第6話「求めるもの」

 投げ出された手足。揺れる馬車の荷台に合わせて跳ねるが、その体が起き上がることはない。額から流れ出た血は、傷が浅かったのが幸いして止まっている。

 ぼさついてはいるが、その金髪は短いというわけではなかった。荷台に広がる黄金を見れば太陽の日差しに似ていると思えた。しかし同じ色の目は瞼によって覗き込むことはできない。

 御者台で馬の手綱を握っている男は何度も肩を尖らせていた。横隔膜が痙攣して、しゃっくりがとまらないだけではない。自分がしでかした事の大きさに耐え切れなくなっていた。


 ユルザック王国の第五王子ミカルダ・レオナス・ユルザック。その御身を城内で襲い、誘拐してしまったのだから。


 自主退職を告げて城から去ろうとした元料理長は、まるで影から這い出たかのような女に話しかけられた。蠱惑的な艶のある唇から冷たい言葉。

 第五王子を殺したくないか。いや、それ以上の目に合わせたくないか。男は目が回るような気持ち悪さに襲われながらも、その甘美な響きに酔った。

 料理長まで昇り詰めたというのに、些細なことで辞める原因になった少年。誰にも生きることを望まれていないはずなのに、王子として大事されている現実。


 数日は後始末や引き継ぎで城内を歩くことが可能。そして貴族裁判が起きる日は城の守りは集中する。城の騎士達も料理長の顔は覚えているため、怪しまれることは少ない。

 女に唆されるがまま、男は貴族裁判の日を待った。どう考えても隙だらけな作戦なのに、少しの得もないのに、男は狂ったようにこの計画に執着した。

 そして当日の今日。まるで神の導きでもあったかのように、第五王子が一人で廊下に出た隙をついた。あっさりと少年は倒れて気絶してしまい、周辺は別の騒ぎで男へ目を向けることはなかった。


 果物などを入れる袋に少年を詰め込み、念を入れて箱に入れる。そして引継ぎ用の食材仕入れと称して持ち運ぶことが可能だった。そこまでは良かった。

 しかし時間が経てば経つほど、男は動揺していく。これから何処へ向かえばいいのか、何故こんなことをしてしまったのか、勢い任せな割に上手くいったことなど、どうにも腑に落ちない。

 男は静かに背中越しに荷台を眺める。そこには気絶した少年を宝物のように眺める女がいた。まるで灰から作り上げた硝子のような銀糸の長い髪に、赤い瞳。


「ほーら、ちゃんと走らせて。貴族裁判の方が重要とはいえ、ミカ王子を大事に思ってる厄介な奴が追手を出してるはずなんだからさ」

「ひ、ひぃ……で、で、でも何処へ向かえばいいんだ!?俺は、俺はただそいつに痛い目を見せたかっただけなのに!!」

「何処でもいいわよ。この子の金色はとても貴重だし、物好きからすればとんでもない高値の商品。そして開戦派の十六貴族や、西の大国でも価値がある。いいわぁ……滾るわぁ」


 恍惚とした熱い息を吐く女に男は悪寒を覚えた。名前も素性も知らないはずなのに、男はこの女の言葉を信じて行動してしまった。後悔するには遅すぎである。

 毛皮をふんだんに用いた黒豹のようにしなやかな服。それでも隠し切れない豊かな胸の上に右手を置き、左手は足の隙間に伸ばしている。しかし潤んだ瞳だけは気絶している少年を映し続けていた。


「ふ、うふふ、ふぅ……あん、あ……もう、たまらない。あのリリアンヌを倒した少年、太陽の聖獣の生まれ変わり……そしてこの世の戦火をばら撒くにはもってこいの身分に血!!ああっ!!素敵っ!!」


 快感と狂乱が混じった笑い声を上げて女は左手の動きを激しくしていく。しかし胸の上に置いた右手だけは不動のまま祈りを捧げているようだ。馬車の揺れすらも昇り詰める機械のように扱っているようだ。

