EP0×ⅩⅡ【燃える星《burning×star》】

「シェンリンさんは手先が器用ですのね」


 財宝の山から見つけ出した手鏡。潮風で曇っていた部分はあったが、整えられた紫色の短髪を確認するには充分だった。

 あれだけの騒動が起きても傷一つない黄金蝶の髪飾りを着ければ、色の対比でお互いが輝いているようにすら感じられた。


護符タリスマン装飾品アミュレットを作るのが趣味でな。ナイフの扱いには手慣れている」


 言いながら自らの枝毛などを器用に切り落としていくシェンリン。長い間、奴隷の見世物商品として扱われていた彼女は、櫛の通りが悪くなった黒髪に舌打ちした。

 艶やかな黒髪に鮮やかな赤い目。それらは耳長族にとっては罪人の証である。いっそのこと丸坊主にして髪の手入れを丸投げしようかと考えていた矢先、巨角族のバルドルが財宝島に張り付いている大きな藤壺を運んでくる。

 十人は余裕で入れそうな容量だが、内面が凸凹していた。自然で発生した貝が偏った魔力で肥大化したのであって、作られた意図はない。そうなると加工はここから始まる。


 財宝を一部換金し、指示された道具と布地を文字通り山程買ってきたノア。大工現場で使うのみに研磨用の石材。他にも資材を運ぶための手押し車。それらをガンテツに渡した瞬間、目を輝かせて彼は巨大な藤壺へと走り出した。

 まずは作業場の安定、ということで外観を削って表面を滑らかに。それでいて手当たり次第に藤壺を剥ぎ取っては形を整えて積み上げていく。作り上げたコの字型の土台にも藤壺。鍋の形に整形されたのも藤壺だ。

 次に内面をいかに気持ちよく研磨していくかに興奮したガンテツから奇声が迸ったが、ああなった髪髭族は止められない。叩いて、削って、磨いて、仕上げていく。その様子をバルドルは楽しそうに眺めていた。


 藤壺工作が進む中、布地の山に興奮したのがもう一人。羽虫族のパックは感動のあまり背中から生えている蜜蜂の羽根を使って周囲を三周程飛んだくらいだ。ノアが差し出した針と糸も奪うように飛びつく。

 鋭く光る銀色の釦、華やかに広がる繊細なレース、手触りが心地よいシルクのリボン。もうそれだけでパックの勢いは目にも止まらぬ速さへと昇華された。気に入った布地を掴んではそれに似合う人物の体に押し当て、即座に採寸していく。

 手の平に載る彼よりも大きな鋏さえ、まるで手足のように、実際に腕と脚を活用して動かしていく。流れ星のように布地を切り分け、針と糸で縫い合わせていく。最終的に高笑いが止まらなくなったらしく、気味悪い声を上げながら動き続けていた。


「魔装飾具を作るのがお得意なのですか?」

「そうだな。さて……髪を切りながら聞いた話だが、本当か?」


 背後の二方向から聞こえる笑い声を無視しながら、シェンリンは真剣な表情で問いかける。

 近くではノアが新しく買い直した煙草を使って一服していた。横目で彼の様子を窺いつつユーナは頷いた。


「ええ。なんらかの偶然で聖ミカエルが顕現している……やはりシェンリンさんから見ても由々しき事態ですのね」

「当たり前だ。あれは耳短族の中でも驚異に値する男が、我々でさえ想像できない方法で喚んだ存在。当時を知っている長老共は、悔しさのあまり口を噤む程だからな」


 耳長族は魔法について魔導士とはまた違った一線で発展を繰り広げている。そのためユーナでさえ知らない魔法の系統にも精通しているはずだ。そんな人種の彼女でさえ、困惑を隠さずに告げた。


「端的に言えばあり得ない。さらに斬り込むなら、今すぐ世界が崩壊してもおかしくない」

「結論は同じ、ですわね。そう……天使や悪魔は次元が違います。人間の体を借りる、啓示を与える、とかならば話は変わるのですが……」

「しかも聖ミカエルとは強力な存在だ。下手すると『異世界の神レリック』が侵略しに来たに近い状況。たとえばあの『混沌神話レリック』ならば、素知らぬ顔で現れるかもしれんが……」

