守り人の地 6

「ルスター……」

 蜂蜜色の髪の男は、驚愕に目を見開いて、ハリスの腕の中の少年を見下ろしていた。けして自身を見ない視線に責められているような気がして、ハリスはわずかに目を反らす。

 ルスターと同じ色と質感の髪を持つこの少年が、彼が幾度か語った甥である事は明白だった。それ自体ありふれた特徴ではないし、端整な顔立ちもどことなく似ている。初めて出会った頃、まだ十代半ばの少年だったルスターを、髣髴とさせるのだ。

 通路に倒れていた聖騎士を診ていたリタが、ハリスに気付いて立ち上がり、驚きの目でランディを見る。呆然と立つルスターの横をすり抜けてランディに手を翳すが、何も唱えようとはしない。

 リタはごくりと喉を鳴らし、そっと少年の頬に触れた。

 まだ成人をむかえていないとは言え、ランディは男だ。通常ならば神の力によって弾き飛ばされるはずである。だが、力は発動しなかった。それが意味するところを知っているリタは、目を細めて顔を反らす。

「何が、あったのです? なぜ、ランディが、シェリア様のお部屋で死――」

 悲壮を内に押しとどめ、それでもなお震えるルスターの声が痛々しく、ハリスは眉間に皺を寄せた。

「私が到着した時にはすべて終わっていたが、シェリア様のお話によると、彼が部屋の扉を壊して侵入し、シェリア様を襲ったそうだ。おそらく、シェリア様の守りに当たっていたオルトを殺害したのも彼だろう」

「そんな」

「嘘だ」とでも口にして、否定したかったのかもしれないが、シェリアが嘘をつくような娘ではない事を、シェリアと対面した経験がある者ならば誰でも知っている。苦悶の表情を浮かべ、頭を抱えたルスターは、未だ通路に倒れたままの聖騎士オルトに視線を落とした。

 青年の身に外傷は少なく、目に付くものは首を抉った傷のみだが、致命傷なのは明らかだった。勢いは衰えたものの、いまだ血は滲み続け、鮮やかな赤い絨毯を赤黒く染めあげている。

 ハリスは彼の血の跡を視線で辿った。はじまりは、鍵が壊れて開いたままの扉にあり、扉を死守するために体を張った青年の信念が見えた。

「シェリア様がおっしゃったのです。真実である事は疑いありません。ありませんが、まさかランディがそのような事を――いえ、仮に、ランディが、シェリア様に狼藉を働くような人物だったとしても、実力的に可能とは思えないのです。オルトはハリス殿の優秀な部下のひとりではありませんか。彼を、一撃で、などと。しかも、武器すら持たずに」

 ハリスはランディの遺体をルスターに引き渡すと、部下の傍に膝を着いた。

 死の瞬間、大きな苦痛に見舞われたのだろうか。それとも使命を果たせなかった悔恨によるものだろうか。見開かれて血走った目は痛々しく、ハリスは静かにオルトの目を閉じさせた。

 そして祈る。天上にはすでに神はないが、それでも、この青年の死後が安らかであるように、と。

「君の言う通りだ。いくら彼が、守り人の町の領主となるべく幼い頃から鍛錬を重ねていたとはいえ、帯剣した聖騎士を相手に素手で、などと」

「でも、だったらどう説明するんだ。この状況を」

 ルスターの代わりとばかりに、カイが問いかけてくる。

 力なく投げ出されたオルトの両腕を、彼自身の胸の上で重ね合わせ、傍らに落ちていた剣を握らせてから、ハリスは立ち上がった。

「シェリア様はこうもおっしゃいました。彼は、魔獣の眷属であった、と」

「そんっ……な……」

 元より白いルスターの顔が、より蒼白に変化した。周りに人がおらず、ランディを抱いていなければ、崩れ落ちていたかもしれない。

「ちょっと待てよ。いくらなんでもそれはないだろう」

 カイは立ち尽くすルスターやリタを押しのけて、ハリスの正面まで近付いた。

「彼が魔物だったって? ルスターさんの甥だろう? いつから魔物だったって言うんだ?」

「人の子は人、魔物の子は魔物です。ルスターが人である以上、ルスターの親族であるランディが生まれた時から魔物であったとは考えられません。ならば、どこかで魔物と入れ替わったか――あるいは、ランディ自身が魔物へと変化したと考えられます。どちらにせよ、エイドルードの結界が弱まりつつある、ここ数年のうちでしょう」