 よく見れば右手には黒いヘアバンドが握られていた。それは少年が左目を跨ぐようにできた傷に髪が触れないように着用していたもので、壺で殴られた際に外れた物である。

 それを強く握りしめる女はただひたすら少年の姿を嘗め回すように眺める。成長途中、だが、この少年は人間の常識から外れてしまったことを女は知っていた。


 かつて天空都市に住んでいたウラノスの民。彼らと同じ存在へと自ら辿り着いた少年を想うと、女の興奮は一際強くなった。

 どんなに死を望まれても、生きることを止めろと叫ばれても、ひたすら嫌悪を注がれても、少年は生き続ける。そのせいで自分自身を追い詰めると知らないまま。

 転化術リ・サイクル連結術リ・ンク羽衣術リ・ユース、この三つを手に入れた少年に光ある未来は途絶えたと同義だ。輝かしい現在は作ることができても、先に希望はない。


 それでも少年は生きるだろう。死んだ母親が望むままに。その美しい絶望こそが、女を高揚とさせていく一因。狂ったように女は嬌声を上げた。

 忌々しい魔物リリアンヌには感謝を、世界を調律する役目を背負って無駄死にしたウラノスの民には敬意を、そして少年の絶望の原因となった王妃に愛を。

 気持ち悪いほどの好意を三者三様にぶつけて女は唇を熱く震わせた。足の指先が力の拠り所を求めて荷台の床を引っ掻く。潤んだ瞳が馬車の幌を見上げ、その汚れさえも美しく見えてしまう。


 しかし女が視線を再度第五王子に向けたが、倒れているはずの少年は元の場所にはいなかった。視線を張り巡らせれば、馬車の後ろ側、荷物を入れる搬入口から飛び降りようとしていた。

 鮮やかな青い空と吹き抜ける爽やかな風、それとは対照的に荒々しい波の如く流れていく地面が飛び降りた際の恐怖を増長させる。それでも少年は上体を傾けて足を踏み出した。


「あ、ん。だ・め」


 気の抜けた声には似合わない力で馬車内部へと引き戻される少年。瞼が開いた目は金色だったが、左目だけは橙色と金色を混ぜた炎に近い輝きを宿していた。

 少年の両手を掴んで馬車の床に固定し、その上体に圧し掛かる女は少しだけつまらなさそうな視線を向ける。少年は女の左手が濡れていることに嫌悪感を示す。


「そっかぁ。ミカ王子が気絶しても、アンタの意識があるわけね……レオンハルト・サニー」

「は、はぁっ!?なんで以前死んだ太陽の聖獣の名前が」

「あ、アンタはもういいわ。ばいばーい☆」


 慌てて振り向いた男は女が気軽に手を振る姿を最後に動かなくなる。首筋に横一直線の切り傷が滲むように浮かび上がり、それが首を一周した直後、男の頭が車輪に向かって落ちていく。

 大きな果実を踏みつけたような音と衝撃が馬車に伝わるが、少年は目の前でゆっくりと倒れていく首なしの体が傾いていくのを呆然と眺めていた。そしてまたもや車輪がなにかを踏みつけて潰す。

 しかし馬は何事もなかったかのように走り続けている。それが魔術のせいで狂わされているのに気付いた少年は、自分の体に下半身を擦り付ける女性を強く睨む。


「離せ、魔人の女。お前の目的はわからんが、ミカを利用するのは許さない」

「利用だなんてそんな。愛用と言ってほしいわぁ。思う存分体も心も満たされるくらいに全てをかき混ぜてほしいの。内も外も、全部熱く煮え滾る溶岩のように」

「ミカの目で視ればお前の醜さは浮き彫りだ。吐き気しかない。嘘を吐いていないことすらも、負の感情を増長する要因にしかならない」

「……あー、あ。だからアンタが表に出てくるのは嫌よ。お高くとまった聖獣、ミカミカミを求めて死んだことも忘れたの?」


 ミカミカミ。その単語が聞こえた瞬間、ミカ、正しくはレオが目を見開いて硬直する。氷の針の上に立たされたように、落ち着きがなくなって暴れようとする。

 しかし女の細腕に抑え込まれて抵抗は形にならない。それでもレオは獣のように叫び声を上げる。曝け出された首筋に女は唇を近付け、熱い息を吹き付けた。

 他者と自己、その両方の嫌悪に苛まれてレオは狂ったように暴れる。それでも自由にならない体では捩ることしかできない。女はそれが可笑しくて、笑いながら下半身を擦り付ける。