「驚きですわ。シェンリンさんはあの『精神概念を削る世界レリック』について周知していらっしゃるのですね。学会であれについて話題にすると、大抵は頭がおかしくなったと笑われるのですが」

「はん。浅はかな耳短族らしい反応だ。いいか、あれは時に他の『神話レリック』に紛れ込んで、まるで最初からいたみたいに介入する厄介事だ。無視していたら痛い目を見るのはこちらだ! 重々承知しろ、魔女の弟子!」

「そうなんですよね。前にシヴァ関連で『三柱の世界レリック』について調べていたら、悪魔の表記揺れに介入した痕跡があって。女神カーリーが関わったアスラ神族を魔族として扱い始めた歴史的変遷と、ラクタヴィージャの増殖に便乗して人知れず浸食したようで……って、あれ?」


 朗々と説明を続けていたユーナの顔、むしろ鼻先。そこに目を吊り上げたシェンリンが迫っていた。聞こえてくる笑い声も霞みそうな怒気を感じ取り、ユーナは思い出した。

 会話にさりげなく魔女の弟子と入れてきたシェンリンの言葉。それを否定しないまま話を深く掘り下げた迂闊さ。しまったと反省するには遅く、肩を強く掴まれて揺さぶられる。


「やはり貴様は魔女の弟子かぁああああ!!!!」

「そ、そうですよーだ!! もう隠すのも面倒ですから白状しますけど、黄金律の魔女ことグランド・マリヤはわたくしの育て親! おばあ様ですけど、なにか!?」


 開き直ってあっさりと認めたユーナに対し、揺さぶる勢いが強まった。視界は乱れるし、笑い声は響き渡っているわで、思考など最早意味を為さない。半ば考えることを放棄したユーナは言葉を続けた。


「でも魔法とは探求! 耳の長短に関わらず、個人の差異はありますわ! わたくし、こう見えて知識はある方と自負しておりますし、そこら辺の若い魔道士に負ける気はありませんけど!」

「ぬがぁああああああああ!! 貴様、魔法の歴史についても詳しい上でその発言かぁあああああ!?」

「もちろんですわ! そして断言しましょう! シェンリンさんの言語学からの魔法発展はわたくし達魔導士でも手が届かない範囲まで広がっています! ぶっちゃけ、上位魔道士の専門家でも歯が立たないはずですわ!」

「……そうか?」


 突如揺さぶるのを止めて、眩しいくらい白い肌の頬を柔らかい赤に染めた。にやけるのを押さえつけようとしているのか、唇の端が若干震えている程だ。しかし兎のように長い耳が揺れているのは気付いていないらしく、無自覚で動くようだった。

 目を回したユーナは肯定の意味で小さく頷いた。とにかく解放して欲しい気持ちもあったが、今の発言は全て真実だ。ユーナの目から見ても、シェンリンの知識は広く深い。実際にユーナの話にここまでついてこられる人物は珍しい。


「そ、そうかー。へー。ふ、ふふん。ま、まあ耳短族の発展性にも目を見張る物があるが、やはり森の民である我らエルフの一点追求には及ばないと言うことだな。魔女の弟子の件は不問にしてやろうじゃないか」

「あ、ありがとうございます」


 咳払いをしながら嬉しさを誤魔化すシェンリンだったが、彼女が手を離した瞬間にユーナは甲羅の大地に膝をついた。

 ただでさえ海の上を移動する『化け亀モンストルム』の島だというのに、強制的に頭を揺らされたのだ。落ち着くまでには時間がかかる。体を支えようと手を伸ばした先、指に固い物が当たった。

 金属の歯車。錆びた茶色のそれは、あの巨大な奴隷島の一部とは思えない程小さかった。何百年も緑魔法で呼び出された狡知神ロキが動き続けるための動力であり、島の本体である『化け鯨モンストルム』の体半分以上を侵食していた。


 財宝島の周囲に残った破片が海水によって流されては漂っている。しかし大半は既に海の底へと沈んでしまった。役目を果たし終えた『優しい化け物モンストルム』は、生き残った者達が財宝島に足を着けたのを確認した十分後に沈没した。

 瓦礫が崩れる激しい音と共に、別れを告げるように光を舞い上がらせていた。それは彼にとって最後の魔術。光に触れた者は、体中の傷が消えていったのである。大きな黒い眼を細めながら、数百年生きた『化け鯨モンストルム』は自らが起こした白波の泡に呑み込まれた。

