EPⅤ×Ⅷ【狼の皮《wolf×hide》】

 獣の毛皮は多くの水分を含み、肩にうっとうしいほどの重みを伝えてくる。それでも四肢の動きを止めないのは、鼻が獲物の臭いを捉えているからだ。

 生きるためではない。殺すために追いかける。それはむしろ獣から離れた行為ではあったが、少年にはどうでもいいことであった。獣も人間も、どちらも命を奪う生き物である。

 水溜まりを弾きながら石畳の上を駆ける。次に踏んだのは芝。整頓された石が等間隔に空いていることと、わずかに聞こえる讃美歌。小さな教会墓地に辿り着いたのがわかる。


 異形は走り続ける。あと少しで追いつく矢先、突然異形が立ち止まる。警戒して少年は足を止めた。醜い怪物の手が、三本しかない指が陽が当たる場所に位置する墓の文字をなぞる。

 教会付属の墓地チャーチヤード、それも太陽が照らされる場所には限りある。多くの者は共同墓地セメタリー、罪深い自殺などでは無縁墓地ポッターズフィールド、位が高ければ礼拝堂の地下納骨堂など様々な墓所がロンダニアには幾多も存在している。

 無縁墓地は、天主の教えに背く者は四つ辻に葬られる、という言葉があるように、十字路の横の土地を使われる。十字路には悪魔が潜むと言われているためだ。


 名前が刻まれなかった墓を思い出す。胸の奥から駆り立てる衝動に任せて、少年は芝を蹴り上げて爪代わりの小型ナイフを構える。狙うは腹。不気味な黒い心臓が脈動する場所。

 本能的に核となる場所を刺そうとした少年の目の前に白い影が現れる。雨に濡れて汚れているが、茶色の街並みに浮き上がる白のワンピースコートには見覚えがあった。同時に目の前を一閃する黒い杖刀。

 体が芝の上を何度か跳ねた後、その勢いを利用して少年は起き上がった。そして異形を背で守るように立ちはだかる少女が一人。肌は青白く、どう見ても健康そうには見えない。それなのに紫色の目の輝きだけが強いのだ。


「なにしていますの?」


 疑問に対して唸り声だけを返す。どうして邪魔を。退かなければ諸共噛み千切るぞ、という脅しも込めて低く、唸り続ける。

 重く圧し掛かるような黒い雨雲からは絶えず降る雨粒が体を叩きつける。冷えた肌が体の奥まで凍えさせるが、頭の奥だけは煮え滾るように落ち着かない。


「ヤシロさんの身になにが起きたか……全てはわかりません。しかし一つだけ言わせてもらいますわよ」


 言葉と同時に一歩強く踏み込んだ少女に距離を詰められ、少年は迎え討とうと身構える。接近戦ならば少年に勝機がある。杖のように長い刀を持っていても、それが自在に動いても、少女の技術は素人同然なのだから。

 それでも一瞬、威圧された。足が止まり、視界を埋める怒りの形相に怯えた。振るわれた杖刀に反応して小型ナイフで応戦しようとしたが、腹に埋め込まれた靴底によって雨空高く蹴り飛ばされる。


「墓場で暴れてんじゃねぇですわよ!!」


 どこか理不尽な怒りを受けた少年は、空中で体勢を立て直してから地面に着地する。どう考えても、見ても、今現在進行形で墓場にて派手に行動しているのは少女である。

 しかし少年は返事しないまま、狼のように腕と足を使って駆ける。目指すは少女ではなく、墓の前から動かない異形の怪物。義務のように命を奪わなくてはいけない相手。

 異形が吹き出す臭気に反応して教会が騒ぎ始めたが、誰も近付かない。鼻を覆いたくなる吐き気を催す臭いが酷すぎる。それも水が流れる暗闇に比べれば生易しいと、少年は奥歯を噛み締める。


