EP0×ⅩⅠ【黒い積荷《black×cargo》】

 冷たい水に沈んでいくのは、熱い火の中に落ちていくのに似ていた。

 肌を突き刺す刺激が、浮かび上がることができない確信が、どんなに手を伸ばしても助けてもらえないところが、否応なく過去を想起させる。

 魔女と罵られ、悪魔の忌み子と決めつけられ、どれだけ声を張り上げても幾重の怒声に掻き消されてしまう。


 ではお前は誰なのだ。


 そんな簡単な問いに答えられなかった。母親も、父親も、知らない。自分自身のことさえわからない。燃え盛る炎に投げ込まれるには充分な理由だった。


 助けて。この声が届かない悔しさを理解している。

 助けて。短い単語に込められた意味を把握している。

 助けて。手を伸ばす。誰か掴んで欲しい。それだけで良かった。


 暗い海に落ちながら、指先を空へと向ける。何度も諦めて、同時に期待する。

 重くなる瞼に抗いながら、太陽の光が遠ざかる水面へ。死ぬのが怖いのではない。

 このまま『なにもしない』のが恐ろしい。泡に消える抵抗であっても、残してみせる。


 少女が伸ばした手を誰かが掴んだ。海の底よりも黒い服を纏った男の姿を見て、安堵したように意識を失う。




 潮騒が静かに響き渡る島。緩やかな曲線を描いた甲羅の大地、規格外の藤壺の中。小さな洞穴とも呼べるそこには黄金と宝石の山が築かれていた。

 島が揺れ動けば、金貨が時折旅立とうと転がり出す。たった一枚の金貨が水面に零れ落ちても尚減らぬ、果てのない財宝。それは多くの海賊が夢見た島。

 財宝島。海水で体を冷やしたユーナがくしゃみで起き上がり、状況を把握するまでに五分ほどの時間を要したのは言うまでもない。


「……」


 絶句。小さな焚き火に照らされた黄金の輝き。宝石が自ら光を放つような彩り。普通の人生を送っていたらお目にかかるのは難しい光景。非現実と疑うほどの宝の山は目に毒だった。

 起き上がった拍子に背中から砂金が零れた時は、畏れ多さで背筋を震わせた。肩を尖らせるほどの異様さ。慌てて服についた財宝の欠片をはたき落とす。

 そしてボロボロのドレスを見て思い出す。奴隷島での戦い。その結果。息を呑み、周囲を確認する。男が一人、それだけだった。


「起きたか」

「……わたくし達だけ、ですか?」


 焚き火から離れるように座っている男、ノアに問いかける。

 重い沈黙は肯定を示唆していた。


「ガンテツさんも、シェンリンさんも……ルーフェンさん、パックさん、バルドルさん、ティオさんにヒルデさん……皆、いないのですか?」


 名前を一つ述べるたび、顔を思い出そうとする。しかし受けた衝撃が強すぎて、それさえ朧になりつつあった。

 奴隷島に巨大な火が迫った時、ユーナは突き飛ばされた。魔術を使った転移だと気付く頃には、視界は熱い白に埋まっていた。

 次に冷たい海中。あまりにも静かで、先程のは夢だったのだろうかとも考えた。けれど水中ではまともに動けない体のせいで、思考も次第に凍結していった。


「皆……置いてきたのですか?」

「……ああ」


 焚き火の明かりが届かないノアの表情は読み取れない。黒い帽子で顔の上半分を隠しているというのもあった。俯いているせいで、口元もわずかにしか見えない。


「……っ」


 非難できない。助けられなかったのはユーナも同じだ。あの一瞬で、一人でも助けたノアの方が優秀なのは理解できた。それでも胸の奥からこみ上げてくる感情に吐き気を覚える。


