EPⅤ×Ⅸ【自由へ《free×escape》】

 随分前の話だろうか。少年と少女が偶然にも二人きりになった平和な午後。借家の中で何気ない会話を試みた。そんな時でしか口に出せないような他愛ない話。

 お互いに両親の顔どころが、存在すらも怪しい。拾われた子供であり、それぞれ違う最高位魔導士に育てられた。魔法や体術などを含めていくと、勝負となればほぼ互角。

 ではもしも。あり得ないとわかっていながらも口にする。少女を育てたのが死神のような男で、少年を育てたのが厳格な老婆ならば。もしかして交換したような人生を送ったのではないか。


 平和な昼下がり。少女が元暗殺者で、少年が最高位魔導士。そんな可能性だけの話で時間を潰したのも昔の話である。




 腐臭と淀み、薄暗さに茶色を添えるような吐き気を催す空間。魔法で作った明かりで照らされた気味の悪い場所。また戻ってきたのかと、ヤシロは杭に貫かれて動けない体のまま思考する。

 黒い杭はおそらく黄魔法で呼びよせた『神話上の道具レリック』だ。特定の神話ではなく、神話には必ず登場するが語られず、名前も与えられない、ありふれた道具だ。

 例えば鷲に啄まれる不死の男、生贄として岩に括り付けられた女、大地に束縛された神、彼らは縄ではなく鎖で縛りつけられる。鎖を固定するのが杭であり、記されない『道具レリック』の正体だ。


 その数は明記されず、強度も、色も、ありとあらゆる情報が排除されている。だからこそ柔軟に、少ない魔力で多く呼び出せる。用途さえも魔導士に委ねられる。

 簡単に言えば『起源である神話レリック』からの拒絶が基本的にないのである。どこにもでもありふれた道具であり、むしろ魔力で呼び寄せるほどの物かと嘲笑されかねない。

 神さえ指先一つ動かせないように固定する杭だというのに、鎖の方が重要視されるのは悲しいことではあるが、そういった盲点を突くのが上位魔導士のやり方でもある。


 鍛冶に関する『神の道具レリック』を黄魔法で呼びだそうとすると、拒否される事例も多い。それは『神々レリック』が人々に物を与えるのを恐れているからだ。

 火まで奪う『神話レリック』もあるほどだ。たとえどんな魔力や法則文を用いても、不可侵な領域は少なくない。黒鉄骨の魔剣士や紫水晶宮の魔導士のように、魔力に物を言わせて押し通すのは上位魔導士でも難しい。

 逆に法則文を明瞭かつ的確、そして短く済ます緑鉛玉の富豪や赤銅盤の発明家のような知識を得るのも並大抵ではない。魔道具の補助さえあれば上手く進められるかもしれないが、魔道具にも用途が限られている。


 だからこそ『神話や伝説レリック』の裏を読み取る。これは最初にして至高と呼ばれる、黄金律の魔女が論文にて説明した事柄だ。


 語られなかった、必要がなかった、しかし確実に存在する物。思考を巡らせ、思いを馳せて、指でなぞるように浮き彫りにしていく。まるで見えない事象を掴む魔法の如く。

 空の青や赤の色が必要であっても、その時の太陽の色は注目されない。雲の向こう側に出ているのは月か太陽か、それでいて地面は温かいのか冷たいのか。そして戦場から見える海向こうに、輝ける星空は平和を眺めているのか。

 詩歌を嗜むように、物語を堪能するように、人の声に耳を傾けるように。ゆっくりと『語り継がれる話レリック』を見極めていく。それが黄金律の魔女が魔法に必要だと説いた。


 そしてハガット・グルンは杭を使った。槍を降らしたのはヤシロも馴染み深い『影の国の槍レリック』の一部分を抽出したのだろうと推察する。あの『レリック』の機能全てを魔力で呼ぶのは不可能だからだ。

