神の子と魔物の子 2
『愛しているわ』
ユーシスが熱に浮かされるのは、いつもの事だった。
『愛しているわ、ユーシス』
高熱の中で見る夢は暗黒で、重く心細い世界が広がるばかりだったが、唯一、優しく響く女性の声だけが、ユーシスの心を慰めてくれた。
目が覚めれば、優しい声は母のものなのだとすぐに判る。しかし夢の中のユーシスには、それが判らない。正体の知れない人物だけが救いである現実に、ある種の絶望感を抱えながら、闇の中を歩いていくしかないのだ。
『この世のすべての人が貴方を疎んだとしても、私だけは、貴方を愛しているから』
どこにも辿りつけない虚しさ。
何にも手が届かない渇き。
それらは強い愛情がこもる温かな声によっても解消される事はなく、やがてユーシスは息苦しい目覚めを迎える。
体が重い。長く続いた熱のせいだろうか。全身汗だくで、手足は痺れているかのようだ。鬱陶しく輪郭にへばりつく髪を掃う事も、声を上げる事もできず、ユーシスは静かに天井を見上げ、ゆっくりと呼吸を繰り返すしかなかった。目を閉じ、再び夢の中に落ちるという手もなくはなかったが、それだけは絶対にしたくない。まだ重く苦しい夢を見るはめに陥るかもしれないからだ。
時間が経過するうちに、少しずつ体が動くようになってくる。安堵の息を吐きながら、ユーシスは毛布の中から手を出した。頬をくすぐる髪をどかし、額に置かれた布に手をやる。使用人のモレナが、冷たい水に浸したものを置いてくれたのだろうが、ユーシス自身の熱と相殺されたのだろう、とっくに温くなっていた。
どれほどの間眠り、うなされていたのかを、ユーシスには知る術がなかった。窓の外は暗いが、かすかに届く雨音から察するに、夜になったせいではなく、厚い雲が空を覆ったせいなのだろう。だとすればユーシスが長時間眠っていたとは限らず、モレナが最初の一度以降ユーシスの寝室に立ち寄らなかった事を、一概に責めるわけにもいかない。
ため息を吐いたユーシスは、まず上体を起こし、上着を羽織ると、窓のそばへと近付いていった。
吹き荒れる風と大きな雨粒が地上に叩き付けられる音は、窓越しにでも自然の力強さをユーシスに伝える。けして自分にはないものへ焦がれる想いが胸の内に強まり、ユーシスは目を細め、羨望の眼差しを外の風景へと向けた。
激しい雨の向こうに人影を見つけたのはその時だった。
「貴方が寂しい時に縋る事ができるように」と、「いつでも貴方を見守れるように」と、母は死の直前、ユーシスの部屋の窓から見える場所に永眠する事を望んだ。意識がある時のユーシスは、いつも窓越しに、母の墓標を眺めていたものだ。
その母の前に、ひとりの少年が立っている。
ユーシスと同じ年頃の子供だった。ユーシスならば吹き飛ばされてしまいそうな風の中、すぐに熱を出して倒れてしまいそうな雨の中、存在できるだけの力強さを持っているところは、まったく違うけれど。
「すごいな」とひとり呟いたユーシスは、窓の向こう、風と雨の向こうの少年を、ずっと見つめ続けた。彼がこんな酷い雨の中、母の墓の前で何をしているのか、興味はあったが知る術はなかった。
見れば墓には花束が添えてある。彼は母と親しかったのだろう、とユーシスは考えた。自分と同じ年頃の少年が、5年近くも前に亡くなった母と、どうやって仲良くなったのかは判らなかったが、わざわざ母の墓まで来て、綺麗な花を供えてくれる人物となると、他に思いつかなかったのだ。
ユーシスは自然と笑っていた。単純に嬉しかったからだ。自分というやっかいな子を抱え、人目を忍ぶように城や町から離れた場所に移り住んだ母に、優しい想いを手向けてくれる人物がいる事実は、素直に喜ばしい事だった。
