第5話「追走」

 ユルザック王国の名城カルドナ。その厩舎は王族も利用することから馬にとって楽園のような場所であったが、気高い牝馬であるシェーネフラウは鼻息を荒くしていた。

 優秀な自分の遺伝子を残したい雄は優秀な雌を選ぶ。つまり厩舎内にいる牡馬がシェーネフラウに熱い視線を送り、世話係の使用人になにかを訴えるように絶え間なく嘶きを上げるのだ。

 それに苛立ったシェーネフラウは干し草を変えようとする世話係に八つ当たりすることになり、馬の恋愛事情に鈍い世話係は涙目である。馬蹄の威力を知っている分、シェーネフラウに蹴られてしまえばあっという間に昇天だ。


 シェーネフラウを従えることができるのは乗り手でもある十六貴族の一つ、ベルリッツ家のクリスバードだけである。世話係は若干の期待を込めながらクリスが来ることを待ち望んでいた。

 身分の低い青年である世話係が相手してもらえるとは思えない。しかしクリスの華やかな凛とした美しさは百合の花に近く、その微笑みは純白の羽毛と錯覚するほどである。

 なにより貴族という割には礼儀正しく笑顔で接してくれる。シェーネフラウを世話係に預ける際も頼もしい笑みでよろしく頼むと言われ、世話係はその夜は眠れないほど有頂天になったくらいだ。


 あわよくば世間話のつもりで馬の話をしながらご趣味とか好きな男性の種類を聞きたい世話係は、どこか早足の軽やかな音に期待の人が来たと頬を赤く染めた。

 ベルリッツ家は素早さに誇りを持つ貴族。その生き様と馬を愛する家風は最早騎族と呼ばれるほどだ。そのせいか現当主のジェラルド・ベルリッツも恐ろしいほど早足である。

 しかしジェラルドの足音は威圧と重みに溢れている。まるで白鳥が飛び立つような軽やかな音の場合、それは妹であるクリスで間違いない。世話係は近付く足音にときめきを感じた。


 だが期待とときめきは足音が増えていくのを感じて少しずつ崩れ去ることになる。四人、いや五人以上の足音が迫っているのだ。その内、武器のような金属音も混じっている。

 今は十六貴族と中央貴族、そして王族も収集した貴族裁判が始まっているはず。多少の騒ぎが聞こえたが、厩舎は城内の方でも外れの位置にあるので、世話係は事態を把握していなかった。

 風が乾燥する秋であるため、干し草は良好な質を保っている。清潔に気を遣い、餌も指示されたとおりに与えている。では何故大勢の人間が厩舎に集まっているのか、世話係は不安になる。


 そして飛び込むように早足でやって来たのは予想通りクリスの姿であり、彼女は世話係もあまり近くで見たことがない天才精霊術師の少女を連れて歩いていた。

 世話係は頬を赤らめながらもクリスに挨拶しようとしたが、その横を颯爽と通り過ぎられてしまう。眼中にない、という結果に人知れず落とした肩を掴む手に世話係は顔を上げる。

 他の男性が早歩きで息を若干乱している中、汗一つも見せないで平然とした無愛想な顔のジェラルド。十六貴族の当主が自分の肩を掴んでいることに、世話係はなにか不備でもあったのかと頭が麻痺するほど緊張した。


「今すぐ最も軽い馬車と私の馬ムーティヒの準備を。クリス、お前は先に進め。後始末は私が責任を持つ」

「はい、兄様!!それではヤー殿、私の腰にしっかりと手を添えてください!!」


 世話係が疑問や追及の声を上げる前に白い牝馬が風のように厩舎から走り去っていく。白百合の髪と羽根の髪飾りが残す華やかな香りが、一瞬にして消える。

 あまりの速さにヤーが情けない悲鳴に近い声を上げていたが、それすらも馬の蹄と共に遠ざかる。いつの間に鞍と馬具を取り付けたのかと、世話係はベルリッツ家の早業に感心する暇もない。

 背後からかかるジェラルドの威圧だけではない。ハクタの切迫した視線に、オウガの睨み。唯一気楽そうにしているカロンですら、地団太を踏んでいる。世話係は訳がわからないまま木製の馬車を用意し始めた。





 王城から走り出る際に止めに入った騎士すらも飛び越え、シェーネフラウは伸びやかな足で第一の壁、城壁と差し迫っていた。その高さは樽を十個積み上げても意味がないと思い知らされる。