「ほぉら、はやくぅ。ミカ王子を出してぇ。じゃないとぉ、アンタが後悔してることを全部その耳元で囁いてあげる」

「やめ、ッいや、何故それを、あれは、あのことは……我すらも正確に覚えていないのに!!」

「だから苦しんでる。知ってるわよぉ……ミカミカミはね、人間や聖獣だけじゃない……私達も求めた物だから、全部調べてるの」

「な、んだっ……ぐっ!!」


 呻き声を上げたレオは再び意識を失う。抵抗しなくなったミカの上に跨りながらも、女は抑え込んでいた両腕を離す。人型の痣が赤黒く残っている。

 そのことでさえ愉悦に感じた女は動かない少年の体で遊ぼうと手を伸ばす。しかし起き上がった少年は女の服を掴んで引き寄せ、勢いよく頭突きした。

 流石に反撃が来るとは思わなかった女は思わず立ち上がり、小さく後退った。その間に少年も傷が開いた額を抑えながら、床に捨て置かれたヘアバンドを掴み取る。


「っぜぇ、はぁっ!!レオが苦しんでるのは、お前のせいか?」

「きっ、たぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!待ってたわよぉ、ミカ王子!!!!」


 金の両眼を確認した女はそれだけで腰を抜かすほどに悦ぶ。しかしミカは額に滲んだ汗で傷口が痛む上に、内部でレオの意識が暴れているのでそれどころではない。

 今も馬車に揺られ続けたことと壺で殴られた衝撃が頭に残っている。目の前は霞み、倒れていい状況ならばすぐに横になりたいほどだ。しかし目の前の魔人を相手にしたまま寝るわけにはいかない。

 魂を視ればまるで黒と赤茶を混ぜたような蠢く生き物だ。形の綺麗どうこうなど、語ることもできない。輝きなど胃袋で消化してしまったかのように脂が表面を流れているようだ。


「ああ、ミカ王子!!ミカ王子、ミカ王子!!ああん、何度も呼んで愛でて舐めて傷つけて組み敷いて抱いて縛って抉って、ああ言い尽くせない!!全部、全部私の物にしたい!!」

「……ごめん、素直に気持ち悪い」


 狂喜があるとすれば女こそが相応しかった。ミカは馬車の中を動きながら、車輪についた血が轍となっている地面を見る。誰の血かは考えたくなかったが、予想はできた。

 壺を振りかざす男の顔は一瞬だったが、つい最近問題が起きた人物であるため覚えていた。どうやら魔人は人を狂わせることが上手らしい。しかし城内にまで手を伸ばしていたとは、と鳥肌が立つ。


「ふ、ふふふ……逃げ場はないわよ。ねぇ、あんな狭い城にいるよりも、こんな国にいるよりも……私達と手を組みましょうよ」

「……なんで?」

「だって貴方こそミカミカミに近付く鍵なの。私達は少なくともそう信じてる。今は違うとしても、貴方が生きようと思えば思うほど、あの言葉は貴方に迫るわ」


 まるで予言するように女は熱く囁く。ミカはなんとか逃げられないかと狭い馬車を見回すが、女はそれを許さないようと体を動かしている。

 ミカミカミという単語に反応して内部ではレオの意識が強く暴れる。それを相手しようとするとミカの動きは人形のように止まってしまうため、今は苦しいが無視するしかない。


「この国で生きているのは苦しいでしょう?理不尽に死ねと罵られて、殺されそうになった数も記録するのは諦めるほど。なにより……血を分けた兄弟が貴方を最も殺したいのだから」


