カイ(三部五章読了後推奨)

 塔を昇るための階段を、1段1段、ゆっくりと踏みしめながら進んだ。

 静かで暗い道のりだった。自身が立てる足音だけを聞きながら、等間隔に配置された窓から差し込む星明かりや、手元で小さく燃える蝋燭の灯りに頼りながら、カイは歩き続ける。

 上るだけで息が切れてもおかしくないほどの長い階段だ。しかし今のカイが体感した時間は、普段では考えられないほど短かかった。気付けば階段を上りきり、最上階にある部屋に繋がる扉の前に立っていたのだから。

 部屋の主の許可なき者を容赦なく跳ね除ける、厚く頑丈な扉を、カイは無言で見下ろす。口で息を吸って吐くと、唇を引き締める。それからカイは、自身の意志に従う事を拒否するかのように強く震える拳を無理やり持ち上げ、扉を叩いた。

 返事はなかった。部屋の中で人が動く気配も、感じられなかった。

 カイは不思議な安堵感に包まれ、静かに息を吐く。拳をゆるめ、少し速くなった鼓動が落ち着きを取り戻すのを確認しようと、自身の胸の上に置いた。

 目を伏せて、願う。このまま扉が開かなければいいと。出てこないでくれと。実際そうなったとして、問題が先延ばしになる事はあっても運命が変わる事はないだろう。判っていても、それでも、祈らずにはいられなかった。

 わずかな時間が経過したあと、部屋の中で何かが動く気配を感じたカイは、祈りが何者にも届かなかったのだと理解しながら、諦め悪く祈り続ける。しかし、鈍い、引きずるような音によって、祈る事すらできなくなった。

 途端、カイの心は凪ぐ。深く重い絶望がのしかかる事によって、動揺する余裕すら失ったからだった。

 伏せていた目を開く。扉が開く事でできた隙間から、見る目麗しい儚げな少女が立っている様子が見えた。淡い光の中でも見事に輝く金の髪を、無垢なる空色の瞳を、眩しく感じてしまったカイは、思わず目を細める。

 少女はカイの姿を確かめると、カイを招き入れるために、更に扉を開いた。

 扉をそのままにして部屋の中へと戻っていく細い背中を、カイははじめ、目だけで追った。足が動かなかったからだ。いや、動かなかったのは足だけではない。この時のカイの体は、指1本動かす事ができず、自由なものは唯一視線のみだった。

 心を決めてここに来た。迷いなく彼女を選んでここに来た。

 それなのにまだ、踏み出す勇気が足りない。

「カイ様?」

 部屋の中心に立つシェリアが振り返り、カイの名を呼んだ。どこか硬質な美しい声は、カイの体の硬直を解す。

 カイは顔を上げた。乾いた瞳で、シェリアの無表情を真っ直ぐに見つめる。

 部屋の中に足を踏み入れた。鈍い音を立てながら扉を閉じると、静かで薄暗い空間に、ふたりきりとなった。

 無言がただ苦しい。このままでは、沈黙に殺されてしまいそうだ。

「なぜカイ様は、ここにいらっしゃるのです?」

 真顔で、唐突に、確信を突く問いを投げるシェリア。しかしそれすらも、カイにとっては救いとなった。答えるための言葉が、カイの中から生まれてくる事はなかったけれど。

「カイ様と、リタと、ハリス以外は、誰もが口にしておりました。選定の儀でカイ様が選ぶ相手は、きっとリタだと」

 いくらなんでも、シェリアの耳に入るような場所でそう発言するのは無神経――シェリアはカイの妻になる事を望んではいないだろうが、神の後継者の母となる事は望んでいただろうから――がすぎると思いつつも、カイは彼らを非難する事ができなかった。そのくらいカイの態度はあからさまで、発言するよりもむしろはっきりと、結論を示していたからだ。

 そう、つい先ほどまで、カイの心はリタに決まっていた。月が夜空から消えた時分に、エイドルードがカイに託した先の運命を知る事がなかったら、きっと今頃、笑顔でリタの前に立っていただろう。先に何が起こるのか考えようともせず、ただ今現在の甘い幸せに酔いながら、この腕にリタを抱いていた事だろう。

「君は言った。地上を救済する事が、生まれてきた意味だと」

「はい」

 シェリアは迷わず頷いた。

 いつもと同じ、感情のない瞳。いつもはそれが悲しいものにしか見えなかった。けれど今は、何よりも頼もしいものに見える。

「恐れる事は、エイドルードの娘としての役割を果たせない事だと、エイドルードの娘として生まれてきた意味を失う事だとも」

「はい」

「なら君は、地上を救済するために自分の命が必要だと言われても、恐れる事はないんだろうな」

「はい」

 やはりシェリアは、間髪入れずに頷いた。迷いなど知らない瞳をカイに向けて。

 迷いのなさは、無知ゆえなのか、それとも強さゆえなのか。

 どちらであっても、カイは羨ましかった。死を厭う心を知らなければ、知っていても乗り越えるだけの強さがあれば、今こうして、苦しむ事はなかっただろう。シェリアの存在そのものに、言葉を奪われる事もなかっただろう。

