一章 神の子と魔物の子

神の子と魔物の子 1

 10歳の誕生日を翌日に控えた朝、アストがふいに思い出したのは、2年前に風邪をひいた時の事。父とふたりで摂る朝食を終え、ふたり並んで長い廊下を進む途中、深々と礼をする女官長に、会釈で返した瞬間だった。

 風邪が治って元気になった嬉しさのあまり、城の中を駆け巡ってみたが、それまで女官長を勤めていた女性の姿はどこにも見つからなかった。間もなく現在の女官長が挨拶に来た時の、言葉にできない寂しさは、今も鮮明に思い出せる。「引退すると言っていたよ。残念だけど、かなりお歳を召していたからな。優雅に見えて結構体力を使う仕事だから、辛かったんだろう」と父は説明してくれたけれど、それにしてもお別れの挨拶くらいしにきてくれてもいいじゃないかと、不満に思った夜の事も。

 当時のアストは気付かなかった。だが、今のアストは知っている。アストが風邪をひいた主な原因は、掃除を担当した女官が窓を閉め忘れた部屋でひと晩すごしたせいで、当時の女官長が突然辞めたのは、その責任を取らされたからなのだと。

「だからか」

「なんだ、突然」

 隣を歩いていた父が、疑いの目をアストに向けた。

「ねえ、父さん。今日の朝食、味がおかしくなかった? おいしくないとか変なものが混じってたとかじゃなくて、味がいつもとちょっと違うっていうか」

「そうだったか? 俺には判らなかったけどな」

 父が豪快に笑いながら「お前と違っていいもの食って育ってないから、微妙な違いなんて判らないな」と続けたので、本当に気付いていないのか、気付いていないふりをしているのか、アストには判断ができなかった。とりあえずそれ以上話を続けても意味がなさそうだったので、唇を引き締める。自然と、唇の先が少し尖った。

 父は判らないと言うが、アストは確信に近いものを抱いていた。きっと料理長が変わったに違いない。理由はおそらく、昨晩のアストの食事に出た魚に少し大きめな骨が残っていて、アストの喉に刺さったせいだ。

 アストは父に隠れて、深く長い息を吐いた。「たいした事じゃないのに」とか「くだらない」とか「次から注意すればいい」とか、言ったところで意味はない事を、アストはすでに悟っていて、ため息を吐く事も、それを隠す事も、すっかり慣れてしまっていた。

 だが父はさすがにアストより上手で、気付く事に慣れている。明後日の方向を見たままでありながら、大きな手をアストの頭の上に置き、優しく撫でてくれるのだ。

 頭部から伝わる温もりは、ちくりと胸に刺さるものを溶かしていく気がして、心地良いのは確かだった。だが、同時に「どうしようもない事なんだ」と諭されているような気がして、余計に寂しく感じてしまうのも、また確かだった。

