守り人の地 8

 元より広い部屋であったから、ふたりの部屋になったところで不便はなかった。あえて問題をあげるなら、寝台がひとつしかない点だが、女同士――しかも一応は姉妹だ――である事と、互いが四肢を伸ばして寝たとしても指一本触れあわないだろう大きさを考慮すれば、気にするほどではない。

 聖騎士や使用人たちがシェリアの荷物をリタの部屋に運び終えると、ようやく静けさが戻ってくる。窓の外や扉の向こうに聖騎士たちが構えている気配が少々気になるが、状況を鑑みれば、贅沢を言う気にはならなかった。何か問題が起こらない限り騒がしくする事はないであろうから、それまでは気にしないふりをしてくつろげばよいだろう。

 気にしないふりができないのは、むしろシェリアに対してだった。いくつかある椅子のひとつを占領したシェリアは、まるで同部屋に他者の存在がないかのように、黙々と読書を続けているのだ。シェリアはそういう娘なのだと幾度も説明を受けているし、目の当たりにした事も幾度かあるので、気にするだけ無駄なのだと思いつつも、慣れていないリタにとってはやはり気になる対象だった。

 リタはいくらか距離を置いた椅子に腰掛け、本に視線を落としたきり、まばたき以外では微動だにしない姉の顔を眺めた。

 紙をめくる音がときおり響き、緩慢な時の流れを刻んだ。

 自分も何かをして時間を潰すべきだろうか、とリタは考えた。せっかく大神殿を出たのだから、勉強などはあまりしたくはないが、姉の様子を眺めているよりはよほど有意義な気もする。

「わたくしのどこかに、おかしいところがありますか?」

 シェリアは顔を上げず、本を読み進める視線も動かさず、可憐な声を響かせた。部屋の中には他に誰も居ないのだから、リタに話しかけたのだろう。

「いつも通りじゃない?」

「ならば、どうしてわたくしを見るのです?」

 リタは肩を竦めた。

「あたしがあんたを見てる事、気付いてたんだ」

「はい」

「だったらもっと早く言えばいいのに」

「見られていても問題はないと考えました。ですが、あまりにも長い時間でしたので、わたくしに観察すべき問題があるのかもしれないと考えなおしました」

 無意識に力が入っていた肩をほぐし、リタは答えた。

「大丈夫。なんの問題はないよ」

 輝くばかりに美しい容姿も、並の人間には理解できない思考や行動も、観察する価値は充分にあるのかもしれない。だがそれらはいつも通りのシェリアでしかないので、彼女が問いたい事ではない。

「そうですか」

 シェリアの感情の無い眼差しが、不思議な生き物を見るかのような冷たいものに感じるのは、被害妄想なのだろうか。

 理由や原因がどうであれ、リタはシェリアの目が好きではなかった。一級の硝子細工のように綺麗だとは思うが、ただそれだけだ。全てを見透かしておきながら、何も理解しようとしていないようで、リタの胸の内に悲しい光を呼び起こす。

「選定の儀まで、あと1ヶ月と少しだね」

「そうです」

 沈黙に耐え切れなくなり、リタは話を切り出した。天気の話よりはシェリアの気を引けるだろうと思っての事だったが、あまり意味はなく、シェリアの返答は素っ気ないものだった。

「カイに選ばれたら、どうする?」

「意味のある質問とは思えません。その答えは、元よりひとつしかないはずです」

 迷いなど微塵もない、羨ましくもあり悲しくもある回答に、リタは歪んだ笑みを口元に浮かべる。

 選ばれてしまったのなら、答えはひとつしかない。リタだって同じだ。だが、そこには必ず葛藤や不安がついてまわるだろう。そういった、感情的な意味も含めての「どうする?」だったのだが、シェリアには理解できなかったようだ。

「じゃあ、逆。選ばれなかったら、どうする?」

 問いの形を変えても、さほど意味はないと思っていた。シェリアの中には揺るぎない答えがあらかじめ用意されていて、先ほどと同じように、ためらいなく口にするに違いないと。そう思いながらも問いかけてしまったのは、シェリアの答えを聞けば、リタの中にある悩みが少しは解消できるかもしれないと、かすかな希望を抱いてしまったからだ。

 だが、シェリアの反応は予想と違い、すぐに返答が返ってこなかった。表情をまったく変えない様子が、どうしようもなく困惑しているように、リタの目に映った。

「判りません」

 それが、いくらか時間を開けたのち、紡がれた答え。

 思わず立ち上がったリタは、唇を薄く開きながら言葉を模索したが、温い息を吐く事しかできなかった。

「その問いは、今までわたくしの中に存在していなかったのです。考える必要もありませんでした。わたくしは――」

「失礼いたします。シェリア様、リタ様」

 扉を叩く音と、扉の向こうから名を呼ぶジオールの声が、シェリアの言を遮った。

「どうぞ」

 答えのない問いで追い詰めてしまった罪悪感がごまかせる気がして、リタは安堵しながらジオールに応える。

 扉が開くと、若い女性と共にジオールが現れた。ジオールが目で合図すると、使用人と思わしき女性は、礼をしてから部屋の中に入ってくる。

「突然、何?」

「先ほどの騒ぎでお疲れのおふたりに、何かお飲み物を運ぶようにと、ハリス隊長より指示があったようです」

「へえ。あいつもけっこう気が利くんだ。ちょうど喉渇いてたから助かった。いい香りだね?」

 リタは女性が手にする盆に顔を寄せ、軽く鼻をひくつかせた。

「ザールの名産です。お気に召しましたら、城の者に言い付けてください。何度でもご用意いたします。茶葉も準備いたしますので、セルナーンにお戻りになられてからも、どうぞご愛飲ください」

