ミツバチとくじらのためのワルツの教科書

時野実

第1話

 ボクに小っちゃくても羽があったら、


 ミツバチさんのところに飛んでいきたい。


 くじらのボクにはこんなに大きな手のひらがあるのに、


 ボクは雨の日、


 ミツバチさんの身体がぬれないように、


 守ってあげることができないんだ……。





 ――。



 わたしたちは長い間、同じ体勢のまま、同じものを見つめていた。



 後輩くんはいっしょうけんめい絵を描いている。



 海の真ん中で浮かんでいる大きな身体の子供くじらが、目尻のしわに雨粒をためて、それが涙のように頬を流れる美しい絵。



 ふちなしのぼやぼやの輪郭線。



 後輩くんは、水彩絵の具で、子供くじらのつぶらな瞳を描いていた。



 その様子を見た顧問の先生、自称、白衣を着た詩人、ドクター・カザマツリ先生が、むかしの生徒からひなたぼっこ用にプレゼントしてもらった安楽椅子に腰かけながらこう言った。



「今年はどんなふうなんだい? 」



「悪くはないです」と、わたしは答える。



 ドクター・カザマツリ先生は、ぱたんと本を閉じながら、よく通る声で愉快そうに笑って



「君の採点は相変わらずきびしい」



 と言ったのだった。






 九月某日。

 日曜日。

 晴れのちくもり。

 午前十時二十五分。



 ドクター・カザマツリ先生の淹れてくれたセイロン産の紅茶を飲みながら、わたしは大きなため息をついていた。



「現代人は胃痛もちが非常に多い」と、ドクター・カザマツリ先生が口にする。



「資本という言葉の意味を教えられていないのに生まれたときから資本主義社会で暮らしているとね。人間は聖書を読んだことのないキリシタンやコーランを読んだことのないムスリムになってしまうんだ。悩みのあるとき、その解法をまとめたガイドブックがどこにでも置いてあるのに、ほとんどの現代人はみんなして僕の悩みは神様ですら解決不能の一大事だぁなんていう勘違いをするんだよ」



 キンキンキンキンキン、と銀の小匙をうるさくティーカップにぶつけながら、ドクター・カザマツリ先生は、そういうむずかしい話を中学生のわたしに当たり前のように聞かせていた。



「……お行儀が悪いですよ、先生」



「これはしょうがない。砂糖がカップの底にたまってたら甘くならないだろ?」



「角砂糖なんか使うからですよ。スティックシュガーかガムシロップを使えばいいのに」



「ダメだよ、そんなの。紅茶に角砂糖以外のものを入れてたら、『あなた、お砂糖はいくつだったかしら?』『……ふたつ』『そう、昔と変わっていないのね……』っていうかっこいいやりとりができなくなってしまうじゃないか」



「そういうのって、ほとんどの場合はコーヒーでやるものなんじゃないですか?」



「豆の煮汁で出来ることは紅茶でも出来る。イギリスなら常識だね。日本でもそうだと思ってたけど違うのかい?」



「でも、世界中を探したって、紅茶でカフェオレを作ってる国なんてないですよ。イギリスでもカフェオレはコーヒーで作っていると思います」



「なるほど。君の思考はいつものように素晴らしくエネルギッシュだ。シンプルで柔軟で反応が早い」



「そりゃどうも。ただ、そのわりに売れるハナシが書けないのは、いったいぜんたいどうしてですかね?」



 いきなり、頭の上から声がして、わたしの言葉を遮った。


 この腹の立つ言葉遣いは間違いなく後輩くんのそれである。



「部長はこの謎についてどう思います? 僕は学校の七不思議よりもよっぽど不思議なこの謎が、気になって気になって夜も眠れないくらいなんですが」



 わたしの顔の横からにゅるんと右手が伸びてきて、お茶菓子のクッキーをひとつつまみ、口まで持って行ってぽきんと割る。手癖が悪ければ口癖も悪い。ほっぺに絵具がついていても気にしない。後輩くんはそういう人で、だから私は好きではない。だいたい人の書いているお話を本人の前で売れないとかなんとかいう人が、好きになれるような理屈がない。後輩くんはイジワル王国のイジワル王子だ。出会ったときからいままでずっと、後輩くんのイメージは変わってはいない。



 ただ、後輩くんの作品は、いい人が書いたっぽい雰囲気を装うのがとてもうまい。ねじれきって途中でふたつになってるようなひねくれた性格の後輩くんが小学生より下の子向けの作品を好んで書くのは、そのほうがピュアな感じがするからだろう。頭のてっぺんからつま先まで、後輩くんはなにもかもがあざとかった。