 女の言葉にミカは反論しなかった。半分とはいえ、同じ父の血が流れている。しかしフィル以外の王子はミカに興味を示すどころが、死を望んでいる。それは事実だ。

 残りの半分は西の大国の貴族の血だ。長年ユルザック王国と争いと和平を繰り返した国の血。それを良く思わない者は多い。そんな理由で何度も殺されそうになった。

 死んだ母の葬儀を覚えている。彼女のために本当の涙を流してくれたものは少ないことを、ミカは知っている。魂まで視通す目が、嘘の涙を認めてくれなかった。


「だけど私達に貴方は必要。生きてほしいと願う。人間なんかよりも、私達は純粋よ。純粋に狂ってるの。でもそれだけ。一緒にいれば、きっとわかるわ……そうでしょう?」

「……」

「だから一緒に歩みましょう。貴方が欲しいの。ねぇ、わかる?この熱い気持ち。貴方が、好きよ。だから、ね」


 そう言って優しく両腕を伸ばす女に対し、ミカは肩の力を抜いた。馬車は走り続けて揺れている。蹄の音が何処までも耳の奥に響き、嘶きも体を震わせる。

 女は好機とみて、しかし焦らないようにじっくりと近付く。今すぐ力強く金髪の王子を抱きしめたい衝動を堪え、慈愛溢れる母親のように迫る。

 目の前の少年の弱みとなりえる部分を女は知っている。そこを突けば少年は戸惑うか、懐柔されるか。例えどんな性質だとしても、十五歳の少年であることは変わらない。


 しかしミカは近付いた女の脇を通り抜けて、馬車の荷物を入れる搬入口へと走りだす。青空から差し込む太陽の光を受けて、少年の金髪と笑顔は輝く。





「ごめんね!俺は、綺麗な魂が視える!だから人間は大好きなんだ!」





 醜い魂を幾度も視てきた。しかしその中に混じる綺麗な魂の美しさを、その生き様を、少年は人形王子と呼ばれている間も眺めていた。

 手を握ってくれる人の温かさ、守ると告げた人の力強さ、微笑んでくれる人の柔らかさ、理解しようとする人の辛抱強さ。その全てが魂には表れる。

 だからこそミカは目の前の魔人の手を拒む。例え言葉がどんなに優しく美しい物だとしても、歪んでいる魂が彼の者全てを物語っていた。


「ふ、あは、あははははははははははは!!それで!?ここから逃げるつもり!?地面に落ちても私は追いかけるわ!!ええ、絶対に!!貴方は私の物!!やっと手に入れた宝物よ!!」

「だろうね。でも俺は逃げるよ。だって……大丈夫って視えてるからね!!」


 黒のヘアバンドを額に着用し、いつも通りの姿になったミカは馬車から勢いよく踏み出した。女はそれを追いかけるために手を伸ばして走り出す。

 その真上、幌を破壊しながら巨体の黒馬が落ちてくる。女の体は力強い蹄に踏み潰され、荷台諸共破壊されていく。馬車を牽引していた馬達は悲鳴のように嘶きを上げた。

 地面へと落ちていくミカの目前に氷水晶の指輪が投げられる。それを掴んだミカは笑いながら転化術を行い、すぐさま羽衣術を発動する。


 金髪が伸びていき、その毛先が透き通るような水色に染まる。海月を意識したような白く長い衣。そして背中には氷水晶の四枚羽。

 迫る地面に対して片腕で逆立ちするように、勢いをつけて跳び上がる。そのまま海中を漂う海月のように飛行を始め、眼下にて走り続ける白馬へと呑気に手を振る。

 空高く舞い上がったミカに対して見惚れるクリスとは反対に、ヤーは文句の一つでもぶつけたいために降りてこいと怒鳴った。


 オウガはミカの羽衣術を初めて見るハクタとカロンに説明をしようとしたが、自分では無理な芸当だと諦めることにした。

 そして馬車を馬の体を使って破壊したジェラルドは無傷な様子で、最早木屑となった馬車から離れる。愛馬であるムーティヒも鼻息は荒いが足取りはしっかりとしていた。

 潰れた体でも、ひしゃげた手足を使って這い出ようとする女は頭上で妖精のように浮かぶミカへと潤んだ熱い視線を向ける。そしてどんなことをしても手に入れようと、魔術を使おうとした。


