どん底にいる、そう思える内はまだ底がある
それは挫折ではなかった。成功するためのチャンスでもなく、実のない失敗などでもなく、私というつまらない人間を形成する、はじまりの苦難でしかなかった。
† † † † † † † †
「おいアーサー、起きろ。……ああ、アルトリウス! 起きるんだ!」
聞き知った声だ。アーサーという愛称ではなく、アルトリウスと名前で呼ばれ、強く肩を揺すられたコールマン少年は目を覚ました。
がたり、と地面が揺れる。いや揺れたのは地面ではない。板張りの床だ。
節くれだった手が痛いほど強くコールマンの両肩を掴んでいる。コールマンの目に飛び込んできたのは、常日頃から最も身近に感じていた人物の一人、実の父親の顔だった。
ユーサー・コールマン。厳格というほど厳しくはないが、我が子を必要以上には甘やかさない、どこにいてもおかしくない父親で――アルトリウスにとっては世界でただ一人の父親だった。必死の形相で自身を見詰める父の顔に、コールマンは呆然とした語調で呟く。
「dad (父さん)?」
「ダッ……なんだって? どうしたんだ、その意味のわからない言葉は……頭を打ったのか? ちゃんと喋れなくなってしまったのか? アーサー、父さんが分かるか?」
日本語だった。意識が鮮明になると、父親が……英語しか話せないはずのユーサーが日本語を話しているのに気づく。
どういうことだろう。いつの間に日本語なんて学習していたのか。そう思うも、そのユーサーもまたコールマン少年が見慣れた容貌から変化が見られた。
綺麗に剃っていたはずの髭は胸先まで届くほど伸ばされていて、眉も細く整えられていない。顔面の肌の張りや艶も悪く、オールバックに撫で付けられていたはずの金髪もざんばらに伸び放題だ。
服装も見慣れたネクタイとスーツ姿ではなく、あたかも一昔前の農夫のような粗い布地のシャツを着ている。とてもではないが、辣腕を振るうやり手の実業家には見えなかった。
ユーサーの手は土に汚れ、節くれだち、体つきも逞しく、よく見ればその髭面も精悍になっているではないか。まるっきり別人である。しかしコールマンには、彼が自分の父親だと分かった。自分を呼ぶ声や、我が子を見る眼差し、全てがユーサー・コールマンそのものであると本能的に確信できていたのだ。
「父さん……いつの間に日本語なんて身に付けた?」
とりあえず父の話す言語に合わせ、苦労して身に付けた日本語で応じる。するとユーサーは鳩が豆鉄砲を食らったように目を瞬かせた。
「ニホン語……? 何を言ってるんだ、アーサー。ああ、なんてことだ、錯乱してしまっている……」
「……錯乱してはいない。私は今、到って平静そのものだよ」
日本人の友人から学んだ語調が、普通の日本語から外れた芝居がかったものであるという自覚がコールマンにはない。友人の少しばかり笑えない悪ふざけである。案の定ユーサーは顔を顰めてしまっていた。
コールマン少年は自分で言うほど平静さを保てているわけではないが、父親が傍にいてくれる安堵感から、ある程度は落ち着いていられた。
「『私』だって? おまえはアーサー……おれの子のアルトリウスだよな? よく似た別人ではなく」
「冗談はよしてくれよ。私はユーサーとアデラインの子、アルトリウスさ」
「分かってる、分かってるよ。自分の子を見間違うものか。だがなんだ、その……妙な喋り方は……?」
ユーサーの物言いに、コールマン少年は頭上にクエスチョンマークを浮かばせる。しかしそんなことよりも、彼には捨て置けない疑問があった。
まずはそちらの疑問を氷解させることが大事である。コールマンは父に問い掛けた。
「父さん、私は日本行きの飛行機に乗っていたはず。それがどうしてこんな所にいる? 訳が分からないというのが正直なところだ。出来れば状況を説明してほしい」
「ニホン行き? ヒコウキ……飛行挺のことか? なんだ、それは。おれ達のような人間が乗れる代物じゃないぞ。アルトリウス、頼むから父さんにも分かるように言ってくれ」
「……? だから、私は――」
そこで。はたと、コールマンは思い出す。
兵士に叩き切られて、死んだ母アデライン。殴られた顔、蹴られた腹、絞められた首。急に顔を青ざめさせたコールマンに、ユーサーは問い掛けた。
「どうした、どこか痛むのか?」
「と、父さん……かあ、さんが……」
「……アデラインが、どうかしたのか?」
「鎧を着た男に、殺され、て……」
コールマンが震えながら言うと、ユーサーは一瞬ぎくりと体を強張らせた。
しかしすぐに重々しく頷く。そうかと短く呟き、沈痛に目を伏せたのは僅かな時間だけだった。その瞳を揺らし、血の繋がった我が子であるコールマンにだけ分かる程度に声を震えさせて――けれど毅然として、親としてコールマンを見据えた。
「おまえが無事でよかった。よく、生きていてくれたな」
「とう、さん……」
力強く抱擁され、コールマンははらはらと涙を流した。