 どうして。


 その言葉を出すのは楽だ。しかしそれはノアに全ての責任を負わせるのと同義だ。自分は悪くないと逃げるための発言でもある。

 理性的に努めようとして、顔全体が震えるような悔しさで表情を歪める。口元を押さえても我慢できない。静かに立ち上がり、外へ出る。

 濃厚な霧に包まれた海上だった。奴隷島よりも小さい島は、少し進めばすぐに白波が見えた。塩水で滑りやすくなっている甲羅の上だということも気にせず、ぎりぎりまで歩く。


「っ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」


 涙の代わりに、発散するように叫んだ。

 泣きたくても受け止めきれない。一瞬でも勝利を味わい、未来に希望を抱いた故になおのこと。

 望みは叶えられた。しかし望んでいない形で、奴隷島は破壊されたのだ。


「ようやく一歩踏み出せたんです!! 自分のために、誰かのために! なにのになんで!?」


 どんなに大声を上げても、霧の中に消えていく。広い海では反響などしない。誰かに届くこともない音が潮騒に削られていった。

 何度も絶叫した。結局、答えは返ってこない。煮え切らない想いを抱えて、ユーナは洞穴へと戻る。変わらぬ姿勢のまま座っているノアが、少しだけ顔を上げた。


「弁明は必要か?」

「……いいえ。むしろ説明してください」


 焚き火の横を通り過ぎ、明かりを遮るようにノアの前に立った。紫色の瞳に『復讐鬼モンストルム』の顔を映し出す。


「左手に天秤、右手には剣……背中の六翼。宗教画で嫌というほど見ましたわ」

「……」


 ノアの気配が変わった。拒否と、怯え。それ以上に強いのが迸る怒り。それを抑えようと拳を固く握りしめているほどだ。

 彼はユーナを共犯者と呼ぶ。その真の意味をようやく理解できた気がした。予想通りならば、確かにこの計画は許されるべきことではない。

 



「聖ミカエル。何故……貴方と同じ顔をしているのですか?」




 大天使。熾天使。天界の長。正義を司る者。竜を殺す使者。四大元素の火としての象徴。

 アイリッシュ連合王国では彼の休日を作るほど、その信仰は幅広い。教会に預けられているアラハジャの宗教でも、聖ミカエルは偉大なる天使である。数ある天使の中でも別格の存在であり、彼だけは特別として扱われることが多い。

 世界の終わりには天秤で魂の罪を量り、善き者は楽園へ。悪しき者は地獄へ。かつて悪魔長サタン、堕天使ルシフェルと戦い勝利したとさえ記されている。悪魔=竜である考えから、竜殺しの代表として語られることも。


「悪い冗談だと思いました。けど、目に焼き付いて離れない……顔色一つ変えないまま、あれはわたくし達を島ごと消滅させようとした」

「……」

「確かに奴隷島に蔓延していたのは悪かもしれない……負の感情、エゴ、争い。正義なんてどこにもなかった。けれど懸命に生きようとして、戦って、抗って、勝ち取った。そんな彼らを一瞬で消すのは……正しいのですか?」

「……手を」


 返事をしない代わりに、手を差し出すノア。言われるがままに手を重ねる。

 ノアの胸元へと引っ張られた手の平に、熟れて腐食していくような熱が伝わった。体だけでなく存在全てを蝕む濃厚な魔力。


 そして――鼓動がない。


「俺は心臓を奪われた」


 鍾乳洞で水滴が落ちていくような速度で、少しずつノアは語り始める。

 彼がまた幼い少年で、奴隷だった頃の話。およそ百年前、クイーンズエイジ1678。

 ノアという名前を使用する前の、無力な人間だった時代のことだ。


 

 

 暗い船底で、真っ黒な天井を見上げる。口元と鼻を押さえて、声を押し殺す。

 右を向けば、蛆が這う少女の死体。左を向けば、病気で皮膚が黒くなった少年。

 奴隷を運ぶ商船の中で、長期間の渡航によって半数が死に絶えていた。残った人数の半分も、病気や飢えで苦しんでいる。生きているのは地獄だった。


 黒い積み荷ブラックカーゴ。奴隷は砂糖や煙草と交換する荷物だった。


 少年は十二歳だった。両親を幼くして失い、引き取ってくれた親戚が金に困って売り払ったのが一年前。

 当初は泣き叫び、抵抗も試みた。それも暴力によって抑え込められ、全て無駄なのだと知るのに半年は要した。しかし胸の奥には常に憤怒の感情が渦巻いている。

 いつか必ず復讐してやる。それだけを糧に生き抜いていた。なにもできずに惨めなまま死ぬのだけは嫌だった。暗い船底で、次の売買地に一刻でも早く辿り着くことを願う。


 健康だけが取り柄だった少年だが、買い手は中々見つからなかった。売れ残りだと馬鹿にされれば、嘲笑した相手の顔は緑色の瞳に焼き付ける。未来への希望ではなく、報復を胸に抱え続けた。

