第8話「天空都市の真実」

 ウラノスの民。数多くの謎が残る、天空都市に住んでいると囁かれる者達。雨雲の向こう側、太陽が常に照らす場所に住まう者達。

 試練の間、旗棒が刺さる台座に腰かけるアトミスは見上げていた。氷水晶の天井に阻まれ見えないが、雨の匂いがしないため、青空が広がっている天空を瞼の裏に思い描く。

 誰も知らない鍾乳洞。氷柱から滴り落ちる水を受け止め続けた花の形をした水晶。そこに宿った妖精がアトミスであり、氷水晶の起源。


 暗い洞窟で凍えることよりも、誰もいない闇に怯えていた。魂の記憶を引きずり出して、太陽の匂いに焦がれた。誰でもいいから連れ出してほしい。

 だから必要とされた時、嬉しかったのを覚えている。例え二度と屋外に出られないと言われても、たった一度でも輝く太陽を浴びることができた。それだけで良かったはずなのに。

 些細な病だった。人間でも解決できるような病にウラノスの民は怯え、目まぐるしい流れがあった。その流れに取り残されたアトミスは誰にも聞こえないと知りながら呟く。


(ミカミカミを求めた者全ては死あるのみ……そう言ってたじゃないか)




 ヤーがオウガには特定の単語を探すように指示する。例え読めないとしても、文字の形は覚えられる。ミカにも同じように教える。

 文字とは図形である。多少似た形があったとしても、配列や数で見分けがつくようになっている。指定したのは三つの単語。リ・サイクル、リ・ユース、リ・ンク。

 この三つはウラノスの民の正体に迫る物ではないかもしれない。それでもヤーが知りたいと思ったのは、リ・サイクルがミカが使う転化術と同じ内容だからだ。


 まず転化術という名前自体がヤーが作った単語であり、公では使われていない。確認されている中ではミカだけが使えるものであり、精霊と魔素に強く結びつくものだ。

 精霊と魔素は逆の存在に近いが、素は同じである。それを知ることができたのはミカが視る能力に関してはずば抜けており、ある事件で魔素に大きく関わったからだ。

 魔素は簡単に言えば精霊が集まりすぎて狂った異質の存在。瘴気と称することもあるが、あらゆる物を狂わせる。ミカの転化術はその魔素を精霊に転化し、精霊を魔素にするなどの循環を行う術だ。


 この転化術は天才精霊術師であるヤーにもできない芸当だ。ミカのように素まで視抜く力と、精霊術に長けた聖獣の意識であるレオンハルト・サニー、この二つの要因が偶然にも噛み合わさった結果だ。

 魔素に触れた精霊は狂う力に反応して暴れる。しかし転化術を行えばバランスが保てる。魔素と精霊がお互いに均衡を作り上げ、暴走と狂うのを防ぐことができる。

 最初は魔素を恐れていたレオも転化術のおかげで克服した。聖獣の意識の仕組みはヤーにも不明慮な所が多いが、精神が精霊に結び付くと言うならば魂の意識にも影響を及ぼすのだろうと納得することにした。


 それよりも驚くべきはウラノスの民にも同じ術があったということだ。正確には失われた技術を偶然にもミカが使えていたということなのだが。

 ウラノスの民には歴史外の神世から世界のバランスを保つ役目を神々から与えられていたらしく、その技法について書かれた資料を目にしたのだ。

 使われている精霊言語が一番解読の難しい文法で書かれていたため、また多くの物には意味不明な内容のため放置されていたのだろう。ヤーだってミカが転化術を会得していなければ見逃していた。


「悪しきを善に、善きを悪に、全ては循環し回転する、これこそ世界の法則であり、星の真理である……っだぁ、まだるっこしい書き方していやがるわね!!」

「怒んなよ。昔の人も大真面目に書いたつもりだったけど、後で見返すと恥ずかしい形の書物かもしれないだろうがよ」

「でも循環して回転するは確かに転化術の特徴に一致するね。俺もこんな感じで使ってるから」


 ミカが実際に転化術を使う。左目についた一直線の傷から精霊を取り込み、レオの知識を借りて素から操る。魔素と精霊が明滅を繰り返し、まるで炎に似た輝きを瞳の中に灯す。

 オウガとヤーが転化術が使われている左目を覗き込めば、確かに凝縮された精霊が輝きを変えているのがわかる。暗くなれば魔素、明るくなれば精霊、それらが等しい量で円の形を描いている。