 ユーナは奴隷島の礎となっていた彼の心境はわからない。しかし『化け物モンストルム』はどうしようもなく人が好きなのだ。それこそ命を投げ出すのも躊躇わない。だから答えはきっと探す必要はない。


 歯車をティオと一緒に集めているルーフェンは、遠い目で海を眺めていた。奴隷島で生まれた彼は、故郷を失ったに近い。心の底から憎んでいたとしても、喪失感は簡単には拭えないのだろう。


「おい、魔導士。その歯車も寄越せ。バルドルが後で再利用するんだと」

「わかりました。どうぞ」


 豆粒並みに小さく、繊細な歯車。それをルーフェンの肉球がある手の平に置く。ユーナは自分の目で確認したわけではないので半信半疑ではあるのだが、巨角族はウラノスの民と呼ばれる者達のために天空都市を造ったと言われている。

 蒸気機関など、あと何十年後の技術なのだろうか。しかしバルドルならばそれ以上の仕組みを考えているかもしれない。日進月歩というならば、巨角族の歩みは人間の遙か先を行くのだから。


「あの猿面はずっと落ち込んでいて気に食わん。魔導士ならば魔法でどうにかできないのか?」

「魔法で人の心を動かしても根本の解決にはなりませんわよ。それに悼む気持ちは、きっと『彼らモンストルム』にとって最高の贈り物となるでしょうし」


 シェンリンからの説明で、どうやって奴隷島があの炎から逃げたのかを聞いた。どうやら『化け物モンストルム』達には奴隷島からずっと発せられていた歌の意味を理解していたらしい。

 歌に従い、自らの魔力、つまりは存在全てを使って防御と転移の魔術を行使した。別れの言葉も残さず、命を賭して。気付いた時にはシェンリン達は財宝島近くの座標に移動していたらしい。

 島には生き残った『化け物モンストルム』達の影すら残っていない。ただ人種問わずに人が生存していた。そして奴隷島自体も最後の力を振り絞り、ノアの転移魔術痕跡を追って進み続けたのだという。


「ふふ。やっぱり天主の奇跡なんて信じるもんじゃありませんわね」

「なんで嬉しそうなんだ?」

「……美しいから、ですわ」


 柔らかな笑みを浮かべて、目を細める。

 それは感傷と呼ぶのかもしれない。深読みと嘲笑う人もいるだろう。

 だが少女の心に蝋燭の芯を通すような、確かな明かりとなって輝く類いであった。


「それにわたくしが慰めなくても、ティオさんは大丈夫ですわ」


 俯きながら部品を拾うティオの横で、ヒルデが集めてきた螺旋を布地に包んでいた。肩を寄り添わせ、指先を触れ合わせる。視線が交われば、お互いに微笑むその光景は初々しいものだった。

 気恥ずかしくなってユーナは別の方向へ顔を向けた。若いって青いなー、など年相応のことを考えてしまい、自らショックを受けていた。

 百年生きてきた。しかし思い返せば恋などした覚えがない。幼い頃の事件のせいと、知り合いの傭兵で人間不信気味だったからだ。なによりユーナと渡り合ってくれる度胸もあって優しい男性が身近にいなかったのも原因だ。


「……それよりルーフェンさん、恋ってしたことあります?」

「急にどんな質問をしやがる!? ま、まさか俺相手にとか、気色悪いことを考えているんじゃないよな? さすがに百歳のババアは対象外だ」

「おほほほほ。貴方こそ自惚れが過ぎるのではなくて? わたくしも貴方みたいな生意気な年下は対象外でしてよ」

「んなぁっ!? じゃあお前の理想はどんな奴だよ!?」


 別に惚れて欲しいわけではないが、対象外と言われるのは腹が立つ。お互いに喧嘩腰になりつつ、ルーフェンが先に問い詰める。


「理想の……相手……」


 面を喰らった。その理由に思い当たらないユーナは、視線をノアに向けた。煙草の煙を揺蕩わせながら、藤壺工作が完成されていくのを無心で眺めている。暇を持て余した姿だったが、ユーナの脳裏では奴隷島での出来事が浮かび上がっていた。