「ありが……」

「なぜ、ふたつあるのです?」

 茶器に手を伸ばしかけたリタは、突然シェリアが声を発した事に驚き、振り返った。

 さらりと揺れた金の髪が、燭台の明かりを反射して煌めく。

「シェリア様と、リタ様に、ご用意するようにと……」

「ありえません」

 力のない、しかし揺るぎない空ろな眼差しに真っ直ぐに見つめられた女性は、大きく動揺していた。女性の反応に、はじめてシェリアと対面した時を思い出してしまったリタは、同情を交えて深く長い息を吐く。

「ありえないって?」

「わたくしは頼んでおりません。ですから、ハリスがそのような指示を出すはずがないのです」

「何言ってんの。頼んだ事しかやらないのは、ただの無能じゃな……」

「やはりそうでしたか」

 落ち着いた低い声がリタの言を遮る。それから、固いものが絨毯に落ちる音、食器が割れる音、女性の悲鳴が続いた。

 まだ熱い茶がこぼれて湯気を上げる絨毯の上に、割れた食器と空の盆が転がっていた。その向こうでは、女性の腕を捻り上げたジオールが、厳しい眼差しを女性に向けている。

「失礼いたしました。すぐに片付けますので、少々、離れていただけますか」

「え? あ、うん」

 突然のジオールの態度の変化に驚いて、呆けかけたリタの目に映ったのは、女性の表情が一瞬にして醜く歪む様だった。

 濃い闇の気配が漂いはじめた。

 女性の細い腕が不自然に盛り上がり、ジオールの手を掃おうと振り上げられる。ジオールは顔を顰め、女性の攻撃を避けると、細い体に当て身を食らわせた。

 剣を引き抜いたジオールは、足がもつれて床の上に倒れ込んだ女性に向け、剣を振り上げる。

 か弱い女性とは思えない素早い動きで、女性は床を転がりジオールの剣を避けて立ち上がった。ジオールとリタを警戒するように、一定の距離を置いて立ち、低く唸っている。

 白い手が、女性の横から伸びた。

 普段から気配がほとんど無い。足音も、騒ぎの中でかき消える程度にしか立てない。そんなシェリアが女性に近付いていた事に気が付かなかったのは、リタだけではないのだろう。

 悲鳴というよりは、奇声といったほうが良いだろう。低く、高く、波を持って響く声を上げながら、女性の体は吹き飛んだ。人にも魔物にも抗う事のできない力によって壁に叩き付けられ、ぐったりと崩れ落ちる。

 リタは床を蹴り、女性の傍に膝を着いた。力なく開かれた小さな唇から漏れ出てくる黒い靄を視認し、素手で払うようにすると、神の力が闇を消し去る感覚があった。

 おそるおそる、倒れる女性に手を触れた。リタを守る力は働く様子はなく、女性がすでに魔の眷属ではない事が判った。もうひとつ、ランディと同じように、生命活動を行っていない事も。

「この人も、魔物に操られていたって事?」

 リタの隣に膝を着いたジオールは、はっきりと肯いた。

「他にも居るかもしれないと言ったそばからこれでは、城の者たちをどこまで信用してよいか判りませんね。全員調査をするにも、これほど見事に普通の人間を装うならば、正確な判断は難しいでしょう」

「うん。女の人なら、あたしたちが触るだけで簡単に判るんだけど……遺体が操られてるって事は、3日前の犠牲者ばかりって事だよね。だとしたら、ほとんど男の人だろうし。罪もない男の人に、1度吹っ飛ばされてくださいって言うのも、気が引けるなぁ」

「お優しい事です。叶うならば、その情けを私の部下にもかけていただきたかったのですが」

 リタは一瞬だけ息を詰まらせた。

「古い話を引っ張り出さないでよ。あれはあんたたちがあたしを苛立たせたのが原因でしょ」

 言い訳に対する反論は一切なかった。無表情で肯いて受け止めるその様が、馬鹿にされているように思えて腹が立ったが、ここで怒りを表面に出しても余計に惨めなだけだろうと、リタは判っていた。

「さてと。どうするの? あたしたちを殺しにきた人たちを、片っ端から退け続けるってのは、無理があると思うんだけど。下手すると、向こうは手駒を増やすために、更に犠牲者を増やすかもしれないし。あんまり悠長にして、ザールの民すべてが魔物の手先になったりしたらどうするの」

「私もそれを考えておりました」

「珍しく気が合うね。じゃ、多少の無茶してでもさっさと片付けるのが、ザールのためにも、あんたたちのためにも、あたしたちのためにも、いいんじゃないかって思ってるのも、同じかな」

 満面の笑みをわざとらしく浮かべ、リタはジオールを見上げる。

 ジオールは表情こそ変えなかったが、明らかにため息と判るものを吐きだした。

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