 しかしミカの左目が青い炎の輝きを強くした瞬間、集めた魔素が散らされてしまう。精霊となった魔素は空気中へ溶け込んでいく。

 女は恐怖した。転化術を使い、世界の調律を担うウラノスの民と同じ存在になった王子。あの魔物リリアンヌですら消してしまった少年。

 ならば次に消されるのは自分だと理解した。それでも欲求は止まらない。だからこそあの王子が欲しい。太陽のように光り輝くあの第五王子が。


 次の機会を狙おうと這い蹲りながら虫のように走りだす女の頭上に影が落ちる。白い花の風と呼ぶに相応しい少女が、鋭い視線を女へと向ける。

 その手に握られている儀礼槍は少女のために軽量化を施された武器であり、そのため刃の鋭さは普通の武器よりも頭一つ抜けていた。

 軽やかに振るわれた槍の刃先で女の手足が痛みもなく切断された。そのことに悲鳴を上げようとした女の背後から、長槍太刀パルチザンが迫る。


「第五王子を誘拐した罪」

「俺達の大事な主を傷つけた罪」

『その身をもって償え!!!!』


 オウガとクリスの言葉が揃い、二つの刃に身を貫かれた女は悲鳴を上げることもなかった。そのことに関してハクタは感動したが、ジェラルドは厳しい表情をよりきつくした。

 背中合わせのように勇ましく立つオウガとクリスに対し、ミカは普通の少年のようにはしゃぎながらヤーの横へと降り立つ。同時に羽衣術を解除し、気が抜けた笑顔のまま倒れた。

 ただでさえ極限の緊張と気絶を繰り返し、さらには体力を根こそぎ消費する羽衣術の使用で体力に限界が来たのだ。悪いことにヘアバンドから垂れる血が、額の傷口が開いたことを示唆していた。


「王子!?オウガ殿、行きましょう!!」

「お、おうよ……」


 クリスの真剣な様子に圧されたオウガは戸惑いながらも従う。その際にハクタへと目配せし、顔の動きで動かない女の様子を確かめろと指示する。

 ヤーがヘアバンドを外して怪我の具合を確認する。血が出ているくらいで、倒れた真の原因が体力の限界と悟るや否や、精霊術で傷口を塞ぎ始めた。

 その光景の羨ましさを感じたカロンが乗り込もうとするが、ジェラルドとハクタに首根っこを掴まれて女の体の傍へと移動させられる。


「う、うう……熟れて腐った熟女の体なんてやだぁ……ヤーちゃんがいいよぉ」

「いいからさっさとこの魔人とやらを調べろ。お前にはそれくらいしか役に立つ場面はないだろうが」

「酷い!!本当のことだけど!!」


 ジェラルドの言葉に傷つきながらもカロンは一枚の大きな紙を用意する。その紙を女の上に被せ、精霊術を使う。青と赤の光が紙に文字を写しだしていく。

 しかし途中で女は切断された傷口が潰れるのも構わずに走り出し、茂みの中へと消えた。あまりの素早さと予想外の気持ち悪さにジェラルドとハクタも反応できなかった。

 カロンは飛ばされそうになった紙を掴み、眼鏡越しで周囲を確認する。女は魔素を纏っていた。そのせいで空気中の精霊が異変を伝えて蠢くほどだ。


 ジェラルドが岩場から的確に女の体を馬車ごと潰せたのも精霊の異変があったからだ。ミカに引き寄せられている精霊が、魔素のせいで大きく乱れていた。

 潰れた死体と血の車輪跡を見つけたヤーとクリスの先行隊に追いつけた理由でもあるが、その特徴さえ捉えてしまえばミカほどの視る才能がなくとも、動きを掴むの容易い。

 少しずつ空気中の精霊達が安定していくのを視たカロンは、紙に写し出された文字を眺めながら少しだけ考える仕草を見せた。


(オウガ、もしくはヤー!今すぐミカの服を脱がして!!)