 冷静になっていた頭が、急に沸騰を始めたように熱くなる。否定するべきか、それともはぐらかすべきか。真っ赤に染まりそうな顔に力を入れて、なんとか言葉を見つけようと昔見た童話の絵本を思い出す。


「白馬に乗った王子様……とか、かも、ですわ」

「うわ、きっつい」


 しどろもどろに答えた直後、聞こえてきた内容に言葉よりも先に足が出ていた。

 ルーフェンのふくらはぎに手加減された蹴りが炸裂し、痛みで呻くルーフェンを見下ろしつつ息を吐く。なんとか誤魔化せたはずだ。

 そう考えていたユーナの視界に、にんまりと笑うパックが白い服を手に飛んでいた。


「……パックさん?」


 錆び付いた機械が出しそうな音に似た声で名前を呼ぶ。しかしパックの笑みは消えない。


「白髪の復讐鬼じゃなくて~?」

「ふんぬっ!」


 思わず羽虫を叩くように両手で挟み込もうとした。乾いた音が立ったが、パックは白い服を掴みながらユーナの背後へと逃げていた。蜜蜂の羽根は伊達ではなく、ユーナは戦慄きながら振り向く。


「ち、がっ、います……いえ、その、だって、こんなの……初めてで」


 膝をすり合わせて、指先で遊ぶ。こんな仕草をしたかったわけではないが、小さくなっていく声と煮え切らない感情を前に、できることなどたかが知れていた。少なくとも百歳超えの淑女らしくないとユーナは自らの頬を叩いた。

 そんなことなど気にせず、パックはユーナの周囲を飛び回りながら体の採寸を進める。背負った針山から針を選び、糸で布地を縫い合わせていく。あっという間に洋服が完成し、ユーナに手渡される。


「まあ僕も馬には蹴られたくないから、ここまでにしてあげるよ。ただ一つ助言してあげるなら、大事にしないと駄目だよ? いつお別れが来るかそれこそ誰だってわからないんだから」

「……そうですわね」

「どれだけ人種がいても、命には限りがあって、皆一つしか持っていないんだ。永遠の命なんてないよ。だって誰も永遠を知らないんだから。運命の糸も有限で、切れちゃうことも多いしね。だから掴んで離さないようにね。現実なんて気まぐれに動く鋭い鋏みたいなもんなんだから」

「肝に銘じておきますわ。それであの……この服なんですが、丈が短くないですか?」


 羽虫族特有の惑わす話に頷きつつ、ユーナはスカートの裾が短い服を注視する。しかし見覚えはあった。奴隷島でロキと戦った際、動きやすいようにと緑魔法からの応用で服を魔法仕立てにしたのである。

 白シャツにリボン、その上に白い上着まではいい。問題は膝上どころが太股まで曝け出してしまう藍色のスカートだ。あまりにも短すぎる。慎ましさの欠けもらもない。

 念のため黒い膝上の靴下も渡されたが、あまり解決にはなっていない。こうなると下着まで考える必要がある。こんな姿で街を歩いたら注目の的で大変恥ずかしい。


「いやー。あの時の服に刺激を受けてね。やっぱり二百年くらい最先端過ぎたかな。一応伝統風には飾ってあるんだけど。仕方ない、今回は普通のをもう一着作るかー」

「そうしてください。是非お願いします」


 少しだけ溜め息を吐いたパックだが、意気揚々と服の制作に取りかかる。それを眺めつつ、丈の短い服も悪くない、ともう一度見つめる。今はまだ世間の目が気になるため着づらいが、あと百年くらい経過したら日常着にしてみようかと考える。


「完成じゃ!! 藤壺露天風呂!!」

「お風呂ですって!?」

「お、ユーナちゃん。その反応は温泉好きじゃな?」


 汗を拭うガンテツへと勢いよく振り向き、ユーナは目を輝かせた。

 磨かれた鍋形の藤壺は大きく、バルドルが指先で器用に梯子を作っていた。奴隷島の部品で制作されたので金属製だが、潮水や火の煙で燻された体を洗えるならば細かいことはどうでもよかった。