やがて少年は立ち上がった。泥を跳ねながらゆっくりと歩き出した少年は、突然足を止める。しばらく直立していたが、ユーシスの存在に気付いたのかこちらに振り返ると、目を丸くした。
目を丸くしたのはユーシスも同じだった。まさか気付かれるとは思わなかったのだ。暗い上、雨風は視界を狭めるほどに強いものであったから――暗いからこそ、ユーシスの部屋から漏れ出す明かりが目立つのだとは、考え付かなかった。
心臓が跳ねる。どうしてよいか判らなかった。これまで屋敷の外に居る人物と目が合う機会などほとんどなかったし、あったとしても、ユーシスが行動を起こす前に相手が目の前から消えていくため、何をする必要もなかったのだ。
だが彼は、足を止め、ユーシスを凝視したまま動かない。もしかすると彼は、自分が何者であるかを知らないのだろうかと考えたユーシスは、ぎこちない動きで小さく手を振ってみた。
少年が更に驚き、一歩後じさったので、ユーシスは慌てて手を背中に隠した。
自然と俯いた顔が紅潮した。何を馬鹿な事をしたのだと、ユーシスは自身を責めた。すぐさま逃げ去られなかったからといって、調子に乗るからこうなるのだと、見ろ、相手は怯えているではないかと、心の中で何度も自分を罵倒した。
気味が悪いに決まっている。普通の子供なら、いや、子供でなかったとしても、自分なんかに近寄りたくないに決まっている。希望を抱くなど、愚かな事だ。どうせ失望するだけなのだから――希望を抱く事が許された相手は、墓標の下へと遠ざかった母だけなのだから。
羞恥のあまり目を伏せたユーシスの耳に、ゆっくりと窓を叩く音が届いた。
目を開ける。見えるのは床と、自身の足だけだった。立ったまま夢を見たのだろうかと疑ったユーシスは、もう一度だけ鳴った音に呼ばれ、恐る恐る顔を上げた。
先ほどの少年が、窓一枚隔てただけのところに立っていた。
なぜ彼は恐れる様子も見せずに近付いてきたのだろう。ユーシスは強い疑問を抱いたが、答えを考えるだけの余裕はなかった。窓の前に立ち、窓に手を置いてユーシスを凝視する少年の存在が奇跡のようにも思え、ユーシスは震える手を窓の掛け金に伸ばしていた。
ユーシスはいつもモレナから、「体に障るから外にはけして出るな」と言いつけられている。こんな天気の日に窓を開ける事も、本当は許されないのだろう。
自分が存在するだけで周りの者がどれほど迷惑しているかを自覚しているユーシスは、普段ならば言いつけられた事を必ず守る子供だった。
だが、今日だけは違った。
窓を開けると、激しい音がする。風が部屋の中に流れ込み、同時に雨もわずかに飛び込んできた。冷たい空気によって汗が急激に引いていき、冷えた自身の体を抱き締めながら、ユーシスは窓の向こうに立つ少年の目を見つめた。
雨を吸って重く垂れる金髪に隠れていてもよく判る。優しい、綺麗な色だった。まるで、晴れた日の温かな空の色。
「どうして俺に手を振ったんだ?」
少年は心底不思議そうに、だがどことなく嬉しそうに、ユーシスに訊ねた。
どうしてと問われ、ユーシスは困るしかなかった。答えは「振りかえして欲しかったから」以外になかったが、素直に言うわけにはいかなかった。「調子に乗るな」と笑われる事に耐えられるほど、自分は強い人間ではないと自覚している。
「お前は俺の事が怖くないのか?」
体の震えが止まり、ユーシスは真っ直ぐに少年を見つめた。
「怖い? どうして?」
少年は間抜けに口を開いたまま、一瞬固まった。
「お前はずっとここに、ザールに住んでいるのか?」
「うん」
「それなのに、俺の事を知らないのか」
ユーシスは肯いた。
「君も、僕の事を知らないみたいだ。だって君は、僕の事を怖がって逃げるどころか、自分から近付いてきたんだから」
