EPⅥ×Ⅳ【自己流即席青魔法《instant×order》】
石畳の上を馬車の車輪が異常な速度で転がっていく。人の波にもまれているようにも見えるが、それだけの大混乱がガウェインガーデン近くで発生していた。ダムズ川を物流とした市場が一時的に閉店騒ぎならぬ、移転騒ぎが起きるほどだ。
鋼鉄の巨大な足が霧を切り裂き、石畳を大きく砕く。四角の調理台が胴体となっている歪な人面蜘蛛。胴体の下で保存されている丸硝子内部の食材は、機体が揺れても動じないように設計されているため、静かなものだ。
そんな機械の前に立ちはだかる白い影が一つ。金色の瞳はやる気という物が一切感じられず、霧の中でも輝く銀髪が柔らかく風に吹かれている。手袋を外した細く滑らかな指先は辞典並みの厚い小説本の頁をめくり、とある場面が記載されている場所に一枚の
「
青く光り輝いた革表紙の本が女の前に浮く。栞として挟まれたのは逆位置の塔の札。長編小説に描かれていた場面は、主人公が巨大な怪物と対峙して打開策が見つからないところだ。
鋼鉄の足の一つを振り上げ
塔の頂上に突き刺さった空想上の剣が雷を引き連れて塔を破壊したのだ。その雷は街中に降り注ぐことはなく、的確に暴れ回る巨大な機械だけを貫いた。幾筋もの雷に打たれ、後退る機体に対して、ロゼッタは一歩踏み出す。
「幻想だって、小説だって、全ては『
大きな雷光が視界全てを痛いほどの白で塗り潰した。本気か冗談かわからない言葉を残し、ロゼッタは空中に浮いていた本に手を伸ばす。続きはまた今度言わんばかりに、両掌を使って静かに閉じた。
和やかな外見の女性が巨大な機械を倒したのかと逃げ惑っていた市民達が足を止めた。雷の衝撃が薄れていく中、焦げ一つない機械蜘蛛の人面部分が、首を傾げるように四十五度ほど傾いた。
無傷。それを確認した市民達は、一拍置いた後にまたもや悲鳴を上げて逃げ始める。先程の派手な光景には全くの意味がなかったのではないかと疑問が広がる中、今度は
鎚内部の蒸気機関が充分に熱が溜めたのを確認し、さらに複雑に引き金を二つ三つと同時操作していく。弾薬の破裂音が曇り空に響き渡り、青年の体は長柄鎚と一緒に回転を始める。
落下による重力と弾薬破裂の爆発力、そして体全てを使った遠心力の全てを統合し、最高の一撃をロンダニアの街を壊している巨大蜘蛛へと叩きつけた。
真横ではなく、上へ叩きあげるように。でないと人と店が集まるガウェインガーデンでは被害が広がる危険性があった。
曇り空へと高く舞い上がった機体は、放物線を描いて汚れたダムズ川へと落ちていった。巨大な水柱が立ち上がり、汚水が豪雨の如く降り注ぐ。それに対しても大きな悲鳴が上がる。
ダムズ川の汚水と言えば、病原菌の温床。生活排水だけでなく工場排水まで含まれた茶色の水には死の危険性がある菌と悪臭が大量に混ざっている。クイーンズエイジ1881ではその知識は生きていく上では必須の物であった。
「ロゼッタ、ミディアくんのそういう大雑把なところ直した方がいいと思うの」
「えー!? しっかりと屋根の下に避難しておいて、それはないぜ。なあ、ロゼっち」
近くの商店の布屋根下に静かに移動していたロゼッタは、冷めた目でミディアに苦言を渡す。石畳の上を跳ねる汚水の雨を嫌がり、少しでも離れようと足を動かしている。
ただし死守しているのは穏やかな色合いの服ではない。手の中にある分厚い本である。頁の一つにでも水染みができようものなら、その瞬間にこの世の終わりに近い表情をしかねない様子だ。
ミディアは長柄鎚から噴き出した蒸気で一時的な膜を作り上げ、それが薄れる前に別の店屋根下へと移動した。まだ目的地へ辿り着いていないのに、悪臭をつけるわけにはいかなかったのである。
汚水の雨が降り止み、ダムズ川から機体が再び現れないことを確認するのに十分かかった頃。買い物途中の主婦よりも先に店主や店番の子供が自らの店へと戻っていく。最初にするべきは被害がないかどうかだ。
特に果物や肉を売る食材卸店は戦々恐々とした様子で食材を確かめている。巨大な機械が暴れただけでなく、ダムズ川の悪名高い汚水まで降り注いだのだ。下手すると今日はもう店仕舞いするしかないかと、諦めた様子の店もある。
