レイシェル(三部二章読了後推奨)

「神の祝福は、人の子のみに与えられるものです」

 生まれて間もない我が子を抱いて神殿を訪れたレイシェルに投げかけられた言葉は、心を凍らせるほどに冷たいものだった。

 身動きできなくなったレイシェルの体から、徐々に熱が引いていく。指先が冷え、かじかんだ気がした。やがて手が力を失うと、愛しい子を落としてしまいそうになったので、必死に腕を絡め、強く抱きしめた。

「この子が、人の子ではないと?」

 真顔でレイシェルが訊ねると、神官長はわずかに顔を背けた。一瞬にしてレイシェルの視界から消え去った彼の口元が、笑っているように見えたのは、単なる被害妄想だろうか?

 神官長はレイシェルの問いに答えなかった。自分で考えろと、考えれば判るだろうと、言わんばかりに。

 レイシェルは黙って神官に背を向けた。レイシェルひとりが食い下がったところで、無理だろうと感じてしまったからだった。

 力のない足取りでゆっくりと歩くと、神官たちの手によって入り口が開かれる。それは赤子を抱く事で両手がふさがっているレイシェルへの優しさに見えたが、本当のところは違うだろう。レイシェルの手の中にある、彼らにとって忌むべき「魔物の子」を、一刻も早く神殿から追い出したいからだ――レイシェルが1歩外に出たとたん、扉が素早く閉じられた事が、その証に思えた。

 どうすればいいのだろう。

 レイシェルはしばらくの間神殿の前で立ち尽くし、我が子の無邪気な笑顔を見つめていたが、やがて意を決して歩きはじめた。

 自分の力でどうにもならないならば、より強い力を持つ者に、手を貸してもらうしかない。頼れる者が少ないレイシェルにとって、その相手は領主である兄以外考えられなかった。


 レイシェルとて、夫であったユベールがザールに魔物を呼び込んだ時の損害を、知らないわけではない。神の御子や聖騎士たちの活躍によって、死者こそ少なかったが、物的な被害や負傷者はけして少なくなかった。少しだけ冷静さを取り戻してから現実を見つめた時は、愕然としたものだ。

 だから、ザールの民たちの恨みがユベールに向かうのは当然だと思っていたし、ユベールが亡き者になった事で行き場を失った恨みは、妻である自分のところに集まる事を覚悟はしていた。

 だが、ザールの民のレイシェルへの態度は、予想していたものよりはるかに優しかった。多くの者がレイシェルを、「悲劇の妻」として認識してくれたのだ。予想していた通りに悪意を向ける者も少なくなかったが、ザールを守った聖騎士団のひとりであり、その手でユベールを討ったルスターが、新たな領主として民に好意的に受け入れられた事が助けてくれた。「領主ルスターの妹」との肩書きは、強い盾となり、レイシェルを大事から守ってくれたのだ。

 だから自分の子も同じように受け入れられるだろう、と信じていたのは、楽観的にすぎたのだろうか?

 考えてみればあたりまえなのかもしれない。レイシェルを守ってくれたものは、ザールにおいて勇者扱いされているルスターと血族である事実と、ユベールとは家族ではあったが血族ではなかったとの事実。つまり、血の繋がりだ。

 レイシェルの子は、ルスターの甥でもあるが、それ以上にユベールの子だ。魔物と化してザールを襲い、ザールの歴史に悪名を刻み込んだ男の血が、半分も流れている。

 レイシェルは歩きながら、腕の中の子に頬を寄せた。すると、母が抱く不安を感じ取ったのか、子は大声で泣き喚きはじめた。

 兄の部屋に辿り着く前に静かになってほしいと、必死にあやす。それが功を奏したか、泣きやむまではいかなかったが、ぐずる程度にはおさまった。

「兄上、よろしいでしょうか」

 ルスターの部屋の前に立ったレイシェルは、扉を叩いてから声をかける。

 すぐに返事は来なかった。もう一度扉を叩いて、それでも反応がなければ帰ろうと考えた時、扉が開いた。

「どうした。いやに帰りがはやい」

 ルスターが抱いた当然の質問は、困惑と不安で満ちたレイシェルの心に更なる影を落としたので、レイシェルは俯きぎみになった。

 俯く事によって視界が移り変わる中で、レイシェルは兄の肩の向こうに少年の姿を見つける。即座に顔を上げ、少年を見つめた。

 神の御子、カイだ。今はなぜか正体を隠し、城下町の隅に建てた家で妻とふたりで暮らしているが、正体が知れている城の中では、ザールの救世主のひとりとして、尊敬と信頼を集めている。

 レイシェルは兄の反応が鈍かった理由を知った。ふたりがどのような話をしていたのかは判らないが、たとえくだらない話だったとしても、神の御子と妹ならば、神の御子を優先せざるをえないだろう。