 ある日、同じ売れ残りだと紹介された少女がいた。顔の半分が火傷しており、常に歌い続けている。頭の螺旋ねじが一本外れたような奴隷。商人達は売れ残りでも集めて安くすればいいだろうと、叩き売りの商法に手を伸ばしていた。

 そして叩き売りされた奴隷を買ったのは、売買ギルド【コンキスタドール】だった。奴隷島へと運ばれた少年は、ロキの顔を見て怖気が走る。人間とは思えない冷酷な感情と愛嬌が入り交じった顔。


 ロキは新商品入荷と称して、売れ残りだった奴隷達を集めてセット販売したのである。屈辱で死にたいくらいだったが、それもロキの顔を忘れないように睨み続けることで誤魔化した。

 火傷の少女は常に歌い続けていた。隣の檻から聞こえる調子外れの歌声は他の奴隷には不評だったが、少年は少しだけ心地よくなっていた。少女の声には歌を楽しむ以外の感情はない。

 恐れも、悲しみも、苦しみも。外れた螺旋と一緒に零れ落ちてしまったのかもしれない。代わりに無邪気で、純粋で、無垢だった。嘆き悲しむだけの奴隷よりは、幾分かまともに見えたのだ。


 そしてまた半年。とうとう少年達を買うと告げた客がいた。普通の奴隷よりも半額以下の値段で売られたことも恥辱で、そう考える自分に苛立ちもした。けれど好機が訪れたのだと少年は勘違いした。

 召し使いのように屋敷でこき使われると予想していた少年の目の前に、祭壇が広がっていた。山羊の頭が印象的な醜悪な像を崇拝する者達。時には裸になって狂喜に叫び、怪しい薬の煙を吸い込んでは走り回っている。

 複雑怪奇な文様が刻まれた床には、拭っても消えない血の染みが大量にこびりついていた。檻の中で呆然と眺める。奴隷でもなかった。家畜のように買われて、殺される。そんな結末だと理解した。


 一人ずつ、儀礼のために順序通り殺されていく。手足の甲を鉄の杭で床に打ち付けて、標本飾りのように固定される。次に胸の上に焼き印を押される。皮膚が焦げる臭いと、鼓膜を震わす絶叫に身を竦ませた。

 焼き印から臍を辿るように縦線が刃物によって刻まれ、今度は横の線が臍を通過していく。逆さ十字の切り傷を目印として、剣が振り下ろされる。助けて、死にたくないと泣き叫んでいた大半が、そこで声を途切れさせた。血が抜き取られた死体は、地下水が流れる穴へと落とされた。

 目の前で自分の殺され方を見つめるしかない。怖さのあまり、知らずに手を握っていた。火傷の少女は、この状況を理解していなかった。柔らかい手に、温もり。少年と目が合えば、歌いながら微笑む。


 怖かった。自分よりも少女が死ぬことに怯えた。


 少女だけでも救えないだろうか。儀式には相応しくないと言えば、見逃してもらえないだろうか。こんな柔らかい手の温もりを持つ少女が、ここで無惨に殺されるのは嫌だった。

 教会の絵画に描かれている天使の微笑みを、少女は浮かべている。無邪気で、無垢で、純粋だった。一人くらい生き残って良いならば、少女を救って欲しい。この世に正義の使者がいるというならば、彼女を選んで助けてくれないだろうか。

