ルスター(三部五章読了後推奨)

 報告を受けた直後ルスターは、手にしていた書類も、ちょうど会話中だった文官も、机に積み上げていた資料も、報告を届けてくれた聖騎士の若者も、すべてを投げ出して部屋を飛び出していた。

「ザールの領主としてもっと責任と落ち着きを持っていただきたい」と後々叱られるだろう事は、覚悟の上だった。誰に叱られようと、詰られようと、構いやしない。今のルスターにとって、現場に駆けつける事が、何より重要なのだから。

 城を飛び出し、町に出る。すれちがうザールの民たちとの挨拶もそこそこに、一目散に目的の場所へ向かった。町の隅に並んで建つ2軒のうち、城から見て手前にある、ハリスが住居とする家へ。

 到着すると、ルスターは無礼を承知で勝手に扉を開けた。

 小さな家の中には、主であるハリスはおらず、代わりに3人が居た。寝台に横になっているのはルスターの娘で、寝台の横につけた椅子に腰を下ろし、娘の手を取って見守っているのは、ルスターの妻だった。

 ルスターはまずふたりに近付き、様子を確認した。娘は熱を出しているのか、少し顔が赤かったが、今のところは穏やかに眠っているようだ。それが判っているのか、妻も心配そうにはしつつもそこそこ落ち着いており、ルスターは安堵の息を吐きながら、妻の肩に手を置いた。

 そして振り返る。家の中にいるのは、ルスターの家族だけではない。もうひとり、ルスターにとって家族と同じよう――と言ってはおこがましいのだろうが――に大切に思う人物がいる。

 部屋の隅で膝を抱え、ほとんど瞬きをせず、空ろな目を下方のどこかに向けている少年が、わずかに震える。ルスターはその様子を目に止めた。

 娘を任せて大丈夫かと、ルスターは妻に目だけで合図をした。妻が小さく肯くのを確認すると、感謝の意味を込めて妻の肩を優しく叩いてから家族のそばを離れ、部屋の隅に座る少年に近付いた。

「カイ様」

 跪いたルスターが名を呼ぶと、カイはうつろな目にかすかな光を取り戻した。

「御子はいかがされました? それに、ハリス殿は」

「アストの事は、当初の予定通りレイシェルさんに任せる事にして……だから、ハリスが連れて、城に向かったはずです」

「そうで……」

 カイの手が突然ルスターの腕を強く掴み、ルスターは言葉を途中で飲み込む。ただ掴まれただけならば平静を保てたかもしれないが、先ほど目視した時よりも少年の手の震えが大きい。伝わってくる振動は、ルスターの中にある不安をより強いものにした。

「すみません。まさかナタリヤが見ていたなんて、気付かなくて。あんなに小さな子に、あんなに酷い――」

 ルスターはカイの手に己の手を重ねた。

「大丈夫です」

「でも」

「あの子は大丈夫ですよ。穏やかに眠っておりますから」

 ルスターが力強く言い切ると、カイは俯き、まるで縋るかのように、両手でルスターの手を包み込む。

 やや落ち着きはじめたとは言え、その手はいまだ震えを止めようとしなかった。ルスターはただ無言で、時が過ぎるのを待った。

「力を、貸してください」

 カイが新たな言葉を紡いだのは、どれほどの時が過ぎてからだろう。ひと晩もふた晩も経った気分だった。それほど、深く傷付いたカイの様子は痛々しく、ルスターの心に重くのしかかっていた。

「なんでもおっしゃってください」

「俺、まだ、やらなきゃいけない事があるんです。でも、ひとりじゃ、どうしても」

「私が代わりにできる事ではないのですね?」

「はい。俺が、俺がやらないと」

 ルスターは手をカイに預けたまま立ち上がった。半ば呆然としたカイが、意図を察してルスターの手を握る力を強めると、腕に力を込め、カイを引き上げる。立ち上がったカイの両足が、安定して床を踏みしめるのを確かめてから、ようやく手を離した。

「行かなければならないところがあるんです。あまり気分がいいところではないですが、つきあってください」

 カイは部屋の中を照らしていたランプを手に取った。

「どこへでもお供いたします」

 ルスターが微笑みかけると、いくらか遅れてカイも微笑んだ。柔らかい、寂しそうな笑顔は、泣いているようにしか見えなかった。

 ハリスの家を出たカイが向かった先は、隣の家だった。ザールに来てからの1年弱、カイとシェリアが暮らしていた家だ。惨劇の記憶がいまだ薄れないのだろう、扉に手をかけたまま、カイはしばらく動かなかったが、やがて決意を固め、扉を開いた。

 家の中が見えるようになると、ルスターの眼前に、赤い世界が広がった。ひとりの人間の体から流れ出たとは思えない、おびただしい量の血液が、家中を赤く染めていたのだ。もうほとんど乾いていたが、血の匂いは充満しており、まだ足を踏み入れていないルスターの息を詰まらせるほどだった。

 同時に胸も詰まった。話を聞いて想像していたよりも、遥かに酷い光景だったからだ。現場に立ち会ったカイは、ハリスは、ナタリヤは、どんな思いでシェリアを襲う残酷な運命を見届けたのだろうと考えると、いたたまれない気分になった。

