追想 8

 耳を塞いでも、扉の向こうから雑音が届いた。

 それでも、耳を覆う両手に意味がないわけではない。扉の向こうの人物が何を叫び、リタに何を伝えようとしているのか、聞き取れなくなっているだけで充分だった。

 カイに酷い事を言ったのかもしれないと、悔やむ気持ちはある。しかし、再びカイを室内に迎え入れる決意はとうとう湧いてこないまま、やがて扉を叩く音がやんだ。

 手を下ろしても、カイの声は聞こえてこない。遠ざかる足音は、すぐに消えた。

 寂しいとは思ったが、安堵のほうが強かった。気持ちが混乱し、自身の事でありながらろくに説明もできない今、取り乱したところを誰かに――カイに、と言うべきか――見られたくなかったのだ。

 淀む感情と共に肺の中の息を吐き出し、窓の外を眺める。光り輝く白と緑の世界。視界に飛び込んでくる創られた美しい光景は、どこかシェリアに似ている気がして、リタは静かに目を伏せる。

 己の中で渦巻く感情の半分が、嫉妬である事は自覚していた。カイとの事を抜きにしても、リタはシェリアを妬んでいる。

 持って産まれた美貌や能力を磨きあげ、神秘的な存在となったシェリアは、多くの者に傅かれ、それをあたりまえに享受している。大切に愛しみ育てられた事が、はじめからリタとは違うという事が、ひと目で判るのだ。

 ではシェリアと同じように人形となるべく育てられたかったのかと問われれば、答えは否に決まっている。あんな風にはなりたくないと思いつつ、それでも羨む自分は愚かだと、頭では理解している。まったく、心とは勝手なものだ。

「……誰」

 扉が叩かれる音に顔を上げる。カイが戻ってきたのだろうかと身構えたが、続いて自分の名を呼ぶ声は、別人のものだった。

「リタ様、よろしいでしょうか?」

 リタはしばし逡巡したのち、扉に近付いて鍵を開けた。

「どうぞ」

 リタの返事から一瞬遅れて扉を開けた人物が、リタは苦手だった。

 娼館で育てられ魔物狩りとして生きてきたリタに、堅物を絵に描いたような男を好む理由はない上、リタが神殿に拘束されてからの十数日の間、何十回と挑戦してきた逃走劇の幕を下ろす役目は、常にこの男が担っていた。その事実は確実に、好意を抱けない理由のひとつだ。

 リタは苦手意識を反映させた眼差しをジオールに注いだが、ジオールは気にする様子もなく、室内に足を踏み入れた。

「何か?」

「今後のご予定についてお話させていただくため参りました」

「予定も何も、ずっとここに居る以外に、あたしにやる事はあるわけ?」

 意味がないと知っていながらも、口を吐く言葉には自然と嫌味が混じったが、ジオールは何事もなかったかのように平然と肯くのみだ。

「ふた月後の16日、選定の儀が行われます」

「なんなの? それ」

「地上の民のそれとは意味も形式も大きく異なりますが、婚姻の儀にあたるものとお考えください」

 リタは元より大きな目を更に見開いてジオールを凝視すると、今度は目を細めてきつく睨みつけた。

 大神殿に捉えられてから今日まで、ジオールや、聖騎士団長や、リタの身の回りの世話をする女官たちの口から、神の娘の役割とやらの説明を受けてはいる。

 だがリタは、それを承諾した覚えは一度としてないのだ。よく判らない儀式とやらに、リタが参加する前提で話を進められては、不愉快だった。

 もっとも、それがジオールなのだと、納得している自分にリタは気付いていた。神の娘リタの身を守り、リタに神の娘としての義務を果たさせる事がジオールの役目で、彼は役目を律儀に務め上げようとしているだけ。つまりは融通の効かない人間であるという事で、やはりこの男は苦手だと、改めて納得しながらリタは肩を竦めた。

「単純にカイとシェリアが結婚するってだけじゃないなら、どうなるの? 神の娘はふたり。でも、神の息子はカイひとり。カイは両手に花なわけ?」

「いいえ。ゆえに、選定の儀が行われます。儀式の中でカイ様は、伴侶たる神の娘を選ばれるのです」

 淡々と語り終え、沈黙を守るジオールとの間に産まれた複雑な沈黙を掃ったものは、リタの深いため息だった。

「なんだか不公平な気がする。選択権は息子のほうにあって、あたしたちには一切ないんだ」

「そうとも言い切れません」

 咄嗟に紡がれたジオールの言葉に反応し、リタは真摯な眼差しを男に注いだ。

「リタ様とシェリア様には、カイ様には元より存在していない拒否権が残されておりますが、シェリア様がその権利を行使する事はありえません。それを利用すればよいのです。残された2ヶ月弱の時間のすべてを用い、選定の儀で選ばれないようカイ様を拒絶し続ける事も、選ばれるようカイ様と仲睦まじく過ごされる事も、自由に行えます。これは、貴女に選択権があると同意ではないでしょうか」