 舌打ちした少女も走り出す。少年に向かって真っすぐ、それこそ駆け引きもなにもないほど直線に。右手に握った杖刀は雨に濡れていたが、黒い輝きは失っていない。

 そして火花が散るような金属音が響き渡る。杖刀の鞘と触れ合った小型ナイフから雨粒は弾け飛び、武器の輪郭をなぞるような競り合いが始まって、一瞬で終わる。お互いにその勢いで体を回転させ、もう一度武器をぶつけ合う。

 少年の影から這い出てきた送り犬には目もくれず、少女は武器がぶつかった反動で離れた直後に杖刀を雨雲に向かって投げ飛ばす。放物線を描きながら落下してきたそれは、迷わず一匹の送り犬の背中を貫いた。


「――迸る怒り、落ちるは光、巨槌は眼前の敵を滅する!!――」


 雨雲を引き裂いて現れた赤魔法の雷が視界を痛いほどの白で埋め、大地だけでなく空気や人体の奥まで震わせた。影のような体を持った送り犬達は、視界が元通りになる頃には跡形もなく消えていた。

 少女の手に戻った杖刀は無傷。少年は刃こぼれした小型ナイフを影の中に落とし、次に小型蒸気機関銃を取り出す。一丁ではなく、二丁。そして二本足で立ち上がる。

 白かったはずの患者服は見る影もないほど汚れ、手の平や足裏は煤や泥で黒い。人間の骨格としては無理な体勢を続けたため、全ての爪は割れている。中には爪が剥がれた部位もあるほどだ。


 今度は少年が少女へと距離を詰める。至近距離からの銃口から弾丸を。一丁は少女の手から離れた杖刀の回転で手首を弾かれ、弾道が逸れてしまう。しかし残った一丁から放たれた弾丸は少女の肩を掠めた。

 少女の腹を蹴って飛んですぐに四発撃つ。狙いは甘かったが、それぞれ両手両足に浅い傷を作った。息を整える前に連射で牽制する。さすがの少女も距離を取った直後、銃口を墓前から動かない異形へと向ける。

 そして一発撃つが、少女の手で投げられた杖刀が回転して盾となる。少年は杖刀の回転の外側を狙い、再度射撃。弾丸一つで中心から大きく外れた握り手の部分に衝撃を与えられ、杖刀は為すすべもなく弾かれた。


 それでも地面に鞘先をつけ、再度跳躍した杖刀が少女の手に戻る前。異形の怪物に今度は鉄の弾丸を込めた蒸気機関銃の銃口を向ける。先程の連弾で内部の蒸気機関は鉄に殺傷能力を持たせるほどの熱を溜めていた。

 腹を貫通するくらいは容易い弾丸は激しい音と蒸気と共に放たれた。そして肉を抉ると同時に血が流れる。少年は目を丸くした。異形の怪物に肉はあっても、血は持っていない。血が流れるはずがない。

 白いワンピースコートが血で染まっていくが、それも雨で濡れていたせいで滲んでいた。荒い息を吐きながら、少女は先程と全く変わらない眼差しで言葉を出す。


「ヤシロさん……返事しなさい!! 貴方は獣じゃないでしょうが!! 誰かが死んで心痛めた人間のくせして、真似事で本心誤魔化してんじゃねぇですわっ!!」


 脇腹を貫通したのは間違いない。それでも広がっていく血を眺めて、少年は一つ思い当たることがあった。少女は夏風邪をひいている。雨に濡れて悪化もしているはずだ。

 体を動かすのに通常時よりも余計に白魔法を使っている。むしろ操り人形マリオネットのように、自らの魔力を無理矢理体中に流し込んでいる。だから傷口を塞ぐのが遅い。

 貫通した弾丸は芝の上を転がっている。もう一発撃てば、たとえ少女が壁になったとしても異形に弾丸は届く。冷静に計算した少年は銃口を構えるが、指先が震えた。


 狙いがつかない。正確には無意識に少女から銃口を逸らそうとしている自分がいた。そのまま銃身を降ろして言葉を発すれば、少年は降参できたかもしれない。

 だが脳裏で過ぎった迷宮の怪物の声が、温かい手の温もりが、死に様が、蘇ってしまう。胸を締め付けてくる痛みは目の奥を熱くする。手の震えは大きくなるが、銃身は降ろさない。