 凝縮されているから視る才能がないオウガにも判断できる輝き。何度も見ているが、いまだに慣れないためオウガは難しい顔をして、理解不能という表情をしている。


「ウラノスの民の文献において善き物というのは精霊という通説があるのよ。今までは悪しき物が説明できなかったけど、ヘタ村のおかげで判明したわ」

「精霊を魔素に、魔素を精霊に。確かに転化術だけど世界の法則や星の真理に繋がるのはわからない……」

「神世では私達が住む世界を星と定義し、世界は丸く回転しているという理論があったらしいわ。だから水平線は曲線を描く。説明はつくわ、一応ね」

「ただし俺達にはその理論を証明する方法がない。だから説明はつくが、保証はできない、ということかよ。面倒な話だな」


 見渡す限りの大地と海を見たことがあるオウガとしては、自分が住んでいる場所が丸いと言われても頷くことができない。もしも本当に丸いのならば丸の下半分の人間はどうなるのか、想像もできない。

 ヤーとしては水平線が曲線を描くことに対し、平らな地図のような世界では理屈が通らないため納得しているが、信じきるには決定的な証拠が足りないと悔しがるしかない。

 ミカは世界の形という物を考えたことすらないので、困惑するしかない。ただ月は星であり、月は満月になれば丸くなる。ならば本当に世界は丸いのかもしれない、と思うだけである。


「で、次はリ・ユースだけど……これはよくわからないわ。善き物を織り上げた衣を身に纏い、神の如き所業を担う……精霊を織り上げるってなによ?」

「俺に聞くなよ。俺がこの中で一番の素人だよ。だけど善き物が精霊で、それを身に纏う……心当たりがある。な、ミカ」

「え!?……あ、さっきの精霊が腕に張り付いたこと!?」


 氷水晶の神殿の壁に触れた際、腕の内部から細かい泡が駆け上がるような感覚。その直後に起きた異変は、精霊が腕に纏わりついて離れなかったこと。

 転化術ではなかった。むしろ転化術を使って素から操って散らさないといけなかった現象。それに心当たりができたミカは、先程は言えなかった考えを述べる。


「あのさ……人間の肉体が妖精や聖獣と同じになるって、あり得るかな?」

「はぁ!?あのね、肉っていうのは精霊とは全く別の物質由来で、むしろ精霊を防ぐ機能が……待って。そうじゃない、きっとそうじゃない」


 ヤーはミカの言葉を否定しきれずに考え込む。肉体は妖精や聖獣にはない物質である。その中に魂を繋ぐ精神があり、精神は精霊の神と呼ぶこともある。

 つまり精神は精霊と同じ存在である。レオも精神は妖精や聖獣の肉体と同じであると告げていた。そして肉体の衰えと同時に摩耗され、死とは精神の断絶も意味をする。

 ではどうやって人間は精神を造り上げるのか。もう少し詳しく言えば、最初から肉体を持っていた腹の中の赤子は、どうやって精霊を会得して精神を獲得するのか。


「羊水や臍の緒はむしろ肉体由来……でも精神は魂と同じで、繋がっている……強い魂には精霊が惹かれる、ならば魂が……前世が妖精や聖獣ならば?」

「俺の前世は太陽の聖獣レオンハルト・サニー。聖獣達には精霊で自己修復する習性がある。レオの意識は克明で、俺は精霊を体の内側に取り込むことができる……ということは」

「精神が強化され、魂も強い。肉体が追い付けずに変化しようとして、精霊を引き寄せている……妖精に近い状態になろうとしているってこと?」

「……俺はそう思う。そしてその状態なら精霊を纏うという意味がわかる気がする……ウラノスの民は不老不死じゃない。妖精達と同じ仕組みの人間だとしたら?」


 妖精や聖獣は不老不死ではない。ただ精霊を使って体を理想の状態を維持し続け、魂を精霊の体で囲い込み、重傷を負っても精霊で治療する。

 簡単に言えば制限がない。常に最高の体を保持し続けることが可能なのだ。ただし死の概念から逃れられないのはレオの例からもわかる通りである。

 自己修復が間に合わないほどの傷や致命傷、精霊がいない場所での長時間活動、様々な要因で妖精や聖獣も魂を手放すことで死に、輪廻へと旅立つ。


「妖精と同じ仕組みの人間……それは逆に言えば生殖機能が働かないわ。性行は可能だろうけど、子孫が残せない。でもウラノスの民は少なくないはず」

「リ・ンクで人間を同じ体にしてしまえば数の問題は解決する。ウラノスの民に仲間入りするという部分が変だなぁと思ってたけど、この術で確かに普通の人間がウラノスの民になれる」

