第10話「花開く」
冷たく静かな夜。月すらも雲に隠れて姿を見せない空の下、凍えるほど寒い森の中。
松明を片手に進む者達がいた。その数はおよそ五十。武器を持つ者もいれば、油瓶を片手に笑いを堪える者など様々だ。
共通しているのは全員が氷水晶の神殿にいる者全てを殺そうという目的を持っていること。血塗られた開幕を望んでいるということ。
一番前を歩く商人は歩みを確実に踏みしめながら、神殿にいる者達の顔を全て思い出して、一切の感慨もわかなかった。
笑っていた顔も、怒っていた顔も、泣いていた顔も、全てを知っていた。それでも殺すことに忌避感はなく、だからといって自分の手を汚そうとは考えていなかった。
全て背後にいる暴れん坊達が行う罪科であり、商人は交渉取引において多額の報酬と引き換えに彼らを先導しているだけ。たったそれだけであり、それだけで充分だった。
吐く息が白いと認識できない程暗い夜道。凍る地面。肌を粟立たせる冷たい風が、雲を押し流してわずかに月が地上を照らす。
「……は?」
商人は間の抜けた声を出した。氷水晶の神殿はもう少し歩いた先にある。それでもすぐ近くの場所で、明らかな異常を目にした。
月光に輝く氷水晶。木も、葉も、地面も、夜露さえも。全てが凍結され、水晶体となっている。風が吹いても、葉擦れの音一つ聞こえない静止した世界。
襲撃者達は足を止める。時間すらも凍りついたのかと錯覚してしまうほど、視界を埋める氷水晶は美しかった。一切の慈悲も許さない、冷酷で、魅力的な涼やかさ。
彼らの視界に白銀色の月光を浴びた金色が熱い熱を帯びたように浮かび上がる。
長い金髪の毛先は青墨によって淡く染められたような色合いで、金色の瞳の内、左だけは青い炎を宿したように輝きを強くしていた。
少年だ。そして金色の髪と瞳。商人は相手が抹殺対象だと理解しながらも、息を呑んで威圧された。夜道で獅子に会ったとすれば、こんな気持ちになるのだろうか。
(……来た。アトミス、レオ、いくよ!)
ミカは自分の内側、意識に向かって話しかける。普段は獅子の姿をした元太陽の聖獣レオンハルト・サニーしかいないはずの空間に、今宵はもう一人。
透き通る淡い銀髪が地面まで届く長さをした美しい少年。氷水晶の妖精、アトミス。深海に近い藍色を宿した目に緊張を含ませながら、力強く頷き返す。
羽衣術。妖精をその身に纏い、神に近い術を振るう手段。アトミスの体となる精霊を纏い、魂は内側に一時的に保存する、一体化に近い術だ。
アトミスは少年の姿を保つために水の精霊を保有していた。それを衣として纏った結果、ミカの外見は髪が伸びて着ていた服が変容した。
内側からは底知れぬ力が溢れ、通常よりも空気を漂う精霊を力強く肌に感じる。精霊術はアトミスに任せ、転化術はレオに任せる。
ミカはただ走り出せばいい。外套の上から溢れ出る水の精霊が凍りつき、水晶となり、羽根になる。四枚の花弁に近い形の氷水晶の羽根。
商人を含め、襲撃者達は恐れた。少年の背中から氷水晶の羽が生え、地面から浮かび上がる。誰かが力ない声で呟く。
「ウラノスの……民?」
地面に縛られないその姿は、天空都市に住まう伝説と称するに相応しい神々しさを放っていた。
氷水晶の神殿、祝詞の間。そこではヤーとテトラが精霊言語を使用した祝詞、パスコードの詠唱を急いでいた。
「緊急コード32:氷水晶の侵食範囲拡大及び探知機能の追加」
「防衛コード08:神殿防壁展開につき施錠解放、侵入されたら一発アウトよ!」