 自らを鼓舞するように少年は吼えた。窓硝子を震わせるほどの叫びを外へと出し、震えが消えた指先で引き金を動かす。鉄の弾丸はもう少年の手で止められなかった。


 塞ぎ始めていた傷口を抉られて、少女は芝の上に膝をつく。そして背後の異形が腹の口から聞き苦しい呻き声を上げ、地面を転がる。飛び散った肉片からは強い焦げの臭いがまとわりついていた。

 しかし異形は墓石に付着した肉片を自らの手で回収を始める。雨で流れ落ちた肉片は無視しており、まるで墓石が汚れるのを恐れるかのように。少女は背中越しでその光景を眺める。

 もう一度、異形は痛みに呻きながらも墓石に彫られた文字をなぞった。墓の文字を読んだ少女は震える足で立ち上がり、両手を広げる。戦う体勢ではない。もう一度銃を構えた少年に、耳の奥まで届けるような声で言葉を出す。


「この異形は! 多くの体が集められてできた物です!! 墓石に刻まれているのはメアリ・ネルダ!! 異形の意思は……貴方が狙っている人物ではありません!!」


 少年の動きが止まる。その間に傷口を塞ごうと白魔法を使い続けるが、血が流れていく方が早い。荒い息を吐き続けながら、少女は少年の言葉を待つ。


「………………眼球の色と、臭いが同じだ」

「それだけです。それでも殺したいのですか?」

「……三歳の子供が死んだ。胎の中で守られるはずの赤子もだ。お前は、それを許せるのかっ!?」

「わたくしが許さないのは関係ない者まで殺そうとする貴方だけです!!!!」


 間が空く。雨だけが五感を支配するような静寂。少しずつ暗くなっていく視界から、太陽も雲の向こうから姿を消し始めたとわかる頃。




「だったら自分を殺してくれ」




 懇願するような言葉と共に、今度は少女の頭を狙い始めた銃口。鉄の弾丸を再装填する暇もないほど、空気を圧縮した弾丸で攻撃を続ける。ユーナはそれを避けなかった。

 両手を降ろしたが、真っ直ぐに立ち尽くしている少年の元に向かう。空気を圧縮しているとはいえ、青痣を作るには充分な威力。それを胸や頭に受けながらも、魔力で無理矢理体を動かしていく。

 銃口は確かに少女に向かっていた。しかし少年の視線は濡れた芝に向けられている。顔を俯かせたまま、その場から動かない。隙だらけの姿で少年は指先だけは止められないように動かしていた。


「殺してくれ」

「嫌です」

「自分が……殺したんだ」

「だから?」

「殺すしか助けられないと思ったんだ!!」

「それは助けるんじゃない!! 救いと言うんです!!」


 一歩ずつ、距離を詰めるほど銃弾の威力は上がる。内部の蒸気機関が熱を溜めて威力を高めていけば、骨を折るのも容易い。それでも少女は止まらない。

 鋤骨が折れても白魔法で。頭蓋骨にひびが入っても白魔法で。全身を襲う痛みは根性と気合いで我慢する。止まることはもうできない。止まってしまえば意識を失う。

 どうしても聞き逃せない言葉があった。そのことについて追及するためにも、人助けギルド【流星の旗】のメンバーであるユーナは止まりたくなかった。


「死が救い? ええ、あるでしょうね!! クリオネ戦争でそう懇願した兵士は多くいました!! 死ねば楽になる!! 死なせてくれ!! まるで飽きを知らない亡者の喚き声!! 地獄のような場所で唯一見えた救いの光と錯覚した愚かな言葉!!」


 十字架を握りながら嘆願した包帯だらけの兵士、血の臭い、うんざりするほど人の熱気と火薬臭さで辟易する診療所。今でも気味が悪いほど思い出せる光景を頭に、ユーナははっきりと宣言する。