 アストは無言のまま父と並んで通路を抜け、扉をくぐり、緑溢れる庭に出る。盛りの季節からは少し外れていたが、見回せば色鮮やかな花が咲き乱れていた。

 花の手入れをしている男の背中を見つけると、アストは父を置き去りに走り出す。

「あの、花束を作りたいんだけど」

 アストが声をかけると、庭師の男は振り返る。仕事の邪魔をするなとでも言いたげな厳しい眼差しが、アストを捉えると瞬時に緊張する。

 嫌気がさしつつも、なんとか笑顔を保ち、アストは続けた。

「さっき、ルスターさんに許可は貰った。庭の好きな花を摘んでもいいって。あまり強すぎない赤とか、黄色とかの花を集めたいんだけど……あ、これとかいいな」

 花の名を知らないアストは、あたりを見回し、贈る相手に相応しい可憐な花を見つけると、不用意に手を伸ばす。すると庭師の男は慌てて花とアストの間に身を滑り込ませた。

「お手が汚れてしまいます。自分がやりますので、必要な花を教えてください」

「このくらいなら自分でもできるよ」と言いかけたアストの記憶を掠めたのは、かつて庭師として勤めていた初老の男の小さな背中だった。

 彼が引退と称して息子にあとを任せたのは、庭で遊んでいたアストが誤って花壇に飛び込み、棘でいくつかの傷を作った数日後だったか。

「じゃあ、よろしく。俺じゃ、関係のない花を傷付けてしまうかもしれないし。とりあえずこの花を、赤いのと黄色いの5本ずつくらい?」

 アストは助言を求めて父を見上げた。

「白も混ぜたら綺麗じゃないか?」

「そうかな? じゃ、それで。花の事はよく判らないから、あとは任せます」

「判りました」

 肯いた男の手の動きは鮮やかだった。何十、何百と咲く花の中から、最も美しく咲いている花を見つけだし、素早く鋏で切ると、器用にまとめていく。引き立て役に小さな花や形のよい葉を混ぜて完成した花束は、女性が好みそうな綺麗な仕上がりになっており、アストは充分以上に満足した。

「どうもありがと……」

「カイ様!」

 庭師への礼をかき消すように、父の名を呼ぶ声がした。

 庭師が小さく礼をして、アストやカイのそばから離れると、入れ替わりに父の名を呼んだ男が近付いてくる。王都から派遣され、ザールへ滞在している聖騎士たちの長である、ハリスだった。

 アストはハリスが苦手だった。嫌っているわけではない。アストが係わる人々の中で、比較的自然に接してくれる彼の事は、むしろ好ましく思っている。ただ、彼が現れると、空気が緊張して息苦しい気がするのだ――特に、父がそばにいる時は。

「どうした」

 父がハリスに振り返り、重い口を開くと、アストは隠れるように父の背中に回った。

「兵士長より至急の報告があるようです。例の洞穴の件で」

 ハリスが答えると、カイはろくに思考する時間もとらず即答した。

「そうか。判った」

 答えた父は振り返り、もの言いたげな視線をアストが手にする花束に落としてから、アストと目を合わせた。

「悪い。今日はひとりで行ってきてくれるか?」

「父さんは行かないの?」

「多分しばらく、少なくとも今日は無理そうだ。せっかくの花束が痛んだら可哀想だから、今日届けてあげてくれ――っと、なんだ? ひとりでは行けないか?」

 微かな意地悪を混ぜ込んだ笑みで父がそう言ったので、アストは必死に首を振った。アストは明日、10歳になるのだ。目的の場所が少々遠いからと言って、何度か通った道をひとりで歩けないほどの子供ではない。

「じゃあ、頼んだぞ。昼のうちは大丈夫そうだが、夜には雨が降りそうな空だから、すぐに行って早く帰って来い。あと念のためにこれ着ていけ」

 ほのかに笑った父は、手にしていた雨具をアストに着せると、背中を軽く押した。暗い森へのたったひとりの冒険の心細さを、支えてくれるかのように。


 強い雨を地上に落とそうとくすぶる濃い雲が、空を埋め尽くしている。本来ならばまだ中天に太陽が輝く時分であるはずだが、まるで早朝のように暗かった。

 視界が通りにくい中、湿った空気を肌で感じながら、柔らかな土と若草を踏みしめ歩みを進める。と、突然背面から強い光があたりを照らした。アストは息を飲み、身を竦ませた。

 ほどなくして起こる轟音を、耳を塞いで堪えると、恐る恐る振り返った。生まれた直後から今日まで暮らし続けるザール城が、強い稲光に照らされて、輪郭を浮き上がらせた。

 再び雷が鳴るだろう。判っていながら、今度は耳を塞がなかった。小脇に抱えていた花束を優しく胸に抱き、空を見上げると、次の轟音が空気を、振り出した雨が大地を震わせた。

「父さんのうそつき。もう降っちゃったよ」

 雨は容赦なくアストの肌と花束を打った。アストには耐えられる程度の強さだが、可憐な花は雨の強さにくたびれてしまいそうだ。アストは花束を庇うように背中を丸め、泥をはねさせながら走りだした。

 ザールで10年近く暮らしているアストであるから、今が頻繁に雨の降る時期だと知っていた。朝の天気をあてにすると、しょっちゅう痛い目をみる。ついさっきまで雲ひとつない快晴であったというのに、突然豪雨になったかと思えば、弱い長雨が続くなど、とにかく天気が変わりやすいのだ。

 そんな雨の時期の天気を予想などしても無駄だと知っているはずなのに、どうして素直に信じてしまったのだろう。雨の時期の終わりごろにあるアストの誕生日が、明日に迫っているからだろうか。