祝詞に合わせて壁を伝う精霊達がヤー達の声を神殿中に届ける。神官達は主要な扉の前に待機し、同時に神殿の変化に目を丸くする。
博物館のような荘厳な形をしていた神殿が、今では防衛砦のように巨大化し、城壁に近い氷水晶の盾で神殿を囲んでいる。見上げた際に開いた口が塞がらなくなる。
特に正門の守りを任されたハロルとケリーは扉の隙間から外の様子を窺い、森すらも防御の一部として機能させるために凍りついた時は声が出なかった。
「……まじっすか。この神殿、超やばくないっすか?ウラノスの民マジリスペクトっす」
「俺は末恐ろしいがな。アトミス様の言う通りなら、攻撃コードとやらがなかったのは幸いなのか不幸なのか」
氷水晶の神殿に備わった機能について、解放されたアトミスは全てをテトラに伝えた。神世の時代による防衛手段の技術が詰め込まれた建物であることを。
試練の間ではパラボラアンテナが緊急コードを受けて、氷水晶が届く範囲に存在する生命反応を光点として、天井に表示する。それを見上げたメバルは裏門の守りを固くするように指示する。
光点には色彩や強弱があり、その違いをメバルは見分けることができない。しかし一際強く輝く金色の光点だけは誰の物か、言葉にせずとも理解できた。
「まるで地上に舞い降りた太陽のようだ」
思わず詩的な言葉を呟いたメバルだが、すぐさま気を取り直して慌ただしい神殿を走り回る神官達に的確な指示を続ける。
戦場で一歩も動かずに敵を壊滅させた伝説の武官、その後ろ姿を思い出しながらメバルは笑う。これほど圧倒的に不利な状況は久しぶりだった。
長い時を経て、年老いた武官は神官となった。それでも彼の武功が衰えたとはメバルには思えなかった。今も最前線に立とうと意気込んた小さな体の、大きな姿を思い出す。
そんなメバルの感傷も知らず、ハゼは走りながら森の冷気を感じ取って盛大なくしゃみをした。隣を走っていたオウガは嫌な顔一つ浮かべず、挑発するように笑う。
「爺さん、老体が無茶するもんじゃないぜ」
「やかましい!!こう見えて腕には自信があるんじゃ!なにより、儂は病床で死ぬなんて優しい末期はないだろう」
ハゼは神官用の長い
空になった酒瓶を懐にしまい、暗闇にぎらついた目を向けるハゼの横顔を見て、無用の心配だったとオウガは愉快そうに笑う。全く神官に向いていない男が、久方ぶりの戦場に胸を躍らせている。
その姿は勇ましく、頼もしかった。それでも迫る年の波には勝てないだろうと、オウガはこっそりフォローしてやるかと思い直し、少しずつ見えてきた姿に目を細めた。
妖精が飛んでいた。
言葉にすれば簡単だ。しかし目の前で行われているのは、規格外の動き。海月が氷水晶の森の中を漂っているようにも見える。
足取り軽やかなままミカは男の一人が手にしていた松明の上に飛び乗った。その瞬間、炎は氷水晶に閉じ込められ、音もなく沈んで消えた。
迫る剣先を花弁のような羽根を使って空中に飛んで逃げる。重力を感じさせない浮遊は、地上を水中に変えてしまったように現実味を溶かしていく。
火傷だらけの男がミカの伸びた髪を掴んだが、触れた瞬間に突き刺すような冷たさに驚いて手を放す。火傷と同じ感覚だが、熱が違う。
冷たく、どこまでも冷たく、それ故に痛みと熱さを内包した鋭さ。火傷の男は白い息を大量に吐き、異常な状況に震えあがる。
多額報酬に目が眩み、意気揚々と勇んでいた過去の自分を殴りたくなる。一番恐ろしいのはミカのどこまでも視通すような黄金の瞳。
左の目元には縦一直線の傷が瞳を跨ぐように刻まれている。それ以上に灯る炎のような青い光が黄金を色鮮やかに映し出す。