 煉瓦で積み上げられた堅牢なる壁は侵入者だけでなく、内部からの逃走者すらも防ぐ。そして城壁から貴族街に通じる門は三つ。そのどれもが外側に深い掘を渡るための橋が架けられている。

 五年前の大干ばつの際には堀の水すらも乾いて汚泥と異臭だけだったが、今では透明で豊富な水が張り巡らされている。侵入しようと乗り越えることも、潜ることすら許されない。


 三つある門の内、中央門では騎士達が城内の異常の伝達を行っている最中であり、今は迫るシェーネフラウと二人の少女の姿に戸惑うばかりだ。しかも手綱を握る少女の手には、華麗な儀礼槍クーゼが握られている。

 場違いなほど美しい馬に武器、そして鬼気迫る少女の蒼眼にも物怖じせずに騎士達は剣先を向ける。大声で何度も止まれと警告するが、馬の速度は上昇したまま門の足元まで迫る。


「クリス!?ちょ、だから通過をどうするのよっ!?アタシはミカを助ける前に死ぬのだけは嫌だからね!」

「このまま突っ切ります。シェーネフラウならば、剣を叩き折ることができます!!」

「ぐぎゃあ、この子オウガ以上に脳筋だった!!っ、アトミス!!」

(全く……堀があることに感謝しなよ!)


 馬に慣れていないヤーがクリスの腰に抱きついたまま手首に巻き付けた探索水晶ペンデュラムに声をかける。呆れたような声と共に、氷水晶の妖精アトミスが精霊術を行使する。

 透明な氷水晶の階段が橋となって壁を跨ぐ。瞬時に完成された芸術品に脅威を覚える前に、騎士達の目の前で白馬が空を駆けていく。薄っすらと見える氷水晶を認知していたとしても、その光景は圧倒的だった。

 後を追いかけようとした騎士達の前で氷水晶は羽毛のように砕け散って姿を消していく。まるで馬の足に合わせた消滅に、天馬が作り上げた光の道なのかと敬う気持ちすら生まれてしまう。


 堀すらも越えて貴族街に降り立ったシェーネフラウは止まることなく貴族用の街道を思う存分走っていく。中央貴族の多くは城内に滞在しており、その家族は屋敷で寛いでいる時間帯。

 通りかかる馬車も少なく、外で遊ぶ子供もいない。そして豊かさを象徴する整備された広い道が、軽やかな蹄の音を響かせる。氷水晶の橋に感動することもなく、真っ直ぐな目で前だけを見てるクリスにヤーは溜息をつく。

 ヤーがクリスを見た最初の印象はどこかおどおどした真面目な少女だったが、今や一直線馬鹿という称号を授けたくなっていた。つまりは目標が決まると、他にはなにも見えなくなるのだ。


 しかし次の壁は市民街と貴族街を区切る隔絶壁。城壁よりは低いものの、その高さも並大抵ではない。特に隔絶壁の周囲は坂道が混濁しており、迷いやすい形式となっている。

 これは隔絶壁を突破した軍勢が道に迷って城への到達を遅らせるための案によるものだ。ヤーも幼い頃に何度か迷ってしまい、その度に自作地図を作っても迷うほどの難関である。

 今度は堀などない。あれだけの橋を作るには氷水晶の妖精であるアトミスでさえ大量の水を必要とするのだ。今度は橋を架けて乗り越えることなどできはしない。


「……で、聞きたくないけど次は?精霊術でもなんの補助もなしに人を安全に浮かすことは難しいんだけど」

「突っ切ります!」

「ちょ、アタシじゃ手が余るわよ、この子!アトミス、なにかない!?」

(期待されてもなにもないよ。僕にはどうしようもないね)


 探索水晶に付き従うように馬の横を気ままに浮かんでいるアトミス。ただし馬の速度が尋常ではないため、高速で浮かび続けているように見える。ただしアトミスが見えるのはヤーなど気を許した相手だけだ。

 隔絶壁に近付けば壁から段階的に伸びる旗棒と、風に揺らめく巨大な国旗が見えてくる。初代国王が逝去された後の世にて、二代目国王が取り付けた国の象徴である。今もその威光を太陽に照らしている。

 赤い布地に王冠を被った黒鷲が金色の瞳を輝かせている姿を刺繍している。過去の戦火の色、そして初代国王が愛した鷲を象徴としたのである。金色の瞳はかつて淦川で取れた砂金の所有を我が国と示すための意地だ。