その広い背中に腕を回し、父子は家族を喪った悲劇への悲しみに浸る。我が子に胸を貸す父親は、さめざめと泣く子に見せまいと、顔を上に向けて懸命に涙を堪えた。
ややあってコールマンが泣き止むと、それを見計らっていたのか皮肉めいた台詞が飛んでくる。
「――愁嘆場を演じるのはそれぐらいにしておけよ。見てうんざり聞いてうんざりだ」
「……なんだと?」
ユーサーの反駁には、怒気が籠っていた。コールマンはこの期に及んでようやく周囲に目を向けられる余裕を得る。
狭い空間だった。大の大人が横に二人並び、両手を広げた程度の広さがある。鉄格子つきの窓が左右に一つずつあり、そこから覗く外の景色は高速で流れていた。
自分と父親以外に、この空間にはもう一人だけ大人の男がいる。ユーサーと似た格好の見るからに粗暴な茶髪の男だ。粗雑に伸びた口髭で、その口と表情は覆い隠されている。
「自分の子供が無事だったのを喜んで何が悪い」
「別に悪くはねぇ。だがこっちの身にもなってみろ。おれは老いぼれたお袋と出来の悪い嫁、ついでに可愛くもねぇ娘の安否も知らねぇんだ。そんな可哀想なおれの目の前で、よくもそんな三文劇なんざ見せつけてくれるな。そりゃあテメエの嫁が殺られたってことを知ったのにはお悔やみ申し上げるがね、身内の生き死にもわからねぇおれのことも考えてくれよ。ええ、ユーサー」
「それは……いや、すまなかったな、エイハブ。だがこっちの身にもなれというのはおれの台詞でもあるぞ。おまえの妻子と母はまだ、生きているかもしれないじゃないか」
エイハブと呼ばれた男は顔を顰めた。自分のそれが八つ当たりそのものだと遠回しに指摘されて、ばつが悪そうに顔を背け黙りこくる。
コールマンの脳裡に、母アデラインを斬り殺した兵士の言葉が甦る。『女と老いぼれは殺せ、男は捕まえろ』という、酷薄な台詞が。それが真実であるなら、このエイハブという男の母と妻子は既に……。
しかしコールマンは、そのことを告げようとはとてもではないが思えなかった。ばか正直に兵士の言葉をエイハブに伝えて、事を荒立たせたくはなかったのだ。それにあの兵士は妙なことも言っていた。
『可哀想になぁ。こんなガキまで
「……」
闘技場。税。二つの単語がコールマンの脳裡を席巻する。時代錯誤もいいところで、まるでタイムスリップでもしたかのような気分に陥った。
その混沌とした気分を助長するのは、鉄格子のついた窓から覗ける外の景色である。
何やら高速で移動しているらしいのは察していたが、その移動手段がおかしいのだ。明らかに自動車並みの速度で走っているコールマン達が収容された乗り物と、並走しているのが二頭の馬が牽く馬車だったのである。
馬車の御台に座っているのは、アデラインを切り殺した男と同じ格好をした兵士。馬車を牽くのは黒く逞しい馬。その黒馬は目が赤く、二本の剣のような角を額に生やしている。純潔を司るユニコーンの亜種、不純を司るバイコーンだ、とコールマンは思う。幻を見ているような心地だった。
地面を蹴るその馬蹄は大きく、そして力強い。馬車の車輪は宙に浮いているのに、ヘリコプターのプロペラのように肉眼で捉えきれないほど早く廻っている。馬車は漆喰を塗られた木製のそれだが、その縁には青白く輝く文字が彫られていた。その光は、アデラインを殺した兵士の剣の鞘が発したものに類似している。文字はひらがなにも、アルファベットにも見える……。日本のサブカルチャー知識由来だが、あれはルーン文字という奴だろうか?
日本行きの飛行機にいたはずが、突如としてどことも知れぬ地上の大火災に巻き込まれていたこの状況。実の父母の容姿が微妙に異なっていた点。当たり前の現実のように重くのし掛かってくる殺人現場。そして今、コールマンの置かれている状態。
性質の悪い夢ではないか、という疑問は否定できる。兵士に殴られた顔と、蹴られた腹がまだ痛んでいるというのもあるが、何より肌で感じる圧倒的なリアリティがコールマンの逃避を認めていなかった。
本場のエリートオタクには劣るものの、日本文化のアニメや漫画に造詣の深いコールマンは、この状況に対して一つの仮説を導き出している。異世界転生ないし転移。それらに類似した現象に見舞われて、自分はここにいるのではないかと。あくまで仮説としてだが――尤もこれ以上なく有力である――異世界に自分が来てしまった可能性が考えられた。
コールマンは自分の服がユーサーやエイハブの着ている粗末なものに似ているのを、今更のように確認していた。
年頃の少年らしく、それなりに気を使って手入れしていたはずの肌も粗い。飛行機に乗る際に持ち込んだ荷物なども見当たらなかった。
知識にある通りの異世界転移をしたのなら、そこに自分の荷物があって、服もそのままのはずだが。それがなく元の世界での父母がいた。ということは、
――別世界の自分に成り代わったのか、僕は? それで、お国の言葉として日本語を主に使っている……?