「どうしてお前を怖がらないといけないんだ?」
先ほどの自分とまったく同じ疑問を口にする少年の間の抜けた顔がおかしくて、ユーシスは吹き出した。
腹が痛い。懐かしい痛みだ。そう言えば、最後に笑ったのはいつだっただろう。母がまだ生きていた頃――自分が不幸だと思いもしなかった頃だっただろうか。
ひとしきり笑ったユーシスは、笑いすぎて目の端に滲んだ涙を拭った。
「僕が魔物の血を引いているからさ」
告白すると、窓の向こうの少年は、真剣な眼差しに闇を混ぜ込みながら、唇を引き結んだ。
「僕のお母さんは、僕を産むまでは普通に元気な人だったらしいけど、僕を産んで、僕と暮らすうちに、どんどん痩せ細って死んでしまった。魔物の僕が、お母さんの命を少しずつ吸いとっていったからだって、みんな言ってるよ。だからみんな僕には近寄らないんだ。僕のお母さんみたいに、痩せ細って死んでいくのは嫌だからって」
ユーシスは、自身に忌まわしく纏わりつく噂を隠す事なく少年に伝えた。隠しきれない苦しみを、引きつった笑顔に混ぜ込みながら。
ユーシスにとって幸運な事に、彼は何も知らなかったのだ。ならば何も教えないまま、楽しく語り合えばよかったのかもしれない。そうして次の約束を取り付ければ、この先も、語り合える友人ができたかもしれない。静かな館でひとりきりで過ごす時間が減るのかもしれない。
だというのに、なぜ語ってしまったのか、ユーシスには判らなかった。
彼を騙す事への罪悪感がそうさせたのだろうか。すべてを隠して仲良くなったあと、どこからかすべてを聞きつけた彼が、ユーシスを恐れたり、罵倒したり、非難する事が、怖かったからだろうか。そうして離れてしまう事が、今すぐに逃げられる事よりも辛いと思ったからだろうか。
現実に直面する事が急に恐ろしくなったユーシスは、窓に手をかけた。今すぐ閉じて、寝台に潜り込んで布団を頭から被ってしまえば、何も見なかった事にできるかも――
ユーシスが窓を閉めるよりも先に、少年の手が窓を押さえつけた。同じ年頃とは言え、病弱なユーシスと、雨の中動き回れる少年では、力の強さが大きく違い、ユーシスは立ち尽くしたまま、少年の視線を浴び続ける事しかできなかった。
「お前には本当に、魔物の力があるのか?」
「あるわけない!」
魔物どころか、並の人間よりも貧弱な体しか持たない自分に、そんな力などあるわけがない。ユーシスはそう信じている。
だが、同時に思うのだ。方法が違うだけで、母を死に追いやったのは、紛れもなく自分なのだと。
領主の妹として、遠くに聳えるザールの城で優雅に暮らすはずだった母を、こんなにも暗い館に縛りつけたのはユーシスだ。
そして母は、本来ユーシスが受けるはずだった負の感情を、一身に受け止めた。負う必要のない苦労を負った事によって、徐々に蝕まれていったのだ。
「じゃあ――」
扉が叩かれる音が響き、ユーシスと少年は、同時に部屋の中を見た。通路から部屋に繋がる扉は小さく振動しており、モレナが来たと知ったユーシスは、少年の力が緩んでいる隙に手をどかし、慌てて窓を閉める。
厚いカーテンをかけると、少年の姿は失われた。彼がまだ窓の外に居るのか、すでに立ち去っているのかを、確かめる勇気がないまま、ユーシスには寝台に飛び込み、頭から布団を被った。
瞼の裏には少年の面影が残っている。耳には、少年の声が。
だが、気のせいだ。きっと夢を見たのだ。
幸せな夢か、悲しい夢かは判らないが、愚かな自分が見せた夢であったのは、間違いないのだろう。
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