しかし主婦とはたくましい生き物らしく、籠を頭に乗せて被害に遭った商品が安くなる瞬間を狙って目を光らせている。汚水など丹念に洗えば問題ない。殺菌消毒を行うにはとりあえず熱を通せばいい、という勢いだ。
そしていつも通りの賑やかさを見せ始めたガウェインガーデンを眺めながら、ユーナは避難先であるフーマオの出張万福屋が無事であるのに一息つく。
聖ミカエル祭が九月末に控えているということで、今から準備をしているという話は聞いていた。そのためロゼッタが行きたい場所へと向かう途中立ち寄った最中、川の中から料理の鉄人ガート・ソースが現れたのである。
即座に狙われている対象の『
木で簡単に作り上げた小型の店。その床上で倒れている店主フーマオである。いつも頭の上に載せている紙袋のような形の帽子は遠くに転がっており、外側へと跳ねる癖がついた黒髪も大きく乱れていた。
外傷は特に見受けられないが、意識を失っているようで指先一つ動く様子がない。商人は第一印象が大事だと、派手ではないが良い素材を使って仕立て上げた仕事着は乱された形跡も見当たらない。
アルトが頭辺りを殴られたかと髪の毛の上から頭皮を触っていく。大きめの瘤を見つけた後それを指先で強く押した瞬間に、仕掛けが起動された人形のように起き上がったフーマオにユイレンとカローリャは驚く。
「あいたたた! ちょ、ウチを襲うなんて誰です……おや? アルトの旦那にユーナのお嬢。それに……ああ、こちらが噂のお嬢様方ですかい? って、アルトの旦那でしょ!? 今、ウチのたん瘤を触ったの!!」
「猫にーちゃんの容態を調べてて、つい。いやー、押すなと言われた物を押すのは常識だろ?」
「言われてないでしょ!? もー……貸しですからね。ウチに貸し作るという意味、アルトの旦那ならわかるでしょう?」
「うげっ!! 失策だったな。んで、猫にーちゃんはどうして倒れてたんだよ?」
転がっていた帽子を拾い上げたフーマオは、いつも通りの愛嬌のある笑みをユイレン達に向ける。猫のような口元を吊り上げて、長すぎる袖に隠れた手の動きがわかるような招き猫と同じ仕草。
細められた目は時たま後ろ頭の痛みで涙目になる。わずかに覗いた金色の瞳も夜闇に光る猫の瞳と酷似しており、彼を見て犬みたいだと宣う者はいない。しかし商売事に関しては噛んで離さない
「いやー。ヤシロの旦那からお電話頂いたんですけど、どうやらそれを港で聞いていた人がいたらしくて。あ、ウチの本店は港の方でして。ロイヤル・アリス・ドックスにて万福屋という名前の貿易品から嗜好品にありとあらゆる物を取り扱っておりますので、御贔屓に」
説明途中で事情を知らないであろう少女二人にすかさず宣伝を挟み込むフーマオ。店の地図も記載されている名刺を取り出し、つつがなく渡す。ユイレンは地図を見てもどれくらいか距離が離れているかわからなかったが、カローリャは目を丸くした。
グリンウィッチよりも少し遠い場所に位置し、ロンダニア郊外といっても差し支えない。河口に近いティルベリーズよりはまともとも言えるが、気軽に行こうとは思えない距離だ。
「で、出かける際に詳しく知りたいと迫られたんですが、ヤシロの旦那に口止めもされてましたし出張店の準備や聖ミカエル祭の打ち合わせもあったんで逃げるようにこっちに来たんですよ。そしたら追っかけてきたらしくてですねー、あまりしつこいと
「フーマオさん。もう少し舌の回転速度を落としてください」
よく回る口で次々と話していくフーマオだが、聞き取りやすいながらも凄まじい速度で言葉を出していくものなので呆気に取られてしまう。活舌は良い上に一息で喋る時間が長いので、口も挟み辛い。
大体の初見客はフーマオのこの話し方の勢いに押されていくことが多い。ただしフーマオが勧める商品に基本外れはないので、損するという事態には陥らない。客を見て、必要な物や値段の計算などの観察眼は鋭いのである。
しかしユーナ達が聞きたいのはもう少し別な所である。アルトが懐から
