EPⅥ×Ⅴ【選び取る《choice×get》】

 昔々の話である。一人の娘が摩訶不思議な魚肉を食らった。それは奇妙な触感だったという。艶やかな白身魚とも淡白ながらも滑らかな鶏肉と似て非なる。そう、絹の質感を持った美女の肌とも言うべき柔らかさ。その舌触りだけで天上に昇る美味。

 噛めば溢れる肉汁は豊潤な甘みが含まれており、歯を立てれば立てるほど口内を確かな満足で埋めていく。鼻腔を突き抜ける匂いは快感の遥か先を刺激する。娘は夢中になって食らいつき、気付いた時には人間ではなくなっていた。

 娘は絶望した。肉を食らうのに執着し、いつしか周囲が家族の死体が並んでいることに気付かなかったのである。喉を掻き毟り胃袋ごと肉を出そうと刃物片手に絶命している父の無残な最期。あまりの美味に肉汁の中に頭を入れて溺れている母の姿。旨味の刺激に耐え切れず頭を破裂させた兄。親族全てが小さな家屋で娘以外息絶えていた。


 これが和国に伝わる『十尾比丘尼伝説モンストルム』の始まりである。




 冷たい雨が夜のロンダニアを深い静寂に落としていく。屋根裏部屋のソファの上で毛布に包まっていたユーナは、肌寒さで眠ることが叶わなかった。結局、ガウェインガーデンの一件と、降り出した雨、そしてユイレのが落ち込んだ様子からロンダニア散策を止めたのである。

 図書館巡りをするのだと張り切っていたロゼッタは頬を膨らませていたが、もしも図書館に料理の鉄人ガート・ソースが来ては破壊される恐れがある。おかげで渋々と納得してもらえた。世界でも有数の蔵書率を誇る大逢博物館で働くロゼッタだからこそ、本の大事さは誰よりも理解しているのだ。

 寝間着の上に肩掛けを羽織り、体を温めようと紅茶の茶葉を保管している一階への食堂へと向かう。食堂と言っても、ほぼ調理場と変わらない。そのため紅茶を飲むとしたら二階の居間となる。特に雨が降る夜は蒸気機関暖房器がないと紅茶もすぐ冷めてしまう。


 手持ち用の燭台に蝋燭を刺し、マッチ棒で火を灯す。深夜のため音を立てないように慎重に歩いている最中、客人用の部屋前で蹲っている人影が一つ。緑色の波打つ髪が明かりに照らされて、一瞬だけ海の中にいるような錯覚を味わう。美しい海中で漂う海藻のような滑らかさがその髪には宿っていた。

 膝に顔を埋めていた少女が顔を上げた。愛らしいデザインの白い寝間着はハトリが用意した物で、袖口から見える肌に浮かぶ鱗さえなければ普通の人間と変わらない。しかし銀色の瞳は自らの肌を見て、苦しそうに表情を歪めた。


「ユイレンさん。眠れないのですか?」


 ユーナの問いにユイレンは小さく頷く。寒さ以外の要因で震える肩を見て、ユーナは少し考え込んだ後に手を伸ばす。戸惑いを見せたユイレンではあったが、恐る恐る手を握り返す。魚眼用に作った眼鏡のおかげで、距離感を間違えることはない。


「わたくしもです。一緒に紅茶でも飲みましょう」


 冷たい体温の小さな手を引っ張り、蒸気機関暖房器で暖められた居間へと入る。そこでは夜間でも関わらずに働き続ける自称執事のヤシロが本を読んでいた。ロゼッタから渡された料理本を熟読しており、明日の朝は南国辺りの料理が出るかもしれないとユーナは危惧する。ロゼッタが勧める料理は美味しいのではなく面白いを重視しているのである。

 ユーナ達の来訪に気付いたヤシロは静かに本を閉じ、音もなく横を通り過ぎて食堂へと向かう。客人であるユイレンがいるため、紅茶を二人分用意しに行ってくれたのだろう。執事の仕事を取るわけにはいかず、少女達は来客用のソファに体を預ける。

