「真作の人をこの手に掴む」





 “斯くて汝の頭上に光が落ちる。母なる御方、どうぞ貴女の御子を抱き給え”


 聖なる母の如く、慈愛に満ち満ちた祝詞。意味持つ極小の文字が紙吹雪となって燐光を発し、新たな真なる人の生誕を祝うかの如く、どこからともなく白い羽毛が舞い落ちる。

 聖母の絵画を彷彿とさせる、暖かな光を帯びた少女。少年は母の胎内に囲繞された、胎児のような安心感に封じ込まれた。

 ああ――やった。えもいえぬ達成感に浸りながら、少年は危険を犯してまで来た甲斐があった事を確信する。

 邪悪な杖の言った通り、強くなれる。細胞の一片に到るまで自身を理解され、肯定されて。この命そのものを祝福されているかのようだ。少女へ母を見い出す感覚には、若干以上の気恥ずかしさと背徳感を覚えるも、そんな些末な官能など溶けて消える。


 体感時間が引き伸ばされ、極楽へと導かれるのが分かった。いや――順序を数段飛ばしにした故だろうか、少年は自らが浮遊していく実感を味わう。そして、自分の肉体が真下にあるのを発見した。

 幽体離脱。体から魂が分離し異なる位相へと引き上げられる感覚だ。人の言語では到底表現し得ない法悦の快感に、本当に昇天しているかのようで。少年は焦るよりもまず、苦笑いを禁じ得ない気分になる。


 そうして遥か彼方にまで意識が飛び、おかしな事に成層圏を超え。滑稽ながら宇宙から地球を見下ろして。

 頭のテッペンから伸びた糸を引かれたかのように、少年の魂は無限の彼方へ吸い込まれていった。


 ――狭間を、垣間見る。


 黄金に煌めく神なる柱。宇宙を抱き締める神なる王。

 慈母の如き微笑みを湛え、両掌で導かれた魂を包み込み、祝福の言の葉を優美な唇から紡いだ。

 何よりもお前を愛してやる、と。超越者の熱情が突き刺さる。

 その愛を受けた刹那、少年の魂はこの宇宙の何処からも観測されない座標へ消失して――悪夢を、視た。









  †  †  †  †  †  †  †  †









「え………?」


 少年、アルトリウス・コールマンは痴愚の阿呆のように間の抜けた声を漏らした。

 きっとその表情もまた間抜けなものだろう。理知に富んだ少年らしからぬ無様さだ。

 だがしかし、そんな知性の抜け落ちた猿のような表情も、彼の置かれた状況を見ればやむを得ないものだと言えるだろう。


「どうかした?」


 目の前に、少女がいる。全く見覚えのない少女だ。


 唐突な表情の変化と、動作の停止を訝しむような声音と表情かお。心根の清らかさと、人当たりの良さを感じさせる面持ち。

 腰元までさらりと伸びた、癖のない絹のような黒髪。大きな黒目と、スッと伸びた背筋。涼やかな鼻梁。

 端正な造りの日本人形みたいな、お姫様と言っても通じそうな品のある目鼻立ちは、異国の価値観を通しても素直に美しいと思える。


 エキゾチックな風貌は、年上の友人である日本人と同じ趣に充ちていた。

 そんな少女が、目の前にいて。

 箸と茶碗を手にし。

 セーラー服・・・・・を着込んだ姿で、椅子に座っている。


「――――」


 慮外の事態に、完全に思考が停まっていた。呆然とその少女の顔を見詰める。


「………? ねえ、ご飯冷めちゃうから早く食べた方がいいよ?」

「…………」


 促され、視線を落とすと、そこには自分の物らしき食べ物があった。

 皿の上に乗った塩焼きの鮭、茶碗に盛られた湯気が立つ白米、仄かに味噌を香らせる独特の汁。簡素なサラダに、黄色い漬物、箸。


 ――なんだこれは?