冷たい秋風が頬を撫でる。それなのに汗が止まらない。それは襲撃者達だけでなく、ミカも同じだった。それに気付いた商人が声を張り上げる。
「人形王子は疲労している!その姿は力と引き換えに消耗する類だ!畳みかければ先に音を上げるのは、あいつだ!!」
声に押された襲撃者達は突撃するようにミカへと距離を詰める。飛んで後退しようとしたミカの膝が崩れ落ちる。
精霊を常に纏うには、転化術を常に使い続ける必要がある。初めての羽衣術は予想以上にミカの体力を削ぎ落し、集中力も奪っていく。
霞む視界の中で多くの魂の姿がミカには視えていた。今目の前にある多くは、濁って汚れて形が歪んでいる魂だ。それでもミカは笑う。
一切の迷いを消し、ただひたすらに高みを目指して輝く魂が傍らに駆け付けていたから。
弧を描く一閃。薙ぎ払いとも言えるし、切り倒しとも判断できる攻撃。ただ確かなのは、その一撃で五人近くが吹き飛ばされた。
氷水晶の森は硬い。木の幹にぶつかれば砕けながらも硬質に受け止められる衝撃。砕けた水晶が降り注ぎ、肌を薄く切っては血を滲ませる。
その光景を目の当たりにした男達は、肌で感じた風圧で相手の実力を知る。長い柄に、鋭い刃。汎用性が広く、使いこなすには修練を必要とする武器。
難なく
夜の闇よりも濃く艶やかな黒髪が、月光を浴びて強烈な印象を瞼の裏にまで焼き付ける。黒い目は獣の如く獲物を見据えている。
「第五王子ミカルダ・レオナス・ユルザックが護衛、オウガ。冥途の土産に持って行け、王の牙の名前を!」
歯を覗かせて笑ったと同時に、一歩で襲撃者の群れに詰め寄り、またもや一閃。今度は七人吹き飛ばされ、その内二人は昏倒した。
さらに約一名は飛んでくるのを待ち構えていたハゼの棍棒により、背中を強打して呻いて倒れたまま動けなくなる。背の骨の一つは砕けているだろう。
ハゼは勘が鈍っていると、加減できなかったことに嘆息しつつ、ミカを庇いながら余裕を持って戦うオウガの姿に昂揚感を覚える。
ミカを獅子とするならば、オウガは狼だった。瞬発的な動きから、持久力を証明する鍛えられた肉体。躍動する体躯は伸びやかでしなやか。
短期戦を得意とする獅子と違い、狼はどこまでも獲物を追う狩人である。集団でこそ発揮する力ではあるが、オウガはそれを一人で再現していた。
オウガの手によって十人ほどあっさりと無力にされ、さらに五人はハゼの棍棒で気絶させられている。残りは三十五人。二人の攻撃に、充分と安心できる数ではない。
「な、なにが王子だ!?そんな化け物!」
切迫した状況に怯え上がった商人が金切り声を上げた。指先はミカに向かって迷いなく突きつけられている。
「五年前も、十年前も!全部そいつが原因だ!そして今年は十五!その力で、国を、俺達を殺す気なのか!?」
「……ミカはそんなことしねぇよ」
商人に向かって呆れた目を向けるオウガは、長槍を手にしたまま商人へ接近する。間に他の男達が剣を片手に立ち塞がるが、問題にならない。
横に薙ぎ払い、縦に振り下ろして峰打ち、手首で柄を回して相手の武器を空中に飛ばし、逆にその武器を掴んで太腿に突き立てて動けないようにする。
流れるように鎮圧していくその姿は蹂躙者とは違う。動けなくなった者の中に死体はない。全員が生きたまま、戦意を根こそぎ奪われていた。圧倒的な強さ。
「俺が認めた男だ。もし本当にあいつが災いの元凶なら、俺があいつを止める。けど、そうならねぇよ。絶対に」
「何故断言できる!?何故庇う!?そいつは西の大国の貴族の血を引き、母親を死に追いやり、今だって戦争の火種のまま生き続けて……」