 即死させていないことは意識が朧ながらも聞こえていた。その機能を付属させたまま黄魔法で呼びだすのは難しい、という理由も含まれているだろうが、ハガットにはそれ以外の目論見があった。

 迷宮の怪物をもう一度。仕立て上げた怪物が大事な物を壊すように仕向けるためだ。もしも『牛頭の怪物レリック』を緑魔法で他社に憑依させようとした場合、対象となる相手に要素を近付ける必要がある。


 例えば牛の被り物、筋骨隆々、手には斧、そして愚かな父親、など。一つでも要素を増やしていくことで、嬉々として『迷宮の主人レリック』は応えるだろう。

 だが一番は、迷宮の中、という因果だろう。構造としては迷路に近いロンダニアの大下水道内部でも、その要素は充分に叶えられる。ヤシロは周囲の気配を感じ取りながら、眼下で流れる汚水を眺める。

 杭に貫かれた体は動かせない。そういう役目の『道具レリック』だからだ。肌を刺す杭から流れ出る血のせいで、白魔法に専念するしかない。それでも傷口を塞ぐことさえ、杭が許さない。


 歯車が軋む音。そして蒸気のように腐臭と水分を吐き出す肉塊。煉瓦の壁を這う虫達は、光に怯えた素振りで暗闇がある方へと走っていく。溝鼠さえも用心して、それでいて目を光らせていた。

 視界の端に映った赤い毛糸に疑問を抱く前に、ヤシロは汚水の中へと叩きつけられた。小さな体が衝撃で跳ねて、運よく背中から着水する。しかし耳の穴にまで入ってくる粘りのある汚水に嫌悪は隠せない。

 それも首元を掴まれて上体を無理矢理起こされてしまえば無意味となる。汚れた患者服が破けそうなほどの力で掴んできたハガットは、陶酔したように堂々と宣言した。


「残念ながら、君が殺したいと思うハガットは死んだのである」


 ヤシロは耳を疑った。目の前にいるのは確かに大下水道で出会った男と同じ。匂いも同じ、容姿も変わらない。一つだけ違うのは両目を覆うように巻かれた布地だけ。忌ま忌ましいことに装着している丸眼鏡や、着ている服装も同じ。

 それにハガット以外に迷宮の詳細を知っている人物など限られてくる。これだけ外見が一致しているのに、ヤシロを下水道に連れてきた目的も踏まえ、いまさら別人だとは思えない。

 しかし目の前の男は口元を歪ませて笑う。馬鹿にするように出された舌には見慣れない文様。もしくは刺青。三角を二つ組み合わせた星の中に半身の太陽、その二つを支えるように配置された三日月。むしろ月が全てを食らおうとしているようにも見えた。


「私は『偽者レプリカ』である。生きている上に精巧!! 記憶も感情も意思も、全てが『あの男オリジナル』には似せているが、それよりも上等な存在!!」

「……男は、どうした?」


 吐き出された言葉を受け止めきれないまま、ヤシロは覚束ない心地で尋ねる。なんのために獣として走り回ったのか、前提が崩れていく恐怖。


「生きたいと願い、叶えられたのである。ただ……こんな風になったのである」


 男が親指で指し示した方向に視線を動かせば、汚水に浸かりながら水分を吐き出し続ける異形が五体も立っていた。何人もの人間の肉をすり潰して、捏ねて、歪に作り上げられたと思われる大きさの存在。

 三人か四人、肉塊の大きさと凝縮された量を考えると適切な答えはその数になる。少なくとも十五人は人間とは言えないような姿にされている。中には死体も混じっているだろうが、生きた人間もいたはずだ。

 視線をもう一度男に戻す。信じていいのか、悪いのか、それ以前の問題。倫理観、常識、そういった物を泥塗れの靴底で踏み荒らされているような頭痛に襲われても、瞬きだけはできない。


「自分の手を見て、姿を水面に映して、奴は叫んだのである!! 怪物になりたくない!! 殺してくれ!! 死なせてくれ!! こんなのは悪夢である!! そこで……ドボン」