 少なくとも、復讐を胸に抱き続けた自分よりも相応しいと思った。


 そんな想いも虚しく、少女が連れて行かれる。檻から何度も止めろと叫んでも、聞き入れてもらえない。順序通りに儀式は進み、彼女の腹部に剣が突き刺さった瞬間に歌声は途絶えた。地下水に、少女の死体が落ちていく。


 全身が焼けるような怒りと憎しみで灰になりそうだった。それでも儀式は刻々と進み、少年の番が回ってきた。鉄の杭が打ち付けられても、焼き印を押されても、奥歯を噛みしめて耐えた。唇の端から血が流れ落ちていく。

 逆さ十字の切り傷が刻まれて、剣が腹部の上へと移動してくる。夥しい血が付着した剣と、儀式を笑いながら眺める者達全員に向かって叫ぶ。


 ――復讐してやる。お前ら全員が対象だ!! いいや、お前らだけじゃない、俺達を見捨てた世界も、あの子を救わなかった全てを、俺は復讐してやる!! ――


 心の底からの言葉を嘲笑われて、無力なまま腹部を貫かれた。死んでもいい。必ず復讐を果たす。悪魔と契約しても構わない。この気持ち正義感が通るならば、手段は問わない。


 そして奇跡は訪れた。


 悪魔の像が破壊され、その場にいた崇拝者全員が白い炎で燃やされた。息も絶え絶えな少年の顔を覗き込んだのは、光るのっぺらぼうだった。

 朧ながら人間に近い姿をしているようだったが、あまり見つめていると輝きで目が潰れそうだった。

 檻の中から悲鳴が聞こえた。生き残った奴隷がいる。光の正体などなんでもよかった。彼らを助けてくれと、手を伸ばした矢先。檻は奴隷ごと燃えた。


 信じられない気持ちのまま、光るのっぺらぼうを見上げる。軟体動物に近い光の腕が伸び、焼き印が押された胸の上に置かれる。温度がない手は、少年の皮膚ごと心臓を抉りだした。

 太い繊維が千切れていく感覚と同時に激しい痛みと喪失による違和感を覚える。のっぺらぼうは心臓を光の中に埋め込むと、粘土をこねるように形を整えていった。

 少年の顔を模した天使が立っていた。天使は表情一つ変えずに、手を伸ばして少年の胸元に白色の炎を置く。それは少年の全身を覆う、はずだった。


 白い炎が塊となって少年の体に埋め込まれる。偏った魔力が少年の体を変化させていき、失った心臓の代わりを担った。光り輝いていた炎は黒く染まり、人間では到底敵わない力を与えていく。

 無我夢中で床に縫い付けられた手足を動かし、杭が皮膚を貫いたまま自由になる。修復途中の腹部の傷も構わず、天使へと手を伸ばす。掴みかかるまであと一歩のところで、少年の腹にもう一度剣が突き刺さった。

 天使の剣が血を厭うように振り払われ、少年の体は紙屑のように地下水が流れる穴へと落ちていった。心臓がない人間を死者と呼ぶのならば、少年は確かに死んだ。それでも天使の炎を動力に生き続けた。


 流れ続けた先。海へと出た少年は偶然にも財宝島に拾われた。とある『化け亀モンストルム』が守り続ける島の中、巨大な紫水晶を財宝から見つけ出す。少年は感覚的に胸で燃え続ける炎を引きずり出し、近付けた。

 紫水晶が、透明な緑色に変化した。鉱石が異常な熱によって色を変えたことで、少年は決意する。人間を捨てて『復讐鬼モンストルム』へ。何百年もかけて復讐を果たすのだと緑水晶を証明として加工した。


 ノア・オリバー。これが彼の始まりである。




 長い沈黙が流れた。焚き火を背に、ノアの胸に触れ続けるユーナは妥当な言葉が見つからなかった。

 自分が知って良い過去だったのか。判別がつかないまま、膨大な魔力が宿る胸の熱を感じ取る。熱い。身の内を焼き続ける炎を宿している男は静寂の中に消えてしまいそうだった。