「それでも!! 兵士の手足を切り落として命を繋ぐ人がいた!! 血を頭から浴びても助ける女がいた!! そこに天使はいなかった!! いたのは苦悩と戦う人間だった!! そんな彼女は敵すらも助けた!! わたくしはその姿を見たから、今ここで貴方に立ち向かっている!!」


 銃口がユーナの胸にぶつかる至近距離。伸ばした手で患者服を掴み、少年の小さな体を揺さぶる。被っていた毛皮は地面の上へと落ちていき、重く濡れた音を立てた後は沈黙する。

 獣の下から現れた少年の表情は酷い有様で、苦しみと怒り、後悔と辛酸。見ていて清々しいとは言えない顔。金色の瞳は輝きを失って、空と同化するように曇っている。

 少しずつこげ茶の髪は濡れていき、頭上にある犬耳飾りの魔道具も雨に流れるようにずれていく。それでもユーナが掴んだのは借家で自称執事の少年だ。


「助けるって言うのは、生死を決めるのではない!! 他者の望みを叶えるのでもない!! 自己満足の延長、やるべきことを行うという意味なのです!!」

「……っ!?」

「貴方がやるべきことは誰かを殺すのではない!! 獣になるのでもない!! 人助けギルド【流星の旗】のメンバーとして、わたくし達に相談することです!!」


 体を震わせる声は耳を痛める。脳髄まで響くような声は頬を叩かれているのと同じ衝撃だ。それでも少年はユーナの胸にぶつかった銃身を下げられなかった。

 衝動のまま、ユーナの体を突き飛ばす。毛皮を拾わずに、距離を取ってから頭を抱える。報連相が重要なのはわかっている。そんなのは常識であり、当たり前だ。

 それでも脳裏に蘇る迷宮の怪物、赤子の指と女の長い髪、男の耳に粘りつくような声。それらが少年を責め立てているようで、それでいて心の奥から灯るなにかが叫んでいる。


「そんなのは……そんなのはわかっている!! でも!! 自分は……自分は、下水道で自分を見た!! 闇の中でしか安寧を得られない獣!! 光が我が身を焼きかねない辛さ!! それらを知っている!!」


 少年はまるで同調するように迷宮の怪物を見ていた。これは自分自身なのだと。ただ違うのは、彼は三歳の子供で、光を知っていた。

 そして光の中にいるであろう家族の元に帰りたかったという心を理解している。しかしそれは叶わない夢だった。家族など、もうどこにもいなかった。


「だが!! あれは自分じゃない!! 三歳の子供だった!! 当たり前のように……太陽の下で笑い、幸せになれる子供だった!! 幸せになるべき子供だったんだ!!」


 胸の奥から込み上げてくる感覚に任せて叫ぶ。雨音にも負けない声で、自分とは違うと何度も繰り返す。暗殺者として育てられた自分とは違うと、何度も。

 彼は妹が生まれるはずだった。優しい母親に頭を撫でられて、炎が煌々と燃え盛る暖炉の前で微睡むことが普通の子供だった。貧民区に住む子供とは違い、裕福な生活に身を委ねていい存在だった。

 それがどうして迷宮の怪物になったのか。もう二度と優しい家族に会えなくなったのか。ただ普通の子供のように父親に憧れただけなのに、その父親が異常なだけで全てを壊されて、奪われた。


「緑魔法で体を怪物にされて、意識さえも半分以上乗っ取られていた!! あれを戻す方法を、お前は知っているのか!? 最高位魔導士であるお前なら!?」

「……残念ながら、無理ですわ」


 悔しそうに、奥歯を噛み締めながらユーナは返事する。緑魔法は簡単に言えば憑依だ。そして体が憑依した『迷宮の怪物レリック』として仕立て上げられたならば、もう手遅れだ。

 意識は混じりあい、少しずつ侵食されていく。魔導士ならば太刀打ちできたかもしれないが、普通の人間には抵抗すらもできない。相手はあくまでも『神の仕業による怪物レリック』なのだから。