「……」

「川に落ちたのである。救われたのに、馬鹿な男なのである。同じ死に方を選んで、溶けて消えたのであった。ああ、なんと勿体ないのであろうか」


 耳を塞ぐこともできないまま、聞こえてくる言葉を嫌でも脳内で理解しようと試みる。息子を怪物にした父親は、自らも怪物になった。そして死んだ。

 どうして気付いてくれなかったのだろうか。自分が自分ではなくなる恐怖に、それを息子に強いた自分の罪に。後悔がもう少し早ければ、悲劇は減っていたはずなのに。

 涙さえも出てこない。呆れて、胸が苦しいくらいに圧迫されて、呼吸が怪しくなる。喉から声を絞ろうにも、煙となって何処かへ消えて行く感覚。疑問が頭の中を埋めていく。


「だが問題ないのである。奴が企てた内容は私が引き継ぐのである。迷宮を下敷きに、ロンダニア中を崩落させる計画を」

「……どういうことだ?」

「簡単である。黄魔法で取り寄せた斧、緑魔法で作り上げた迷宮の怪物、赤魔法による一瞬の崩落と吸収、そして青魔法による永続。四つの魔法全てを使った……ロンダニア迷宮化である!!」


 煉瓦の壁内部にある歯車が盛大に軋んだ。ヤシロはその音を聞いて背筋に悪寒が走った。ロンダニアの地下に張り巡らされた下水道の総距離は約千㎞。それはロンダニアの地下全てを覆っていると言っても過言ではない。

 その全ての距離、支える壁内部には歯車機構。流れる下水はやがてダムズ川から海へ。そしてヤシロは目にしている。生活基盤を崩さないまま下水道全てが迷宮となっていたことに。

 歯車機構の音、流れていく下水、まるで円に近い迷宮図。音と水は魔力として活用し、迷宮図を一筆書きの魔方陣として仕立て上げられたならば。赤魔法で首都全域を崩落させるのは理論上では可能だ。


 迷宮から脱出する方法は一つ。入り口から伸ばした糸を辿ること。一本道である迷宮では交差する道の行き止まりも、出口もない。それが『恐ろしい迷宮の原典レリック』の正体。

 それを再現するという荒業。しかも三百万人以上の人間を巻き込む異常な計画。そして崩落によって落ちてきた建物さえも迷宮の柱となる斧と怪物により、迷宮の一部に組み込まれてしまう。

 最後の青魔法による永続。これは青魔法と口にするのも恐ろしい話だ。三百万人以上の人間達の恐怖、悲鳴、命、肉体、それら全てを魔力として怪物に食らわせ、維持するということ。


 地図からロンダニアの街が消える。それだけではない。ロンダニアに滞在する王族まで巻き込まれてしまえば、国の存亡にすら関わってくる。

 迷宮が街を呑み込む。怪物が生贄を食らう。ヤシロの予想以上のことをハガット・グルンという男は考え、実行しようとしていた。息子の夢を叶えるという建前で、家族も含めた三百万人以上を犠牲に。

 少しでも逃げたいヤシロだったが、体を貫く杭達のせいで指先一つも自由にならない。まずは緑魔法で怪物を作り上げて、次に黄魔法で『迷宮の象徴レリック』を呼び寄せるはずだ。逆にすると、迷宮化に魔法を使った張本人が巻き込まれてしまうからだ。