 静かに戻ってきたヤシロの手には銀色の盆。その上には紅茶専用急須ティーポット一つ、二人分の紅茶用食器ティーカップと砂糖に紅茶用牛乳ミルク紅茶用の小匙ティースプーンも忘れていない。そして少量の砂糖煮果実ジャム葡萄地酒ブランデー


 食堂で既にお湯を沸かして茶葉を蒸らしていたため、淀みなく食器の中に紅茶を入れてから砂糖煮果実と葡萄地酒を少量ずつ加える。夏場とはいえ雨が降るロンダニアの夜の寒さを紛らわすのに、酒が持つ体を温める効果は絶大だ。

 ユイレンが恐縮しながら受け取り、一口飲んだ後に口元を綻ばせた。甘酸っぱい果実の匂いが紅茶とよく合っていた。体の芯から温まっていく感覚が心地よく、無言で少しずつ味わっていく。一杯分を終えた後、今度は砂糖と牛乳を混ぜ合わせたまろやかな味わいの紅茶が用意される。

 雨の音だけが響く室内で、穏やかな時間が流れる。この時だけは壁掛け時計の針の音もゆっくりと動いている気分だ。ユイレンは遠い目で窓硝子越しに街を眺める。街路に立つ蒸気灯さえ朧気で、深い水底のように暗闇が横たわっている。


「私は……深い穴の中から外を見てました。青い空、白い雲、夜になれば星が輝いて……時折潮風が頬を擽る。嵐の日は少しだけ空が近づいて、飛んでいけるのではないかと夢想したものです」


 懐かしそうに小声で話しだすユイレンの言葉に、ユーナは穏やかな様子で耳を傾ける。崖の壁からしか覗けないような穴の底にいたという『人魚モンストルム』にとって、静かな夜はかつて住んでいた場所を思い出すのにうってつけなのかもしれない。

 嵐の日は穴の底にあった水面の水位が上がる。足が乾燥すると鱗が剥がれ落ちて激しい痛みが伴う彼女にとって、その日は外へと近付く貴重な機会だった。細長い穴が水に満たされ、そこを泳いで丸い穴から外を眺める。荒れ狂う黒い波、鮮烈な光を走らせる重い雲。木々をへし折る強風さえも刺激的で、未知数。心を躍らせるには充分な、体震える高揚感と恐怖が同時に存在していた。


「けど、その度にトオさんが言うのです。こんな広い世界の、何処に行くのかと。この穴から出てしまえば、二度と戻ってこれないと……私は勇気がないんです。だから嵐が引けば穴の底に引き返しました」


 何処へ。此処さえも確かなことなどわからないのに、こんな不自由な足で進んでいく場所などあるのか。穴の底から外を眺めるだけでもいい。それだけで充分だと自分に言い聞かせて、遠い空を見つめる。銀色の目は魚眼。距離感は普通の人間とは違う。けれど空だけは距離感は関係ない。あまりにも遠すぎて、意味がないのだから。

 海も、星も、広くて果てが掴めない。そんな美しい場所へ踏み出すのが怖かった。全てが見えないから、一人で足を進めることが未知の恐怖でたまらなかった。海鳥みたいに自由に空を飛ぶ翼もない。あるのは不自由な足と距離感が危うい目。頼りになるのは幼い頃から傍にいる蛸のトオ。それ以外はなにも知らない。


「穏やかで静かな日々でした。不自由ではありましたが、閉塞感などありませんでした。実はカローリャちゃんが言うほど悲惨ではなくて、むしろ……」


 誰もいない場所。なにも知らなくていい生活。誰かに心を乱されず、誰かを想って不安に過ごす時間も訪れない。寂しさはあっても、不満はなかった。朝が来て、日が沈めば夜になる。太陽と月の入れ替わりで時の歩みを感じ、海鳥の鳴き声で季節の移り変わりを覚える。

 雪が降れば凍えるような日は水中に漂って微睡めばいい。人間すらも知らなかったユイレンは、水の中の方が動きやすいのをわかっていた。一日中でも水底で過ごすことだってできる。それでも穴の底から外を眺めていたのは、足が乾燥して痛みが走ってもいいと思えたのは、遠い空が好きだったから。