 しゃっくりをするように一度だけ肩を尖らせた少年は言葉を失う。代わりに簡単な母音しかない高笑いを吐き出し続ける。それはまるで赤ん坊の泣き声にも似ていて、苦しい思いを胸を締め付ける。ひとしきり笑った後、少年は悔しそうに呟く。


「自分だって……助けたかったんだ」


 自分と同じように闇の中に取り残された子供を、光の下へ戻したかった。だけれど見つけた時には全てが遅かった。光の下では暴れるしかない牛頭の怪物を幸せにする方法が見つからなかった。

 たとえ意識だけを戻しても、母親を腹の中にいた赤子ごと食い殺した真実、多くの人間を食べてしまった事実。それらに気付いてしまう。三歳の子供にそれを強いるのは、胸が張り裂けそうなくらい辛い。

 それにあの体を受け入れてくれる人間がいたとしても、大多数の人間が排除しようと動き出すに違いない。光の下にすら救いはない。闇さえ怖がった彼に少年ができたのは、自分の命を守るために行ったのは、殺すことだけ。


「だから……元凶である男が生きているのは許せない。三歳の息子を怪物に仕立て上げたあの男を、自分は……」

「……こんな異形の怪物になってもですか?」

「ああ。それが報いにはならない。償いにも。だから!!」

「それがこの人の救いでもですか?」


 ユーナの冷たい声に、少年は息が詰まった。


「死は救いにもなるでしょう。こんな怪物の姿のままならば……と思う人もいるでしょう」

「っ……」

「ツァンさんは言いましたわ。生は苦しみだと。でもハトリさんは生きているのは楽しいのだと力説しました」

「……じ、ぶんは……」

「自分で決めて行動したことに覚悟を持ちなさい!! 受け止めなさい!! 全て背負って、生きなさい!! 貴方は獣じゃない! 命を奪って悲しむ人間でしょう!!」


 声が何度も詰まって、言葉が形にならない。死は救い。そうでなければ三歳の子供を殺した意味がない。だけれど許せない男を殺害することが救いに繋がってしまう。

 どうしてこんなにも躊躇うようになったのか。獣のような少年時代から、暗殺者として全盛を誇っていた時期から見れば信じられない。だけれど理由は知っている。

 もう少年は誰かを殺さなくても生きていける場所に立っていた。闇の安寧を得る必要もない。光の眩しさに目を痛めるのは過去の話だ。人助けギルド【流星の旗】のメンバーであるヤシロとして、騒がしいメンバーに囲まれて生活する日常が可能な場所にいた。


「……わたくし達も一緒に考えますから。一人で悩まないでください。大体! ヤシロさんが思い悩んで一人突っ走ると碌なことがないんです! まず抱え込む癖をやめなさい!」


 人差し指を突きつけられたヤシロは、どこか納得できないような心地に陥る。だがユーナの言葉で少しずつ頭が冷えていく。手の中から小型蒸気機関銃が零れ落ちた。

 周囲はすでに暗くなって、街路の蒸気灯が点き始めていた。夜がやってきたのだと思うと、夏場とはいえ寒さが身に染みる。大声を出し続けたユーナは、思い出したように咳き込む。その拍子に血まで吐き出した。

 鉄の弾丸で脇腹を貫通した内臓のダメージがやってきたのである。鼻を掠めた血の臭いに気付いたヤシロが、心配するように駆け出した矢先だった。


「ア……ウ……」


 異形の怪物が静かにユーナの背後に歩み寄っていた。ヤシロは影の中から蒸気機関銃を取り出すが、ユーナは手の平を見せてヤシロを制止させる。


「ア……リ……ガト……ウ……」


 途切れ途切れに言葉を吐き出した異形の怪物は、ユーナが手にしていた杖刀を奪って自らの腹を突き刺した。口腔の奥にある、黒い心臓が貫かれた。

 その心臓が砂になると同時に、肉の塊が分離を始める。崩れていく体の中から、写真入り首飾りロケットペンダントが落ちた。入っていたのは穏やかな女性と男性が結婚式の日に撮ったと思われる白黒写真。