 即座に走り出し、白魔法で飛び跳ねるようにバルドルの肩に乗ったユーナは言葉を失う。お湯どころが水すら皆無。海上の財宝島。真水など望めるはずもなかった。


「流石の儂も亀の甲羅で水脈探しはできんわなぁ。血脈を掘り当てても困るじゃろ?」

「そうですけど! そうですけど!! って、まさか……」

「魔法で水を出して欲しいんじゃな、これが。ちゃんと竃は作っておいたし、今から温めれば充分のはずじゃ」

「仕方ないですわね――温泉のためならば一肌脱ぎましょう――」


 あまりにも酷い法則文だったが、魔力を多めに使う赤魔法で接続先の『水瓶レリック』を黙らせる。膨大な水滴の塊が藤壺の浴槽に落ち、溢れた分が財宝島の大地へと零れる前に黄魔法で出現させた巨大な瓶を移動させて回収していく。


「おい、魔導士! 魔法で食事は出せないのか!?」

「うーん……止めといた方が良いですわね。黄泉戸喫よもつへぐいが適用される可能性が大きいでしょう。木の棒ぐらいならば用意できますし、火も熾せるなら蒸留水も作れますから……魚を釣ってみたら如何です?」


 腹を空かせたルーフェンに対して、ユーナは渋い顔をする。結局『別世界レリック』の物は大抵が返却前提なのである。薬などは仕方ないとしても、食べ物の場合は危険性が跳ね上がる。

 それだったら『世界樹レリック』の枝を一部黄魔法で呼び、それを削って釣り竿でも作った方がまだマシだろう。バルドルに海水蒸留用の装置作成をお願いし、ユーナは前述した方法で何本もの枝を財宝島の大地に置く。


「釣り竿ならシェンリンちゃんが得意じゃろうて。儂は疑似餌でも作っておくから、頼むぞい」

「まあいいだろう。おい、虫。釣り糸を用意しろ」

「はいはーい! あ、ちなみにシェンリンちゃんは可愛いフリフリの服とか好き? 甘ーいロリータドレスとかさぁ!!」

「潰されたいのか? 動きやすい服にしろ。あと不愉快だが耳を隠せるフード付きな」


 一気に賑やかになった財宝島で、ユーナは生き残った人数を指差し数える。二十人以下。奴隷の多くは檻の中で焼死してしまった。それでも零ではないと、自らに強く言い聞かせる。

 削られた木材を集めて竃へと持っていく。燃やせば普通の木とは違う香りが漂った。清々しくて、落ち着きのある匂い。これが狡知神ロキが住んでいた『世界レリック』を支えた偉大なる樹木だ。


 奴隷島。それを支配し続けた神の意図は推し量るしかない。きっと彼は認めたくなかったのだ。自分が義兄弟である大神にとって、利用しやすい奴隷のような扱いであったことを。もしくは運命の奴隷か。

 彼の世界は運命が決まっていた。どう足掻いても覆せない。しかしユーナ達が住む世界はまだなにも決まっていない。それはとても不安定で危うく、けれど可能性に満ちていた。だからロキは否定したかったのかも知れない。この世界も全ては決まっていて、終わりに向かうのだと。

 再度枝を拾い集めにいく。しかしシェンリンから驚きの声が上がった。彼女らしくない天地がひっくり返ったような大声。何事かとユーナが視線を向けた先、普通ならばあり得ない物が枝にくっついていた。


「せ、世界樹の葉……だと!?」


 瑞々しい青い葉。緑ではない。鮮やかな空色。

 ユーナは視界にあるだけで立ちくらみが起きそうな衝撃を受けた。あくまでユーナが黄魔法で出したのは枝だ。それも釣り竿用にと適当な物を『相手レリック』に選んで貰ったくらいだ。

 慌てて歩み寄り、世界樹の葉がくっついていた枝を見る。すると真新しい傷があった。鋭い爪で削られたルーン文字。短いが文章である。ユーナには解読できなかったが、シェンリンが驚きのまま読み上げた。


「えーと『悪戯大成功!』だとよ……」

「な、あの悪神の仕業か!?」


 シェンリンの解読によってノアはすぐに文字を刻んだ相手に思い当たったようで、煙草の火を消して早足で近寄ってきた。確かに同一の『神話世界レリック』だが、魔法に介入するなど反則に近い。

 さすがと言うしかないだろう。誰も思いつかない方法に一足飛びで辿り着き、どんな手を使っても成功させる。善悪など二の次。驚いた顔が見られたら満足。悪い奴だが、どこか憎めない。トリックスターの異名を持つだけはある。