「あー!! この旦那ですよ!! 良い身なりしてたんですよね。あれは一流の貴族とお見受けしました。傍仕えの老紳士……おそらく執事の旦那も仕草が綺麗でしてね。ヤシロの旦那に見せたいくらいでしたよ」
「ということはさっきの人面蜘蛛
「人面蜘蛛? まさか……ユーナのお嬢、ここで暴れたんですか!? 止めてくださいよ、ここは商業地! しかもロンダニア一の市場と言っても差し支えないんですから!!!!」
「おほほほ。安心してくださいな。
ユーナの勝ち誇った笑い方が引っかかったフーマオは一瞬で真顔になり、即座に出張店の外へと向かって歩き出す。降った汚水の惨状を残す悪臭に、食材を取り扱う店から聞こえてくる呻き声に近い嘆き。
そして汚水が降りやんだことを合図にフーマオの店に近付きつつも、微妙に入り辛かったロゼッタとミディアが棒立ちの状態で店前にいた。フーマオと視線が合わないように二人は明後日の方向を眺めており、ロゼッタは無表情だがミディアは苦笑いである。
「あ、は、ははは……マオっち、おひさー」
「ロゼッタ悪くないもん」
「……怒る気力もありませんよ、もう。ロゼッタのお嬢の独特な魔法の使い方ならば、確かに被害はユーナのお嬢より明らかに少ないですし、及第点としときますよ。さあ御二人も良かったら」
細かいことを言ってもきりがないと判断したフーマオは、市場が騒めきながらも普段の風景が戻りつつあるのを確認する。大きな被害を出さなかっただけでも最良だと、とりあえず二人を店内に招き入れる。
出張店とはいえいくつか貿易品を揃えている万福屋の店内は、少し怪しげで雑多な東洋風として統一されている。必ず入り口に和国の置物である招き猫が鎮座している。白が一匹に、黒が一匹。
フーマオとしては小判を抱えているのが気に入っているらしい。他にも天井の梁からは香草や薬草が吊り下げられるだけでなく、南蛮の牙で作り上げた首飾りまで垂れ下がっている。
桐の棚には硝子の小瓶に入った香水、西洋や東洋を問わない人形、象牙の髪飾り、琥珀のお守り、など一点ものを飾っていることが多い。床の上に置かれた複数の麻袋の中には香辛料が詰め込まれており、中には地獄で使われそうなほど大量の唐辛子の粉末もあった。
大きな柱時計、革張りの高級椅子、特注品の机、といった家具も一部扱っている。しかしこれらは注文品であり、こういった物も取り寄せることができるというフーマオなりの宣伝だ。
そして会計所と思われる机の上には大量の計算帳簿にアイリッシュ連合王国で使われる懐中時計型算盤、他にも和国の横長の算盤や最新の計算機など、一銭の狂いも出さないという強い意志を感じる内容である。
「まあ大体の内容は電報と電話で聞いておりましたが、あまり穏やかな流れではないですね。なにせ市場でも流れてますよ。近々本物の人魚が商品としてなにかしらの形で流通されると」
「本物?」
ユイレンは首を傾げる。今までは一歩も動けないような狭い洞窟の中にいて、近くの村どころが街のことさえよく知らない。今もフーマオの店の商品に目移りしてしまうくらいだ。
「人魚ってのは絵本の影響と伝説も相まって大人気な題材なんですよ。例えばこちら!! 人魚の鱗で作られた鞄!! ……の偽物です。ちなみに非売品ですよ。ウチは信用を損なう商品は売りたくないもので」
「たまーにわたくし達を利用しての意図的な情報操作辺りは仲間の信用を削ってますわよね?」
「ユーナのお嬢達なら騒動が終われば全て忘れてくれると信頼してのことですよ。そこら辺は
「大体その言葉を使う時って、使った側が得する場合ですわよね? 全く……抜け目ありませんわね」
両手の皺を合わせて頼み込むような仕草に、腰を曲げての上目遣い。フーマオの愛嬌を見事に利用した笑顔を視界に収めてしまえば、中々の威力だ。それにフーマオは情報操作を行っても、相手に損をさせない。確実に注文通りに仕事はこなすのである。
その横でユイレンは人魚の鱗と言われた鞄を眺める。青緑色の輝く滴型の鱗。それが糸によって布地に縫い付けられており、模様となって輝きを増している。触ってみればその薄さと冷たさは心地いい。