「そんなのわたしが知ってたら苦労はしません!」



 ガチャン! とほんのちょっとだけ無遠慮にドクター・カザマツリ先生自慢のティーカップをお皿において、わたしはなるべく静かに激怒した。



 ほんとうをいうとおなかに体重の乗ったグーパンチを叩きこんで「ぐへえ!」とでも言わせてやれたらスカッとするのになあと思っていたのだけれど、わたしはいちおうやさしくて理知的なタイプの女の子なので、おとなしくがまんしてやることにする。



「やだなあ、部長。そんなにイライラしてどうしたんです? あっ、もしかして、部長いま生理の途中じゃないですかっ――!?」



 わたしの無言のひじ打ちが見事に決まった。



 座っているわたしと立っている後輩くん。



 もともとの身長差とそこそこ長めにできている後輩くんの足のパーツ。



 その他もろもろの要素が組み合わさって、わたしのひじ打ちは、後輩くんのおなかの少し下のあたりに直撃した。



 むにゅっ、という気持ち悪い感触がしたのだけれど、あまり気にすることではない。いかにもくずに似合いの結末である。



「君は下半身に神経が集まり過ぎだと僕は思うよ」



 股間を両手できつく押さえて固まっている後輩くんに、ドクター・カザマツリ先生はそう言った。



 それを聞いた後輩くんは、額に脂汗を浮かべながら、強がって笑ったような表情を浮かべていた。






 学校を出て、ふたりでまだセミの鳴き声のする学校前の坂道をてくてくと歩いた。



 ドクター・カザマツリ先生は、学校に残ってお留守番。



 理科準備室からいくつかの備品をちょこっとだけ借りてきて、実験用の網の上でしゃけの切り身やするめいかの足を炙る準備をしているところだった。



「お話づくりは、うまくいってる?」



 後輩くんは、何も答えずにニカッと笑うと、わたしに訊ねた。



「部長のほうはどうですか?」



「わたしのほう? んー、まあまあ、かな?」



 わたしは坂の下の街並みを見ながらそう答えた。



 あの町にとてもたくさんの人々が住んでいる。



 お金のある家。



 お金のない家。



 夕飯の時間になると、台所でさんまを焼いたり、レストランに出掛けたりする。



 家族のたくさんいる家。



 ひとり暮らしの家。



 ただいまっていうと、おかえりっていうお返事がかえってきたり、こなかったりする。



 赤ん坊のいる家。



 おじいさんやおばあさんのいる家。



 お母さんが毎朝家じゅうを駆け回っていたり、姑さんに甘えてお味噌汁を作ってもらえていたりする。



街には一本の線路がある。



 毎日、毎日、その線路を走る電車はいろいろな人を都会まで乗せて行って、お日様が沈むと同じ人たちを乗せて帰ってくる。



 電車はいつも考えているのだ。



 僕の乗せてかえるお客さんはどんな家に帰るのだろう。



 毎朝なんだか悲しそうな顔をしている人が、家に帰るころになるとにっこりと笑う。



 だからきっと、みんなのおうちは素敵な場所に違いない。



 わたしが書いているのは、そんなお話。



 むかしはもうちょっと難しい話を書くのが好きだった。



 子供っぽい話を書くのは嫌いだった。



 電車がしゃべりだすなんて論外だった。



 人をだまし続けた人間が死の間際に悔い改めて涙を流す。



 自分の欲望に従って生きてきた悪人が、金塊の山に抱き着きながら、友達が欲しい、友達を買わせて、と泣きわめく様子をねっとりと書く。



 そんなふうにして、人間の弱さとか、みにくさとか、そういうのを書くのが文学なんだと思っていた。



これがまた腰が抜けるほど売れなかったわけだけれど、わたしはわたしなりに上手にやっていると信じていた。作風を変えようだなんて思ってなかった。売れない作風だからといっても、それが悩みになっていたわけではなかったのだ。



「あのなかに自分の家があったら素敵でしょうね」



 ハッとした。遠くを見ていたら、すぐそばに後輩くんがいるのを忘れていた。



「ただいまっていうとお返事が返ってくるんです。最初はお帰りなさいっていわれるだけなんですけど……、そうですね、三年か四年したら、おかえりなさーい! っていう元気な声が聞こえてきます。靴を脱いで顔を洗って、ソファに腰かけようとしたら、靴下を脱いでないじゃないですか、ちゃんとしてくれないと洗濯機が回せないでしょ! って奥さんに叱られてしまいます。部屋には本棚があるんです。自分のための難しい仕事の本と、子供に読んであげるための絵本が一緒にしまってある立派で大きな本棚が。それで、洗濯機の前でぷんぷん怒っている奥さんと、リビングに敷いたカーペットの上で絵本を抱えて待っている子供に挟み撃ちをくらってしまって……。僕はそういうのが大人のしあわせなんだろうなあって思います」