 足を浸けていた水面の下は穴よりも深くて広い空間だった。本当はそこから海に通じる洞穴があった。しかし蛸のトオが通れるほどの小ささ。ユイレンが努力して広げていけば進める長さと大きさであったが、ユイレンは出ようとは思わなかった。知らない自由よりも、知っている不自由を選んだ。


「私はカローリャちゃんみたいにはっきりと物事を言えません。見知らぬ場所へと駆け出す勇気もありません。だから彼女がとても輝いて見えるし、羨ましい」


 穴の底から連れ出してくれた赤い髪の少女。彼女はユイレンのために怒ってくれる、憤ってくれる、心配して、悲しんで、ユイレン以上にユイレンを考えてくれる。他人事と放置しない。それはユイレンにとって純粋に嬉しいことであった。だから言えない。


「私とカローリャちゃんの心は一つじゃない。二つあって、全然違う。カローリャちゃんが好きと言ってくれる私の容姿を、私は嫌いなんです」


 綺麗な赤い髪が、快活な笑顔が似合う顔が欲しかった。自由に走っていける、鱗が生えない足も。自分にない物全てを持っている彼女が羨ましい。そんな彼女が自分の容姿を褒めれば、ユイレンは言葉に出せない感情を表すように拳を握りしめてしまう。

 人間の少女として生まれて、父親と母親のことを知っていて、村という共同生活できる場所に住んでいる。それらを捨ててでもユイレンを選んだカローリャが、羨望の対象で仕方ない。穴の底で空を見上げていた時には覚えなかった劣等感が肌を焦がすような痛みへと変わっていく。

 ユイレンにはカローリャのようにできなかった。最初からなにも持っていない。命を狙われるような『人魚モンストルム』という出生さえ、手に入れた物ではない。その違いを知ってほしい。けれど伝え方がわからない。伝えても、拒否されてしまうのが怖くて仕方ない。ユイレンには見知らぬ場所へと向かう勇気さえなかったのだから。


「だから眠れなかったんです。頭の中がごちゃごちゃして気持ち悪くて。明日が来ることが、自由が怖い。変わっていく全てが不安なのです」

「……」

「でも穴の底から出てしまった私に帰る場所はもうない。だけどこれからどうすればいいのか……だって私は人間じゃないから」


 知ってしまった『人魚モンストルム』という価値。人間の傍で笑っていたくても、常に付きまとう人間との差異。霧の街で過ごすにはあまりにも『人魚モンストルム』の体が、鱗が、思い知らせてくる。


「……今宵はとても静かで、ふとした不安に襲われます。両親を知らないと尚更、自分自身が誰なのかすらも危うくて、認めたくないことを認めてしまいますわ」

「ユーナさん?」

「わたくしもね、こんな夜は一人が怖くて歩き出してしまうのです。誰かいないか、もしかして朝日のようにひょっこり両親が出てくるのではないか。起きているのに、夢を見ています」


 紅茶をゆっくり飲み干しながらユーナは雨降る外と隔てる硝子窓を眺める。霧が出ない日は、馬車の音さえも遠くなる。硝子を打つ滴の音さえ心の慰めにもならず、肌寒さで姿勢を丸くして毛布の奥に逃げる。

 何度も体験してきたことだ。それでも慣れない。目の前に広がる夜闇に無限を感じて、同時に零を知る。怖くて、止まっていることがたまらなく恐ろしくて、明かりを求めて毛布から抜け出す。深夜でも頼りになる相手の部屋を訪ねて、その毛布の中に潜り込んで一息つく。

 しかしそれすら見つからない時は、扉を背中に体を丸めて息を殺す。物音がすれば期待と恐怖を込めて顔を上げる。夜が過ぎ去る朝の訪れを待つ最中、星だけが輝く空を見上げて白い息を吐く。藍から少しずつ薄桃へと変わっていく時、二つの色が混じった空の境界線がひっそりと現れる。紫色の、幻に近い色合い。


