからね。…ある一定時間以上水に触れていると、締め付けるようになってる」

「ぎょ!」


「つまり、定期的に息継ぎをして、空気に触れないと、自動的にたまちゃんは溺れることになるというわけだ」

桜は人差し指を立てて、平然とした顔で言ってのけた。


「そ、そんな~」


「桜さん…あなた、よく平然とそんなこと言えますわね~」

翠は玉次郎から離れると、桜と並んだ。


桜は翠にそっと耳打ちした。

「嘘だよ。ほんとは、ただのおもちゃ。一種の自己暗示だね」

「な~んだ、そうだったんですの」


玉次郎はへろへろ呆然としている。

「ほらっ、突っ立ってないの! 特訓特訓!」


その迫力に気おされて、玉次郎はそろそろとしゃがみこむと、顔を水につけた。

「うう…ぐずっ。…なんで僕がこんな目に…」


ギプスがほんとうにしめつけてくると思い込んでいる玉次郎は、ものの一秒もたたないうちにガバッと立ち上がった。

「う~~~~~~っ!」


「駄目ですわっ! 立ち上がっちゃ。…指の先を見るようにして、顔を斜め後ろに出すのですわ」

「そんなこといっても…」

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