守り人の地 14

 リタたちに矢を放った魔物や、それ以外にも羽を持つ魔物がまだ残っていたようで、塔の上に残る者たちに攻撃を仕掛けてくる。ハリスの相手をしているジオールにそれらと戦う余裕があるはずがなく、必然的に魔物たちの対処はリタやシェリアがやらなければならないため、ジオールとハリスの戦いを逐一見守る事はできなくなっていた。

 ジオールがなんとかハリスの攻撃を凌いでいたのは確認していたが、端のほうまで追い詰められている事に気付けたのは、空の魔物をすべて片付け終えたあとだった。ジオールの事だ、逃げ道を探しながら後退していたのだろうが、ハリスのほうが更に上手で、逃げる余裕を与えなかったのだろう。

 リタは少しずつふたりに近付いた。手を伸ばせば届くところまで行かなければならないが、近寄れる雰囲気ではない。苛立ちかけるが、苛立っては負けだという事も判っていて、音を出さないよう深呼吸を繰り返す。

 普段のハリスでは出せないほどに重い一撃がジオールを襲った。受け止めようとしたジオールだが、敵わず、剣は弾き飛ばされ、ジオール自身は床に転がった。

 倒れこんだジオールに向けてハリスが剣を振り上げる。同時に、リタは走った。危険だが、他に機会はなかった。

 自分たちが囮となり、魔物を引きつけ、諸悪の根源を誘き寄せようと考えた時から、全員が無傷で事を収束できるとは思っていない。最悪、生きてさえいればいいと、覚悟の上で臨んでいるのだ。少なくとも、リタとジオールはそうだった。

 はじめて会った時から憎たらしい存在である事は変わらないが、リタにとって、現状で最も意志が通じる、相棒とも言える相手はジオールだった。彼ならば、リタの無茶の意味を判ってくれるだろう。なんとかハリスを引き付け、リタを助けてくれるはずだ。

 そしてどんなに深手を負おうとも、生きていてくれるはずだ。彼はこの戦いに挑む前に、リタと約束した。死ぬ事だけは避けると。だからリタも言ってやった。生きてさえいれば、絶対に助けてやると。

 万が一リタの身に危険が及んだとしても、やはり死ななければなんとかなる。只人を救う事を拒否したシェリアでも、同じ神の子であるリタを救う事は拒否しないはずだ。

 どちらにせよ、深手を負う覚悟は決めていた。もっと余裕がある時ならば、「なぜハリスのためにここまでしてやらなければならないのか」と考えただろうが、今のリタにそれだけの余裕はなかった。

 手を伸ばす。もう少しで、ハリスに届く。

 ジオールの腹に剣が埋め込まれた。ジオールの低い呻き声が耳に届いたが、リタは声をかけてやる事はおろか、心配してやる事もできなかった。

 ハリスは右手でジオールに剣を突き立て、左手で腰から短剣を引き抜き、リタに向けたのだ。

 突然突き出された剣に身を捩り、足を止めたが、避けきれず、勢いも殺しきれなかった。鋭利な刃によって頬に傷が走る。熱と、流れ出る血液を感じながら、リタは一瞬身を竦ませた。

 引き抜く時間も惜しんだか、ハリスは剣ごとジオールを捨て置き、短剣をリタに振り翳す。ハリスはリタにとって、元より実力差が大きい相手であるので、短剣でも充分脅威だった。続けざまに放たれた2撃を避け切った時は、安堵のあまり崩れ落ちたくなったほどだ。

 恐ろしさのあまり、熱い息を吐いた。空腹以外の理由で、これほど死に迫られた経験がなかった事に気付いたのは、息を吐ききった時だった。

 次の一撃は避けきれなかった。胸の中心を狙ったと思しき攻撃を、反らす事で肩に受けたリタは、全身に走った衝撃と熱に、一瞬呼吸を失う。

「リタ様!」

 痛みで朦朧としかけた意識は、ジオールの呼び声で引き戻された。

 深く突き刺さった刃が素早く引き抜かれ、血と共に体力が失われていく。その中で、リタは気付いた。ハリスの目が、すでにリタを映していない事に。

 リタ自身の血に塗れた刃が、リタの目の前に迫る。肩に走る痛みに鈍った頭では深く考える事もできず、リタは本能に従って短剣を避けた。鋭さのない一撃は、避ける事はたやすかった。ハリスは元よりリタではなく、別の獲物を狙っていたのだから。

「馬っ……逃げっ……!」

 いつの間に、ここまで近付いていたのだろう。冷たい眼差しを持つ、戦いの場が不似合いな少女は、リタのすぐ後ろに立っていた。

 ハリスに向けた空色の目には、相変わらず何も浮かんでいない。迫りくる死に、何も感じないのだろうか?