 手を離したら目の前からいなくなってしまうのではないか。それが恐ろしくて、彼の胸元の服を握りしめる。ユーナは搾り取るように声を出す。


「わたくしがロンダニアを目指してた理由……教えていませんでしたわね」

「……ああ」

「両親を……探したかったのです」


 途切れそうになる言葉をなんとか繋ぎ合わせて、語る。

 百年生きても尚少女であり続ける彼女の、どうしても振り払えない不安。


 拾い子だった。黄金律の魔女に救われた命だった。それ自体に不満はない。むしろ恵まれている方だと自覚していた。少なくとも不幸ではない。

 近所に住む子供が馬鹿にする。魔女の子だと。否定すれば、ではお前は誰の子供なのだと問われる。親を知っている者達に理解してもらえない。自分が何者であるかがわからない恐怖を。

 馬鹿にした子供が母親に手を引かれて家へと帰っていく。それが羨ましくて、悔しかった。彼らは自分が誰かを知っている。親に保証してもらっている。なにより、家族の元へ帰れるのだ。


 ある程度年齢を重ねれば、そんなのは無視できた。魔女の子でも良い。自分はロンダニア大火で生き残ったのだから。むしろ感謝しかない。見ず知らずの自分を立派に育ててくれている老婆は、国にとって重要な人物なのだから。

 けれど人の心はそんなに簡単ではなかった。魔女が頻繁に館を留守にし、そこには誰ともわからぬ子供が一人住んでいるのだから。


 もしかして悪魔の子供ではないのか。


 誰かが不安から零した意味のない言葉が、噂となって広がっていく。正体が掴めない少女に、近隣の住民は恐怖に駆られた。そして少しだけ時代外れの魔女狩りが始まる。

 何度違うと叫んでも聞き入れてもらえない。疑いだけで罰せられる理不尽に抗う術を持っていなかった。助けてと喚いても、唯一の味方である老婆はロンダニアに出かけた矢先だった。

 大勢の人間の手で燃え盛る炎へと連れて行かれる。殺されるのだと理解して、耳に届く誰かの母親の金切り声に頭痛がした。どうして。自分の子供を守るために、罪のない他人の子供を殺すのか。


 違う。誰かの子供ではないからだ。誰の子供かもわからないから、殺されるのだ。

 投げ飛ばされて、耳の奥で竜の咆哮が響いて、一際強い風が吹いて。気付いた時には灰になった藁の上に寝転がっていた。偶然か、それともなにか意図が働いたのか。二度目の炎からの生還。

 しかし結果として人々の疑いを強めるだけになった。邪法で身を守ったのだと。やはり悪魔の子に違いないと、農具を手に怯え始める。そんな彼らに向かい、少女ができたのは灰になった藁を投げることだけだった。


 石が手に当たれば、石を。土が触れたならば、土を。枝が指を突き刺せば、枝を。手当たり次第に投げ続けた。子供が我武者羅に八つ当たりしているだけの行為。それさえも恐れて、人々は距離を取った。

 灰で真っ黒に汚れた顔に、涙の筋が二つ。同情してほしくて泣いたわけではない。ただ自分が誰なのかを証明できないのが悔しくて、伝えられないことが悲しくて、声にならない感情が喉を締め付けた。

 そして女の前に、子供が庇うように出てきた。小石が額に当たった少年は、血を流しながら懇願した。


 ――お母さんを殺さないで――


 その一言だけで、体中から力が抜けた。顔を歪めて、四つん這いになって泣きじゃくった。一生分泣いたのではないかと思うくらい、涙を零し続けた。なんで、どうして。そんな単語だけが頭を埋める。

 自分は殺されてもいい子供で、誰の子供かわからない少女を殺そうとした母親は助けられる存在だった。では自分も誰かの子供であったならば、助けてもらえたのだろうか。庇ってくれたのだろうか。

 答えは出ない。灰の上には少女しかいない。抱きしめてくれる両親など知らなかった。ずっと待ち続けているのに、迎えに来てくれなかった。体を縮こまらせて、泣き続けた。お母さん、お父さん、何度呼んでも現れてくれない存在へ助けを求める。