 長布であるため、重さにつり合うように旗棒も太く頑丈な物が用意されている。定期的な点検は行われているため、今のところ落下による死亡事故は起きていない。

 風が強い日は門番である騎士達が辛い思いをして長大な梯子を運んで長大な旗を巻いて片付ける。しかし十六貴族が集まっている貴族裁判関連の数日は、風も穏やかで騎士達は仕舞う必要がないことに安堵していた。

 その平穏を突き崩すように迫ってきた白馬に、隔絶壁担当の騎士達は大慌てだ。市民街からの無謀な突入は幾つもあったが、貴族街からの突破など前代未聞である。


 しかし貴族の安全、及び王族への危険を排除することに特化している騎士達は迷うことなく剣を抜く。門まで通じる道は幾つもあれど、門は一つ。ならば待ち構えていればいい。

 そろそろ迷わせるための袋小路に差し掛かるだろうと、相手の迂闊さにほくそ笑んだ騎士達だが、シェーネフラウは止まることなく手綱を握るクリスの意思を汲み取る。

 そして行き止まりの壁が見えても減速しないシェーネフラウに、騎士達だけでなく相乗りしているヤーですら仰天する。アトミスですら、猿とはいえ馬鹿すぎる、と慌てるほどだ。


 クリスは短い気合の声を腹の底から発し、太腿で鞍越しにシェーネフラウの体に強く抱きく。ヤーは思わず瞼を閉じ、アトミスは見てられないと目の前を両手で覆う。

 白馬は力強く地面を蹴り、次には壊しかねない勢いで目の前の壁を蹴り上げる。内臓が体を置いて宙に浮かぶ感覚にヤーは悲鳴を上げることも叶わず、次に襲った衝撃に驚いて瞼を開ける。

 まるで崖を登るように壁から突き出た旗棒を足場にシェーネフラウは跳ね上がっているのだ。着地してはすぐに跳躍するので、ヤーはほぼ鞍から体が離れたような感覚に恐れる。


 両腕で力強くクリスの腰に抱きつくが、着地するごとに堅い鞍に臀部をぶつける羽目になるのだ。痛みで涙目になるが、それよりもクリスから離れないようにするだけで精一杯だ。

 逆に驚くべきは手綱を握っているのが片手だけのクリスの安定感だ。シェーネフラウと呼吸を合わせながら姿勢を変えて負荷を軽減させている。影で槍飾りが翼のように見えた騎士は、慌てて目元を擦った。

 しかしあと少しの所で風向きが変わり、突風で長布が空に向かって突き上がる。なにより次の旗棒までの距離が遠すぎることに気付いたヤーは口から心臓が飛び出そうになった。


 だがクリスとシェーネフラウは動じることなく次の足場に向かって飛び立つ。そして強風によって力強い表面張力を得た旗を、迷いなく蹴り飛ばした。

 壁の最頂点に辿り着いたことが信じられないヤーは次の光景に絶句する。背後では最後に足場とした旗と旗棒が急に与えられた衝撃に耐えきれず地面へと落ちていく音が盛大に聞こえたが、それどころではない。

 埋め尽くす人、人、人。あらゆる道に生活が息づく市民街。その遥か先に最後の壁、街壁。民家が乱雑に立ち並び、坂道と迷いやすさも貴族街の二倍。その広さは王城と貴族街を含めても三倍は優に超えている。


 裏道ですら商店が立ち並び、道には通行人や遊ぶ子供達が無造作に動いている。市民街の住民同士でぶつかることも多く、喧嘩の種に事欠くことはない。

 広い道は常に商人の馬車やあらゆる領地から集まった旅人が埋めていた。細い道になればなるほど治安は悪化し、中には貧困区画すら存在している。

 とてもではないが先程の速度で走ることなどできはしない。ゆっくり進めるかも怪しく、下手したら道に飛び出た子供や老人を踏んでしまう危険性が高い。


 高所による風の強さと相まって街の至る所で伸びる長布が揺れている。まるで家と家を結ぶ鮮やかな色布は、五年前の大干ばつから取り入れられた物だ。

 雨が降った際に布に染み込んだ雨水がたわんだ布の中央に集まり、そこから巨大な水滴が地面へと落ちていくのだ。雨が降る日はそこに樽を置き、水を貯めるのだ。

 絞ればさらに多くの水を集めることが可能で、少しでも水を節約したい、備えたいという気持ちから民達がそれぞれ始めたのがきっかけとなり、今では街を彩る風景として有名になった。