「だから夢覚める朝まで幾らでもお話に付き合いますわよ。言葉を出している内に答えが見つかる時もあるでしょう」

「……ありがとうございます」


 柔らかく微笑んだユーナにつられるように、ユイレンもぎこちなく笑う。朝がやってくるのは遠い先だ。たとえ来たとしても雨か霧で朝日は隠れてしまう、そんな覚束ない天候。しかし小さな蒸気灯が部屋を照らしているおかげで、なにかを見失うということはない。


「ユーナさんは両親を知らないのですか?」

「ええ。おそらくもう死んでいるでしょう。それだけの年月を生きてきましたから」

「そうですか……私も同じです。カローリャちゃんが見たという村長の日記でやっと、母親を知ったくらいで……多くの村人を虐殺した恐ろしい存在だと」

「そこが少し不思議というか、ひっかかっているんですけどね。わたくしの知識では『人魚モンストルム』に利益がある、そういう特性を持っている、ということはないはずなんですけど」


 顔を俯かせていくユイレンとは反対に、疑問が頭の中を埋め尽くしていくせいで視線を思わず彷徨わせるユーナ。ふとした拍子でヤシロと視線が合ったため、目で会話する。お互いに、なにか知らないかと。


「自分もそれは気になっていた。確かに『人魚モンストルム』の中には誘惑した相手を沈めて食らう者もいる。しかしそれは本来行方不明、もしくは目撃者によって被害は少ないはずだ。多くという表現から読み取れるのは別の意味が含まれている、ということだ」

「カローリャさんがその日記を所持していると良いのですが……あの気性だと素直に見せてくれるかどうか」

「あ、日記は多分……例の貴族さんが持っていると思います」


 考え込むユーナとヤシロに対し、おどおどした様子で声を出すユイレン。そして彼女が告げる貴族といえば、今現在では一人しかいない。ユイレンという『人魚モンストルム』を狙うルランス貴族のミッシェル・グロリアーレ男爵。白黒写真でしかまだ顔は見ていないが、直接相手を視認したカローリャが本人だと証言している。

 ヤシロが部屋の隅に置かれていた新聞を取りに行く最中、ユーナはさらに思考を深くしていく。話は一筋なのだが、筋が異様に長いと思えた。下手すると誰も見たことがない昔まで辿らなければ掴めない真実が隠れている感覚。そしてその真実を確実に掴み取る人物には心当たりがある。


「これは……明日はカナンさんとバロックさんの出番ですわね。カローリャさんには悪いですけど、お留守番してもらいましょう」

「え? え? ど、どういうことですか?」

「私立探偵大活躍、とまではいかなくても必要になるのですわ。そこでユイレンさん、囮の覚悟はありますか?」


 真っ直ぐな紫色の瞳。その視線に威圧されて、ユイレンは小さく頷く。全てを納得したわけでも、理解したのでもない。それでも心の隅で感じるのは、もしかして母親という存在を知ることができるのではないかという期待。

 嵐の夜のように激しい混乱がやってくる。しかしユイレンは嵐の日が好きだ。今まで見たことがない物が姿を現して、大暴れする。一種の祭りに近い高揚感が体を震わせた。




 翌日、七月二十二日。朝から生憎の濃い霧が街を覆う。緑色の波打つ髪が特徴の少女は一人で歩いていた。肌を隠すように長袖の服に足首まであるワンピースドレス。肩掛けで体を冷やさないようにして、白い大きな帽子で目元に影を落とす。金縁の眼鏡が時折わずかに覗く。

 石畳の上を歩く足取りは頼りなく、迷うように周囲を見回しては足を止める。少し逡巡した後、人気がない道は避けて、川の傍にある大きな道を選ぶ。時折馬車の音に驚いたように肩を跳ねさせ、両手を組み合わせて祈るように胸元に置く。

 そんな少女の後ろから金髪の青年が近づく。美しい碧眼が少女を捉えたまま、焦らないように慎重に歩み寄る。茶色が基本のロンダニアでは少し浮いてしまう白いスーツ姿だが、青年の容姿と相まって多くの女性の目を惹きつけた。そして手慣れた様子で少女の肩を引き寄せて耳元へと語りかける。