「それを利用しようとした奴が、被害者面して吠えるな!!」
尻餅をつきながら後退していた商人に対し、オウガは踏み出した勢いのまま拳で抉り込むように頬を殴る。奥歯が折れ、塞がらない歪んだ口から飛び出る。
痙攣して氷水晶の地面の上に倒れた商人を見て、三人が抗うこともできずにその場に縮こまって助けを求めた。ハゼは持っていた縄で念のために彼らの手首と足首を縛る。
「お前の評価なんざ、なに一つミカを表わしてねぇよ」
鬼の怒り。そうと思わせる形相で呟かれた言葉だが、冷たさは一切感じさせない声音だった。
ミカは汗だらけのまま、オウガの横からその顔を見上げる。そして照れたように赤面しながらも声をかけた。
「オウガ、ありがとう」
「……おうよ」
言葉を出した後、その全てを思い返して急に恥ずかしくなったオウガは素っ気ない返事だけを零す。
ミカの満面の笑みが眩しすぎたというのも恥ずかしくなった要因の一つである。晴れ晴れとした顔で素直な感謝を伝えてくる。
ハゼが青春だと思う中、残った二十余人の襲撃者が森の中を移動していく。一人がオウガに向かって油瓶を投げたが、ミカが精霊術で氷水晶に閉じ込めてしまう。
地面に水晶に閉じ込められた瓶が落ちる頃には、倒れた者以外の敵は姿を消してしまった。
「やっぱり遊撃隊か。本命は裏を回って、奴らと合流する手筈なんだ。俺、先に行くね」
「大丈夫なのかよ?汗の量が酷い。体を冷やし過ぎて動けなくなるぞ」
「平気!オウガ達も張り切りすぎて倒れないでね。二人が攻撃の要だし」
言いながらミカは地面に手を触れる。氷水晶を伝って水の精霊が活発に動き、倒れた者達を水晶の一部として取り込んでしまう。呼吸できるように顔などは避けているが、手足は完全に動かせない。
砕けないように念入りに水の精霊を凝縮させ、硬度を強くしていく。意識を保ったままの者は驚きつつも、抗えないとわかっているため無駄な動きを見せることはない。
深い呼吸をしてからミカは空中へと浮かぶように躍り出る。四枚の羽根が輝き、トビウオが海流の流れに乗るように精霊の流れに合わせてミカは夜空を進んでいった。
雄叫びが氷水晶を内外から大きく震わせる。振るわれる鎚や剣によって雨のように城壁に近い盾は砕け零れていくが、極寒を再現するように端から修復されていく。しかし敵の勢いは衰えず、正門前にまで迫っていた。
ケリーとハロルは正門が開かないように他の神官達と一緒に体で押さえこんでいる。それでも一番分厚い扉は少しずつ薄く削られていた。
氷水晶相手では火は使えない。しかし人を燃やすには油瓶が必要だ。少しでも扉が開いたら投げ込もうと男達は力自慢達が突進する正門を眺めていた。
裏側では搬入口の役目も担う扉が姿を消していた。神殿の防御機能を使って、氷水晶との継ぎ目を溶かして癒着、存在を最初からなかったように細工している。
それでも表には人が溢れているため、神殿の壁を壊そうと男達は怒声を上げながら武器を振るう。その音は祝詞の間にまで響き、テトラが焦ったようにヤーの顔を見る。
しかしヤーは精霊言語を使いながら集中している。その顔には迫る危機には怯えておらず、むしろ学問を死ぬまで追求していくような覚悟が浮かび上がっていた。
「ヤーさん、怖くないんですかぁ?」
「怖くないわよ。ミカがいるもの」
正直、ミカの羽衣術を見た時のヤーは背筋が震えた。妖精以上のなにかで、聖獣とは違う姿。惹かれる精霊は最早、川ではなく、大波。