 戸惑いながらも農具の刃先を向けてくる人々など、最早どうでもよかった。衝動のまま知らない両親を呼ぶ。灰の上で、体中を汚しながら叫ぶ。

 助けて。助けて。助けて。なにも悪いことなんてしていない。ずっと良い子で待っている。育ててくれた老婆にも迷惑かけないように、お利口さんでいた。

 たった一つの手掛かりである黄金蝶の飾りを握りしめる。紫色の髪に瞳なんて珍しい。すぐ見つけられるはず。だから早く来て欲しい。両腕を広げて迎えて欲しい。そして家に帰ろう。本当の、自分の家に。両親の温かい手を握りながら、帰りたい。


 頬に手が触れた。顔を上げれば、育て親の老婆が珍しく困った表情を浮かべていた。


 異常を聞きつけて、慌てて戻ってきたらしい。いつもは一糸乱れぬ容姿が少しだけ荒れていた。農具を向けていた人々は、罪悪感から目を背けていた。悪魔の子供と決めつけた少女は、両親を知らない普通の子供だった。

 助けられた少女だったが、胸の中にあったのは苦しみだ。結局、両親は迎えに来てくれなかったのである。悲しくて、辛くて、老婆の胸に縋りついた。泣き止むまで背中を擦ってくれた老婆の優しさが、むしろ両親がいない現実を克明に浮かび上がらせている。

 多くの者が敬う天主の奇跡など信じない。もしも本当に奇跡を与えてくれるなら、あの瞬間に両親に会わせてくれたら良かったのだ。それだけで救われたのに。少女の心に深い傷を植え付けるだけで終わった。


 あれから長い年月が経った。少女も白魔法を覚え、魔導士となり、生誕百年の節目に立った。近隣の住民の多くも死んでいき、誰かの母親も、彼女を庇った少年も目の前から消えてしまった。

 結局、それだけのことなのである。けれど少女はいまだに振り払えなかった。両親の行方を確かめたい。生きていても、死んでいても構わない。ただ自らの目で確認したいのだ。自分が誰の子供で、何者であるのかを。

 そして老婆に内緒でひっそりと旅立った。目指すはロンダニア。石造りの街。胸を張って自分が何者かを名乗れるように、確認するためだけに歩き始めたのだ。




「……まあ、今はこんな状態ですけどね」


 話し終え、自嘲するように呟く。ロンダニアに辿り着けないまま、奴隷島から財宝島へ。多くを失って、何一つ得られていないような感覚。泣こうにも、涙は灰の上で枯らしてしまった。


「そうか」


 短く告げた男は、少女の頭を胸元に引き寄せた。きっと酷い顔だったのだろうと、ユーナはその行動に甘んじることにした。

 お互いに助けてもらえなかった。何度、血を吐くように辛い思いを味わったか。数えるのも馬鹿になる年月を生きた。そして今は少しだけ、寄り添える相手ができた気がしたのだ。

 耳に鼓動の音は響かない。けれど衣服越しに感じる体温に安らぎを覚えた。それは子供の頃から欲していた温もりに近い。少しだけ時間が止まってしまえば良いのにと、願うほどに心地良い。


 しかし、ユーナの耳にあり得ない声が響いた。


 顔を上げ、ノアと視線を合わせる。すると彼も同じように驚愕の表情を浮かべていた。すぐさま体を離し、洞穴の外へと駆け出す。

 濃厚な霧の中から弱々しく響く歌声。今にも消え入りそうな声に活を入れるように、数多の声が応援を続けている。そして巨大な島が姿を現した。


「ほっほーい、その島に誰か……ユーナちゃんか!?」

「ガンテツさん!?」


 聞こえてきた陽気な声に、ユーナは開いた口が塞がらない。今にも崩れ落ちそうな『奴隷島の成れの果てモンストルム』の上に、白い炎で消えたと思っていたガンテツが元気な様子で顔を覗かせたのだ。