 街壁や市民街に通じる隔絶壁でも同じことが考えられ、壁の頂点から下へ伸びるように布が架けられている。布が伸びる先には生活用水として使う川だ。それだけユルザック王国の民は、五年前の大干ばつを恐れたのだ。

 しかし布の強度としては頼りないところがあり、場所によっては破けている布も存在していた。しかしヤーがどうするのだという声を発する前に、シェーネフラウはその布を足場に市民街へと滑り落ちていた。

 蹄は荒れた土地や雪の地面に適応した力強さがあり、決して凹凸がない氷や布が得意なわけではない。それでもシェーネフラウは滑空するように布の上を姿勢正しく滑っているのだ。


 布が耐え切れずに繊維が音を立てて引き千切れていく。クリスが短い声を上げた際、シェーネフラウは地面へ降り立つ前に民家の屋根へ飛び移る。完全に断絶された布が力なく地面へと落ちていく。

 何事かと人々が顔を上げていくが、音が聞こえて振り向いた時には白い姿しか印象に残らない。子供が楽しそうに馬を指差すが、近くにいた母親は慌てて離れようと子供を抱えて走り去る。

 市民街を巡回していた第五隊の騎士達が警笛を鳴らすが、クリスは最早次の壁にしか目を向けていない。ヤーは捕まった方が楽になるかもしれないと思ったが、金色が特徴的な王子の笑顔を思い出せば渋々と進むしかなかった。


 屋根瓦が時折壊れては落下していき、家の中にいた住民が抗議の声を上げる。それすらもあっという間に風の中に消えていく。それでも人のざわめきや混乱は大きくなっていく。

 追いかける騎士達が騒ぎを聞きつけて道に出てくる人混みに阻まれて動けなくなるほどだ。屋根を使って直線的に進んだが故、早くも見えてきた壁の大きさは城壁を凌駕するものであった。

 これでは城壁で使った氷水晶の橋も作れないとアトミスが言葉を失う中、クリスが自らヤーへと振り向いて言葉を発した。


「ヤー殿、アトミス殿、壁から広がる布を先程の階段橋のように強固にすることは可能ですか!?」

「……アタシが川から水を布に浸透させるわ!」

(ったく、妖精使いの粗い奴らめ!!)


 片腕でクリスの腰に死に物狂いでしがみつきながら、ヤーは右手の人差し指で水の精霊を集めて青い光文字を宙に浮かばせる。文字が川の中へと溶けた瞬間、大量の水が布へと逆流して濡らしていく。

 長布がいきなり濡れたことに街壁の門番をしていた騎士達は検閲を一時中断し、騒ぎの方へと目を向ける。そして白馬が最後の屋根を盛大に蹴り上げたと同時に水が氷水晶へと変貌し、布を取り込むように長く透明な階段を作り上げた。

 シェーネフラウは軽やかに階段を駆け上がっていく。しかし今回は背後から騎士達が鎧の音を響かせながら追いかけてくる。一際強い風が吹いても、階段が揺れることはない。


 最後の壁を乗り越えて、遠い下への地面を見てヤーが目を眩ませる中、アトミスがさり気なく氷水晶を元の水に戻して布を濡れた状態に戻していた。

 急に氷水晶の階段が消えたことに対応できず、追いかけていた騎士全員が布の上を滑っていき、生活用水が流れる川へと落ちた。重い鎧が仇となり、全ての騎士が川に飛び込んだ後に布も千切れて風に飛ばされてしまう。

 初代国王が築いた三つの大壁を乗り越えた者、それも馬単体と精霊術と妖精の協力を得た者など前例がない。異様な状況に検閲の騎士すら呆気にとられ、壁のすぐ横を落ちていく白馬の行方に目を向ける。


 ほぼ直角の壁の横を暴れることもなく落ちていくシェーネフラウとクリスはお互いにタイミングを計っていた。そして地面との距離が絶妙に迫った際に、後ろ足で街壁を蹴る。

 落下による力を無理矢理に横へと変え、飛ぶように地面の上へと着地する。その勢いのまま駆けていく白馬と騎手の背中姿に、最後まで見届けた検閲の騎士は正体は一つしかないと納得する。