 見た通り、そのままだ。ご飯、なのだろう。窓から差し込む日差しは朝のそれ。

 のろのろと視線を左右に動かし、コールマンはゆっくりと動き出した思考回路を回して現状の把握に務める。それはグラスゴーフで鍛えた判断力の成せる業だった。


 現在地は、板張りの床の上。和風モダンな風情の部屋……いや、居間?

 食卓に連なる六つの椅子の内、四つは空席。一つに自分。対面に少女が座っている。


 かつて憧れた、日本屋敷……旅館の風を湛える部屋。

 なんとなく、見覚えがあった。確か此処は……そう、写真で見せて貰った、留学先となる学び舎に通う……男子生徒の家。自分が下宿させてもらうはずだった家……?


「………ッッッ!?」


 椅子を蹴倒して立ち上がる。訳が分からないまま、衝動に突き動かされるまま部屋を飛び出した。

 びっくりして目を丸くする少女の事など意識の端にも掛からない。

 板の間の廊下を走る、驚くほど脚が遅い。こんなにノロマだったのか、自分は。そんな疑問も湧かないまま、とにかく外を目指して。広い屋敷を駆け巡り、やっと見つけた玄関で自分の物かも分からない靴を履き、スモークの入ったガラス板の扉を横に開いて外に飛び出した。


「…………」


 玄関先に、日本の時代劇で見たような門がある。塀だ。見上げた麗らかな日差しの中に、じとりとした空気を感じた。

 雨上がりなのだろう。塀に囲われた敷地の瓦に雫が乗り、ぽとり、ぽとりと雫を落としている。砂利の敷き詰められた足元から、コールマンが動く度に小気味のいい音が鳴っていた。

 塀の外に出てみると、見渡せばイギリスのそれとも、グラスゴーフのそれとも違う、日本の町並みが広がっている。


 夢にまで見た景色。望んでいた現実。叶うあてのない理想。それが、ここにはあった。


 ――な、ん……だ?


 驚愕も過ぎれば心は凪ぐ。大海原の如く凪いだ意識の薄皮一枚下で、大嵐同然にうねる波があった。

 混乱しショート寸前の思考回路が、現状への推論を幾つも弾き出し、コールマンは僅かな間も置かずして、自らの怒りを臨界に達させる。

 考えられる有力な説は、自分が敵の幻術か何かで幻を見せられているというもの。

 あの白銀の魔族。あの女が、無防備だった自分に魔術を仕掛けたのだ。そしてどうやってかはさておき、コールマンが心底から渇望していたものを引き出し、幻として見せているに違いない。


 赦せない。赦せるものか。


 こんな、こんな――血も涙もない所業で、コールマンの心を乱すなんて。百度八つ裂きにしても飽き足らない、悪鬼の如き悪行でしかなかった。

 魔力炉心を起動する。赤い魔力が軟弱な体躯の少年を包み込み、怒りの衝動が命じるまま手当たり次第に破壊を撒き散らそうとした。だが、できない。


 そんな事……できる訳がない。

 だってここは……ここは、平和に生きていたコールマンが、子供らしいワガママで選んだ道の途上にある世界なのだ。

 魔力を鎮める。炉心が急速に冷めた。心なし……いや、明らかに少なくなっている魔力に違和感を覚えるも、コールマンは原因を考える余裕もなく項垂れて、ただただその場に立ち尽くす。


「もうっ、何してるのアーサーくん!」


 背後から怒ったような声が突き刺さる。

 ような、ではない。実際に怒っているのだろう。今のコールマンにとっては、子猫よりも脅威を感じない怒気だが、明らかに怒っていた。

 覇気を失くしたコールマンは振り返る。革靴を履いた少女がそこにはいて、肩を怒らせ柳眉を逆立てた彼女は、少年の無作法を糺してきた。


「食事中にいきなり席を立ったらいけない、これイギリスでも常識じゃないの? 早く戻って、ちゃんと朝ごはんを食べて。早くしないと遅刻しちゃうじゃない」

「遅刻………?」

「そうよ。今何時だと思ってるの? アーサーくんが寝ぼけてたせいで、兄さんはもう行っちゃったし、やっと起きてきたと思ったらアーサーくん、急に外に出ちゃうし。何? そんなに早く学校行きたいの?」