「人が魔物に変わるなんて、ありえるの?」

「判りません。ですが、すべての魔物は、元はただの動物であったといいます。魔獣が封印される以前の時代に、魔獣の邪気にあてられ、魔物へと変化してしまったのだと。天上の神亡き今、魔獣にもっとも近きこの地ならば、かつてと同じ悲劇が起こる可能性があってもおかしくはないと、私は考えます」

 ルスターは腕の中にある甥を抱く力を強め、固く目を伏せた。兄の死後、故郷を顧みる事なく聖騎士であり続けた事を、後悔しているのだろうか?

「言われてみれば確かに考えられる気がする。けど、なんか、違う気がする」

 力強く言い切ったのはリタだった。現実から目を反らしたいがゆえに適当に口走ったならば、軽く流すべき発言だったが、空色の双眸には揺るぎない自信が輝いている。その輝きは、カイが彼女を後押しする発言を続けた事で、より強いものとなった。

「俺も違う気がする。姿を人間そっくりに変えられる魔物の存在も、魔物になってしまった人間も、俺は今まで見た事ないけど、居てもおかしくないかもしれないとは思った。でも魔物は、死んでからも魔物じゃないのか? 俺は、ランディから魔物の気配を感じない。根拠は、魔物狩りとしてのカンしかないけどな」

 ハリスはカイの言葉を、肯く事で受け止めた。

 感覚的にはハリスも同じものを感じている。倒れているところをはじめて見た時から、ランディの遺体は、普通の、少年の遺体としか思えなかった。だが、ならばなぜ、と考えてしまうと、無条件で賛同するわけにはいかなかった。

 それに、ランディが魔物であったとすれば、合点がいくのだ。特別優れたとは言えないまでも、魔物たちが知恵を駆使した事や、魔物の中に人の影が見えた事に。

「以前のランディを存じませんので、勝手な思い込みかもしれませんが、まるで先ほど倒れたばかりのようですね」

 考え込むそぶりを見せ、常に沈黙を保っていたジオールが、ルスターのそばに歩みより、ランディの顔を覗き込んだ。

 彼の言葉に釣られ、その場に居た全員が、ランディを見下ろす。

「あ、そっか。そういう事か!」

 リタが合わせた両手が、小さく音を立てた。

「何がです?」

「あたし、さっき言ってたじゃない。3日も眠りっぱなしの人ってこうだったかなぁ、って。今ジオールが言ったのと同じ事だよ。なん何て言うか、綺麗すぎる。丸3日寝込んでいた割に、ちっともやつれてる様子がなくて、健康的なくらい。それに――ああ、そうだよ。ランディには、あたしの力が少しも効かなかった。あれは、あたしが未熟なせいじゃなくて……」

「その時にはすでに死んでいたって事、か?」

 カイが推理を口にすると、リタは小さく肯いた。

「具体的にいつなのかは、王都に居たあたしたちに判るはずもないけど、多分、3日前の魔物との戦いで命を落としてて……その後、遺体が操られてしまったんじゃないかな」

 ハリスはリタの発言からシェリアの言を思い返し、息を飲んだ。

 シェリアは言っていた。使者が吐き出した闇の気を、神の力で祓ったのだと。ハリスは今まで、魔物の遺骸から闇の気が吐き出される様を見た事がない。

「そうかもしれません。シェリア様は、倒れたランディ様から闇の気が吐き出され、それを祓ったとおっしゃりました。他の魔物が闇の気をランディ様の遺体に送り、操っていたため、シェリア様の目には闇の眷属と映った。そして今、シェリア様のお力によって解放されたからこそ、私たちの目には普通の人間としか映らない」