「今、お話しても?」

「カイ様のご許可はいただいている」

「よろしいのですか……?」

「大丈夫ですよ。定期的な報告をしに来ただけなので、切羽詰った重要な話ではなかったんです。それより、貴女のほうが」

 ルスターもカイも優しく笑ってレイシェルを受け入れるので、レイシェルはふたりに甘え、部屋の中に足を踏み入れた。

「ユーシスの祝福を受けに行ったのではなかったのか?」

 赤子を抱き続けていたレイシェルの腕の疲れを労わってか、ルスターはレイシェルから優しくユーシスを奪い取った。かつては彼自身の子であるナタリヤを育てていただけあって、赤子を抱く手つきは慣れたものだ。

「祝福ってなんです?」

 カイの口から飛び出た問いは、レイシェルにとって信じられるものではなく、まず自身の耳を疑った。

「子の誕生を祝い、神殿において神の使徒が、神聖語で教典の一説を唱え祈るのです」

 今度は平然と回答する兄の姿に驚いた。驚くと同時に、耳がおかしいのではないと知り、やや混乱する。エイドルードの子である彼が、神殿で行われるありふれた儀式の存在すら知らないなどと、ありえるのだろうか?

「それって、みんなやるものですか?」

「ザールではそうです。他の地域でも、大体は――ただ、祝福を受ける時期が違うかもしれませんね。ザールでは生後ひと月からふた月の間に行うが通例ですが、以前遠征に行った先の街では、5歳の誕生日に行っているところもありましたし、生まれた当日に家に神官を呼んで行っているところもありました」

「なるほど」

 ふたりのやりとりを見守るうちに、レイシェルは思い出した。カイはシェリアとは違い、王都の大神殿で育ったわけではなく、神の恩恵のない海辺の街で育ったのだと、いつだかに兄が話していた事を。神の恩恵がない場所では、神殿や神官たちの存在もないのかもしれない。

「で、帰りがはやいっていうのは、どういう……」

 素直に疑問を投げかける、無邪気にも見える空色の瞳が、急に真摯になってレイシェルを見つめた。

「まさか」

 レイシェルは鈍い動きで頷いた。

「神官長が……神の祝福は人の子のみに与えられるものだと」

 ルスターとカイ、ふたりの瞳に、瞬時に怒りが宿った。短く静かな拒絶の言葉に込められた悪意を、ふたりも感じ取ったのだろう。

「ユーシスは人の子です」

「そう思う者は、少ないのかもしれません」

「多い少ないの問題ではないでしょう。少なくても、真実は真実です」

「ですが、多くの者が真実だと信じるものが、真実となるのが世の常です」

 レイシェルは両手で顔を覆う。悲しみが深すぎて、現実を直視する事や考える事を放棄したくなったのだ。

 部屋の中に沈黙が流れた。レイシェルの視界は暗かったので、まるで深遠の淵にいるような気分になる。通常ならば重い気分に耐えきれなくなりそうだが、今はただ心地良かった。

「神の……使徒、か」

 カイの呟きによって沈黙が破られると同時に、レイシェルは腕を掴まれ、引かれる。顔を覆っていた手が引き剥がされ、目の前に立つカイの強い眼差しが目に入った。

「もう1度神殿に行きましょう」

「ですが……」

「ルスターさん、すみませんけど、ユーシスも一緒に」

「はい」

 カイがレイシェルの腕を掴んだまま歩き出すので、レイシェルは立ち上がり、歩くしかなかった。

 一体どうしたというのか。普段のカイからは考えられないほどの強引さだ。

「どうして神殿に?」

「神官長を説得します。そもそも貴女は、そのためにルスターさんのところに来たんじゃないんですか?」

 静かな怒りを秘めた声による指摘は、図星だった。色々考えていくうちにどんどん悲観的になっていたのだが、確かにはじめはそのつもりだったのだ。

 カイの腕と、隣を歩く兄の存在が、ひどく頼もしい。レイシェルは不安ではなく温かいものによって泣きたい気持ちになったのだが、ここで泣いてはますます気持ちが重くなりそうに思え、こらえながら歩いた。

 カイがレイシェルの腕を放したのは、神殿に到着してからだ。

 城の敷地内にある神殿は、町の者たちにも解放されているが、多くの者は仕事をはじめる前や終わった後に訪れる。昼間でも主婦や子供たちが訪れる事はあるが、今は食事どきであるからか、誰の姿も見えなかった。数えるほどしかいない神官たちも、全員が常に表に出ているわけではないため、突然現れた神の子と領主に驚きおののいたのは、神官長を含めて3人だけだった。

