10
ミーン、ミーン、ミーン、ミーン。
耳に、蝉の声が聞こえる。
わたしは、壁を見ていた。
見ていたけれど、もうそれを壁と認識することは出来なかった。
何かがお父さんの気に障ったのだ。
熱い何かが全身にかけられて、それからとにかく真っ暗になって、たくさん蹴られた。
何かが口から出てきてから、急に楽になった。
うん、もう、忘れてしまおう。
そして気がついたとき、わたしは、見たこともない小さな部屋にいた。
「由布、今日からここがお母さんと由布の家よ」
「お母さん…? お父さんはどこに行ったの?」
「これからは、もうずっと、お父さんとは別に暮らすのよ」
「お父さんは? もう会えないの?」
「そうよ。あの人はもう遠いところに行ったの」
お母さんは、痛いぐらい固く、わたしを抱きしめた。
「もう誰も、由布を痛めつけたりしないんだから…」
「痛めつける? 誰が、誰を?」
お母さんは私を体から離すと、わたしの目を見つめた。
「何も覚えていないの?」
「何を言っているの、お母さん?」
お母さんは首を横に振ると、わたしを再び抱き寄せた。
「それなら、いいのよ。…何も、気にすることはない」
「お父さんは、どこに行ったの? わたしが知らない間に、何があったの?」
「いいの。覚えていないのなら、それでいい」
お母さんは、きつくわたしを抱きしめて、離さなかった。
それから、わたしはお母さんと二人で暮らしはじめた。
これが、もう一人のわたし。わたしがずっと昨日に置いたままにしていた、わたし。
でももう、いいの。
わたしは、またこうしてここに戻ってきたんだから。
「違う。それじゃ駄目」
昨日のわたしが言った。
「駄目? どうして?」
「いまのあなたを待っている人が、たくさんいるから。少し心を開いてみれば、すぐにわかる」
声が聞こえる。
わたしを、安心させてくれる声。
そうか、そうなんだ…。
この人も、苦しみよりもっとたくさん、笑おうとしてるんだ。
昨日のわたしは、わたしが昨日を忘れるのではなく乗り越えることができるように、そのために、ずっとわたしに呼びかけていたんだ。
…ごめんなさい、昨日のわたし。
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