「しかし小さな体なのである。まずは意識による抵抗を奪うため、ついでに肉体の改造も行う。合体してもらうのである」

「――お断りだ、屑野郎――」


 残り少ない魔力を引き出して、ヤシロは青魔法を使う。法則文は短いが、今の状態では詠唱なしという手段は使えなかったが故の選択。そしてヤシロ自身の影が動く。

 影を体に纏わせて、それを操り糸代わりに体を動かす。犬と全く同じ動き、四つん這いからの跳躍。多少、人体の構造上からくる痛みと衝撃はあるが、構ってはいられなかった。

 両目は布で覆われて見えないはずの男は、正確にヤシロが着地した方へと顔を向ける。可笑しそうに男は喉を鳴らし、異形達を自分の周囲へと集めていく。


「凄いのである。それだけ動ける上に、一点特化の魔法。上位魔導士として名を残せたかもしれないのであるのに、勿体ないのである」

「悪いが、逃げさせてもら」


 ヤシロの言葉が不意に途切れる。石のように動けない体、唇さえも震わせられない。瞼を瞬間的に開閉する動作もできず、思考だけが激しく活動している。

 布地を取った男の両眼は黄金に輝く蛇の瞳。それに睨まれたヤシロは、ようやく布地の意味を理解した。もしも街中で鏡を見てしまえば、自分自身を固めてしまうほどの威力。

 迷宮と同じ『神話レリック』で語られたそれは、しかし動きを制限することしかできないところを見ると魔法で呼び寄せた『本物レリック』とは思えなかった。


「これは私を作り上げたギルドが別の作戦で使う道具の副産物らしくてな、どうやら罪悪感に比例して相手を石のように止めてしまうのである」

「っ……」

「私の息子を殺して、今までも多くの者を死なせて……汚水よりも濃い血に塗れた君には似合いの眼であろう?」


 頷けず、反論も不可能。全てが封じられたヤシロは一歩ずつゆっくりと近付いてくる男を見ていることしかできない。青魔法で作り上げた影を操り糸代わりにしても、体を動かせないほどの強制力。

 伸ばされた手が首筋を掴もうと触れかけた矢先、頭上から響く鈍い音が下水道内部を揺らす。軋みを上げていた歯車の、小さな物が一つ転がってしまうほどの衝撃が地上であったという予測。

 その音は断続的に、少しずつ大きくなっていく。煉瓦がひび割れ、土埃を下水道へと落としていく。そして大きなひび割れからは、途中で管が壊れたであろう蒸気が噴出し、視界を埋めた。


「行きますわよ、ナギサさん!!」

「はい、お姉さま!!」


 聞き覚えのある声が耳に届いて、ヤシロは今度は別の意味で青ざめた。そして噴き出された蒸気と盛大な破壊音と共に白い腕甲冑ガントレットをつけたメイドと、杖のように長い刀を手にした少女が落ちてきた。

 あまりにも勢いが強い蒸気が目に染みた男は、慌てて布地で両目を保護する。かなり繊細な部分なのかという感想を抱く前にヤシロは体を動かして逃げようと試みたが、首筋を掴む手が早かった。

 そのまま体を引き寄せられたヤシロは両足をばたつかせるが、男の方が体が大きい。そして男の白魔法による強化された腕力で投げられ、背中が異形の腹へとぶつかる。患者服の肩に落ちてきた胃液が異臭と焼けるような痛みを肌に伝えてくる。


「野蛮猿、出番ですわよ!! 予想通りなら貴方でも対処できる簡単な問題ですわ!!」

「あいよ、姫さん! そんじゃあ――水鉄砲ってのはこうだって教えてやるよ――」


 弾けるように現れた大量の水が下水道の管全てを埋めるように放出される。同時に蒸気も流され、視界が一瞬で鮮明になる。ヤシロも息が切れそうな勢いの鉄砲水により、頭を煉瓦の壁にぶつけた。

 白と黒が交互に襲ってくる視界で、見えたのは水によって溶けた異形だった。よく見れば肉の中に混じる黒い粉、それが鉄粉だとわかったヤシロは異形の体の仕組みについて理解する。

 脈動する腹の奥の心臓は磁石、そして肉をすり潰して捏ねたのは、鉄粉を混ぜるため。意識は磁石に変えられた心臓に宿し、分離や合体できるように調整した。だから墓場の異形は自らの腹を刺し、心臓を止めたのだ。常に水分を放出しているのは、鉄粉が流れて体の造形を崩されないため。