 運命。なんと、力強い言葉だろうか。神の御子ですら逃れられない神の定め。なんと、恐ろしい力なのだろう――

「私は、死を乞う事だとも知らずに、残酷なまでに救いを乞うていたのですね。無知な自分を恥じるのではなく、悲しいと思う事は、はじめてかもしれません」

 告白が懺悔であったのか、自分自身でも判らないまま、ルスターは手を組んで祈った。神に死を与えられた少女が、大空に包まれ、安らかに眠る事を願って。

「ルスターさんは、知らなくてよかったんです」

 言ってカイは、家の中へ足を踏み入れた。噎せ返るような匂いの中、少しだけ弱々しい足取りで。手を突き出す事によって、後に従おうとしたルスターを制止しながら。

 もっとも血に塗れている、部屋の奥にある寝台の前で、カイは足を止めた。元の色が判別つかなくなっている毛布の上に横たわる、吸い込まれるような黒さの鞘をしばし見つめたのち、ランプを持たない右手を、ためらいがちに伸ばした。

 鞘を胸に押し抱いた格好で、カイは動かなかった。異様な光景だったが、不思議と神秘的で、実際は薄暗いというのに、光輝いて見えた。人が踏み入れられない領域が、ルスターの目の前に広がっているように感じたのだ。

「知っていても、どうしようもないでしょう?」

 沈黙を破るカイの問いかけが耳に届いたのは突然だった。

「地上が救われるためにシェリアの死が必要だと、事前に知っていたところで、シェリアの死を防ぐ術はないんです。シェリアを助けるために地上の民すべてを見捨てる事なんて、できるわけがないんですから。だから、知らなくてよかったんです。終わってから知ったほうが、まだ苦しまなくてすむ」

「苦しみは減るかもしれませんが、寂しさは増します」

 間髪入れずにルスターが返すと、カイは振り返った。

「きっと貴方は、貴方だけは、こうなると事前に知っておられたのでしょう? 誰にも言わず、たったおひとりで、痛みに耐えておられたのでしょう?」

 カイはこみ上げる感情が飛び出るのを押さえ込むように、唇を引き締める。鞘を力強く握り締めると、床にランプを叩きつけ、目を細めながら油が広がっていくのを眺めていた。

 広がりきった頃、かろうじて火が残る暖炉に近付き、薪を1本手に取る。それを油の中に放り込むと、一瞬で火は大きく広がり、炎と化した。

 乾いた音がして床が燃え、寝台の上の毛布にも火が移る。あっと言う間に炎は燃え広がっていき、カイを飲み込まん勢いだった。

「カイ様!」

 ルスターが呼ぶと、カイは無言で入り口まで戻ってきた。

 近すぎて危ないと考え、ルスターが腕を引くと、カイは少しだけ家から離れたが、遠くへ逃げようとはしなかった。すべてが灰と化すまで見守るつもりなのだと察したルスターは、ならば共にあろうと、カイの隣に並び、膨らんでいく炎を見つめていた。

 太い煙が大地と空を結びつけた頃、隣に立つ少年が嗚咽をもらしはじめる。紅を映す事で夕焼けの色へと化した空色の瞳から、とめどない涙がこぼれ落ちる。

 震える唇が「ごめん」と言った。何度も、何度も。時には「シェリア」と、失った妻の名を交えて。

 ルスターは何も見ない、何も聞かないふりをした。少なくとも今だけは、思う存分泣き、嘆く時間をつくってやりたかった。

 やがて火が家をすべて飲み込む。屋根や柱が崩れ落ち、大きな音を立てる。

 すでに嗄れかけていた声を飲み込んだカイは、乱暴な手付きで涙を拭い、消し炭と化したかつての家を見つめた。 

「もしもの話です」

 糧を失い、徐々に弱っていく炎の踊りを見届けながら、ルスターは口を開く。

「この先にもまだ、悲しい運命が控えているのでしたら――たとえば貴方の死が、地上の救済のために必要な時が来るのでしたら、その時は私にもお知らせくださるよう、お約束いただけますか」

 カイは鼻をすすりながらルスターを見上げる。

「それでも私は、貴方に救いを、死を、乞わねばならないのでしょう。その痛みを、私は請い願います」

 カイの中に迷いが見えた。首を縦に振るべきか、横に振るべきか。どちらにしろ相手に苦痛を与える事を知っているからこそ、迷っているのだろう。

 悲しいほど優しい心を感じると同時に、ルスターは知った。近い未来か遠い未来かは判らないが、目の前にいる少年の命が失われる事は、約束されているのだと。そうでなければ、迷う必要などないのだ。適当に約束を交わすか、ありえないと笑い飛ばせばいいのだ。 