「ハリス」

 少女は可憐な唇から紡ぐ声で、男の名を呼んだ。いつもと同じ、冷たく、揺るぎない、綺麗な声だ。

 シェリアの眉間に埋め込まれるはずだった刃は、寸前で動きを止めた。

 刃先から滴り落ちるリタの血が、シェリアの胸元へとこぼれ落ち、白い服に赤い模様を作り出す。鮮やかに広がるそれは、まるで花のようだ。

「っ……!」

 動かないハリスの背中と、震える腕に見える、葛藤の色。

 彼は戦っているのだろう。外から見えない場所で。身も心も支配しようとする、人の意志では抗えるはずもない、強い闇と。

「馬鹿じゃないの」

 リタは無意識にこぼしていた。

 本当に、馬鹿だ。ハリスも、シェリアも。互いに、相手のためにそれだけの事ができながら、なぜ、触れる事すらできなかったのか。

 シェリアは長い金の睫を揺らして瞬きをしながら、白い手を伸ばした。内なる葛藤を飲み込んだ、男の頬に。

 傷ひとつない細い指は、触れようとして、戸惑う。寸前で動きを止め、触れる事をためらった。

「シェリア!」

 肩を抑えながら、リタは立ち上がった。体中から力が抜けて、思うように動いてくれないが、シェリアの様子を目の当たりにしては、欲求のまま倒れているわけにはいかない。

「シェリア!」

 ハリスから離しかけた手を、シェリアは再びハリスに近付けた。

 それも、葛藤と言えるものなのだろうか。何も感じないはずのシェリアは、無表情でありながら、今、確かに迷いを見せている。腕を伸ばさない、ただ、それだけの行動によって。

 限界が訪れたのだろう。ハリスの口から奇声が上がる。動きを止めていた短剣が、シェリアに向けて振り下ろされる。

 リタは叫んでいた。何を叫んでいたのか、自覚はない。ハリスの名だったのか、シェリアの名だったのか、それとも、ふたりを詰る言葉だったのか。意味など必要なかった。ただ、残された力を振り絞るため、叫ばなければならなかった。

 短剣がシェリアに埋まるよりも、リタの指がハリスの横顔に触れるほうが、一瞬だけはやかった。ハリスの体は吹き飛び、その衝撃で手放された短剣は、あたりに血を撒き散らしながら転がり落ちた。

「ハリ――」

 神の力によって容赦なく際まで吹き飛ばされたハリスの体は、一度強く叩き付けられた程度で、勢いを殺しきれなかった。弾んだ体は、今にも塔を飛び出していきそうだ。

 このままでは遥かな地面へと落下してしまうと判っていながら、自身の考えのなさを責める以外に、リタにできる事はなかった。身に傷を刻みながら救おうとした相手を、こんな形で失うのはあまりにも間抜けだと思いながら、駆け寄る体力も時間も残されていなかったのだ。

 目を覆いかけたリタの視界の端に、落下しかけたハリスの体を受け止める腕が映る。

 リタは苦痛を押し隠して笑みを浮かべ、憎まれ口を叩いた。

「やられっぱなしかと思ったけど、少しは、役に立ったじゃない」

 息を乱し、苦痛に顔を歪ませたジオールだが、リタに返す時は笑みを浮かべていた。

「何もせずに、眠っていては、後で主に、何と言われるか、判ったものでは、ありませんから、ね」

 相手を労わるだけの余裕がないのか、それとも恨みゆえか、ハリスの体を乱暴に床に転がしたジオールは、青褪めた顔に流れる汗を血にまみれた手で拭うと、その場に崩れ落ちる。腹を抉った一撃は、リタが肩に食らったものよりも深手なのは明らかで、溢れる血液の量も多い。

 リタは自身の体を引きずって、ジオールに近付いた。傷口に右手を翳し、唱え、聖なる光が傷を癒す手ごたえを感じながら、隣で倒れるハリスを見下ろした。

 薄く開かれた唇から、深い闇が溢れ出す。肩の痛みをこらえながら左手を伸ばすと、軽く弾けるような衝撃ののち、闇は消えた。

 そのまま手をハリスに近付けた。触れる訳にはいかないので、口と鼻に近付け、呼吸を確かめる。息がある。確かめると、気力で抑えていた疲労が押し寄せ、自然と口元が緩んだ。

「シェリア」

 立ち尽くしたまま動かない姉の名を呼ぶ。

「ハリスはとりあえず生きているみたいだから、とりあえず、あたしの傷、直してくれないかな」

 ぎこちなく振り返ったシェリアは、リタの呼びかけに答え、リタの肩に手をかざした。

 柔らかで温かな光に包まれ、心地良い安らぎがリタの全身を支配する。癒されていく安堵と、何より強い達成感が、強烈な睡魔となってリタを襲ったが、リタはそれを強く首を振る事ではらい、再びハリスを見下ろした。