「チドリさんとハトリさんはヤシロさんの確保!! もうこれ以上手を煩わされるのは御免ですからね!」

「わかったわーん! というわけで、ヤシロくんむぎゅーの刑よん!!」

「姉貴!? ああ、まあ……傷だらけで動けないだろうし、不問にしとくからな」


 汚水で黄色のドレスが汚れることも厭わず、ハトリは自らの胸元にヤシロの頭を引き寄せる。今までにない混乱がヤシロを襲い、耳だけでなく首にまで異常なほどの熱が宿る。

 姉の行動に物申したいチドリだったが、周りを異形に囲まれているとわかると真剣な顔でハトリとヤシロを背中に庇う。しかし目の前で異形の腹を貫く拳が一つ。脇腹の横を掠めて飛んでいった心臓は、煉瓦の壁にぶつかって飛び散った。

 白い腕甲冑の汚れを払うように腕を振るうナギサは、特に動じた様子もなく次の異形の腹を蹴り抜く。今度は天井に跳ね上がった黒い心臓が潰れた状態で汚水に落ちた。


「な、ナギサ……一応、それは生きて……」

「え? ヤシロさんは襲いかかってくる熊に情けかけちゃうタイプですか?」

「……」

「特に人の味を覚えた熊は危険なんですよ。なので正当防衛が有効なはずです!!」


 憶えたての言葉を使って自信満々に胸を張って宣言するナギサの大声に、耳だけでなく頭も痛くなってきたヤシロは苦悩する。もしかしてナギサの方が野性的なのではないかという疑惑だ。

 最初は獣だった少年にとって、今はかなり人間の感情を知った上で身に着けたはずだが、心のどこかでは人間らしくないと思っていた。しかしナギサのあっけらかんな態度はどうだろうか。


「あ、もちろんごめんなさいはします! でも死んじゃったら戻って来ません。それ以上、僕ができることはなにもないから、僕はいつも通り生きていくんです」

「……」

「それに僕にとっての一番はお姉さまや借家にいる皆さんとの生活ですから。僕は僕の精一杯やるんです! だからヤシロさん、帰ってきてくださいね! 僕、帳簿計算できませんから!!」

「……わかった」


 小さく、それでいてしっかりと返事したヤシロをハトリは強く抱きしめる。そのせいで巨乳に顔が埋もれて苦しいヤシロには気付かず、優しく頭も撫でる。

 最中にもう一体、ナギサは異形の腹を白い腕甲冑をつけた拳で突く。最初から手加減を知らないナギサは、全力で異形の動きを止める。潰れた心臓も、飛び散った心臓も、全てが直後に砂となって消えていく。

 しかし数が減らない。よく見れば次々と異形は増え続けていた。最初は五体だったはずが、今では二十体以上に増殖している。その事実を目の当たりにし、チドリは舌打ちする。


「何人の人間を犠牲に……死体で遊んで、侮辱するな!!」

「チドリちゃん……そうよねん!! 今は、怒っていいのよねん!! だってこの人達は、ここまで弄ばれる極悪人でも、歴史に悪名を刻まれる人ではなかったはずだものん!!」


 二人の言葉に呼応するように、一人の少女が手首で杖刀を回転させる。まるで杖を手繰る魔法使いの如く、それを一つの儀式と見立てるように。

 汚水に覆われた煉瓦の床へとその杖刀を突き刺し、瞼を閉じる。痛む頭も、喉も、熱も、全てを置き去りにして集中する。なにが必要か、なにが相応しいか。


「侮辱ではないのである! これは必要な犠牲、生贄なのである!! 基点はもう作っている、意識が混濁しても構わないのである!! ――集まれ!! 生贄よ!! 怪物の捧げものよ!! 迷宮の礎となれ!!――」