しかし自らの肌に生えている鱗を思い出し、ユイレンはこれは違うと断言できた。人魚の鱗はもっと小さく、薄い。それこそ港で売っている魚と同じくらいの強度しかなく、鱗がぶつかるたびに綺麗な音がするわけでもない。
「お気付きだと思いますけど、これは色硝子で作られた鱗です。今の技術でここまで薄く、そして小型化できるのは高度なんですが、売り文句が気に入らなかったんですよね。というわけで、近々返品予定です」
「えー!? もったいない……可愛いのに」
「おや? カローリャのお嬢は興味おありで? ちなみに値段がこちらになります」
「うぇっ!? ぜ、絶対買えません!! はぁ!? こんな小さいのにこの値段ってぼったくりじゃない!!」
「適正価格ですよ。先程も申しましたが、硝子製造技術が高度なんです。ただこれを人魚の鱗鞄といった名目で売る際の値段はさらに数倍。つまり人魚という名前の付加価値が凄まじい証拠ですね」
目の前に提示された金額に驚いていたカローリャは、人魚の付加価値と聞いてあからさまに嫌そうな顔をする。しかしフーマオはそれを受け流しつつ、少女の手から鞄を離す。それを幾重にも柔らかい布地で包み込み、少しでも衝撃を和らげるために作られた箱へと仕舞う。
「なによ……皆して人魚で儲けようだなんて。あー!! あのくそ親父!! 思い出して来たら腹立ってきた!!」
自慢のポニーテールが乱れるのも気に留めずにカローリャは頭をかく。憤慨で気が治まらず、八つ当たりできる物はないかと見回すが、店内であることとフーマオの鋭い視線に気付いて大人しくなる。
ユイレンはそんなカローリャに声をかけようと口を開きかけ、結局は言葉にできないまま俯いてしまう。その様子を眺めていたミディアは珍しく考え込むように、遠くの方へと視線を投げる。
悩める若者三人の動向などどうでもいいロゼッタは、閉じていた本から占術札を抜き取りながら今までのことを思い返して推測を言葉として整えていく。
「どうやら相手はダムズ川を経路として移動してるみたい。それにロゼッタの魔法に反応した。自動操縦じゃなくて、実際に乗って操作してる人がいるみたいだね」
「だろうな。ユルカワの魔法っていうのは形だけだ。威力もなにもない。小説と同じだ。人の心を動かしても、害を及ぼさない」
アルトの例えに満足した様子を見せないままロゼッタは小さく頷く。少し怒っているように頬を膨らませているが、それ以上の追及はしない。
あまり魔法に詳しくないユイレンとカローリャは首を傾げる。扉の隙間から見ていたに過ぎないが、確かに目の前で塔が崩れ落ちて雷が目を焼いた。機械製の人面蜘蛛さえも雷に打たれて動きを止めたほどだ。
しかし市場を再度視認すれば、被害は人面蜘蛛の歩行で捲れ上がった石畳の路面だけ。塔の破片も、雷が落ちた焦げ跡すらない。駆けつけてきた警官に全てを話している目撃者ですら少し困っている。
「ロゼッタさんの魔法は独特なんです。小説の内容と占術札で法則を作り上げて、そこへ微弱な魔力を通すことで『
「簡単に言えば魔力で小説の挿絵を実像にしているってところだな。実体じゃないのは小説が基本は想像で作り上げられた『
「むー。ロゼッタとしては小説の世界だって信じる人がいれば実在すると思うんだよね。神話や伝説と同じだよ。全て文字で語ることが可能な物。なのに辿り着けないまま幻影として終わっちゃうのは、ロゼッタの実力不足だけどさ……ユーナちゃんならできるんじゃないの?」
「それは海の中に落ちた砂糖一粒を探せと言っているのと同じですわ。零ではありませんけど、無謀な話ですわね」
魔導士にしか通じないような話題を繰り広げている三人を背中に、フーマオが店内に置いていた猿でもわかるかもしれない魔法入門書という本を取り出して説明する。
魔法に必要なのは魔力と法則。商売で例えれば魔力は金銭であり、法則は商品を手に入れるために行う手段である。その二つを使ってようやく商品、つまりは『
ここで重要なのは『
この『
魔法は赤魔法を始め、青魔法、黄魔法、緑魔法と並ぶ。白魔法は人体という『
そんな魔法とは似て非なるのが『