あれに勝てる人間がいるとは思えない。そういう意味でヤーはミカがいれば大丈夫だと告げたのだが、テトラの生温かい視線は別の意味が含まれていた。
しかし神殿に侵入されればミカ一人で迫る大多数を倒すことができても、神官達に被害が及ぶ。会話を切り上げ、二人は神殿の機能コードを詠唱していく。
メバルは試練の間の天井に映る光点の多さに眩みそうになる。神殿を隙間なく囲まれた状態。これで朝まで凌げるか不安になる。
確かに相手を焦らせた結果、予想よりも少ない人数で攻めてきた。しかしそれは安心できる数ではなく、前々から襲撃する用意ができていたと裏打ちする物でしかない。
砕け、割れ、零れ、氷水晶が破壊の音を反響していく。それにも負けず壁を伝う祝詞はまるで賛歌のようで、くじけそうになる心を立ち上がらせる。
もしも壁の一部が完全に破壊されれば、祝詞が伝わらずに機能しなくなる可能性。それに気付きながらも、メバルは神官達に耐えるよう指示を出し続けた。
高音がまるで鐘のように響く。神殿は揺れ、正門を守っているケリーは涙目で振り返る。ウラノスの民が残した神殿、その要である旗棒の台座、正式な名称はパラボラアンテナ。
その台座が輝いていた。目を丸くするケリーの目の前で、パラボラアンテナは開いていた傘を閉じ、まるで蕾の姿へと変わっていく。それにはメバルも驚いた。
「な、な、なんっすかぁ!?ちょ、台座さーん!?」
「天井の探知機能は働いているが……くっ、アトミス様がいらっしゃればこの異常について尋ねるものを」
「愚痴を言っても仕方ない!メバル、光点の様子は?」
「隙間がない……いや、待て。急接近する光点が一つ!」
流れ星のように残光を軌跡として駆ける光点が一つ。どの光よりも強く輝き、森の道を無視したような進み方。
その光が神殿前に辿り着くと同時に、襲撃者達は手を動かすのを止めて見上げた。月光を浴びながら飛行してきた妖精のような少年。
白い外套の下には同じく白と青の王族御用達の衣装。背中に生える氷水晶の花弁は四枚羽。人ではありえない姿、されど金の髪と瞳が彼を何者かと証明する。
「第五王子だっ!奴を殺せぇええええ!!」
誰かの叫びに呼応するように油瓶が宙を舞う。その全てが凍りつき、結晶体に閉じ込められた。ミカが手を触れれば、中に入っていた油も砕けてしまう。
神殿の屋根に飛び降りたミカは白い息を吐いた。顎を伝う汗を手の甲で拭い去り、見下ろした数はおよそ七十。遊撃隊と本隊合わせて、百の人数。
先程ミカと対峙した男達は商人が口にした情報を伝聞していく。あの状態は長く続かない、それよりも神殿への侵入が先だと。
軋み上げる正門の前に集まる男達にミカは目を向ける。守るべきは二か所、試練の間と祝詞の間。そこへ集中的に神官を集めているためだ。
裏の入り口は消している。だからといって正門まで消すわけにはいかない。壁の破壊も進んでいるが、ミカは砕いた際に発生した氷水晶の欠片を空中に浮かばせる。
氷水晶の矢尻。その数は優に千を越えている。男達は自分達の足元に落ちていた氷水晶の欠片が浮かぶことに、瞠目し、続いて驚愕した。
深海に発生した火山噴火の如く巻き上げられた欠片達は、空中で渦を作るように回り始める。鋭い切っ先は風と共に肌を浅く切り裂こうとする。
精霊術を見たことがない人間でも、人が為せる所業じゃないと後退る。ミカは途切れそうになる転化術を、意識の力だけで無理矢理継続させていく。
意識内部でもレオが疲労困憊の状態で、それでもミカの意思を突き通そうと補助を続けていく。アトミスも欠片の渦を作る精霊術を行使することに必死だった。
