守り人の地 15

 少女と同僚の足音が階段の下へ飲み込まれていくと、場を包む空気が完全なる静寂と化した。遠くからは兵士や聖騎士たちが魔物と戦う喧騒が聞こえてくるが、人形のようでありながら強い存在感を持つシェリアの前に、多少の音などないも同然だ。

 ハリスは片膝を立てた。わずかに動くたびに体が軋み、全身の筋肉が悲鳴を上げるが、倒れ込むわけにはいかない。膝と床に着いた手を支えにし、普段の何倍も重く感じる自身の体を持ち上げた。膝から手を放し、背筋を伸ばして立ち上がれるようになるまでに必要な時間は、驚くほど長かった。

「ハリス」

 少女の声が、冷たく名を呼ぶ。声はか細いものだが、けして拒否できない力を秘めており、ハリスは一歩踏み出す事ができなくなった。

「座りなさい」

 少女の命に従う事は簡単だった。気力によって奮い立てた力を少し抜けば、簡単に床に崩れ落ちる事ができる。

 しかしハリスはそうはせず、力強く立ち上がったまま返した。

「どうか、戦いに赴く事をお許しください。エイドルードが愛した人をひとりでも多く守るために、この命を使う事をお許しください」

「聞こえなかったのならばもう一度言います。座りなさい、ハリス」

 ハリスの言葉が届かなかったのか。それとも、逆らう事はありえないという信頼からか。何事もなかったように同じ命を繰り返すシェリアに逆らえず、ハリスは再び跪き、シェリアに頭を下げた。

 自分が何をしてしまったのか、ハリスははっきりと覚えている。闇に意志を飲み込まれ、禍々しい力に身体を利用されていたが、完全に意識がなかったわけでも、記憶を失くしたわけでもないだ。

 剣を神の御子や仲間に向け、傷付けた。ジオールなどは、御子の偉大なる力がなければ、助からなかった可能性もある。シェリアの呼びかけによって、ハリスの意志が闇の力に勝る時もわずかにあったが、基本的には完全に抑えこまれ、恐ろしい事をしてしまった。

 許されない、許されてはならない事をした。その自覚はある。今すぐにでも罰せられるのは当然だ。

 だが、どうせ散らす命ならば、せめてひとりでも多くを助けて散りたかった。戦いの中で名誉ある死を望もうと思っての事ではない。エイドルードの名の元にある戦いならば、ひとりでも多くの命を救う事が、エイドルードの栄光をより輝かしいものにすると信じていたからだ。

「わたくしは、知らない事が多すぎるようです。リタや、カイ様と共にあると、その事実が良く判ります」

 細めた目で真下を見下ろすハリスの視界に入るものは少ないが、シェリアが彼女自身の膝の上に重ねていた手は目に映った。

 細く白い手は、行き場を探すように持ち上がり、ゆっくりとハリスに向けて伸ばされる。

「わたくしが神殿の中で生きた十五年間、誰も教えてくれなかった事です。必要ないと思ったからこそ、誰もわたくしに教えなかったのでしょう。それで良かったのだと思います。わたくし自身、今でも、必要なものだとは思えませんから」

 ハリスの鎧の肩あてに触れる直前、シェリアの手が止まった。

「わたくしは正しいと、誰もが言います。けれど、リタもカイ様も、そう言いながら、わたくしを蔑みます。わたくしには、リタやカイ様の考えかたも、語る言葉の意味も、理解できない事ばかり。気にする必要はないのです。間違っているのはリタやカイ様のほう。けれど、わたくしは、気付いてしまったのです。わたくしにも間違っている部分があるのだと」

 小さな唇が神聖語を紡ぎはじめる。天上の神に祈り、光を呼ぶ言葉。白いてのひらの先に、偉大なる癒しの力が生まれ、溢れだし、ハリスの全身に広がった。

 軋むような痛みが和らいでいく。ハリスは驚愕のあまり言葉を忘れ、口を中途半端に開いたまま顔を上げ、シェリアを見つめた。

 変わらない眼差し。変わらない表情。だが、確かに違っている。3年前からシェリアのそばにいるハリスにとっては、「ありえない」と断言できるほどに。

「お止めくださいシェリア様。私は、只の人です。神の恩恵を享受してよい者ではないのです。いいえ、それどころか、私は罪に堕ちました。只の人ですらないのです。どうか――」

 静止を願い出たところで、もう遅かった。15年以上も神殿におり、相応の教育を受けてきたシェリアは、力の使い方も的確だ。リタがジオールの傷を癒すよりも遥かに早く、ハリスの傷を癒していた。

 白い指が遠ざかり、再び膝の上に重ねられる。

 揺るぎない美しさと揺るぎない純白の中、鮮やかな赤の汚れをわずかに見つけ、ハリスは歯を食いしばって、心に走る苦痛に耐えた。それはハリスがリタに切りかかり、シェリアに刃を向けた、確かな証であったから。

 先ほどまで体を支配していたものよりも重い痛みに、胸が軋む。ハリスは無意識に片手を置いていた。

「わたくしは3年前、はじめて貴方と対面したその日に、2度とわたくしに触れないよう、命を下しました。正しい事だと疑っていませんでした。それは、わたくしの、正しくない考えから生まれた命令であったというのに」

「いいえ。いいえ、シェリア様」

 伝えたい想いをどう言葉にして良いか判らず、ハリスは強く首を振った。

「否定する必要はありません。事実なのです。わたくしは過ちを正さねばなりません。真に正しい道を選び直し、進まなければなりません。ですから、過ちから生まれたものを正さなければならなかったのです。それは、闇に飲まれた貴方です、ハリス」

 空色の瞳が、苦痛に歪む視界の中で輝いた。

「ハリス。貴方の役目は」

「シェリア様をお守りする事、エイドルードの意志に従う事です」

「その通りです。わたくしを守りなさい。2度と同じ過ちを犯さぬようにしなさい。わたくしに剣を向けながら死ぬ事を許しません。死ぬならば、わたくしを守って死になさい」

 ハリスはいっそう頭を低くし、目を伏せた。生まれた小さな暗闇の中で、しかしシェリアの言葉は光となって、ハリスの目の前を照らし続けた。

「勿体ないお言葉です」

「わたくしの言葉を、理解しましたか」

「はい」

「ならば良いのです。貴方は、貴方の役目を果たしなさい。わたくしに害成すものは、他の者が始末するでしょう。ならば、貴方が成す事はひとつです」

「はい」

 ハリスは肯き、立ち上がった。ふたりきりの世界の中心に、遠くから届く喧騒が、突き破るように響き渡った。

 見渡すと、暗闇の中にいくつもの篝火が見える。赤い光に照らされた、戦う者たちの背中を見つけ、ハリスは拳を握り締めた。

「偉大なるエイドルードの名を汚さぬよう、偉大なるエイドルードが愛したものを、守ります」

 シェリアは言葉でも態度でも応えず、静かに立ち上がった。だが、ハリスは判っている。疑問を投げかけるでも助言をするでもないならば、納得し、認めてくれているのだと。

「念のため、シェリア様は城内に避難を」

「判っています」

「では、行ってまいります」

 ハリスは背を向けるシェリアに対して一礼し、毅然とした態度で歩き出した。

 途中、拾い上げた自身の剣は同僚の血に塗れていたが、血を拭うと同時に心の痛みも押し隠し、迷いの無い目を先に向けた。

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