 それを聞いて、こいつ、いま作ってる電車みたいな考えかたをしているな、とわたしは思った。



当たり前のことだった。夏休みに入る少し前にも、後輩くんは、同じようなことを言っていた。わたしはそこから今度の部誌にのせる話のおおまかな設定を思いついた。思った以上に、電車は後輩くんとそっくりだった。



 わたしの内側に、あたたかくてぽかぽかとしたものが、綿毛にのせられてきたようなスピードでやってくる。



 この感覚は悪くない。



「じゃあ、わたしが、おかえり、って、言ってあげたら、君は幸せ?」



 わたしがそう言うと、後輩くんは、しばらくのあいだ、完全に言葉を失った。



 顔がみるみる青くなる。



 なんちゃってー、というタイミングを計っていたわたしからすると、この反応は理解できない。そこはふつう、照れて顔を赤くするところだ。全く予想外の反応で、わたしはすっかり困ってしまう。



やがて、後輩くんは、わたしの顔をおそるおそる覗き込んで、わたしにこんなことを言ってきた。



「ゾッとしました。家に帰っても原稿の催促をされるなんて悪夢です……」



 わたしは後輩くんの左足に膝カックンをキメてやった。後輩くんはものの見事に崩れ落ちた。おやつに買ったあんぱんのひとつが、レジ袋の中で後輩くんのふとももの下敷きになってぺちゃんこにされてしまっていた。



「……それ、後輩くんのやつだからね」



 わたしは冷たくそんなことを言い放って、まだお尻をさすって痛そうにしている後輩くんを置き去りにして部室に戻った。ドクター・カザマツリ先生が、奥さんに作ってもらったおにぎりを、テーブルの上に三つずつ丁寧な手つきで並べていた。



「またなにかあったの?」



「とくに! なにも!!!」



 そう言って、わたしはスーパーで買ってきたお惣菜を、包みごとテーブルの上にごろごろと転がして乱暴に並べた。



 わたしは腹が立っていた。




 ――。


 子供くじらの男の子は、ある春の日の夕暮れに、入り江の切り立つ崖の上を飛ぶ一匹のミツバチさんを目撃した。


 一目惚れだった。


 ちっちゃな体でいっしょうけんめい蜜を集めて飛んでいるのが、たまらないくらい愛おしかった。

彼女に会うたび、子供くじらくんの胸は苦しくなった。だけど子供くじらくんの頭の中には、彼女に話しかけるための言葉がなかった。大人たちは子供くじらくんにそんなものが必要になっていることをまだ知らなかったから、子供くじらくんは、女の子とのお話のやりかたを、誰からも教えてもらうことができていなかったせいだった。



 子供くじらくんは迷った末にまわりのお友達に相談話を持ち掛けた。アザラシくんやウミツバメくんの考えでは、女の子はダンスパーティーに誘われるとたいてい喜んでくれるらしい。



「今度の満月の夜は王様巻き貝さんが入り江のお城で舞踏会を開く日だから、ちょうどいいから誘ってみなよ」と、お友達たちは子供くじらくんに提案する。



 でも、子供くじらくんは、胸の前でおおきな胸ひれをちょんちょんとくっつけたり離したりさせながら、「ボクの身体は大きすぎるよ……。ダンスを踊ったこともない。うっかりミツバチさんを踏みつけてしまったらどうしよう……」と、心配そうにつぶやいていた。



 ――。




「……なんですか?」



 わたしはそのときどう思ったのだろう。



 後輩くんの聞かせてくれる物語の優しさに驚いたのか、それとも、後輩くんの恋愛観が思ったよりもかなり可愛いことに衝撃を感じてしまったのか。



 とにかく、わたしはおにぎりの一つを口の中にいれたまま、黙って後輩くんの顔を凝視した。わたしがまだ機嫌を直してなんかいないと承知している後輩くんは、その視線に脅威を感じてドクター・カザマツリ先生に助けを求めた。ドクター・カザマツリ先生はこんぶ味のおにぎりを食べるのに熱心になっていて、その視線には気付かなかった。



「硫酸バリウムが砂を取り込んで結晶すると、砂漠に石のバラが咲く」



 わたしの淹れた熱い日本茶を飲みながら、ドクター・カザマツリ先生が、自分から聞きはじめた今までの話をなかったことにするような調子でそう言った。



「それは、もとはただの砂粒にすぎない」



 詩を詠むように、ドクター・カザマツリ先生は続けていく。



 それは、もとはただの砂粒にすぎない。



 わたしは何度か、その言葉を胸の中で反芻した。



 それは、もとはただの砂粒にすぎない。



 それは、もとはただの砂粒にすぎない。






 後輩くんには、ゴミを捨ててこいと命令した。



 わたしは食器を洗っている。といっても、お皿は紙皿を使ったので、洗い物は湯飲み茶碗が三つと、お惣菜を温めるのに使った金網だけ。そんなに時間のかかるものではないのだった。