 東の貴族ベルリッツ家。あれだけの速度に、馬の乗りこなし。なにより前を見た際に発揮される突進力、歴史の威光そのままの姿には呆れを通り越して感心が湧き上がるほどだ。





 そしてかなり遅れてジェラルドが乗る黒馬を先頭に軽量馬車が街壁の門までやってくる。気が荒い牡馬はその巨体故にすれ違う子供に泣かれては苛立ちを募らせていた。

 馬車を引く馬の手綱はハクタが握り、オウガとカロンは幌がついた荷台から様子を眺めていた。通り過ぎていく場所全てで風のような白馬が起こした騒ぎで王城以上の混乱が城下町を襲っていた。

 特に生活用水が流れる川に落ちた騎士達の引き上げが大変だったらしく、道端に鎧が置かれてはずぶ濡れのまま乾いた布で体を拭く屈強な男達が注目を浴びていた。


 ジェラルドはベルリッツ家の蝋印と第四王子フィリップ・アガルタ・ユルザックのサイン付き特例通行証を検閲の騎士に差し出す。騎士達はその証明書に目を丸くし、ジェラルドの威圧的な視線に背筋を震わせた。

 ベルリッツ家の紋章は一本角の馬と交差する二本の槍。騎族とまで称されるに相応しい単純明快な紋章は、精巧な細工によって芸術までに昇華されていた。


「押し通る。構わんな?」

「は、はいっ!!お気をつけて!!」


 検閲の騎士だけでなく川に落ちた第五隊の騎士達も半裸の状態で敬礼する。改めて十六貴族の権威を感じ取り、馬車の中でオウガは面白くなさそうに舌打ちする。

 仕方ないとはいえ大嫌いな貴族の力を借りた。その事実がオウガにとっては屈辱だが、ハクタは咎めるような視線は向けない。ひたすらに精霊術でミカの動向を追いかけているカロンに集中する。

 カロンの精霊術はヤーとは違い、紙面に書いた精霊文字を絵柄へと変え、一種の陣に仕立て上げていることだ。緑色の光が紙面の上に浮かび、丸い円の中でも西に点滅する大きな星を作っていた。


「西。とにかく西に向かって、もう少し近付かないと細かい測定ができない……と言っても、ミカ王子はわかりやすいから一定距離から精霊が教えてくれるよ」

「この中だとお前しか精霊が視えないんだ。しっかり確認してくれ」


 切羽詰まっているようなハクタの言葉にカロンは適当な返事をする。本当に頼りになるのかとオウガは怪しむ視線をカロンへと向ける。

 柔らかい白の癖毛に青い目を大きな丸眼鏡で隠している。ハクタと同じくらいか年下のはずだが、少なくともオウガより年上であるはずだ。それなのに体は一番小さい上に、肉付きも悪い。