 伏せられた睫がわずかに動く。

 ゆっくりと瞼が開かれ、覗いて見えた瞳には、間違いなく人のもの――いつものハリスの目に宿る光が、確かに輝いていた。

 リタは皮肉な笑みを浮かべずにはいられなかった。

「シェリアを大事にしてるのは良く判るけどさ、シェリア以外の神の子も、少しは大事にしたらどうよ」

 嫌味のひとつでも言ってやらなければ気がすまなかった。上体を起こしたハリスが、神妙な顔付きで項垂れ、リタの嫌味を正面から受け止める様は、少し気持ちが良かった。

「申し訳ありませんと、謝罪を口にする権利すら、私には残っていないのでしょう」

「確かにそうかもね。いくらあたし付きじゃないとは言え、神の子の護衛隊長が神の子に切りかかるって、冗談でも笑えないし」

「おっしゃる通りです」

「同僚も殺しかけてるし。痛かったでしょ、ジオール?」

「一時は死を覚悟いたしました」

「魔物にやられるなら諦めもつくけど、味方相手じゃね」

 リタとジオールが軽快な口調で嫌味を交わす中、ハリスはずっと頭を下げ続けていた。床に着いた手から腕、体まで震えが走り、額から滲み出た汗が雫となって床に滴り落ちる様を見つけたリタは、わざとらしく息を吐く。

 魔に囚われたがゆえの負担は、心理的なものだけではないのだろう。操られていた死体とは違い、ハリスの身は、多少鍛えているだけの生者のものなのだから。ひと振りで石を砕くなど、本来の肉体の限界を超える力を出し続けていた影響が、出ないわけがない。

 肩の傷が完治すると、リタは無言でシェリアの手に自らの手を重ね、「もういい」と意思表示した。そして視線でハリスを見るように示すと、シェリアの空ろな空色が、ようやくハリスを見下ろした。

「さてと。行こう、ジオール。カイたちの所。傷はもう治ったでしょ?」

「はい。ありがとうございます」

「――私も」

 リタたちが立ち上がると同時に、ハリスも顔を上げた。

「いいよ。そんな弱った体じゃ、あんまり役に立たなそうだし。だからってあたしはあんたを治してあげる気ないし」

 ジオールに着いてくるように合図し、リタは階段へ向き直る。歩き出す前に言うべき事がまだ残っていた事を思い出し、しかし相手の顔を見ながら語るのもしゃくで、背を向けたまま口を開いた。

「まあ、こんな事になったのも、相手を追い詰めるような案を無理矢理通したあたしたちに半分くらい原因があるかもしれないから、傷が消えたのと一緒に、なかった事にしてあげる」

「いいえ、リタ様。それは、なりません」

「あくまでも、『あたしとジオールが』許してあげるだけ。あんたの今後にとって、一番の強敵がまだ残ってるんだから、覚悟しておきなよね。感情なんかに左右されずに、正しくあんたを裁いてくれるだろうからさ」

 リタは、リタの足元に膝を着いたままのシェリアを見た。行き所をなくした手を、膝の上に重ねた少女は、リタの話を聞いているのかいないのか、ハリスを見つめたままだ。

 シェリアとハリスを置き去りに、リタはジオールの腕を引いて走りはじめた。

 ふたり分の渇いた足音が慌ただしく響く中、残したふたりが交わす言葉は聞き取れそうにない。少々惜しいと思うものの、これでいいのだという満足感が、確かにあった。

「本当にハリスの首が切られたらどうします」

 リタと並んで階段を駆け下りながら、ジオールが問いかけてくる。

「あのまま死なれるのは後味悪くて嫌だったけど、普通のハリスが職を失おうと処刑されようと、あたしにはどうでもいい事。シェリアが好きに決めればいいよ。ただ」

「ただ?」

「シェリアの護衛隊長が勤まるの、あの馬鹿しか居ないと思うんだよね。あたしが聖騎士だったとしたら、絶対にお断り」

 ジオールは小さく吹き出して笑った。珍しい事もあるものだ。

「おっしゃる通りです」

「あ、ジオールが馬鹿って言ってたよって、あとでハリスに言ってやろうっと」

「どうぞご自由に。痛くも痒くもありません」

 平然と言い切るジオールを、リタは冷たい目で見た。

「今は一応、あっちのほうが上官なんじゃないの?」

「愚痴や文句のひとつも許さないほど、狭量な上官ではありません。しかも、今は私の方が心理的に立場が上です」

 やはり平然と言い切るジオールに、リタは吹き出さずにはいられなかった。

「それは間違いないだろうね」

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