 ミカの手の中にある氷水晶の指輪から姿を現したアトミスはただでさえ白い顔を青く染め上げながら大声を上げる。苦しいのか胸元を強く手で掴んでいるほどだ。

 しかし声をかけられたオウガは呆然とし、ヤーなどは顔を真っ赤にした後に馬鹿なことを言うなと怒鳴る。だがアトミスの様子がおかしいことに気付き、次の言葉を待つ。


(よくわからないけど、ミカの右腕、痣がついているあたりとか下半身に魔素が付着して気持ち悪いんだよ!!微量とはいえ、僕には汚物が近くにある気分なんだ!!)

「わかりました!では僭越ながら私の服を代用しましょう!オウガ殿、王子の服をすぐに燃やす準備を!!」


 迷いなく着ていた乗馬服を真面目に脱ぎ始めたクリスに対し、ヤーは言葉が追いつかないと口を何度も開閉する。考えるのが面倒になったオウガはクリスの言葉通りにミカの服を脱がしにかかる。

 しかし一番動揺したのはアトミスの姿も声も捉えられなかったハクタ達三人であり、道の上でいきなりミカの服を脱がし始めた妹や弟弟子の奇行に何事かと目を丸くした。

 いち早く行動したのはジェラルドであり、いつもと変わらない愛想もない真面目な顔のまま服を脱ごうとする妹の手を力強く掴む。あまりの力強さにクリスは肩を尖らせたほどだ。


「……なにをしているんだ、お前は?」

「兄様、どうやら王子の服に毒物らしき物が付着しているようなので、替えの服をと……」

「私の上着を渡す。お前は脱ぐな。そしてできれば草むらで行え。そこの従者、王子を連れてそこの茂みで脱がせ」

「……あー、そうだよなぁ。なんか勢いに流された。あんがとさん」


 ジェラルドからの言葉に感謝し、オウガはミカを俵担ぎして移動させる。その後すぐに兄からの言葉に状況を理解したクリスが顔を真っ赤にし、ヤーが溜息をつきながら彼女の服装の乱れを直すのを手伝う。

 その間にカロンは魔素が付着した土や木屑、特に色濃く付着した幌の布地を回収していた。ジェラルドの愛馬であるムーティヒに近付いた時は頭を蹴られそうになり、情けない悲鳴を上げて避ける。

 一連の流れに呆れや驚きが雪崩れのように襲い掛かって疲れたハクタは、とりあえず女性陣の周辺を警戒する。ジェラルドの着替えは早く、少し軽量になった服装で茂みから姿を現す。


 オウガも上着を脱いでミカの服を包んでいた。そして肝心のミカはジェラルドの体格が大きいことが幸いし、上着だけで体全体が隠れていた。しかし寒いのか、寝ながらも小さいクシャミを出す。

 ある程度の材料サンプルを回収したカロンは笑顔でオウガに両手を差し出す。少し考え込んだオウガは上着で包んだミカの服を渡す。それを嬉しそうに抱えながら、カロンはハクタに馬の後ろに乗せてくれと伝える。


「じゃあ帰りは俺とカロン、クリスとヤー、オウガは……二人乗りは無理だな。ジェラルドがミカ王子でいいか?」

「構わない。道中で馬車と服を調達する。クリス、先行を頼めるか?」

「兄様……はい!!お任せください!!」

「え、ちょ、待ってこの子が張り切ると大変っわぁっああああああ!!」


 尊敬する兄に頼み事をされて目を輝かせたクリス、その後ろに乗っていたヤーは馬の速度変化に悲鳴を上げた。美しい白馬は意気揚々と風のように走り始めた。

 オウガは慣れない乗馬に苦戦しつつ、ジェラルドの横に追従する。ジェラルドは落ちないように自分の前方にミカを乗せ、当の本人は気持ちよさそうに馬の鬣に顔を埋めている。

 氷水晶の指輪は着替えの際にオウガが確保しており、アトミスは先程体験できなかった馬の背後に乗り景色を眺めることに高揚している。しかしそれを悟られないように、オウガと背中合わせの乗り方だ。