純粋な魔力の塊である魔術と、魔力で『別世界』から引き出した力がぶつかると魔術の方が勝つのである。魔法は効果が半減してしまうので、二倍の力をぶつけるという方法もあるが、そんな脳筋なやり方は自滅に近い。
「ユイレンのお嬢は『
「へ? え、いや、でも!! わ、私……自分が今まで『
説明途中で話の矛先を向けられたユイレンは大慌てで首を横に振る。戸惑いながら横にいるカローリャの顔を眺め、静かに俯く。服の裾から見えた肌表面に張り付いた鱗に顔をしかめた。
「……すいません。外の空気を吸ってきます……」
「ちょ、ユイレン! 一人は危ないって! アタシが一緒に……」
「わたくしが付いていきますわ。相手はカローリャさんの髪色や容姿をよく覚えているはずです。だったらあまり姿を見られていないわたくしが妥当でしょう」
覚束ない足取りで外へと向かうユイレンにユーナが付き添う。理由が思い当たらないまま悔しい気分を味わっているカローリャは、やり所のない怒りを地団駄で誤魔化した。
そんな少女の横へとすかさず移動したミディアは、両手を後ろ頭に回した体勢で気楽な声で話しかける。
「カロリャっちさ、ユイっちのこと心配し過ぎじゃね?」
「なに言ってんのよ!? 当たり前じゃない!! 友達なんだから、大切に決まってるでしょう!?」
「……でもさ、このままだとユイっちが可哀想だと思うぜ?」
「はぁっ!? アンタになにがわかるのよ!? ユイレンがどんな場所にいたかも知らないくせに!!」
思い出すのは海辺の崖。そこから蔓や紐を使って降りながら、崖の真ん中に空いた穴の底を覗き込むことでしか見えない場所。薄暗い、日光も滅多に当たらないような湿った狭い洞窟。
そこにあったのは座るくらいしか場所がない岩に、足を浸からせるしかできない小さな水場。枯れかけている井戸の底に岩石を落としたに近い、それよりも酷い場所。
鱗が剥がれないように水場に足を浸らせていたユイレンが、覗き込んだカローリャの気配を感じて見上げた瞬間は言葉にならなかった。可憐な少女がたった一人、閉じ込められていた。その事実だけでカローリャは辛かった。
ユイレンは多くを語らない。それはつまり話すことも苦しい境遇であったのだと、カローリャは解釈していた。あんな薄暗い狭い場所で一人きり。食事も与えられずに閉じ込められて、可哀想という言葉も生易しいと思うような光景。
だから自分が守らなくてはいけない。父親は役に立たない。そんな父親が村長をやっているのだから、カローリャの故郷である漁村も、そこに住まう人も助けてくれないはずだ。
ユイレンを傷つけたくない。どこまでも逃げて、走って、誰の手も届かない場所へと置いておきたいくらいに。それが友達としてできる最大の好意なのだと、カローリャは信じている。
「だってカロリャっちがユイっちの全て決めてたらさ、それって閉じ込めるとどう違うのさ?」
だがミディアの言葉に、カローリャは顔に全ての血液が集まるような気がした。全力で守っているのを、反抗期故に嫌っている父と同じだと暗に言われたのだ。
平手で殴ろうと思ったが、寸前で自分の手を止める。間違っていないはずだと、何度も暗示をかける。ミディアはなにも知らないのだから、その言葉に意味はないと思い込む。
「アタシ、アンタなんか大嫌い!!」
「えー? 俺っちはカロリャっちのこと好きだぜ? ユイっちもロゼっちにユーナっちも! ついでにマオっちとアルトの兄さんもな!」
「なにそれ? 軽薄なわけ?」
「違う違う。嫌い、キライ、きらい、って言いながら生きるよりさ、一つでも多く好きになりたいってだけ。その方が楽しいじゃん?」
歯を見せて快活な笑みを浮かべるミディアから顔を背けるカローリャは、この男相手になにを話しても無駄そうだと呆れる。全てを好きになれるわけがない。必ず嫌いな物が出てくる。
カローリャという少女は、そんなのからユイレンを遠ざけたいだけなのだ。これ以上辛い思いを味合わせない。そのためにロンダニアまで来たのだ。もう漁村には戻れないと覚悟まで決めて。