「アトミスがリ・ユースはするなと忠告したことは……ウラノスの民の体に自力でなるにはその術、仲間入りするにはリ・ンク、その基本形が転化術であるリ・サイクルということかしら?」

「多分それでいいと思う。精霊を纏うには肉体を妖精に近づけなきゃ無理だと思うから。すると……素から肉体を操る必要があるのかも」


 ミカは自分の手を眺める。内部まで視通す力を持つが故に、わかる。自分の肉体を変化させ、衰えを失くし、精霊の力を借りて理想の状態を維持できることが。

 擬似的な不老不死。それを手に入れる方法がミカにはわかってしまった。長生きしてもユルザック王国のためにはならない身であるのに、誰よりも長生きできる可能性。

 黙ってヤーとミカの話を聞いていたオウガは、第五王子であるミカを見ていた。王位継承権はない、西の大国の血を持つ、獣憑き。だけど誰よりも弱い存在なのに常に死の危険に晒されている。


「……どうすんだよ?お前は人間をやめるのか?それとも人間のまま生きるのか?」

「オウガはどう思う?俺が生きていたほうが誰かのためになるかな……」


 ミカと出会う前のオウガならば即答で死んだ方がいいと言っていたかもしれない。しかし一緒にいる内に大分絆されてしまったようで、言葉に詰まる。

 出会った後でも生きていた方がいいとは言えない少年。死んでしまえば西の大国と戦争状態になり、生きていても政争の種として問題を引き寄せ続ける原因。

 五年おきに起きる災害のせいで人心を掻き乱す噂に利用されてしまい、王位継承権がないから擁護する貴族もいない。唯一守ってくれるであろう母親も他界している。


 死んだほうが楽。思わずそう言ってしまいそうになるほど、ミカの行く末は多くの破滅に繋がっている。それでもミカは生きることを諦めてない。

 誰かが自分を守ってくれたから、今度は誰かのために動きたい。根底にあるミカの行動理由に気付いたオウガは、らしくないことを告げようとして俯いてしまう。

 王族が嫌いである。だけどミカは嫌いじゃない。でもミカを守ることが弱い者を守ることに繋がるには、まだ浅い部分がある。オウガは悩み続ける。


「俺は……誰かを救いたい。顔も名前も知らない、まだ出会ったことない人でもいい。誰かを守れる王子になりたい。二人に胸が張れる、男になりたい」

「そのためならば自分がどうなってもいいと言うの?それって結局は破滅願望よ。誰かを理由にした、自己喪失と同じ」

「俺がそうしたいから、見失わないよ。それに俺がいつか道に迷っても、きっと二人が助けてくれるんじゃないかな、って思うんだ。ううん、そう思いたい」


 笑うミカにヤーは言葉を失くす。どうしてそんなに頼れるのか、誰かを信じられるのか。それはきっと魂まで視ているから。

 オウガとヤーの魂ならば、きっと見捨てないと確信しているからだ。しかし手放しに信頼される、というのはヤーにとって悪い気はしない。

 どうしても子供であり女性のヤーにとって、受ける視線の多くは疑いと不信感を含めた見下す目だ。だけどミカは違う。ミカは真正面から魂まで視て、判断している。


 勝てないとヤーは折れるしかなかった。多分本当にミカは誰かのために自分を使い続ける。それは長く続く物じゃない。いつかは崩壊する。

 その時に食い止められるのは誰か。精霊について詳しくないのに人と明らかに視る者が違いすぎるミカを理解できるのは誰か。答えは明らかだ。

 天才精霊術師として、顧問精霊術師を目指す身として、ヤーは仕方ないと溜息をつく。いずれは王族の誰かに推薦状を書いてもらわなければいけない。ならば誰に書いてほしいか。