 蓋に刻まれた日付は約二十年前。メリア・ネルダとビッツ・ネルダと名前も一緒に蓋裏に彫られていた。地面に落ちた杖刀は肉から離れるように芝の上を跳ねる。


「……どういうことだ?」

「ヤシロさん。目の色と臭いが同じだと言ってましたわよね? もしもですよ……死体を幾つも集めてこね回し、肉人形を用意したとして……それって何体分になるのかしら?」


 下水道の放流口から現れた異形の怪物と、最初に出会った異形の怪物。もしもそれが別々の固体ならば、ユーナは一つだけ納得する部分があった。

 闇の中でヤシロから逃走する術を怪物が持っているとは思えない。途中で撒いても臭いを追跡できるヤシロから逃げるのは難しい。だがその臭いが近くに複数あった場合、誤認させることが可能なのではないのか。

 目の色が同じ人間などありふれたようにいる。特にロンダニアの街は産業革命の影響で日々人口が増え続けている。同時にそれは墓場を圧迫する要因でもあり、死体も日々増しているという証拠。


「誰かが怪物を量産しているのか!?」

「しかも人間の死体を使って……いえ、もしかしたら生きている人間も。行動するための意識が必要ですから。だからこの人は……」


 ユーナがペンダントを拾い上げようとした瞬間、風を切るような音がヤシロの耳に届く。条件反射で彼女の体を突き飛ばした直後。黒い杭に体を何か所も貫かれた。

 勢いで足が芝から離れ、動きを止めない杭によって教会の壁に打ち付けられた。口から吐き出た血が芝へと零れ、少しでも出血を防ごうと白魔法で体中の傷を塞ぎにかかる。

 しかし突き刺さったままの杭が邪魔で血が流れ続ける。ユーナが起き上がって声を上げる前に、黄色の衣服をまとった男が丸眼鏡を指で押し上げながら黄魔法を使う。


 雨のように降り注ぐ槍によって地面に縫い付けられたユーナは、ヤシロと戦ったことによる疲弊と夏風邪の悪化、なにより脇腹の出血で意識が朦朧となっていた。

 その中で聞こえてきたのは、ヤシロの怒鳴るような声だったが、それも鈍く重い音と血を吐く声で止まる。そして聞いた覚えもない男の声だけが少しずつ遠くなっていく感覚。


「私の息子を殺すだけでなく、私という人類の宝も消しかけた君を次の怪物に仕立て上げるのである!! 大丈夫! 心強い協力者により、今度はもっと効率よく成功させるのである!」


 朧な視界の中で杭で貫かれたヤシロの体を抱える男の容姿を目に焼き付ける。目は布地で隠しているというのに、丸眼鏡をつけていた。それでいて足取りは見えているように迷いなく進んでいる。


「そして怪物になった君に大事な仲間を殺させるのである! そのため今は生かしておいてあげるので、感謝するのである!」


 一方的な恩着せがましい言葉を残して去っていく男も止められず、ユーナは瞼を閉じた。泥に沈んでいくように意識を保つことができなかった。




 頭から逆さに溺れていく中で、懐かしい顔を思い出す。今も会える人もいれば、もう二度と再会できない人も。そして一番奥底で待ち構えているように、一匹の『化け物モンストルム』が煙草を吸っていた。

 それはユーナにとって絶対に忘れられない記憶であり、根幹に近い思い出。苦くて、辛い、それなのに手放せない物。今のユーナという形を明確にしたと言える『存在モンストルム』が気軽に話しかけてくる。


[どうした共犯者? まだ死ぬには早いだろう。安心しろ、俺はいつまでも煉獄山の頂きでお前を待ち続けているさ]

[わたくしは煉獄行き決定なのですね。記憶の中でも相変わらず酷い男。傷だらけのわたくしに慰め一つもかけないとは]

[くくっ、嫌ならば早く目を覚ませ。俺に甘えても無意味なのはお前も承知しているだろう。それともお前は仲間を見捨てる女だったか?]