「その葉っぱはそんなに凄いのか?」

「黄魔法で貰うのも難しい、不死の象徴。不死とは永遠の命や死なずを示すだけではなく、死んだことを不問とする因果の逆転を引き起こすのも可能なんです」

「世界樹はトリネコの樹でもあるんだが、その象徴性はエルトが神聖視するヤドリギに匹敵する。大神オーディンが知恵を手に入れた泉は、この世界樹の根元にある。つまり世界を構成する樹木と泉の栄養を含んだ葉なんだ」

「……ふ、ふーん」


 シェンリンとユーナの真剣な説明に対し、理解が及ばないルーフェンは曖昧な返事になってしまう。しかし事の重大性を知っている二人は、奴隷島の部品で疑似餌を作っているガンテツへと視線を向けた。


「おい、若造! あの獣面族の娘! 遺体をこちらに持ってこい!!」

「え!? な、何事じゃ!?」

「ガンテツさん、早く! もしかしたら……名前、聞けるかもしれませんわよ」


 名前を知らないと、一人の娘が死んだことに涙したのを憶えている。

 見捨てられないと燃え盛る島の中で、命がけで遺体を抱えていたのは数時間前の話だ。

 成功するかどうかなんてわからない。それでもやってみる価値はあった。


 梟の特徴を多く残した獣面族の娘。その遺体の胸上に空色の葉が置かれる。すると葉が淡く光った。よく見ればルーン文字が刻まれていた。針の穴で細かく開けて、一見ではわからないように細工された状態。

 これも悪戯の一つなのだろう。しかし使われた文字は魔術へと昇華される。葉に含まれていた豊潤な魔力を全て消費し、大神の魔術が奮われた。役目を終えた葉は娘の体に溶け消えて、それを合図とするように体全体に生気が漲っていく。

 瞼を開けた娘は、自分が何者かも忘れたように呆然としていた。視界に映るのは大勢の人の顔。その中で、娘から貰った羽根を握りしめて涙を浮かべているガンテツへと首を動かした。


「お、はよ、う……ござい、ます。ガンテツ、さん?」

「ああ、おはよう。名前、憶えてくれてたんじゃな」

「……はい。私の名前、伝え忘れてたから……次に会った時は教えなきゃって……」

「うん……うん……」


 大粒の涙を零し続けたガンテツは、鼻を啜る。嘴を動かして、娘はようやく名を告げる。


「アウルです。そのまんまで……本当は少し恥ずかしいんですけど」

「良い名前じゃ。とても……っ、ぉあ、ぁぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんんんんんん!!!!」


 耐えきれなくなったガンテツは大声で泣き始めた。シェンリンは自らの長い耳では完全に音を防ぎきれないことに舌打ちするが、それ以上の文句はなかった。そしてルーフェンやパックを含め、一人でも復活した結果に歓喜の声が上がった。

 まるで島中で祭り騒ぎが起きているようだったが、一人だけ状況を把握できていないアウルは誰か説明してくれないかと視線を彷徨わせた。ユーナと目が合い、初めて会う少女に対して起き上がってからお辞儀する。


「初めまして、アウルさん。わたくしはユーナです。率直に告げますと貴方は一度死にました。けれどガンテツさんが努力し、様々な要因を経て復活したのです。そして貴方は……もう自由です」

「奴隷島は?」

「破壊され、沈みました。売買ギルド【コンキスタドール】もロキの消滅と共に壊滅。貴方は奴隷じゃなくなったのです。さて……なにか望みがありますか?」


 檻の外。初めて触る甲羅の大地。霧が広がってはいるものの、青空は近い。

 嘴を震わせながら、アウルは穏やかな黒目で上空を仰ぎ見る。


「空を、飛びたいです」


 翼である両手を広げて、アウルは澄んだ声で願いを口に出した。

 自由の象徴。到来を告げるように財宝島を覆っていた霧が晴れ、澄み渡る青空と一面の海が姿を現した。

 それはもしかしたら『化け亀モンストルム』のささやかな計らいだったのだろう。彼女の願いを、世界全てが祝福しているような綺麗な青だった。




「で、入浴シーンはカットなわけ?」

「パックさん、なにわけのわからないこと仰っているのですか?」


 羽虫族特有の言い方に首を傾げつつ、ユーナは新しい服を身に纏った。今度はシンプルに白シャツに赤いリボンを付け、濃い青色のフレンチ・ジャケットを羽織る。スカートもジャケットと同じ色合いで、足首までの長さに。茶色のブーツもパック手作りだ。