「カイ様、ルスター様も、いかがなされました……」

 神官長は慌てた様子でカイの元に駆け寄って来た。疑問を口にしているが、彼の視線はルスターの手の中にある赤子に集中しており、答えを聞かずとも用件は判っている様子だ。

「誕生の祝福を求めてやってきた者を追い返したと聞いた」

 カイが落ち着いた態度で、しかし鋭く返すと、神官長は気まずそうに黙り込む。

「神は人を愛すのだろう? ならば、神の使徒である者が、この子を拒絶するのはおかしい」

「お、お言葉ですが」

 神官長は重苦しそうに乾いた唇を開いた。

「神は地上の民を愛する存在であると同時に、魔を封じ、滅ぼす存在でありましょう」

「何を持ってこの子を魔とする?」

「その身に流れる血によって」

 神官長の言葉によって、空色の瞳に宿っていた怒りが消えた。呆れや諦めと言った、別の負の感情へと生まれ変わったために。

「判った」

「ご理解いただけましたか」

「ああ。神がこの子を愛すると言えば、お前たちがこの子を人として受け入れるって事をな」

 カイは神官長を一瞥したのち、無言で彼の横を通り過ぎた。まるで彼の存在がないものかのように。

「カイ様!?」

 神官長の声に振り返る事なく、カイは祭壇の前に立つ。そしておそらく神官長のものだろう教典を手に取った。

 レイシェルもルスターも、カイが何をしようと考えているのか、ある程度予想はできていた。しかし、素直に受け入れるのは難しかった。あまりにも恐れ多い上、常識を大きく外れていたからだ。

「レイシェルさん、ルスターさん」

 だがカイは平然と、ふたりの名を呼ぶ。同時に、ルスターの腕の中にいる、レイシェルの子を。

 レイシェルは縋るようにルスターを見上げた。ルスターは問いかけるようにレイシェルを見下ろしていた。レイシェルが視線によって強い困惑を訴えると、ルスターは視線によって強い安堵を与えてくれた。

 ルスターはレイシェルの腕に赤子を抱かせると、優しくレイシェルの背を押した。行け、と言っている。祭壇の前に。カイの前に。

「カイ様、おやめください。そのような、恐ろしい事を……!」

「俺にとっては、なんの罪もない赤子を排斥しようとする者が神の使徒である事のほうが、よっぽど恐ろしい」

 もしその台詞を口にした者がカイでなかったとすれば、神官長は顔を真っ赤にして怒った事だろう。

 だがカイが口にした事によって、台詞は絶対的な力を手に入れた。神官長は顔を真っ青にして、言葉もないといった様相で縮こまっている。今にも泡を吹いて倒れそうなその姿は、雰囲気が許すならば笑いたくなるほど滑稽だった。

 レイシェルは祭壇に赤子を置くと、両膝を床に着き、手を組んだ。熱心に祈りながら、神の子への感謝を募らせた。

 静かな神殿の中に、心地よい音が耳に届いた。神の御子によって紡がれる、神の言葉。

 温かく人を包み込む力を持って響くそれは、世界を優しく照らす光のようにレイシェルは感じた。



 我が子が考えられないほどの名誉を受けた日の事を、レイシェルはたびたび思い出す。

 時には夢として見る事があるほどに、大切な日だった。魔物の子として忌み嫌われる人生を歩み出したユーシスにとって、唯一と言って過言ではないほど、光り輝く日であったのだから。

 だからレイシェルは、その輝きを与えてくれた人物に、悲哀を秘めた目を向けられる事が辛かった。震える唇が、今にも「申し訳ありませんでした」と言い出しそうなのが悲しかった。彼があの日の事を後悔しているように見えるからだ。後悔し、過ちを犯したと反省し、懺悔をしているように思えるからだ。

「具合はいかがですか?」

 レイシェルが横になっている寝台のそばに立つカイは、弱い声音で言った。

 訊かずとも判っているだろうに、それでも他にかけるべき言葉が考え付かなかったのだろう。その心が温かく、レイシェルは小さく笑う事で返す。

 体調は、確かに悪い。だが気分はおおむね良好だ。そう遠くない未来に、ユーシスをひとり遺してしまうだろう事は大いに気がかりだが、それ以外は晴れ晴れとしている。

「そんな目で、見ないでください」

 生まれつき体が弱いせいで今日も熱を出して寝込んでいるけれど、人目を忍ぶような生活をしているけれど、それでもユーシスは生きている。ユーシスが生きているからこそ、レイシェルは今日まで生きてこられたのだ。

「貴方のせいではないのです」

 レイシェルはやせ細った力のない手を伸ばし、カイの足にしがみつくようにして立っている、小さな子の頭を撫でた。

「貴方のおかげで、なのですから……」

 一時的とはいえ抱いていた恨みや怒りや悲しみを昇華する事によって手に入れた、この温かで優しい想い。それをカイに伝えねばならないとレイシェルは感じていたが、しかし、長く語るだけの力はどこにも残っていなかった。

 語れない代わりにレイシェルは、微笑んだ。

 彼がいなければ手に入らなかっただろう、穏やかな幸福によって満たされた心が、どうか伝わりますように。そう、静かに祈りながら。

「レイシェルさん……」

 薄暗い視界の中心に立つ青年は、レイシェルの名を呼ぶ。

 表情が変わった気がした。暗く、何かを嘆いているのではないものに。

 それが嬉しくて、レイシェルは静かに微笑んだのだった。

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