[そんなわけないでしょう。わたくしは貴方が死んだ時に決意しました。なにがなんでも……たとえ相手が嫌がっても……必ず助けると!!]


 二百年以上も生きていれば、数えきれない後悔を抱えることになる。これはユーナの後悔であり、前進する時に必要な因果。

 湧き上がる怒りによって浮き上がっていくような感覚。その『化け物モンストルム』に背を向けて、少しずつ離れていく。まるで煙草の煙に近い関係性。

 重い瞼をこじ開けて、薄暗い雨雲を視界に入れる。少しずつ晴れに向かっているようだが、雨粒は地面を濡らし続けていた。そして心配そうに顔を覗き込むナギサとチドリの顔。


「大丈夫か? 今、アルトと姉貴が周囲を見ている。ヤシロはどうした?」

「あわわわわ! すごい血です!! 早く病院に連れて行った方が!!」

「……下水道」


 近寄ってきた杖刀を支えに立ち上がったユーナは周囲を見回す。教会の壁は濡れていたが、ぶちまけられた血は全て洗うことができなかったらしく、惨たらしい跡が残っている。

 そこへと歩み寄っていく。背後でナギサとチドリが体を気遣うように手を伸ばしているが、ユーナの足を止めようという意思はなかった。ふらつく足取りで、今度は壁を支えとするように血の跡に勢い良く手をつく。

 手の平に伝わる血はすでに冷たかった。時間が経っていると判断できたが、遅くはない。ヤシロがそう簡単に怪物になるはずがない。いけ好かない『過去の思い出モンストルム』を思い出して、腹に力を込めて魔法の呪文を声に出す。


「――血脈よ、示せ!! 主への道筋を!! 心臓が動き続ける限り、その命の限り!!――私は諦めが悪いのが取り柄なんです!!」


 青魔法によって伸びていく血でできた糸。それは暗闇を照らす蒸気灯で浮き彫りになっていた。そしてユーナは白魔法で動けない体を無理矢理動かしていく。

 背後から追うチドリとナギサは、途中で糸の存在に気付いて走り始めたアルトとハトリが近寄ってきたのを確認する。肩を竦めて、小さく息を吐いたチドリを見て確信する。

 どうにも面倒事が加速して、ユーナが止まれなくなった。こうなったら誰も止められない。雨が降り続けるロンダニアの街を走っていくしか道はないのである。


「ま、チビ助がいないと天使ちゃんに全部家事を任せないといけないもんな。接客とか帳簿計算もな!」

「あわわわわわ!!?? そ、それは困ります!! 僕はまだ三桁の割り算や掛け算できません!! や、ヤシロさん殴ったの謝りますから、戻ってきてくださいぃいいいいい!!」

「アタシもヤシロくんのご飯が食べられないのは辛いわん。ヤシロくんレシピ通りに作れるから、一流調理師シェフの渡すと凄いんだものん」

「俺も部屋で育てている観賞用水槽アクアリウム植物硝子鉢テラリウムの掃除とかする時、ヤシロの手を借りるからな。頑張って連れ戻そう」


 借家の生活維持には必ず必要な存在。その認識で全員の目的が一致する。赤い血の糸が伸び続けている限り、先に同じギルドの仲間がいる。

 教会の方では臭気が酷かったため、ユーナ達が去った後に警察を呼んで現場に修道者達が立ち入ったばかりである。暗い視界で確認できるのが暴れた跡しか残っていない中、残された首飾りを一人の修道者が拾い上げる。

 雨に濡れてしまったが、写真は無事である。それを綺麗な布で丁寧に水気を拭き取った後、墓に供えなくてはいけない気がした。近くにある墓を丹念に掃除し、こまめに通った写真の中の男性を知っているからだ。


 死は救いかもしれない。しかし救うのは生者しかいない。生きている者だけが目の前の現状に立ち向かい、行動することができる唯一である。

 これは闇に消される事件である。決して光の下に晒されない。それでもかつて獣であった少年が自分の立ち位置を確認できる、大事な出来事であった。

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