 両手が塞がったカロンもハクタに支えられる形で鞍に乗っており、眼鏡越しでオウガの後ろを眺める。そこには水の精霊が集まっており、水晶が光り輝いているように煌めいているのだ。

 視える才能がないジェラルドやハクタは気付いていないが、近くに妖精がいること、その確かめ方を実験できたことにカロンは上機嫌になる。一番は最上の手土産ができたことだ。

 先程の魔人に被せた紙で魔素の濃度と配合具合を調べたのだ。魔素が精霊を集めた結果狂ったものだとするならば、そこには比率が存在するはず。比率と配合さえわかれば、魔人の特定を可能とする。


「あの研究馬鹿親父を夢中にさせる物がこんなに……これでフィル王子の策謀は進むし、僕も本腰を入れることができるよ」

「いいのか?最愛の妹が夢見る道の邪魔をするようなものだろう、お前の狙いは」

「ヤーちゃんは僕が顧問精霊術師を目指すくらいで諦めることなんてないよ。むしろ燃え上がるだろうね……あー!!ヤーちゃんが!!僕を敵視する!!熱い視線で!!最高だね!!」

「本当にお前とフィルに関しては手に負えねぇな。怖い」


 ハクタは周囲の人間関係を思い出して頭を痛める。どうにもこうにも兄という人種が集まっている割に、まともと言える者が少なすぎる。

 しかしジェラルドがまともかと言われたらどうかということに関して、ハクタは眉間に皺を寄せた。真面目な顔で厳しい態度をしているが、あれも妹を可愛がっているのだ。

 表面に妹や弟大好きを押し出すか、内側で密かに可愛がるか。どちらが良いのかなど、判断が難しいことにハクタは自らにも降りかかる問いに大きく溜息をついた。








 女は這いずりながらもユルザック王国の名城カルドナに辿り着いていた。すでに夜の闇も深く、貴族裁判での騒動も半ば落ち着いた時刻。

 目指すは城の東側。王子に与えられたには小さな部屋。そこには女が望む物がある。それを手に入れるためだけに、女は進むのを止めない。

 潰れた手の傷口も修復が始まっている。なによりこの城には女の、仲間達の協力者がいる。彼がいる限り、女に敗北は訪れない、はずだった。


 夜風が冷たい庭に立つのは淡い白の衣服が似合う王子。亜麻色の髪が揺れ、月光に照らされているせいか冷たさを増している。

 その優しい相貌で微笑まれた女は、悪寒を覚えた。目の前にいるのはただの人間だ。第五王子のように運命も宿命も、特別な物などなにも持っていない男。

 王子の中でも特に平凡な、特徴のない男だと女は認識していた。努力をしているとしても、それでも彼には敵わないと考えていた。


「こんばんは。魔人って初めて見るけど、結構普通なんですね」


 笑いかけながら気さくに話しかけてくる男に対し、女は自分の姿を見下ろす。潰れた傷口を足代わりに歩いている姿を、目の前の男は普通だと評価したのだ。

 歯の根が合わなくなる。音が出るほど口の中が震える。一体、目の前の男はなにを考えているのか。どこに怯える要素があるのか。それすらもわからないまま、女は逃げようかとも考えた。