「どうして、そのような……」

 ルスターはランディを抱く手に更なる力を込めた。その手が震えているのは、悲しみや後悔からではなく、怒りによるものなのだろう。魔物は、まだ若い少年の命を奪っただけでなく、その死を冒涜したのだから。

「怪しまれる事なく城の中に入る手駒が欲しかったから、かな?」

「普通に考えたら、多分そうだと思うけど……」

「3日前かそれ以前から城へ侵入しておきながら、最初に狙った相手は城に住む誰かでなくシェリア様であった事を考えると、3日前の魔物の襲撃が、そもそも神の御子を誘き寄せるために行われたものだった、と疑うべきかと」

 ジオールの提案に、ハリスは強く肯いた。唇をきつく引き締め、腕を組んで考え込むリタを一度見下ろした後、再びジオールに向き直る。

「他に目的があり、城の中で機会を窺ううちにたまたま神の御子が現れたから狙った、とも考えられますが、ともかく御子の護衛の強化は必須でしょう――ルスター」

 名を呼ぶと、ルスターは蒼白の顔を上げた。

「判っているな」

「はい」

 肯くルスターは、故郷の危機と身内の死によって過分に動揺していたが、けして取り乱してはいなかった。ハリスは胸の内で安堵しながら、震えを抑えた低い声に込められた悲壮な決意を受け止めると、薄い笑みを浮かべながら肯く。

 通常通り振舞えるならば問題はないだろう。魔物の正体はまだ知れないが、カイの護衛であるルスターがやるべき事は、通常となんら変わりないのだから。

 それよりも、問題は自分たちだ。

「ジオール殿。今回の魔物、正体はまだ判りませんが、我々は普段以上に注意が必要なようです」

「無論、承知している」

「なんで?」

 リタが大きな目を更に見開きながら首を傾げると、ジオールは真剣な眼差しでリタを見下ろした。

「相手が人並みの知恵を持っているからです」

「それだけ?」

「人並みの知恵を持つという事は、道具が使えるという事です」

 ハリスは歯を食いしばり、開け放たれたままの扉の向こうで、読書を続けるシェリアを見つめる。横顔は優雅かつ静かで、つい先ほど襲撃された事が嘘のようだった。

 同じ護衛隊長であっても、ハリスやジオールがすべき事と、ルスターがすべき事の間には、大きな差が存在している。ハリスたちが守る相手が神の娘であり、ルスターが守る相手は神の息子である点だ。

 神の娘には、3つの力が与えられている。魔物を裁く聖なる雷と、正しき者を救う癒しの光と、害するものを撥ね退ける守護の力。受動的に働く守護は強力で、本人の意志など関係なく、魔物はけして神の娘に触れる事はできない。

 ゆえに、守るべき人が魔物によっては絶対に傷付かないとの前提があるため、ルスターに比べてハリスたちの精神的重圧は軽いのだ――相手が、特に知能もない普通の魔物であったならば。

「あんたはあたしを素手で殴り殺せないけど、切り殺す事ならできるって、そういう事だよね。言いたいのは」

「ご冗談でも、そのように不穏なたとえはご遠慮いただきたいのですが」

「でも、間違ってないでしょ?」

 ジオールはわずかに沈黙した後、肯定した。

「はい」

「判った。じゃ、今すぐシェリアをあたしの部屋に移そうよ。扉がない部屋ってのもどうかと思うし、あんたたちも、守る相手が一箇所に固まっていた方が、見張りとかに割く人数少なくてすむでしょ。ザールの救援に来たのに、あたしたちの護衛にばっかり人手を回すのも失礼だしね」

「お心遣いありがとうございます」

「それに、いざとなればあたしがシェリアを守れるし。ね? 緊急事態だから、あたしも帯剣していいでしょ?」

 はじめからそれが目的だったのではと疑うほどに、リタの強気な眼差しは清々しく、対してジオールの無表情な眼差しは徐々に疲労を帯びていった。

「承知いたしました。では我々は、リタ様が抜刀する事なきよう、最善の努力をいたしましょう」

 それはジオールなりの精一杯の反論だったのかもしれない。リタの表情に小さな陰りを見つけた時、ハリスは直感でそう思った。

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