 ジオールの説明に、リタは納得していた。

 カイに選ばれたければ先ほど追い出した事を謝って、仲良く過ごせばいい。選ばれたくなければ、このまま拒否し続ければいい。カイはおそらくリタに無理強いする事をせず、残された選択肢であるシェリアの手を取るだろう。

「でも、それって、あたし酷すぎない? 自分勝手すぎると言うか」

「たとえカイ様が貴女の身勝手さを責めたとしても、人の心など時の流れの中で簡単にうつろいます。類まれなる美貌の持ち主であられるシェリア様は、常に従順にカイ様の傍にあられるでしょうから、そのうち愛情が生まれる事でしょう。そうなればいつか、貴女を忘れ、自分の選択は正しかったのだと、納得される日が来る」

 それはそれでおもしろくない。

 と、感じてしまっている己を自覚すると、カイの事をどう想っているかも同時に自覚せざるをえない。リタはジオールの視線から逃れるように背を向けた。

 嬉しいと思った気持ちを、なかった事にはできない。共に戦った事。リタに秘められた力を知りながら、距離を埋めようと努力してくれた事。リタ個人に興味を抱き、話を聞いてくれた事。こんな得体の知れない人間に、手を差し伸べてくれた事。その手が触れあい、温もりを分けあった事。それらすべてが嬉しくて、温かい気持ちになれた。苦しい時、辛い時、アシュレイ・セルダが残したメダルを抱き締めた時に湧き上がるものよりも強く、リタの気持ちを軽くし、支えてくれたのがカイだった。シェリアではなく自分を選ぶと言ってくれたカイの言葉も、本当は嬉しかったのだ。

 どうすればいいのかが判らない。ひとりで生きていくか、それができないならば死ぬしかないと悟った日から流れた時間が長すぎて、思考も、感情も、何ひとつ整理がつけられない。だというのに、運命はあまりに唐突すぎる。

「もし、もしも、その選定の儀でカイに選ばれなかった場合、どうなるのかな」

 ひとりごとのように小さな声であったが、ジオールは迷わず回答をくれた。

「カイ様が選ばれた方とカイ様の絆はより深まり、カイ様が選ばれなかった方はカイ様との絆を失うと、そうお聞きしております。エイドルードより授かった力のひとつを失う、とも。エイドルードが大司教に残された言葉の中に、失う力が具体的にどれであるかを示すものはなかったそうですが――おそらくはカイ様以外の異性や魔物を拒絶する、守護の力でしょう」

 リタは自分自身のてのひらを見下ろした。

 一時は心の底から、今も心のどこかで、忌々しいと思い続けていたものが、失われる。

 念願が叶うかもしれないというのに、リタの中に歓喜は生まれなかった。

「それって、本当の意味で自由になれるって事なのかな。カイ以外の誰かを、選ぶ事ができるようになるって事だよね」

「力がひとつ失われようとも、リタ様がエイドルードの御子であられる事は変わりません。相手の人格や地位に対して口を出す者も存在するでしょうが……」

「でも、確実に可能性は広がる」

「はい」

「でも、その時になったら、カイは絶対に選べない。カイはシェリアだけのものになるから」

 2ヶ月にも満たない短い時間の中で、リタは選ばなければならない。カイとの未来か、カイの居ない未来か、そのどちらかを。

 どちらを選んでも、少なからず後悔するのだろう。けれどいつかは、身を焼くような悔恨から、解放される時がくるに違いない。

 結果が同じならどちらを選んでもいいとは、リタは思わなかった。可能な限り悩み、考え、より後悔しないほうを選びたいと。けれど今のリタには、未来の自分が抱く想いなど想像も付かず、選ぶべき答えはまったく見えてこなかった。

「やっぱり、2ヶ月は短いなあ」

 誰に投げかけるでもなく、ひとり言として呟いたのだが、ジオールは頭を下げた。

「申し訳ありません」

「いいよ。あんたに謝られても、どうしようもないから。だから謝る代わりに、用件済んだらとっとと出て行ってくれる? ひとりで考える時間が、少しでも長く欲しいんだ」

「はっ。失礼いたしました」

 ジオールは再び礼をし、部屋をでるために扉を開ける。その扉が再び閉まるよりわずかに早く、リタはジオールを呼び止めた。

「少なくとも選定の儀が終わるまで、もう逃げようとは思わないから、安心して」

 振り返ったジオールは、仏頂面の中に多少の驚愕を混ぜ込んで、リタを見下ろしていた。正直なやつめ、と心の中で叱咤したリタが背を向けた頃に我を取り戻し、再び礼をする。

 扉が閉まり、かすかな靴音もすぐにかき消えると、リタは倒れ込むように寝台に身を放った。柔らさに包まれて目を伏せると、遠い町の優しい光景が次々と蘇り、リタは薄い唇で微笑みを模った。

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