「いいわよ。アンタが迷わないように引っ張ってあげるわ。大体、アンタはアタシがいなきゃ駄目でしょう?」

「ヤー……ありがとう!」


 まさかヤーが即座に返事してくれるとは思わず、嬉しさのあまり抱きついたミカ。ただし顔を真っ赤にしたヤーにすぐ顎を殴られる。

 顎を擦るミカの後ろで、オウガが静かに立ち上がる。そして外で見張りしてくるとだけ残して資料室から出ていってしまう。気配としては扉の横にある壁に寄りかかっているようだ。


「……逃げたわね。まだ王族嫌いである自分を保守しようとしてる。それも時間の問題でしょうけど、それよりも切迫したやつが解決してないわ」

「な、なんだかんだで祝詞の謎が解決してないもんね……でもこれを含めたあらゆる物がアトミスに尋ねれば解決しそうだけど……」

「素直に答えてくれるかどうかは、アタシ達が調べた末でわかるはずよ。とにかく、限界まで調べるわよ!!気合を入れなさい!!」


 ヤーの声に応じるようにミカはやる気を見せるが、数十分後には慣れない精霊文字に目が疲れてしまい意識を落としていた。





 意識の内側でレオが心配したようにミカへ視線を向ける。黄金の獅子は相変わらず太陽の化身のように輝いている。


(すまない。結局は我のせいでお前に過酷な決断をさせようとしている……守ると決めたのに、情けない)

(そんなことないよ。レオのおかげで解決できないと思ったことが変わるんだ。それに俺自身も誰かを守れる手段が欲しかった。丁度いいことなんだ)

(しかし……いや、お前の人生だ。好きなように生きろ。我はその手助けをするだけだ。例え海が割れ、天地が裂けようとも、我はお前の味方だ)

(ありがとう、レオ。やっぱり俺は色んな人に守られてる……だから次は俺が守る番なんだ)


 瞼を閉じて、意識すら感じない深淵に身を委ねる。夢も見ないような深い眠りにミカは静かに落ちていく。





 夜。試練の間は静かになる時間帯。挑戦者は近くの村にある宿屋に向かい、神官達はアトミスに気付かない様子で立ち続ける沈黙の刻限。

 そこへミカが眠ったことに対して怒りを見せるヤーと、頭を殴られて起こされて涙目のミカと、ずっと悩み続けたせいで眉間の皺が取れにくくなっているオウガが旗棒の台座に近付く。

 ヤーはアトミスの返事を待たずに一枚の紙を見せる。それは周囲の神官からしたら、なにもない場所に紙を提示したに等しいが、誰も言及する者はいない。


 紙にはこう書かれていた。



 我々は天空に住まう民である。本日は地上歴で1765年の十月五日の朝である。本日の連絡は以下である。

 まず初めにパスワードを入力する。ナンバーコード1234567890。オールクリアを確認。天空都市の様子と予定を知りたい。

 メッセージに関して追加報告が存在する場合は送信するように。小型パラボラアンテナに不都合はない。平常運転だ。


 都市の繁栄を願う。我々は引き続き神殿でメッセージを受信し、派遣員に関しては各々の判断に任せる次第だ。

 メッセージナンバーコードを変更する。認証に問題はない。神殿の機能に異変はないか、今のところ目立った異常はない。

 神々の御許に迎え入れられることを願い、我々はリ・サイクルとリ・ユースについて秘匿し、リ・ンクを不用意に行わないことを誓う。以上である。



 それは祝詞の正式な翻訳。ウラノスの民にしか通じないはずの単語すらも完璧に再現されている。アトミスは思わず足元の台座を見る。

 旗棒が突き刺さった台座、正確には小型パラボラアンテナであることを、天才精霊術師であるヤーは突き止めた。人間でありながら、精霊言語を辿ってウラノスの民に近付いた。

 底知れない知識欲を活用する頭脳。ヤーはアトミスの顔を見て、勝ち誇ったように笑う。やっと一歩、だが重要な一歩で神殿の要に接近した。


「ふ、ふふふ、ふふふふはははははは!!伊達に天才精霊術師は名乗ってないわよ!要は不明な単語を無理に翻訳しなければ意外と通じるもんなのよ!米をライスと呼ぶようにね!」