 しかし男さえ倒してしまえば、女の欲しい物はすぐそこにあるのだ。あの金色を手に入れられるならば、なにより彼の利益となるならば、目の前の男に挑むのは見返りが多い。


「う、ふ、あは!あははははははは!!ああ、馬鹿な王子!!魔人を殺すこともできないくせに、精霊も視えないくせに、目の前に立ちはだかる愚行!!後悔するといいわ!!」

「後悔?面白いことを言いますね。貴方こそ、ここが何処だか御存知ではないのですか?」


 男の言葉など無視して女は地面を這いながら進む。首筋を噛み千切るか、それとも馬車で殺した男のように死んだこともわからないように狂わせるか。

 殺した後はジリック家の男と同じように飾り付けてもいい。穏やかな顔の小さな口に指を詰め込む快楽を想像し、女は興奮しながら走る。


「ユルザック王国、名城カルドナ。その名を汚した罪、生きながら悔いると良いでしょう」


 男の背後から現れた小さな体格の男が大きな紙を広げる。そこに描かれた複雑な文字と図形の並びは精霊術で使う陣。女は一瞬でそれを読み取った後、悲鳴を上げた。


「あ、ああああああああ!?あ、あり得ない!?転化術の劣化版……けど、その術式は!!魔素を打ち消すそれは、それは!!」

「精霊術式瘴気中和陣・四大霊起動術リ・セット。氷水晶の神殿で起きたウラノスの民の環境整備術リ・フォームを参考にした、四大精霊使用の新作!その体で試させてもらうよ!!」


 かつて女が嘲笑った幻の民が残した遺跡。そこに残された機構をカロンが独自に解釈し、精霊術師でも魔人に対抗できるように組み立てた人間の努力と知恵の結晶。

 馬上に揺られながらもカロンはこれを完成させることだけを考え、城に帰ってから即座に書き起こした。女は自身が侮った全てに復讐されるような心地で、その紙を眺めていた。

 しかし女の意識はそこで終わる。精霊術が発動するよりも前に魔術による攻撃が、女の体を塵へと変化させた。内部の魂など、留めておくこともできずに天空へと昇っていく。


 その魂すらも夜闇に溶けるように飛んでいた暗褐色の梟が嘴で啄む。死の聖獣はその姿を誰にも視認されず、静かに消えていく。


 紙を広げたまま呆然としていたカロンは、少しの間沈黙した後に憤慨する。貴重な実験の機会が失われたことを理解するのに時間がかかったのである。

 物陰から出てきたジェラルドとハクタも周囲を見回すが、目立った気配はない。女の魔人を消した存在は、仕事を終えてすぐに姿を眩ましたようであった。

 フィルは深く冷たい空気を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出していく。少し困ったように眉を八の字にして、渋々といった様子で呟く。


「困ったなぁ。生きながら実験材料として確保する予定が……拷問もしたかったのに」

「相手もそれを危惧して、始末したんだな。しかし俺達のことを殺さないということは、またもや水面下に潜るつもりか」

「だろうねぇ……うう、せっかくの自信作がぁ……魔人なんて貴重なのにぃ……」

「しかしこれではっきりした。この城には魔人を使う奴がいる。そして魔人は第五王子を狙っている」


 ジェラルドの言葉にフィルは力強く頷く。今までは姿を現さなかった者達が、城内の混乱に乗じて頭を見せた。貴族裁判はそのための餌だった。

 十六貴族全てを集め、全ての王子を集結させ、あらゆる地位ある者を動かしての策。それだけの大規模な作戦に対して、魔人の証拠は得られなかったが、確証は手に入れた。

 なにより十六貴族の代表全てが魔人の所業を目で確認したのが強みだ。これから例え不可解な事件が起きたとしても、放置するということはなくなる。魔人の可能性を捨てず、探るための手段を必要とする。


「ミカは誰にも渡さない。彼女王妃が僕に託した大切な。そして僕が王座に辿り着く鍵」


 賽は投げられた。一つではない。複数に渡るそれらの目は決まっていない。それでもフィルは自らが望む結果が出るように、盤自体を揺らす。

 ユルザック王国、統治する王族と十六貴族。全てを巻き込みながらフィルは最も事態を動かす存在、王位継承権がない第五王子を大事にしながらも容赦なく利用する。

 全ては幼い頃から見てきた理想の夢のために。死んだ王妃に認められたあの日から、フィルは着実に根を広げていた。茨のように、力強く。


「さあ僕について来い。ミカ達の未来は僕らが築き上げる。ミカミカミなんかに揺らされてたまるか」


 力強く宣言するフィルの背中に三人の男は従う。全ては大切な兄弟のため。四人の兄は五文字の単語に惑わされることなく、前に進むことを選んだ。

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