「おはよう、人魚のお嬢さん。薔薇の香りに導かれて、運命のように惹きつけられてしまったよ。しかし君に似合うのはもっと別の香りだと思う。どうか僕に選ばせてくれないかい? 君に相応しい……調味料を」


 知らずの内に籠もってしまった熱が、息に含まれる。その吐息が耳に吹きかけられた瞬間、少女は立ち止まって大きく肩を震わせた。震えは消えないまま、青年の腕に抱き寄せられていく。

 青年は笑う。胸元から取り出した古い日記帳を片手に、少女が手に入ったことを喜ぶ。しかしわずかな違和感が青年の笑みを消した。目の色、魚のように美しい銀色ではなく、理知的な青い瞳。それに肩が妙に力強く、筋肉さえ感じるほどだ。

 そして少女の肩の震えは一際大きくなり、最終的には大声で笑い始めた。青年は目を丸くする。背格好は似ていたが、全くの別人が少女に成りすましていたのだ。わざわざ胸に詰め物を仕込み、昨日と同じ保湿乳液を使ってまで変装していたのである。


「あかんあかん!! 腹が攀じ切れるかと思うくらいやん!! という訳で、バロックん!!」

「吾輩をこき使うとは、良い度胸だ。しかしこの日記帳はネタになる。ありがたく貰っていくぞ、美形」


 大笑いしたカナンの言葉よりも先に音もなく青年に歩み寄ったバロックは、流れるような手つきで日記帳を盗み取る。それこそ会話の最中で資料を受け取るような自然さで、青年は盗まれたことさえ五秒ほど気付かないくらいだ。

 もう必要ないだろうとカナンは帽子と緑色の鬘を取る。適当に切り揃えられた黒髪、そして予備の眼鏡も外した顔は男性。薔薇の香りを漂わせる男の肩を抱いていたと理解したミッシェルは、慌てて肩から手を離して後退った。

 青年が離れた後にカナンに近付いたバロックは、流し読むように日記帳の頁をめくる。黒い外套をだらしなく着崩しているせいで、白シャツの肩が見えているのもお構いなし。細長い脚、艶やかな黒髪に触発されたように色香漂う褐色の肌。そんなバロックを見て、青年は残念そうに叫ぶ。


「どうして逆なんだい!?」

「そりゃあユイレんの肌の色と身長が似てたのは僕だからやん。ナギサんじゃなかったことに感謝しといた方がいいで。ナギサんだったらそちらさんの骨の十本くらい折れてた危険性があるやん」

「二十本の間違いじゃないか? まあ吾輩は貴重な探偵の女装も見れた上にネタの確保ときたからな。概ね満足だ。次回作では女装させるのも悪くないな」

「えー? 今回は僕が教えたスリの手口が役に立ったんやし、そっちを書いてほしいとは思うんけど」


 少しでも華奢な体格に見せるため、ワンピースドレスが脱げないカナン。しかし特に気にした様子もないまま、探偵の女装という珍しい物を見てご満悦の助手に不平の声を上げる。ある意味どこまでも我の道を行く二人は、妙なところで息が合っていた。


「じゃあ朝に二手に分かれたのは揺動か!? となると……あの借家に彼女が!?」


 慌てながらも青年は今朝のことを思い出す。スタッズストリート108番の家から出てきた二組は、全くの逆方向に歩き出したのである。最初に一人で様子を窺いながら逃げるように外出した緑色の髪の少女。その後に人を探すように飛び出た赤い髪の少女。

 狙い通りだと青年がほくそ笑んだことさえ、カナンが考えた企みの一つだ。それに気付いた青年は目の前で女装している探偵が恐ろしいような、しかし女の姿をしているせいでどこか緊張感が抜けるような、奇妙な気持ちを味わっていた。


「やっぱりなぁ。昨日のガウェインガーデン。タイミングの良さからおかしいとは思ってたんやけど、こっちの動きを見張っていたんやね。少しでも逃げ場を失うように、わざと人が多い所で暴れたのも、あっさりと逃げたのも……居場所を知ってるからやん」