「すんません。ちょっとこの人疲れてるんで、気にしないでくれよ。ある程度憂さ晴らししたら戻るんで」


 怪しむ神官達にオウガがフォローになるような言葉を吐く。瞬時に神官達の目が気の毒そうな人を見る感じに変わる。ヤーはオウガを睨むが、今はアトミスとの会話が重要である。


「で、パラボラアンテナってなにかしら?アンテナ自体は確か神世の時代では送受信する道具としか判明してなくて、なにを送受信するのかわからないのよね」

「電信とかレオは教えてくれたけど、まず電ってなんなのか……メッセージは手紙のことらしいけど、パスコードとかもう手に負えないや」

(……電波という、精霊に似た、目に見えない物を使い手紙を送り合うことだ。その目印がこのパラボラアンテナだ。猿の使う言語で言い直せば、ポストに近い)


 アトミスが素直に認めた。台座はウラノスの民を選抜する物ではなく、ウラノスの民同士が連絡するために使う道具であることを。

 緩やかに丸い皿のに棒が突き刺さったデザイン。少し斜めに設置されているのがおかしいとミカは思っていたが、抜くためのデザインではなかったから当たり前なのだ。

 そして旗棒と思われていた物は道具の一部であった。ただ伝説の神殿とウラノスの民、それらが複雑に絡んだせいで誤解された噂が通説になったのだ。


(ちっ。過去に猿達が剣を抜いた者が王となった伝説を元にしたのが最悪の始まりだ。しかしよくぞここまで……うむ、お前は認めてやろう、ヤー)

「それだけじゃないわよ。リ・サイクルはミカが使う転化術、リ・ユースは肉体を妖精に近くして精霊を纏う術、とりあえず羽衣術と名付けてやったわ。ウラノスの民に自力でなるにはリ・ユース、でしょう?」

(……四十五点。リ・ユースは精霊を纏うんじゃない。妖精を衣にして、彼の者達の力を奮う。まるで神のように、自在に自然エネルギーに干渉する)


 意外と辛口な採点にヤーが抗議の声を上げる前に、アトミスの説明にミカが驚く。妖精を纏う、という発想がまず思いつかなかった。

 しかし精霊を纏うからといって、確かに神の所業を担うという部分が再現できるとは思わない。それならば妖精の力を借りるの方が納得がいく。


「リ・ユース、羽衣術を行うには、肉体を変化させるしかない。妖精の体に近付ける、ウラノスの民に伝わる不老不死伝説はそれで説明がつくはずよ」

(そうだ。ミカの体は少しずつその状態に近付いている。おそらくレオ様の影響だ。獣憑きとして人間から外れつつある。だが、リ・ユースを使わなければ人間のままでいられる)

「……ウラノスの民は妖精に近い体をしていた。それは精霊の影響を人間よりも強く受けることだよね。十年前、ウラノスの民は……全滅したの?」


 ミカの言葉にアトミスはすぐには応じなかった。俯き、何度か言葉を吐き出そうとして、失敗しては唇を震わせるだけに終わっている。

 十年前。火山灰と共に火の精霊が流行病となって多くの人間を殺した。本来ならば肉体で防げるはずの精霊が、空気中の塵に付着して体内に入ってしまった結果。

 人間ですら臓腑を焼かれて木乃伊のように枯れて死んだ病。その影響力は精霊の体に近い者ほど大きい変化を強いられたはずである。特に、風が強い天空にいた者は。


(全滅は、していない!病に屈していない!彼らは、僕を救ってくれた彼らは、ただ……ミカミカミを求めただけなんだ)


 過去を振り払うようにアトミスは叫ぶ。その声は姿を認識しているミカ達にしか届かない。それでも周囲に漂っていた精霊が震え、空気の変化に神官達が首を傾げた。

 どうしてここでその単語が出てくるのか、ミカとヤーは目を丸くする。探求しようとした者全てが死に至る五文字の謎。太陽の聖獣レオンハルト・サニーすら口を閉ざす未解決の言葉。


(ミカミカミ……御神による寛大なる御業と解釈して……天空にいた彼らは、都市を世界の外側に向けて動かして……連絡が取れなくなった)