 まあいい。雨具を準備しておいてくれたのだから、予想が外れた事は許してやろう。そう結論付けてアストは、父の事を考えるのはやめ、目的地へと向けて全力で走りだした。

 泥を撒き散らしながら走る子供の集団が見える。騒ぎながら走り、帰路につく彼らも、アストと同様に天気を読み間違えたのだろうか。

 一瞬迷ってから子供たちを避ける選択をとったアストは、俯き、遠回りになってでも子供たちと鉢合わせせずにすむ道を探す。だが、新たな道を見つける前に、子供たちはアストのすぐそばまで駆けてきた。元々、暗く強い雨の中で視認できる程度の距離しかあいてなかったのだから、当然の事だった。

 子供たちもアストを見つけた。ほとんどの子供たちは不思議そうな顔をしたが、とにかく家に帰る事が最優先なのだろう。アストに声をかける事なく、アストの横を通り過ぎていく。

「なあ、あいつ、誰? 見た事なさそうじゃね?」

「あんま顔見えなかったけどな」

「この町のヤツじゃないんじゃないか? それか、最近引っ越してきたばっかりだとかさ。ちらっと見えたけど、あんな金髪、見た事ない気がする」

「金髪?」

 集団の中のひとりが、正解を思いついたようだった。アストは今まで以上に強く地面を蹴り、子供たちと距離を置く。

「もしかして、エイドルードの――」

「アストさま!?」

 張り上げた声は強い雨音に混じってもまだ耳に届いたが、アストは聞こえないふりをした。きっと彼らは、悪意を込めた言葉をアストに投げつけないだろう。判っていたが、心底辟易していたのだ。同じ年頃の子供から、同じ年頃の子供に対する言葉以外のものを投げかけられる事に。

 誰もが言う。アストは救世主なのだと。

 それが真実なのか、アストには判るはずもなかったが、周囲の誰もがアストを救世主として扱い、信仰の対象としているのだから、たとえ自分に特別な力がなかろうと、周りの扱いが息苦しかろうと、真実だと受け止めるしかなかった。過剰に大切にされる事や崇められる事を、疎外されている事と同様に感じてしまうのは、自分の心が弱いせいなのだと、己に繰り返し言い聞かせながら。

 やがて町外れに到達した時、アストは心から安堵した。黒い土が続く暗い森の中に、ザールの民のほとんどは足を運ばないからだ。

 駆け続けて疲れた足を止め、高く伸びた木がまばらに立つ森を前に、乱れた呼吸を整えながら、解放感を味わう。聖騎士たちが本当の意味でアストをひとりにする事など考えられないので、目に入らないだけで近辺に潜み護衛という名の監視をしているのだろうが、見えないものは気にしない事にしようとアストは決めていた。いちいち気にしていたら、生きているのも嫌になりそうだ。

 呼吸が通常に戻ると、アストは再び歩き出した。雨で緩んだ土を踏みしめ、木々の間を通り抜けると、すぐに開かれた場所に辿り着く。そこに建つ小さな屋敷のそばに、アストの目的地はあった。

 聖十字を模った、灰色混じりの白い石が立っている。そこに彫られているものは、アストの母に代わってアストを育ててくれた、恩人と言える女性の名だ。刻まれた名の持ち主は、アストがまだ5歳の頃に亡くなっていたが、アストが自分の成長を見てほしいと思える数少ない相手だった。

 アストが幼いうちに亡くなった彼女の事で、思い出せる記憶はいくつもない。病に蝕まれ、寝台から起きあがる事もできなくなった晩年の彼女が、まだ死をよく理解していなかったアストですら強烈な死の匂いを嗅ぎ取ってしまうほどに痩せていた事だとか、枯れた木の枝のように細い指が、アストの頬を優しく撫でてくれた事だとか。

 宝石のように美しい薄緑の瞳が、まるで哀れむかのように、アストを見つめていた事だとか。

 アストは墓に歩み寄り、花を添えた。すぐさま強い雨に打たれ、花は弱っていったが、アストにはどうする事もできなかった。

 墓の前に直立し、かすかな明かりに輪郭を浮き上がらせる十字を見つめたのち、アストは目を伏せる。幼い記憶を可能な限り掘り起こし、女性がまだ元気だった頃の面影を呼び寄せてから、感謝と祈りの言葉を口にした。