「僕は巻き貝の王様役で絵本に出る。楽しみだね。彼は絵も文章も本当にうまい」



 ドクター・カザマツリ先生が、いままでにない柔らかさで微笑みながら、わたしに向かって話しかける。



「あのあと子供くじらは、僕のところにやってきて、体を縮める魔法はないだろうかと相談するんだ。でも、僕は魔法使いではなかったから、かわりに子供くじらにワルツの教科書を渡してあげることにした」



 カチャカチャとお茶碗のぶつかる音がする。



「子供くじらはミツバチさんと踊るためにいっしょうけんめいワルツの練習をするのだけどね……」



 そのときのドクター・カザマツリ先生の言い方は、まるで誰にも言っちゃダメだよ、と言われたことを、わたしにこっそり教えてくれているような気のするものだった。



「ざんねんだけど、絵本はそこで終わっちゃうんだ。お話の続きはまた今度書くつもりらしいけれど、そんなのってないよね。物語はずーっとまえから恋人同士が幸せなキスをして終わらなくちゃいけないって決まっているのに、その少し手前でお預けなんてひどいことをすると思わないかい?」



「それは、そうですけど……」



 と、わたしは言った。



「でも、締め切りだってありますから、後輩くんが間に合わないというのなら、続きはまた今度でいいんじゃないですか?」



 すると、ドクター・カザマツリ先生は、いっそう笑みを深めてわたしに言った。



「彼、女の子とキスをしたことがないのだってさ」



 わたしがぽかんと口を開け、ドクター・カザマツリ先生がゆったりと足を組みなおしたとき、ドアが開き、陽の光が差し込んだ。現れたのは後輩くんだった。その瞬間、どういうわけだか手がすべって、茶碗が一つ落下した。



「あーっ! 僕の湯飲み茶碗がッ!」



 わたしは素直に謝った……わけがなく、後輩くんにイジワルばかりしてるから罰があったのだと言って、割れた茶碗を片付けさせた。



 後輩くんはしくしくと悲しげに泣いていた。






 九月某日。

 日曜日。

 晴れのちくもりのち、雨のち快晴。

 午後四時三十分。



 今年最後の夕立かな、と思うような雨のあと、わたしたちは家に帰った。



 クラブで帰りの遅くなった日は、後輩くんが家までわたしを送ってくれる。



 帰り道の方向が一緒だからと聞いていたけれど、いまのわたしは、なんとなくそれが嘘ではないかと疑うようになっていた。



「帰ったらまた原稿です。絵だけ描いたら出来上がりなので、もうひとふんばりってやつですね」



 後輩くんは、いつものふにゃふにゃの笑みを浮かべていた。



 車が一台。



 後輩くんがおしゃべりをした。茶碗がどうとか言っている。僕のぶんは割れちゃったから、明日からは部長のやつを半分こですよ。



 車が二台。



 わたしが後輩くんのほっぺをつねった。そんな気持ち悪いこと出来るわけないでしょ。



 ナントカ工務店の軽トラック。



 後輩くんがめげずに軽口をたたき続ける。



 車が一台。



 わたしはむくれてそっぽを向く。



 車が一台。



 わたしは家に帰るというだけでどうしてこんなに疲れるのだろう。



 バスが一台。



 わたしは家のすぐそばで、なんでこんなに大きな声を出しているのか。



 自転車が一台。



 世の中つまんないことばかり、という顔で、自転車乗りのお兄さんが私たちを見る。



 そんなに羨ましかったら代ってあげようかという気持ちが強い。



 上を見ても流れ星は流れてなかった。



 飛行機雲は見えないし、通りすがりの人工衛星の陰もない。



 特別なイベントは起きそうにない。



 別に起きてほしくもないけれど。



 車が一台。



 後輩くんが、それではまた明日といって背中を向ける。



 やっぱり特別なイベントは起きそうにない。



 ドクター・カザマツリ先生は、後輩くんは今まで一度だって女の子とキスをしたことがないと言っていた。



 ほんとうだろうか、と後輩くんの背中を見ながら考える。



「……どっちでもいいわね」



 そんな言葉が、口から洩れた。



 あっちから何かしてこないのだったらこっちで勝手にやってやる、というような相手ではない。



 だから私は家に帰った。



 キスシーンまでちゃんと書けたら部誌の売り上げは上がるかなと、ベッドの上で胡坐をかいて、なんとなく思った。

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ミツバチとくじらのためのワルツの教科書 時野実 @dxtaroumaru

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