コールマンはそう推測する。
そう考えれば一応は筋が通るのだ。日本語を喋れないはずの父母が流暢に日本語を話せる理由、この訳のわからない不条理な現実、それもこれも全て異世界だから、別世界だからの一言で説明できてしまう。
声に出してしまえば、父に「ジャパニーズアニメの見過ぎだ、馬鹿息子が」と叱責されかねないのは分かっている。しかし筋が通ってしまって、状況を理解してしまえるのだから仕方がないじゃないか、と誰にでもなく言い訳をしてしまう。
もしこの仮説が正しいのだったら……自分にはなんらかの特別な力があるのではないかとコールマンは思った。いわゆるお約束、楽してズルして楽勝モードに突入する無双体験。そんな便利な某かの超能力があるのではないか。
そう思い立ち、自分の中に何かを感じ取れないか集中してみたり、念じてみたりした。しかしそんなものは何も感じられなかった。それはそうだ、そんなものがもしあるのなら、最初から使えないなんて嘘だろう。だって物を考えたり、手足を動かしたりするのと同じで、自分にそんな力があるなら思い通りに使えたり、その存在を認知できない道理はないはずだから。
なら、コールマンはなんの力もないままに、この別世界に迷い込んでしまったことになる。しかもこの……言葉にするのも憚られる鉄火場へ。なんと不条理で、理不尽で、荒唐無稽なのか。
――だけど、あくまで仮説でしかない。現実的に考えたら他にも考えられることは……
自分の思考に反問する。『現実的』というものに沿って考えると、例えばこれは夢だったり……いやそれはない。痛みがある、というのもある。しかしあの火災によって生じていた熱気や息苦しさ、アデラインが殺された光景は本物だと感じた。
「ぅぐ、」アデラインが殺された場面を思い出して、怒りと哀しさと気色悪さに吐きそうになる。それを堪えながら思考を続けた。
他には何が考えられる? ……手の込んだドッキリか? それにしては笑えないし手間が掛かりすぎている。有り得ないだろう。『現実的』に考えたら、その現実というのが最もコールマンの常識を裏切っている。
ならやっぱり、どれほど有り得ないものにしろ、他に考えられるものを全て否定して、最後に残ったものこそがリアルというものだ。なら……ジャパニーズアニメやネット小説、漫画などで見ていたものが……現実となってコールマン自身に襲い掛かったということだ。
「は、はは……」
乾いた笑いが漏れて出る。
今まで何度も夢想した。自分が異世界に転生したり転移したり。カミサマなりなんなりに特別な力を恵んでもらって安易に暴れたり。或いは妄想して作ったキャラクターになっていた――とか。ゲームのキャラクターの力で活躍するとか。色んなパターンで妄想を楽しんだことがある。
それが、現実になった。
ただし特別な力なんてものはないまま。アルトリウス・コールマンという少年が、等身大の存在としてここにいる。
それはつまり……この世界の常識とか、そういったものに抗えたり、自分の意思を押し通したり出来る訳がないということだ。
あんまりだろう。僕が何をした? コールマンは泣き笑いのような顔で外を眺めた。コールマンのいた世界には存在しない、バイコーンを。
「アーサー、どうし――」
「なあユーサー。おれ達は、どうなるんだろうな」
ふとエイハブが言った。ユーサーが我が子の様子がおかしいのに気づき、声を掛けようとするのに被せて。
悪気はないのだろう。ただ不安なのだ。彼らからしても突然村を襲われ、連れ去られているのである。心細くなっても仕方がない。
ユーサーはエイハブに向き直る。エイハブはその強面からは考えられないほど情けない声で言った。
「そりゃあおれ達の村は税を満足に払えてはいなかったさ。けど仕方ないだろ? 毎年豊作ってわけにはいかねえし、ここ何年間はおれ達だって飢えながら生きてきた。領主サマは腹立たしいかもしれねぇけど、取り決め通りの税を納めてたんじゃあおれ達が飢えて死んじまう。……だってのに、いきなりこれだろ。なあ、おれ達はどうなるんだ?」
「……分からないな。お偉い方々の考えることなんて」
ユーサーはエイハブにそう答えるしかない。
半ば空元気でコールマンは教えてやった。
「
「……なんだって?」
「雑草は処分されるんだと、さ」
コールマンは馬鹿ではない。寧ろ目端は利く方だ。ゆえに状況を完全に呑み込めているわけではないが、一連の流れから自分がどうなるのか、おおよそ察しがつけられていた。
コロッセウムが何をする所なのかは、まだ分からないにしても、あの兵士達の暴挙、焼き払われていた村の農具の類いから見て取れる文明度。現在進行形でどこかへと強制的に連行されている状況。それらを総括して推測すると、まあ……ろくでもないことになるのは間違いなかった。
しかし推測できたからと、それに現実感が伴うわけではない。どこか遠い世界を見ているような気分になっていても、コールマン少年が責められる道理はないはずだろう。
ユーサーとエイハブが、一気に顔を強張らせたのに、コールマンはその深刻さを汲み取ることが出来なかった。
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