神殿を守るように竜巻が発生する。ただ普通の竜巻と違うのは、月光を浴びた氷水晶の欠片が輝き、そして誰も殺さないということ。
殺さないように加減しながら精霊術を使う。その難題さにアトミスは顔を顰めるが、後で企んだ者を引き出すための証言者として必要と言われてはどうしようもない。
少しずつ脅威を感じた男達が神殿から距離を取る中、一人の男が手にしていた鎚を渦の中に投げ入れる。回転した鎚は風によって威力は減少されたものの、飛ばされることなくまっすぐ進んだ。
そしてミカの頭に直撃し、集中どころが意識が途切れた。
泡が弾け消えるように白い外套は薄れていき、四枚の羽根も光となって立ち消える。赤と黒の服に戻った際に、伸びていた髪も元の長さに。
意識を保とうとしたミカだが自ら起こした竜巻の余波に煽られて、背中から氷水晶の地面に落ちた。風が消えるのを見守っていた男達は、倒れ伏す少年の変化に目を丸くする。
完全に気絶したミカは指先一つ動かさず、血は流れていないが頭は衝撃で痺れたままだ。布が落ちるような音を聞いたケリーが扉をわずかに開け、目の前の光景に焦る。
雨のように氷水晶の欠片が地に落ちるため、襲撃者達は近付かずに距離を取って様子を窺っている。神官達の目に映るアトミスがミカの上に欠片が落ちないように精霊術を行使していた。
ミカの手の中にはアトミスの本体である十字の結晶体が握られている。落ちないようにとアトミスが指輪の形にしたのだが、ミカは慣れないため手にしたまま羽衣術を使っていた。
ケリーがハロルの静止する声も振り切って四つん這いの姿勢で飛びだし、ミカの体を掴んで神殿に戻ろうとする。しかし小さいとはいえ、十五歳の少年。重さはかなりある。
そして欠片がほぼ落ちたと判断できた男達が破竹の勢いで迫る。ハロルがケリーの腕を掴んで引き入れるが、扉が閉じる前に大きな盾を挟み込まれた。
神官達に緊張感が走る中、扉の隙間から覗く卑しい笑みを浮かべた男達の顔が、吹き飛ばされた。汗だくで戻ってきたオウガが長槍を一振るいしたのだ。
続いて気合の入ったハゼの声と同時に、神官達が歓声を上げた。メバルが扉に挟みこまれた大盾を弾き出そうと手にした瞬間、壁を伝う祝詞に変化が生じた。
「緊急警報コード04:壁の破壊を確認!雪崩れ込むわよ!」
最悪だった。壁を防ぐ手立ては祝詞しかない。しかしメバルが天井を見上げれば、祝詞の間近くの壁から多くの光点が神殿内に侵入していた。
おそらくヤーがテトラの手を引っ張って試練の間へと逃げているのか、寄り添う二つの光点が試練の間へ向かっている。神殿は一つの大きな廊下が円を描くように全ての部屋に繋がっている。
右の廊下でも、左の廊下でも問題ない。外ではオウガとハゼが戦い続けているが、状況は好転しないかのように怒涛の声が夜空を震わせている。
神官達は苦渋の表情を浮かべて武器を手にする。死ぬ覚悟を決めて、戦うしかない。せめて若者だけでもと、ハロルはケリーとミカを安全な場所に移動させようとした。
予想通り目を回すテトラの手を引っ張って走ってきたヤーが、倒れたまま動かないミカに目を向けた後、蕾の形になったパラボラアンテナに視線を動かす。
ミカの傍で浮かぶアトミスと同じ表情を浮かべ、ヤーは探求心や知的好奇心よりも先に、感嘆の吐息と同時に言葉を口から零した。
「なにこれ……凄い」
火、水、土、風。基本と言われる四つの精霊が蕾の中心に向かって凝縮されている。果実を成すために成熟を待つ花のように、氷水晶は視える才能を持つ者からすれば神々しいほど輝いていた。