「ちなみに理屈は? 吾輩の小説のネタだ、描写する必要がなくとも把握する必要がある」

「緑色の波打つ髪。日記帳にもそう書いてあると思うで。村人を虐殺した人魚の髪は血に染められながらも輝いていた、みたいな感じでな」


 手の中にある帽子付きの緑色の鬘を指先で回すカナン。実際に青年、ミッシェル・グロリアーレはそれを頼りに変装したカナンへと近付いた。なにせ多くの伝承で語られている上に、日記帳にも書いてあるのだ。波打つ髪は『人魚モンストルム』の特徴であると。

 実際にバロックが指を栞代わりに開いたままにしている頁にはカナンが言った通りのことが記されてあった。村人を虐殺して、赤子を預けに来た『化け物モンストルム』の髪は緑色に波のように揺らめいており、月光で照らされた赤い血も霞むほどの恐ろしい美しさだったと。

 光加減では黒曜石が魅せる蠱惑的な力が宿っているようで、赤子にも同じ色の髪が生えていると知った時は抱きしめた手の震えが止まらなかった。そう書かれた日記帳を眺めながら、バロックはカナンの言葉を待つ。


「もちろん昨日のガウェインガーデンでも見てたはずやん。だからわざわざ昨日と同じ格好をしたんや。おそらく料理の鉄人キュイジーヌを操作しているのはフーマオんが言ってた老執事。けどな、あんな巨大な物に乗ってたった一人を追うなんて無茶やん。つまり……一人、その場で彼女を捉え続けて合図を送る者が必要やん。そうやろう、男爵バロン?」


 猛禽類のような鋭い輝きを宿す探偵の瞳に射竦められ、ミッシェルは思わず一歩下がる。周囲が少しずつ人で埋められていく。それはミッシェルの美貌によって集まった女性と、カナンの服装を奇異な物として注目する一般市民、そしてバロックの男女問わない色香に惑わされた者、の三種類である。


「つまりミッシング・クロス駅でも奴は危険な駅構内から合図を送っていたということか「いいや。駅構内を大破壊するほどの暴れ方や。あの時は殺してでも手に入れるつもりやったんや。でもそこでえらい邪魔が入ったから、手口を変えたんやろ。だから今、優しく僕に近付いたんや……いやー、鳥肌が立つほど歯の浮く台詞をあんなにすらすらと言えるもんやん。僕には絶対無理やわー」


 思い出して吹き出しながら笑うカナン。しかし推測が外れて不服なバロックに軽く頭を小突かれてしまい、気を取り直して真剣な表情を作る。


「僕らが制作した保湿乳液の香りを知っている、ということは昨日はかなり近くまでユイレんに迫ったはずやけど、邪魔が入ったんやろ。わざわざ川に水柱立たせて目を惹いたにも関わらず、欺けなかった予想外の存在。その正体もこの日記帳にある。だからわざと胸元から出したんや。なんせ、相手にとっても正体を知られるのは恐怖のはずやからね」

「彼女の存在を把握している者は少ない。その中で彼女を守り、かつ日記帳に書かれた存在か。いいネタだ。これは筆が進むな」

「おかげで日記帳は僕らの手の中。これで脅しの手口は使えへん。となると残された手法は一つやね」

「……ああ、そうだ」


 ダムズ川の水面が泡立つ。水泡は次第に大きくなり、そして鋼鉄の機体が大量の水飛沫とともに姿を現す。簡単に表現してしまえば人面蜘蛛。詳細に伝えようとすれば巨大な調理台に鋼鉄の足と人の顔が付属し、さらに台の下では卵の形に整えた強化硝子で保護された食材達。もちろん調理台を守護するために薄い半円硝子が甲羅のようについている。

 突如現れた鋼鉄の機体に集まっていた人々が散り散りとなって逃げだす。そんな中で赤い髪の少女が駆けていく。腰の革ベルトには黒く、杖のように長い刀。それを固定する留め具を外し、逃げ惑う人々の頭上を飛び越えるために石畳が割れ砕けるほどの脚力を確保する白魔法を使う。

 軽々と空高く跳び上がった赤い髪の少女が杖刀を料理の鉄人キュイジーヌガート・ソースの頭上目がけて振り下ろす。しかし鋼鉄の人面、その四角い口から凧糸が網目状に放出されて捕らえられる。丸くなった網の中で、赤髪の少女は呟く。