「久しぶり、レイシェルさん」

 4年以上ぶりに呼ぶ名は、ひどく懐かしくアストの胸に突き刺さった。

「レイシェルさんが育ててくれたおかげで、俺は明日、10歳になります」

 わずかにだが、雨が弱くなる。小さな体を容赦なく打ちつけていた冷徹な雨が、優しく抱き締めてくれる温かな腕に変わったように感じられた。

 レイシェルが今日の訪問者を喜んでくれているように思え、アストは無意識に表情を綻ばせ、墓へ微笑みかける。

「本当なら、明日、10歳になった俺を見せに来ようかと思ったんだけど、明日からちょっと忙しくなるんだ。だから今日のうちに来ておこうかと思って。ごめんなさい」

 雨の強さは変わらなかった。正直な告白をして良かったのだと、アストは胸を撫で下ろす。あたりまえだ。レイシェルはこの程度の事で怒る人ではなかったのだから。

「明日からなんで忙しくなるかってさ、父さん、9歳の誕生日の時に、約束してくれたんだ。10歳になったら、剣を教えてくれるって。レイシェルさんは父さんが戦うところ見た事あるかな? かっこいいんだ。去年、父さんが城の裏庭でさ、10人、ううん、20人は居たかな。とにかく沢山の兵士を相手にしてたんだけど、みーんな倒しちゃったんだ。俺もそんな風になりたいって言ったら、父さん困った顔してさ。『まだ早い』って。でも、俺がしつこくお願いしたら、じゃあ10歳になったらなって約束してくれたんだよ。だから明日から、父さんに剣習うんだ。父さんが知らんぷりしても、知るもんか。毎日父さんにひっついて、絶対に教えてもらうから!」

 墓標に向けて笑いかけたアストは、しばらく沈黙を保った。まるで返事を待っているようだと、自分自身を滑稽に感じはじめると、小さく声を上げて笑った。

「レイシェルさん、俺、強くなれるかな」

 風は柔らかく、しかし濡れた身には冷たく、アストの頬を撫でた。

「俺は救世主になる運命だからって、みんなが俺に優しくしてくれるよ。みんなが俺を、すごい人みたいに扱って、ちょっとの怪我や病気もさせないようにってくらい、大切にしてくれる。俺がこの国を、この大陸を救うからって。でもさ、俺に何ができるんだろう。俺、母さんみたいに、魔物を倒したり、傷を治したりする力なんて、持ってないんだ。なんにも、できないんだよ。だから」

 だからせめて、父さんのように、魔物からザールを守れるくらいの力が欲しいと願う事は、おかしくないよね。

 喉が詰まり、言葉にする事ができなくなったアストは、心の中でレイシェルに語りかける。

 なんでもいい。何かしなきゃ、潰されてしまいそうなんだ。

 辛いんだ。ここに居る事が。

 想いを胸の中で吐き出したアストは、両手で自身の顔を覆う。降り続ける雨の音だけが耳の中でこだましていて、まるで誰かの悲痛な泣き声のようだと感じた。

 誰か。それは、自分自身だったのか、それとも、他人の心を感じ取ったのか。

「いつまでもここに居たら風邪ひいちゃうや。レイシェルさん、俺、そろそろ帰るよ。またそのうち来るから。今度は強くなった俺を見せられるといいな」

 雨に濡れた服が重くのしかかったが、アストは立ち上がった。無言で墓標を見下ろし、心の中でも別れの言葉を告げると、踵を返し、来た道を戻ろうと歩き出す。

 強烈な違和感に、アストは足を止めた。

 何に対して違和感を覚えたのかしばらく判らず、戸惑いながら立ち尽くしていたが、やがて視界の端に映る明かりに気付くと、そちらを凝視した。

 明かりは、ザールの城主ルスター・アルケウスが、妹レイシェルのために建てた小さな屋敷の中からもれ出たものだった。

 主人亡き今、なぜ、中で明かりが灯っているのだろう。

 アストは勇気を振り絞り、鈍い動きで首を廻らせ、明かりのほうへ目を向ける。閉じられた窓の向こうに小さな人影を見つけると、アストは目を見開いた。

 見慣れた優しい人々と同じ、甘い、蜂蜜の色が輝いている。

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