「貴方が、ご自身の運命を呪い、地上の民の死を乞うてくださればよいのに。ならば私は迷わず、この命を差し出せます」

 カイの死を望む罪を、自分の死を持って少しでも償えたら。

 ありえない望みだった。あらゆる苦しみをひとりで抱え、今日と言う日を迎えた彼が、ルスターを殺してくれるわけもないのだから――

「もし、俺が、この先死ななければいけなくなったとして。それで、ひとりで死ぬのが寂しくて、悔しくて、耐えられなくて、巻き添えが欲しくなったとしても」

 カイは手のひらで涙を拭った。その事実が嘘かのように、彼の瞳は、頬は、新たに溢れる涙ですぐに濡れた。

「ルスターさんの命はいりません」

 火の祭を名残惜しんで舞う灰を眺めながら、カイはきっぱりと言い切る。

「俺が喜んで運命に従う、数少ない理由が、減ってしまうじゃないですか」



 2度、扉を叩く乾いた音がした。

 すでに就寝していてもおかしくない時間だ。落ち着いて扉を叩く様子から急用でない事は明らかで、ならば訪ねてくるのはいささか非常識と言えるだろう。

 だがルスターは機嫌を損ねる事なく、相手に注意しようと思う事もなく、自ら歩み寄り、扉を開けた。

 突然扉が開いた事に驚く、燭台の小さな炎に照らされた顔は、予想通りの人物のものだ。ルスターは優雅に礼をしたあと、その人物――カイを部屋の中に招き入れた。

 予想通りというのは、ずうずうしいだろうか。カイが最後の日に、自分に会いに来てくれると信じていたなどと。ルスターは扉を閉めながら、自分に対して笑った。

「ルスターさん」

 部屋の中心で足を止めたカイは、ルスターに振り返る事なく、窓の向こうに広がる夜空に輝く星を見つめていた。

「貴方はとっくに気付いていると思うので隠しませんが、俺の、カイというひとりの人間としての命は、明日で終わります」

 その言葉はあまりにも唐突で、青年が約束を果たしてくれたのだとルスターが理解するまで、少し時間が必要だった。

「前にも言いましたけど、貴方に死んでくれなんて言いませんよ。俺はまだ、貴方に甘えなければならないんです。貴方に、辛い役目をお願いしなければなりません」

 カイが申し訳なさそうな口ぶりで語るので、ルスターは即座に否定した。どんな命であろうと、カイを失う以上に辛い事であるはずがないとの確信があったからだった。

「なんでも、お任せください」

「すみません、本当に……」

 カイは振り返る。

 燭台の灯りで照らされた顔を直視する事ができず、ルスターは俯いた。

「明日、俺はいなくなります。そしてアストは魔獣を討つために、洞穴に向かわなければいけません。もしアストが拒否したら、アストを説得してください。そして……今のアストならばありえないと思いますが、万が一、命を断つなどして、どうしようもない方法で拒否したら、神の剣はリタでも振るえるのだと伝え、リタに行かせてください」

 それは、救世主はアストただひとりなのだと信じ続けていたルスターにとって、予想外の発言だった。 

「リタ様でも、可能なのですか?」

「はい」

 カイは力強く頷く。

「ただし、神の剣は本来リタのものではありません。だから、彼女がその力を使うためには、命と引き換えにしなければならない――誰かが、リタに死を乞わなければならないんです。本当は、俺がその役目を負えればいいんですが、俺にはできませんから。今伝えてしまえば、彼女はきっとアストから剣を奪って、行ってしまうでしょう」

 ルスターは勇気を出して顔を上げ、空色の双眸を真っ直ぐに見つめた。

 澄んだ瞳に見える一片の陰りは、明日で終わる自身の運命への呪いではない。彼の目に映る人物――ルスター自身だ――の苦しみを、痛みを、感じ取っての事だ。

 彼はいつもそうだった。だからこそ、すべてをひとりで抱え込む事を選んだのだ。すべてが終わり、真実を知った者たちに、勝手だと罵られる事を覚悟しながら。

 そして今も、新たな役割を与える事によって、ルスターを生に縛り付けようとしている。かつて口にした戯言の実現を、恐れるかのように。

「承知いたしました。その時が来たならば、必ず」

 言いたい事はいくらでもあった。だが、口にできたのは、従う言葉のみだった。

「ありがとうございます」

 深く、深く、カイは頭を下げた。

 神の御子としての役目を自覚し、運命に従う事を決めてからの彼が、そこまで頭を下げた記憶がないルスターは、その態度の中には礼だけではなく、別の意味も込められているのだろうと察した。

 しばらくして、カイは顔を上げる。彼が浮かべる小さな微笑みに、ルスターが微笑みで返すと、ゆっくりと歩き出し、横を通り過ぎた。

 部屋を出るために、カイは扉を開く。だが踏み出す事をしないまま、しばし立ち尽くす。

「ルスターさん」

「はい?」

「……さようなら」

 それは、あまりにも簡素な、別れの言葉。

 戸惑うルスターが返事を紡ぐよりもはやく、カイは部屋を出て行き、ふたりの間を遮るように扉を閉めた。

 ルスターはカイを追わなかった。扉を開ける事すらも。直立し、無言で、扉を見つめ続けるのみだ。

 やがて春色の目から静かに感情が流れ出すと、固く組み合わせた両手を額にあて、無心で祈り続けた。

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