 藤壺露天風呂でシェンリンやヒルデ、アウルと一緒に入浴。汚れが落ちた紫色の短髪に黄金蝶の髪飾りを着け、新しい出で立ちになったユーナはガンテツと相談しているノアの背中を見つめる。


「本当にここの財宝を好きに使っていいんじゃな?」

「ああ。近々、俺には不要となるだろう。ならばお前達の将来に向けて使った方が、この島も喜ぶだろう。減っても勝手に集めてくるしな。こいつは収集するだけで満足なんだ」

「お主には大変世話になった。もちろんユーナちゃんにもじゃ。もしなにかあれば声をかけてくれ。いつでも力になろう」

「礼を言うのはこちらの方だ。お前の存在が、魔導士の心を奮い立たせたのも事実だからな」


 ユーナの位置からは会話内容は聞こえなかったが、真面目な話をしているのはわかった。すると背後からシェンリンが声をかけてきた。


「おい、魔導士。私はカメリア大陸を目指す。あそこには未知の文字があるはずだからな……そして一つ、尋ねよう。お前はあの魔女の名字を受け継いでないのか?」

「……はい。両親の行方を知った後、名字について相談しようかと。だからわたくしはまだユーナ。ただの紫魔導士ユーナですわ」

「そうか。魔導士は気に食わん。だがお前は認めてやる。助けを求めるならば呼べ。少しは力になってやる」

「ふふ、ありがとうございます」


 どこか命令口調の言い方だが、それがシェンリンにとって精一杯の素直なのだ。思わず生温かい目で見つめれば、頬を柔らかく引っ張られてしまう。最初の出会いから考えれば、大分優しくなった方だろう。


「ルーフェンさん達はどうするのですか?」

「俺はバルドルの作る飛行装置に興味がある。先祖が地の果てを目指したなら、俺は空の果てでも良いからな。好きにやってみるさ」

「はいはーい! 僕もバルドルの作る家に工房建てて路銀稼ぎするー! 特にバルドルサイズの服を制作したくて羽根がウズウズするんだ!!」

「私はガンテツさんと一緒に生きる道を探そうと思います。空だけ飛び続けるのは難しいですから、安定した場所の確保は必須ですし」


 既に財宝島でなにかを組み立て始めたバルドルを背に、各々が自らの進む道を決めていく。そこに人種の壁はなかった。それすらも奴隷島と一緒に彼らの中で壊れてしまったのだ。同じ人として、生きていく。それだけなのだ。


「あ、ちなみにティオさんとヒルデさんには就職口の当てがあるので、わたくし達についてきてくださいね」

「ほ、本当ですか!? よかったぁ……私、仕事人間だから無職が一番辛くて」

「やったね、ヒルデ! お、俺も頑張るよ!!」


 両手を挙げて喜ぶ二人が微笑ましく、ユーナは目を細める。懸念は幾つも残っているが、問題は少しずつ解決していた。もしかして助けるとはこういうことなのだろうか。誰かの人生に寄り添い、道の一つを示す。

 自分の足で歩いて行けるように導く。簡単なことではない。しかし難問というわけではなかった。誰だって見る先が定まれば進んでいけるのだ。一から十まで付き合わずとも、人はそういう強さを持っている。

 弱くない。悲しいことばかりではない。それが人の生きる道だとするならば、ユーナはこそばゆい嬉しさに包まれる。長い時間見つけられなかった答え。


 人は美しい。まるで星のようだ。


 闇の中に消えてしまいそうになりながら、懸命に輝く姿はまさにそれだった。

 この結果を信じよう。心が折られそうになったら、何度だって思い出す。百年生きてきた少女にとって、今後の道標となり得る出来事だ。決して忘れないように刻む。


「そろそろ行くぞ、共犯者。まだ終わってないからな」

「ええ。さあ行きましょう。輝かしい復讐の道を」


 ノアから伸ばされた手に触れる。芽生えた淡い感情を少しずつ自覚しながら、ユーナはノアの行く末を見届けると決意した。

 燃え盛る星。彼こそが少女にとって。そして彼にとって少女も。辿り着くための北極星だった。

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