「……報告書。その連絡は十年前の1755年の十二月二十五日を境に途切れている。そして文字は残されてなかったわ。何故か、ね」

(彼らは世界を見守る存在、神の使徒、循環を担う機構、あらゆる言葉を尽くしても……天空都市は消えた。派遣員は勝手に活動し、連絡係も……ここを見捨てた)


 ヤーが調べた限りではメッセージを順調に受け取り、定期的なパスコード変更で氷水晶の神殿を維持していたのだ。細かい精霊言語による機能拡張も用意されている。

 だが天空都市の消失を皮切りに地上に残っていたウラノスの民は神殿を捨てたのだ。ここは純粋に地上と天空を繋ぐ中継基地であり、それ以上の価値がなかったのだ。

 残ったのは水の妖精であるアトミスだけ。パスコードが変更されないまま年月が経ったせいで、神殿が正常に機能を果たすことが不可能になり、その姿を露見したのが九年前。


 そこから副神官長になったテトラが精霊言語を翻訳して、これ以上の神殿機能を損なうことを阻止していたが完全ではない。森は少しずつ氷によって痩せ細り、神殿の形を保つので精一杯なのだ。

 もしかしたらアトミスが陰ながら精霊術で補助をしているのかもしれない。だとしても限界は近い。この氷水晶の神殿は百年以内に維持するのが無理になる可能性が大きい。


「アトミス、右足の鎖は見える?」

(鎖?なんのことだ……僕は、この神殿を守るためにアンテナ部屋に常駐する必要があるからと……!?)


 慌てた様子でアトミスが試練の間から出ようとした。外にではなく、神殿内の他の部屋に移動しようとする。しかし見えない鎖に足を引っ張られ、盛大に床の上に倒れる。

 痛そうだと思う間もない。うつ伏せになったまま、アトミスが動かない。しかしその肩は震えている。少しずつ大きく、慟哭と一緒に周囲の精霊すら大きく震わせていく。


(信じてたんだ!!僕がここを守っていれば、いつか帰ってくるって!!だから猿達が神殿を侵すことを見逃し、周囲の発展のためにアンテナが利用されるのを我慢した!!それなのに!!ちくしょう!!)


 華奢な腕で力強く氷水晶の床に拳を叩きつけるアトミス。神官達は急に発生した床のひびに驚き、心配するように集まる。彼らに泣き喚くアトミスは視えていない。


(待ってたんだ!!ずっと、ずっと!彼らと過ごす数百余年よりも長く感じる九年間を、僕はずっと待っていたんだ!!だけど彼らは僕をここに縛り付けて、空が見えない場所に置き去りにしたんだ!!)


 何度も床を叩いていく。ひびは少しずつ大きく、深くなっていく。それなのに自動的に修復されない。神官達は本格的に慌てはじめ、テトラやハゼを呼ぶように指示を交わしていく。

 迂闊に触れば傷が広がるかもしれない。そのせいで自然とアトミスを中心に人の輪ができている。しかしアトミスは彼らを見ていない。彼らもアトミスが視えていない。

 両方とも視界に捉えることができる者からすれば滑稽な画だった。しかしミカは笑わない。本当に必要な言葉をアトミスに向けて投げ始める。


「違うだろう、アトミス。本当は寂しくなかったはずだ!テトラや神官達がいて、その様子を見て寂しさを癒してたんだろう!誰かが傍にいること、神殿に人が集まることを喜んでいただろう」