 まさに室内で仕事をする研究者を表現した姿だ。しかしオウガは目の前でにこやかな笑みを向けてくるカロンがヤーより役に立つとは思えなかった。


 街壁を通り過ぎ、背後で馬の蹄型に損傷した壁の修復について話し合っている騎士を見ながら、ジェラルドは少しずつ黒馬の速度を上げていく。

 ハクタも慌てて速度を合せようとするが、危うい手綱捌きのせいで馬達が抗議の嘶きを上げる。オウガが殺意に近い圧力をかければ、馬達はさらに怯えて暴れ始める。

 本格的に爆走をしかねない状況の中、平然とした顔でジェラルドが馬車の馬達と並走するようにムーティヒの速度を落とし、横から手綱を握って馬と目線を交差させた。


 途端に馬達は落ち着きを取り戻し、今度はムーティヒに追従するように走り始める。最早ハクタの手綱など必要もなく、忠実な様子でジェラルドの背中を追いかけていた。

 ハクタは御者台で若干落ち込みながら、殺意に近い気迫を見せたオウガを睨む。しかし当の本人であるオウガは目線を逸らして口笛まで吹く始末だ。

 馬車の荷台で大笑いしながら転げまわるカロンだったが、馬車が道の小石で揺れた衝撃が襲ってきた時、傾いたオウガの長槍太刀パルチザンに軽く押し潰された。


「ぐえっ!?お、重っ!!なにこれ……人間が持っていい重さじゃないよっ!?」

「大袈裟すぎんだよ。おい、兄弟子……本当に大丈夫なのかよ?大分引き離されたみたいだがよ」

「ここはジェラルドの速度に合わせるしかないからなぁ……とりあえずそろそろ馬車の荷台に掴まっておけよ」


 冷や汗を流しながら忠告してきたハクタの意向が掴めず、オウガが首を傾げた瞬間だった。またもや小石で揺れた馬車だったが、その大きさは武器が倒れてきた時の比ではない。

 よく見れば景色が流れていく速度が段違いに早くなっていることに気付き、オウガは愛用の武器を手にしながら膝立ちの状態で荷台の縁に掴まって衝撃に備える。

 しかし前を走るジェラルドに異変はない。姿勢も、前を見続けている視線も、追従する馬の様子もだ。ただ馬車だけが大きく揺れ、速度が上がっている。


 御者台で自分の剣を手にしたハクタも振り落とされないようにするので必死であり、カロンは陣を描いた紙を握り潰さないように用心しながら何度も台の上を跳ねている。

 オウガは思い出す。ミカ達によって教えられた十六貴族の名前と、ベルリッツ家に関する歴史の名がでも異業と称される圧倒的な進軍速度を。二か月かかる距離を半月での移動。

 東の果てから西の果て。広大な土地を持つユルザック王国の横断のことなど眉唾か大袈裟に語られていると気にしていなかったが、今は実感するしかなかった。


 整備されていたはずの道はいつしか森の中へと入り、少しずつ獣道へと変貌していく。馬車に当たる木の枝の量も多く、馬車は揺れ続けて荒波を越える船のようになっていた。

 軋み始めた木の荷台に嫌な予感を覚えたオウガはハクタへと視線を向ける。すると全てを悟ったハクタは穏やかな笑みを浮かべ、荷台の上を跳ねて目を回していたカロンの体を引き寄せていた。


「跳べ、オウガ!!」

「やっぱりかよ!!」


 馬車を引く二頭の馬、それぞれの背中に向かってオウガとカロンを抱えたハクタは武器を持って跳躍する。馬達はそんなことも気にせず、ひたすら走り続けるジェラルドの背中を追う。

 少しずつ木によって狭まっていく道に耐え切れず馬車が大破する。しかし衝撃で飛び散った木片ですら馬達に追いつけない。それだけの速度を維持したまま、無言でジェラルドは走り続けていた。

 馬に乗り慣れていない三人は手綱を握って鞍から落ちないようにするので精一杯だ。特にカロンはハクタに抱えられた状態で座っており、自由な両手で紙を持ちながら方角を確かめている。


「……西で間違いないな?」

「え、うん……そうだけど、まさかっ!?」


 短いジェラルドの確認にカロンは顔を青ざめさせた。目の前には低くはない勾配がついた崖。足場があるとはいえ、馬で降りようとは思わない斜面にムーティヒは走り続けている。

 カロンは全てを諦めて馬の首にしがみつく。ハクタとオウガも奥歯を噛み締め、鞍ごと馬の胴体に太腿を使って衝撃については覚悟した。そして掛け声もないまま、迷いなくジェラルドは崖へとムーティヒを走らせた。

 突き出た木の枝、尖った岩、崩れやすい斜面、一歩でも間違えれば転げ落ちることは容易い場所で、ジェラルドは姿勢を変えてムーティヒと呼吸を一つにする。


 決して手綱でムーティヒの邪魔になるようなことはせず、むしろ体の動きでムーティヒの力強い筋肉を活かしていく。人馬一体、という言葉は彼の貴族のために用意されたが如く。

 ジェラルドの呼吸と体捌きで余裕を得たムーティヒは後ろから追いかけてくる馬達でも降りられる道順を選んで降りていく。ただししがみつくのに必死なカロン達には伝わらない、超絶なる判断力だ。

 ハクタ達を乗せているだけの馬達は迷いなく黒馬に乗るジェラルドの背中を追いかけていく。青色の乗馬服が、風を切り裂いて活路を開く感覚は戦場に在住しているに近い物があった。


 長いとも短いとも、時間の感覚さえ鈍るような降下。ジェラルドはその道中で折れたばかりである木の枝を見つけ、妹であるクリスもこの道を通ったことを確認した。

 自然に折れたように見せかけた枝は走っている最中に何度も確認しており、それを目印にジェラルドは追いかけているのである。走りながら行う後方への支援、その技術力にジェラルドは満足そうに一人頷いた。

 ムーティヒの後を正確に追う二頭の馬達の活躍により、本来ならば回り道をするしかない場所へと最短距離で辿り着く。空中飛行に近い、初めて味わう感覚に、さすがのオウガも動揺した。


 しかしジェラルドとムーティヒは止まることなく走り続ける。騎族、その名の意味と歴史の語り継ぎが本当であることを、オウガ達は嫌と言うほど実感したのであった。

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