赤に青、黄に緑、色鮮やかな光が蕾に渦巻きながら吸い込まれ、侵入した男達が神官達を見つけると同時に動きを止めた。花弁が、綻ぶように開かれる。
丸い傘ではなく、十字の四枚花弁。それが八枚になり、十六枚と増え、大輪の花になる。同時に氷水晶の蔓が神殿を巡るように伸びやかに動き始めた。
蔓が壁に触れると同時に水の入った硝子を叩くに近い高音が奏でられる。その音から今度は小さな花が咲き、またもや蔓を伸ばしていく。
邪魔な蔓を壊そうと手を触れた者は意識を失い、床に倒れる前に蔓に絡めとられて姿勢を固定される。無機質に、植物のように、蔓は奔流するように繁殖していく。
内部に侵入した男達は伸びてきた蔓によって全員が意識を奪われ、ヤーはテトラと一緒にメバル達の元へ近づいて様子を観察する。
小さな花達には色があった。赤に青、黄に緑。水晶の輝きを持ちながら、瑞々しく咲き誇っては高音を奏で続ける。
蔓は壁を伝う。壊された壁に辿り着けば埋め尽くし、修復する。あっという間に壁を塞がれて新しい侵入者を防いでいる。
その変化は外にも伝わった。長い年月を経た建物に植物が茂るが如く、蔓達が神殿に絡みついて花を咲かす。ハゼと背中合わせで戦っていたオウガは、相手が動きを止めたのを確認してから見上げる。
蔓が神殿の一番高いところ、屋根の頂点を目指して進んでいく。辿り着いた蔓達は絡み合い、一本の茎を作り上げ、そして四色の花弁を各四枚、十六花弁の花を咲かせた。
屋根の花が咲いたのを感知した試練の間の花が、溜めていた精霊の光を天井に向かって直線的に射出する。根元から力を受け取った屋根の大輪は、花弁の色に合わせた精霊を振り分けていく。
月光の下で光り輝く色鮮やかな氷水晶の花が、天空に向かって光線を放つ。それは月に届く前に霧散し、光の粉となって氷水晶の神殿周囲に降りかかる。
氷水晶で覆われていた森が元の姿に戻っていく。それだけではなく、枯れ木すらも生気を取り戻し、凍っていた地面が豊かな土壌へと急速に変化していく。
オウガは気付く。白い息が消えている。異様な寒さは掻き消えて、秋らしい気候が動いていた体に熱を取り戻させていく。
誰もが言葉も出ない中、大量の松明の灯りと足音が神殿へと迫ってくる。襲撃者達が逃げようとしたが、間に合わない。
「我らはフィリップ・アガルタ・ユルザック殿下の勅命により馳せ参じた騎士団第三隊である!神殿を荒らす狼藉者達よ、神妙にお縄につけ!!」
白銀の鎧が重厚な音と輝きを伴って威圧をかける。思考が追いつかない者達は、今の光景は国の仕業かと、神事を見て萎縮した人間のように大人しくなる。
オウガとハゼが攻撃体勢を解き、神殿の扉をわずかに開けて様子を窺う神官達が事態の急転に追いつけないまま駆け付けた騎士団の姿に注目する。
しかし表面上は澄ましている騎士団の面々も混乱していた。今の光の粉と森の変化は人体に影響しない類か。判断ができないまま、任務を優先した。
騒ぎで目を覚ましたミカは痛む頭を押さえながら、周囲に張り巡らされた氷水晶の蔓や花が咲いた台座を見て、間の抜けた声で呟く。
「一件落着かな」
その言動に異議を申し立てる力は、さすがのヤーにもなかった。少しずつ明るい紫になっていく空が、夜明けを知らせて太陽を引き連れてくる。
こうして氷水晶の神殿を巡る一通りの騒動は、ウラノスの民が仕掛けた壮大な機能によって幕を閉じるのであった。
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