 アトミスの言葉は常に人間を馬鹿にしている。まず人間を猿と呼ぶ悪癖がある。だが魂まで見抜くミカは内側を隠す言葉に惑わされることはない。

 春の木漏れ日のような黄色。アトミスの魂がその色に染まる時、それは挑戦者で人が溢れ、神官達が元気に働いている時だ。ずっと台座の上でアトミスは眺めていた。

 姿を見せないのはアトミスなりの最後の矜持、もしくは意地なのかもしれない。それでもウラノスの民ではなくても、人が集まることに喜びを見出していた。


 だから神殿の活発化を黙って見ていた。周囲に村があり、歓楽街として発展すればさらに人が集まる。本当の一人ぼっちにはならない。

 思いもよらなかった言葉にアトミスは床を叩くのを止めてミカへと振り向く。神官達は不可解な者を見る目でミカを見る。アトミスという単語を、存在を、神官達は知らない。

 すれ違う状況。これが解決するのはもっと簡単なことなのだ。アトミスが少しでも人に譲歩を見せ、神官の誰か一人を信じることができたならば良かったのだ。


「でもこのままだと神殿にいる皆が死んでしまう!アトミス、ウラノスの民はいない!でもテトラ達がいるよ!優しくて、努力してきた人が集まってるんだよ!」


 ミカの言葉に神官達だけでなく、呼ばれて走ってきたテトラやハゼも目を丸くしてしまう。状況が呑み込めないのはアトミスも同じであり、ヤーとオウガは頭を抱えていた。

 まだ秘密だと話していたはずなのに、ミカはあっさりと神殿に危険が迫っていることを口にした。それは神官達が暴挙に出る可能性を大きくするだけだ。ミカのせいだと、元凶の意味合いを強くする。

 それでもミカは出した言葉を止める訳にはいかなかった。目の前で苦しんでいる者がいる。それを救えるならば、自分など些細な問題であると言わんばかりに。


「泣いて解決することなんでないんだ!誰かのせいにして理屈をつければ納得できることもない!一番納得できるのは、自分の心が決めたことだけだ!」

(……心は精神にも、魂にも、肉体にも宿らない。目に見えない、不確定で曖昧な……錯覚だ)

「心は言葉にできるよ。嬉しかったり、悲しかったり、怒ったり……それが言霊なんじゃないかな。でも言葉は違っても、誰かを好きになる気持ちや、食べ物を美味しいと思う気持ちに違いはないはずだよ」

(それでも僕の孤独は誰にも理解されない。僕に太陽と青空を教えてくれた彼らは……もういないんだ)

「じゃあ教えてよ!言葉を使って、姿を見せて、歩み寄ればいい!俺みたいに、言いたいことを好きなだけ言えばいいんだ、アトミス!」


 瞬間、ミカの左目に炎に近い輝きが灯る。人間の瞳に宿る炎に神官達が恐怖を抱いて後退る中、ハゼだけは前のめりにその輝きを注視する。

 決して人の輝きではない。それでも畏怖を抱くに近い神秘的な輝きを、ハゼは知っている。戦場で武官であった彼を射竦めた黄金に輝く瞳は今も熱く覚えている。

 転化術。精霊や瘴気を素から操る、ウラノスの民も使った秘術。本来の使い方とは異なる方法でミカはアトミスの体を構成する精霊に干渉する。


 体を構成するのは水の精霊。その一部をわざと瘴気に変え、姿を隠す機能を狂わせる。突如発生した体内の瘴気にアトミスが苦痛の声を上げる。

 それも一瞬であり、針が膝を突き刺したような痛みはすぐに消えていく。そして気付く。神官達の視線が本来ならば視えないはずのアトミスに集まっていることに。

 アトミスは頭の中が真っ白になる。こんなに注目されたのは大昔以来である。顔を隠そうと両腕を動かした矢先、その手を取る柔らかくて温かい女性の手。


「貴方がアトミスさんですかぁ?私、この氷水晶の神殿で副神官長をやっているテトラと言いますぅ。ね、ハゼ神官長」

「う、うむ……美しき少年よ、初めまして。誉れ高きウラノスの民の伝説が残る神殿を、恐れ多くも預かっておりますハゼと申します。お見知りおきを」

(な、なんで視えて……いやそれよりも、僕は、姿を現すつもりじゃ……だって、だってこの温もりを知ったら僕は……溶けてしまいたくなるんだ……)


 呑気な笑顔で手を握ってくるテトラの顔が見れず、俯いてしまうアトミス。その白い頬を辿る熱い滴は床に触れた途端、ひびを修復してしまう。

 その様子を見ていた他の神官達が守り神様の御光臨だと騒ぎ始め、ハゼが大声でもう少し事情を理解してから騒げと注意する。そして視線はミカへと集まっていく。

 いつの間にか目に宿した輝きを消していたミカは、いつも通りの笑顔で立っている。両隣でヤーとオウガが面倒そうな顔で溜息をついていた。


「じゃあハゼ神官長、全てを打ち明けて待ち構える時が来たよ。一丸となって、氷水晶の神殿を守ろう」

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