「学校……ああ、そうだね。早く……行きたい……」

「………? そう、なら早く戻ってきて。そんなに待つの好きじゃないの、わたし」


 学校。留学先の。

 行きたいか、だって? ……行きたいに決まっている。

 たとえこれが幻だとしても、一目この眼で見たいに決まっていた。


 踵を返して玄関に戻っていく少女の背中に、コールマンは胸に競り上がる激情のうねりを堪え……しかし堪えきれずに問いを投げた。


「君の、名前を………」

「え?」

「君の名前を、教えてほしい」


 コールマンの問いが余りに唐突で、かつ不可解極まりなかったのだろう。再びこちらに振り向いた少女は、困惑を隠しもせずに少年の眼を見た。

 いきなり何を言ってるの、と反駁しようとしていたのだろう。だが少年の眼を見て、何も言えなくなる。親からはぐれた幼子のような瞳に、少女は戸惑いも露わに反問を絞り出す。


「ど、どうしたの? 急に」

「頼む、教えてほしい」

「………何、わたしの名前忘れちゃった? 兄さんとは仲が良いけど、わたしの事はどうでもよかったんだ」

「そんな事はない。だけどお願いだ、君の名前を知りたい」


 真っ直ぐな懇願、哀願に少女は頬を染める。直截な物言いに照れてしまう感性は、遠回しなやり取りに慣れている日本人の彼女には当然のもので。そんな様でさえ可憐に映る。

 少年の碧眼には、これまで見たこともないような、様々な哀愁や悲愴が滲んでいた。なんとも言えず、少女は口をもごもごと動かし、そして仕方なさそうに答えた。


「分かった。分かったからそんな眼で見ないで。わたしの名前でしょ? 留学して来てまだ日が浅いから仕方ないけど、今度はわたしの名前、忘れないでね」

「ああ」


 塀の外。目に眩しい太陽の光の下で、少女はそっぽを向きながら名前を告げる。

 訳など要らない。少年はその名前を、胸に刻んだ。幻に過ぎなくても、きっとその名前は自分が忘れてしまっていたもののはずだから。

 いつか事前に伝えられていた記号なまえを、今度こそ大切に記憶する。いつか帰ってきたその後で、その名前を口にしたくて堪らないから。


調月扶桑ツカツキ・フソウ……フソウ・ツカツキって言った方が覚えやすい?」

「――うん、そうだね」


 調月扶桑。同い年の少女のその名前で、コールマンは思い出した。

 日本にやって来て、一番はじめに仲良くなれるはずだった彼女の兄。アニメが好きらしい扶桑の兄を――紙面の上でしか知らない存在を思い出す。


 噛みしめるように扶桑の名前を口にして――少年の意識は白熱した。目の前が白く焼かれていく。


 そうか、幻は終わりなんだ。

 寂寥に浸る。

 そうして少年の魂は、次元を割って伸びてくる視えない何かに捕まった・・・・









  †  †  †  †  †  †  †  †









 太陽よりもなお眩い、なのに少しも熱くなく、煩わしくもない大きな柱。

 戦女神のような威風を持つ、美という概念が具現化したかの如き金色の女が、宇宙をも包み込む大きな手で一つの魂を包んでいる。

 手の中の淡い光に顔を近づけ、何事かを囁きかけた。

 勝手にいなくなっては駄目だ、と。幼子のやんちゃを諌めるように微笑み、そして段階を無視して昇ってきた魂を元の場所に還していく。


 曖昧な意識で、朧げな自我で、黄金の光を見た。


 直感的に感じられる、底なしの愛。偏った羨望。本当なら手が届かないはずの芸術作品を、額縁に入れて大切に大切に保管するような憧憬。

 自分の物だ、自分も同じ物を造りたい。そんな偏執にも似た渇望の眼差しが、少年の魂に焼き付いた。


 記憶に残らない世界の狭間で理解する。


 ああ、これが。あれが、自分を呼び寄せたナニカなのだろう。なんて尊く――醜い光。

 少年の意識は、泡のように弾けた。





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