 男が法則文を述べると同時に、ヤシロの体に突き刺さった杭が緑色に光る。それに引き寄せられるように異形達が浮いて集合し始める。ヤシロは黒い杭の正体が、鉄の塊であることに気付く。

 それを法則文によって磁石へと変える。ヤシロを守るようにハトリが抱きしめ、チドリが手で迫る異形を振り払おうとするが、異形の肉塊は勢い強くヤシロへとぶつかって密着する。

 ナギサが慌てて手で剥がそうと拳を振るうが、次々に集まる肉塊によって取り込まれてしまう。アルトがもう一度青魔法で勢いのある水流を発生させるが、表面だけしか削ることができない。


 少しずつ完成されていく丸い肉団子の中に、ハトリとチドリ、そしてナギサとヤシロがいる。あの状態が長ければ息が続かないだけではなく、形成される怪物の一部にされてしまう。

 肉団子が蠢き、手足を伸ばしていく。これから三百万人以上が住む街を呑み込む迷宮の怪物として相応しくなるように、醜く、巨大で、最悪の存在へと変貌していく。それを前にしてもユーナは瞼を閉じて考え続け、魔力を使って辿っていく。

 まるで闇夜に散らばる星を見つけるように、魔力で線を作っていきながら『レリック』へと意識を導いていく。星図を作成するように、狂いがないように。そして瞼を開ける。


「――ひたひたとひたり、暗闇を歩く者よ、天上に輝く星の輝きを教えよう、汝の目に映るは人の美しさ、潮騒が呼ぶのは昇る太陽、波が隠すは沈む月! 知るだろう、汝が生まれた意味を――誰だって怪物として生まれたくなかったはず!! それは『貴方レリック』が一番よく理解しているでしょう、星と雷光の意味を宿す王子よ!!」


 巨大化を始めていた肉塊の動きが止まる。しかし分解する様子もなく、アルトは思わずユーナに視線を向けた。彼女の言葉は終わらない。


「でも貴方は迷宮に閉じ込められるまで、確かに人間として生きていた! ならばわかるでしょう!? 人の笑顔がどんな眩さか、自然に咲く花の温かさを!! 怪物になっても、それを覚えていたはず!!」

「なにを……言っているのである? まさか……直接『迷宮の怪物レリック』に語りかけているのであるか!?」

「だけど貴方は怪物として倒された……神々に天上の星として飾られず……そんな貴方が、もう一度別の世界で怪物に変貌する必要は、どこにもないでしょうが!!」


 声を張りあえげて訴える。死んで終わったはずの怪物としての人生。それを繰り返すのかと。暗闇の中で人肉を貪る、そんな生活に戻りたいのか。

 どうして星と雷光の意味を宿す名前を与えられたのか。生まれた時から怪物の姿をしていた彼を、誰か途中まで人間として育てたか。人間で生きていく道は用意されていた。

 それに気付かなかった愚かさを、他の誰かに押し付けていいのか。誰かに言われるがままの人生で良いはずがない、怪物と呼ばれても人間としての生活が、心がわずかに残るならば理解できると声に出す。


「もう誰も殺さなくていい!! 貴方は死んだ!! 星になれなくても、今度は星を見上げればいい!! 迷宮は踏破される!! 貴方は自由なんです!!」


 暗い、どこまでも闇が広がる迷宮。響く悲鳴、漂う血の匂い、重い斧と鎖付きの足枷を引きずった日々は、すでに『神話レリック』として終わりを迎えている。

 そしてユーナの言葉を耳にしたヤシロは、半ば肉の塊に押し潰された状態で納得する。そうか、獣であった自分は死んだのだと。もう今は自由に、少年として生きていけるのだと。

 誰も殺さなくていい。霧が薄い日は空を見上げれば星が輝いている。それを仲間と一緒に見ることができる。幸せは目に見えないというが、気付きにくいのかもしれない。当たり前のように傍に佇むから、忘れてしまうくらいに。