「――ゆらゆらとゆらり」


 それが魔法に必要な法則文であり、聞き慣れたカナンなどはスカートの裾を破く。露出した足は錆びた金色の蒸気機関義足スチームレッグである。義足側面のレバーを上へと動かし、内部にある蒸気機関に熱を入れる。

 横にいたバロックを姫抱きした後、カナンは義足から大量の蒸気を吹き出しながら逃げ出す。笑う余裕などない。義足を使うと肌の皮を薄く千切られていくような痛みが絶え間なく襲い掛かってくる上に、かなりの重量があるのだ。特に今回は借家からずっと歩いていたため、長時間の使用による痛みで限界が近かった。

 なのでたとえ背後で川底から姿を現した巨大な黒い竜が大きな口から黒の靄を吐き出し、歯を打ち鳴らして靄に火を点けて火蜥蜴を生み出して怪獣戦闘みたいな興味そそられる光景だが、振り向くことなどできなかった。


「おい、もう少し丁寧に運べ。吾輩は繊細なんだ」

「せやかて僕も必死やねん!! とにかく日記帳は絶対に保守や!! このままシティへと行くで、バロックん!!」


 蒸気機関義足を最大稼働させたために激しい動きを成立させたカナンの走り方に、バロックが若干顔を青くして不満を口に出す。だが背後で大暴れする破滅竜と料理の鉄人という異種格闘戦が見えなくなる場所まで避難しなくては、落ち着いて話すこともできない。

 そして赤い髪の鬘を外したユーナが杖刀を振り回しながら火蜥蜴の助力によって網を抜け出しつつ、美形とはいえ少女を食材に見るなど万死に値する、などと叫びながらミッシェルに攻撃を仕掛けては料理の鉄人に邪魔されていた。


 そうやって長いダムズ川で一部が騒がしい最中、川の上流で囮を承諾したユイレンは誘い出された存在へと目を向ける。静かな川面から頭と目を覗かせた蛸、ユイレンが幼い頃から話し相手になってくれたトオである。


「トオさん。やっぱり私を見つけてくれるんですね」

「ふん。馬鹿な娘だね。どれくらいの付き合いだと思っているんだい? あんな安っぽい変装に誤魔化されるほど阿呆じゃないんだよ、こっちは」

「……それがとても嬉しいです。だからトオさん、私に教えてください。私、魔術を使いたいんです!!」

「なんだって?」


 耳を疑う発言に対し、トオは水底に消えようかとも考えた。しかし眼鏡越しに視線を送ってくる銀色の瞳の力強さは、今まで少女が宿したことがない情熱に溢れていた。とても外の世界に怯えていた少女とは思えない輝きだ。


「自分がなにしたいか……まだわからない。けど、少なくとも食材になんかなりたくない!! どんなに人間が好きでも、見ず知らずの人に食べられたくない!! お願い、トオさん!! 私に、!!」


 少女の懇願をトオは振り払えない。無下にできない。大きな溜め息をついて、トオは呆れたように呟く。


「わかったよ……本当に馬鹿な娘だよ、お前は」


 今まで少女に『化け物モンストルム』だけが使える魔術を教えてこなかったのは、トオが抱えている過去のせいだ。後悔する。どんなに穏やかな性格だとしても、必ず『化け物モンストルム』は自分の力に対して恐怖し、それでも手放せないと嘆くのだ。

 しかし目の前で満面の笑みを見せるユイレンにそんなことは伝えられなかった。締め付けられるような苦しみと拒否したい衝動を覚えながらも、トオは決意する。少女が辿り着く先が血に塗れても、取り戻せないほどの後悔を味わったとしても、自分だけは見捨てないと。

 同じ轍は踏ませない。そのためにこんな醜い姿に自らを貶めて、突き放すように育ててきたのだから。この想い全てが伝わらなくていい。ただ少しでも悲劇を変えられるなら、トオはどんなことだってしてみせる。彼女にとって少女だけが最後に残された生きる理由なのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る