そんな頑固な少女の後ろ頭をミディアは見つめる。ユイレンのことも心配だが、それ以上に赤い髪の少女の行動に不安を覚えるのである。自分の価値観が絶対と言わんばかりで、それ故に視野が狭まっている。
「真面目な空気なところ悪いけどさ、俺様だけ愛称じゃないのはなんでだよ?」
「いやー、アルトの兄さんが俺っちの目標だからさ。エロ話にも存分に付き合ってくれるし? マルクっちやキッドっちじゃ上手くいかないんだよねー」
「なるほど。まあ俺様はいい男だからな! わかってるじゃねぇか、カナヅチ小僧!!」
「ちょ、俺っちが泳げないのばれるんでそのあだ名はナシって前言ったのにぃいいい!!!!」
アルトとミディアが盛り上がっている横でカローリャは溜め息をつく。心の隅で、そういえばユイレンとはこういった様子で笑い合ったことがないなと、少しだけひっかかりを覚えながら。
ガウェインガーデンの横を流れるダムズ川の水面をユイレンは眺める。隣ではユーナが警戒しながら空を見る。ロンダニアの天気は変わりやすい。今は曇り空だが、いつ雨が降るかわからない。
ユイレンの服装はハトリの好意によって渡された綺麗なドレスだ。ロンダニアの雨粒は黒いと揶揄されるほど、工場の煙などを含んで汚れている。傘を持っていない今、少しでも雨粒が見えたら走り出さなくてはいけない。
「……私、やっぱり人間じゃないんですね」
「そうですわね。でも知ってます? 実は『
「え? あ、だけど……なんか、それはわかります」
ユイレンは新品の眼鏡に触れる。歪んでいた景色が、人の顔が、全て鮮明になった。その瞬間からユイレンは人の顔を見たくて仕方がない。笑っている顔、怒っている顔、泣いている顔、人間の顔。光のように眩しく感じる表情の数々。
そんな眼鏡を制作してくれたカナンも、保湿乳液を作ってくれたロゼッタにジュオン、人助けギルド【流星の旗】のメンバー、一度しか会っていないサウザンド、自分に正直なミディア、その全てをユイレンは好きになっていた。
そしてカローリャには言えなかったが、ユイレンは別に洞窟に閉じ込めた村長も、カローリャの父親である村長、さらには自分を狙うルランス貴族のことも嫌いではないのだ。嫌悪しきれない。
「人に焦がれて、人に好意を抱いて……だからいつも『
「……」
「でもそれは間違いですわ。人間だって人間を嫌いになります。逆に人間の中でも好んで『
少しだけ茶目っ気を入れてウインクをしたユーナの言葉に、ユイレンは目を見開いた。人間でも人間を嫌いになる。どうしてだろうかと疑問が止まない中、人間にも好んで『
「大事なのは
「私は……」
なにかが掴める。そう思って言葉を出そうとしたユイレンの目の前で、水面が揺れた。小さな波紋が広がっていき、茶色い滑った頭に視線を奪われる。
「馬鹿な娘。なんで閉じ込められていたか忘れたのかい? 幸せになれないからだよ。だからずっとあそこにいたくせに」
「……誰ですか?」
ユーナが腰の革ベルトで固定している杖刀に手を伸ばす。水面に頭と目だけを見せた蛸。しかし魔導士であるユーナにはそれ以上がわかる。あり得ないほど偏った魔力。ただの喋る蛸ではなく、それは『
「トオさん……私を心配して追いかけてきたんですか!?」
「勘違いするんじゃないよ。馬鹿な娘が唆されて飛び出していくもんだからね……誰かに迷惑をかけてないか様子を見に来ただけさね」
「それは……」
「まあ今の内に思い出を残すんだね。どうせ人間が住む場所にアタシ達の居場所はない……馬鹿な娘でも理解するだろうさ。アタシはそれをゆっくり見ているだけさね」
そしてトオと呼ばれた蛸は水中に消えた。汚水が流れるダムズ川ではあんな小さな蛸の姿など追えない。それでもユイレンは見えているように下流へと視線を向ける。海へと続く川が向かう先。
埋められない格差を肌で感じながらも、ユイレンは拳を強く握る。しかし言葉は出てこない。そんな小さな『
雨粒の音が急かすように遠方から響いてくる。一度フーマオの店に戻ろうと二人は歩き出す。それは人混みの中であっという間に見えなくなるほど、弱々しい姿であった。
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