「シェンリンちゃん、ユーナちゃんが生きておったぞい!!」

「ちゃん付けするな、若造が!! しぶとい奴らめ……まったく」

「とか言いつつ、少し微笑んでるよねー、って潰さないでよ! 特に羽根!! 大事な体の一部なんだから!」

「猿面魔導士が生きてるのか!? 今度こそ本当に死んだとばかり……」

「むしろ私達が生きてるのが奇跡なんじゃ……でも良かったです。ね、ティオさん」

「うん……あいたたたたたた。声を出すのも辛い!」

「うおおおおおお! 感動の再会だー!!」


 奴隷島で知り合った者達の多くが生き残っていた。次々に状況を確認しようと顔を見せに来る。しかし同じ奴隷であった『化け物モンストルム』達の姿だけが何処にもなかった。

 バルドルの巨体に乗っかった生き残り達が、財宝島へと降り立つ。ガンテツは獣面族の少女の遺体を抱えていたが、炎に包まれる直前とほぼ変わらない姿であった。豊かな髭もそのままである。


「いやー、お互い悪運が強かったようじゃ、な?」


 再会を喜ぶガンテツへと駆け寄り、少し背が低い彼の頭を抱きしめる。紛れもない生身の体であること、頭に浮かぶ文様の数がしっかり十五であるのを確認し、ユーナは感慨深く呟く。


「良かった……」

「おい、魔導士。それよりも聞きたいこと、が」


 次にシェンリンの胸元へと抱きつく。いきなりの好意に言葉が止まったシェンリンに対し、肩に乗っているパックがにやけた顔で彼女の長い耳元に囁く。


「仲良しじゃん。そうしてるとちゃんとお姉さんみたいだよ、黒髪が素敵なシェンリン」

「はっ。それが私への最大の侮辱と知りながら煽るとは、良い度胸だ虫」

「羽虫族だもーん。ルーフェン、助けてー」


 握り潰そうとしてきたシェンリンから逃げるように、背中から生えた蜜蜂の羽根を使って飛ぶパック。助けを求められたルーフェンは、狼の顔で器用に表情を歪めた。


「ルーフェンさん」

「お、おう。ま、まさか俺にまで抱きつく気じゃ……」


 豊かな毛並みに体を埋めるパックの存在も忘れ、少しずつ近寄ってくるユーナに慌て始める。生まれた時から奴隷であった彼は、純粋な好意で抱きしめられるなど経験したことのない好意だ。

 しかし――


「わたくしを猿面と呼ぶなと言ったでしょうがっ!!」

「うおっ!? 足癖、悪いな!」


 残念ながらユーナの蹴りだけが飛んできた。狼の脚力で退避したルーフェンは、うっかり使ってしまったことを思い出した。それにしてもあと少しくらいは可愛げがあってもいいのではないだろうか。


「そういえば自己紹介がまだなんだなぁ。おいらはバルドル。そっちは?」

「い、今更ですわね……紫魔導士のユーナです。よろしく、バルドルさん」

「よろしく! うーん、じゃあこれからどうすんだ?」

「お互いの情報共有ですわね。そうでしょう、シェンリンさん」

「ああ。なにがあったか……ゆっくり話そう。その前に」


 シェンリンの赤い瞳がユーナを映す。視線の先には適当な切り口の毛先。ユーナも忘れていたと言わんばかりに指先で髪の毛に触れる。どう見ても乱暴に髪を切られた状態の形だ。


「私が整えてやる。おい、そこの仏頂面。ナイフを持っていないか?」

「俺か? まあ……こんなのでいいなら、山程あるぞ」

「なんでも良いから貸せ……って、宝飾品のナイフ!? しかもかなりの値打ち物!?」

「ほほほーい!!!! なんじゃこれ、なんじゃこれ!? 儂の目でもとんでもないとわかる素晴らしい細工!! この島にはたくさんじゃと!? 滾るのぉ!!」


 ノアから渡されたナイフを見て動揺するシェンリンの横で、ガンテツが興奮したように弾む。本格的に説明が必要だと、ユーナは苦笑いを浮かべた。しかし先程までの悲壮感は消えている。

 少しだけ賑やかになった財宝島で、しばしの休息を。後に続く戦いの前に訪れた、わずかな平和な時間の一つがユーナの表情を明るくさせた。

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