「魔獣や魔物の脅威を、不確かなエイドルードの力によってのみ跳ね除けるこの世界を、誰かが終わらせなければならない。魔獣を滅ぼす事で、エイドルードの力が絶えたあとでも地上の民が生きていける世界を、作らなければならない」

「はい」

「それができるのは、エイドルードの子である俺たちだけだ」

「はい」

「そのために、死んでくれるか」

 シェリアはこれまでと違い、すぐに返答をしなかった。

 だがそれは、死を恐れ、迷ったからではなく、カイの問いがあまりに突然すぎただけのようだった。

「はい」

 結果、違っていたのは返答するまでの時間だけで、カイに向ける迷いのない瞳も、肯定の言葉も、小さく頷く様子も、今までとまったく同じだった。

 シェリアがここで迷ってくれるような少女であれば、カイは別の選択ができたかもしれなかった。同じだけ残酷な事を強いるならば、自分を想ってくれる相手に、と。そして、近い将来の死を愛しい少女に押し付け、愛しい少女の躯を抱きながら、愛しい少女が残した子供と共に、生きていく道を選べたかもしれなかった。

「君は、本当に、恐れていないんだな」

「わたくしが恐れるべきものが、どこにあるのですか?」

「――シェリア」

 カイは目の前の少女の名を呼ぶ。

 それからぎこちなく手を伸ばし、少女の体を抱き寄せた。温かく柔らかなそれは、シェリアの持つ硬質で冷たい印象と大きくかけ離れていて、少し奇妙な感じがした。

 その不似合いな温かさが、カイの胸に詰まるものを少しずつ溶かしていく。まず、胸の痛みが増した。痛みは、目の前の少女に死を強制している事から生まれているのだろうか。それとも、愛しく思う少女に2度と手を伸ばせない事から生まれているのだろうか。

 抑えきれない痛みは、目頭を熱くする。

「今のが、答えだよ。君が最初に口にした問いの」

 シェリアは少し考え込んでから言った。

「どれが、答えだったのでしょうか」

 予想通りの切り返しに、カイは泣きながら小さく笑う。笑いながら、シェリアの耳元に口を寄せた。

「俺はリタを殺したくない。彼女も死にたくないだろう。だからといって地上の民すべてに死ねという勇気もない。だから――だから、喜んで死んでくれるだろう君を選ぼうと思って、ここに来たんだ」

 判りやすく口にすると、余計に非道さが際立つ気がした。

 こんなにも酷い事を、本人を目の前にして、平然と言えるのはどうしてだろう。

 自分の事ながら不思議で仕方がなかったカイは、やがてこう結論付けた。今までシェリアの事をどうこういっていたが、本当に心を持っていなかったのは、他ならぬ自分だったのだろうと。



 薄暗い部屋の中で、カイは自身の手の中にある、冷たい鞘を見下ろす。黒と金の中でただひとつ輝く、空色の宝石に視点を合わせると、優しく目を細めて微笑んだ。

 微笑みかける事に意味はない。空色の宝石はシェリアの瞳を思い出させるが、ただうつろで、そこに彼女の心や魂といったものが生きているわけではないのだから。それでも微笑みかけるのは、単なる自己満足でしかなかった。

「静かに眠っていたところ悪いが、また君の力を借りる事になったよ」

 カイはできる限り優しい声で、かつて妻であったものに語りかける。

 話しかけるのは久しぶりだった。カイが選んだ彼女がその生を終え、人ではないものに姿を変えたのは、10年も前の事なのだから。

「ごめんな」

 少女の姿が地上から消えた日より、届かないと知りながらも飽きるほど繰り返してきた言葉を、カイはもう1度口にする。

「君にはなんの罪もなかった。ただ神の娘として生まれただけだった。そんな君にこんな運命を強いておきながら、俺はいまだに、人の姿をして地上に生きている」

 そして、君が残したアストと一緒に、優しい人々に囲まれながら、温かな幸福に抱かれている。

 カイはきつく唇を噛んだ。自分自身がひどく疎ましく忌々しいものに感じた。

 そして自分自身を嫌悪した。幸せの中にいるから、ではない。幸せだと感じる心を、いまだに残している事に気付いてしまったから、だ。

 生きていれば、シェリアにだって、それを感じる日が来ただろう。それなのに、シェリアの未来を摘んだ自分だけが――。

「もう少しだけ先になるけれど、俺も、君のところに行くから」

 カイがどこにいて、何になろうとも、シェリアにとって興味ある事ではないのだろう。だが、カイがシェリアと対なるものになる事で、シェリアが望んでいた地上の救済が、ほぼ完成する。

 それはシェリアにとって喜ぶべき事のはずで、彼女を喜ばせる事が、自分に唯一できる償いなのだと、カイは信じていた――信じるしかなかった。

「この命をもって、地上を救う。その日のためだけに、俺は生きるよ」

「だからもう少しだけ待っていてくれ」と、言葉にする事はできなかった。

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