 肉が崩れていく。肉の隙間から水分を放出すると同時に、臭気と鉄粉も排出する。肉の圧迫で内部にあった磁石の心臓は一つ残らず潰され、造形されかけていた怪物は消えていく。

 内部から口を一文字に引き結んでいたハトリとチドリ、抵抗していたせいで肉片だらけのナギサ、そして体を貫いていた杭が緑の光と共に散っていくのを見届けるヤシロが汚水に落ちた。

 零れ落ちた肉片は少しずつ流れる下水と共に暗闇へと消失していく。それらを眺めていた男は後退りした。緑魔法に介入する方法はいくつかある。だがそれを青魔法で直接『憑依元レリック』を説得するなど、恐れ知らずだ。下手したら逆上し、暴れられて殺されていた可能性が大きい。


「さて……次は貴方ですわね。ヤシロさんだけでなく、何十人を巻き添えにしたか知りませんが……」

「こ、殺すつもりか!? 優秀な私を……あの『本物の上位魔導士オリジナル』よりも優秀な……」


 一歩ずつ確実に近付いてくるユーナに対し、男は裏返った声で怯えた。出会った時は魔導士だろうとは思っていたが、先程の青魔法を見ればわかるのは上位魔導士以上の実力だということ。

 そして正体が不明な最高位魔導士が一人。最悪の問題児という意味であり、黄金律の魔女の弟子。彼女の弟子ならば、先程の説得の意味もわかる。目の前の少女は語られなかった『怪物レリック』の心情を自分なりに解釈したのである。

 黄金律の魔女が魔法で最も重要なこと。上位魔導士になるならば必要な技術。語られずとも、残されずとも、確かに実在したであろう物事を見つけ出すという探究心。


「ち、違う……私は『偽者レプリカ』で……」

「問答無用!! とりあえず痛い目見なさい!!!!」


 命を奪わない程度の、それでいて確実に意識は奥底まで落とす威力の拳が男の顎に打ち込まれる。抗うこともできずに汚水の中で倒れた男を、アルトは拾い上げた。

 なんとか汚水に塗れつつも歩み寄ってきたハトリとナギサ、そしてヤシロを背負ったチドリを見てユーナは手招きする。床に突き刺さっていた杖刀も自らの力で動き、ユーナの手元に戻っていた。

 汚水の中ら一本の赤い毛糸を掴み取り、ユーナはいまだ蒸気で隠されているものの少しずつ人が集まり始めた侵入口を見つめる。正確には破壊して無理矢理作った穴ではあるが、そこは華麗に無視する。


「この糸を使って逃げますわよ!! 一気にコージさんがいるであろう放流口まで魔法で移動しますから、手を繋ぎますわよ」

「え? 姫さん、俺様は片手で塞がってるんだけど」

「もちろん野蛮猿は最後尾で、わたくしがハトリさんと、ハトリさんはチドリさんの服を掴み、ナギサさんはチドリさんに背負われているヤシロさんの服を手に取り野蛮猿の服の裾を摘まむ。はい、解決ですわね!」

「実質手を繋いでるの姫さんと女神さんだけじゃねぇか!! まあ、いいや。姫さん、さっさとここから脱出だ!」


 アルトの言葉に頷き、ユーナは赤魔法で瞬時に移動する。蒸気管が異常を感知し、蒸気の噴出を止めた頃には影も形もない。下水からの酷い臭いで住民達は屋内から様子を窺っていたため、詳細を知らない。

 わかるのは大騒音と蒸気が全てを隠していたということ。また下水道関係で事件かと、雨がやんできた中を走ってきた警官は舌打ちした。もしかして連続して蒸気爆発でも起きているのではないかと疑うほどである。

 そしてヤシロはようやく正規な方法で迷宮から脱出したのだが、そのことに気付かないまま安心した様子で動かない体を仲間の背中に預け、終わりへと近付いている事実に安堵したのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る