追想 7

 リタの部屋は、窓の位置とそこから見える景色以外に、カイの部屋と大きな差はなかった。並べられた調度品も配置もほとんど同じで、女性の部屋らしく大きな鏡が備え付けられている事が、一番の違いと言ってよいだろう。おかげでさほど戸惑わず、リタを椅子まで導く事ができた。

 落ち着いたのかただ泣き疲れただけなのか、触れる肩の震えは止まりはじめていて、カイは安らかな気持ちで少女から離れ、正面に腰を下ろす。

「ごめん。すごくみっともないところ見せた」

 頬に残る涙の跡を消し去ろうと、リタは懸命に頬を拭う。

「みっともなくないって。リタが言わなければ俺が言ってたし、リタが泣かなかったら俺が泣いてたもしれない」

 慰めではなく本心だった。リタが聖騎士たちに怒鳴りつけた時は、先を越されて悔しいとさえ思っていたくらいなのだ。

「ありがとう」

 だから、リタが可愛らしい微笑みを浮かべながら感謝の言葉を口にした時、カイはいたたまれない気持ちになった。なんと返すべきか判らなくなり、無言で頭を掻いていたカイは、さほど間を空けずに話を続けてくれたリタに心の中で感謝した。

「でも、我ながら、泣くほどの事じゃない気がするんだよね。どうしたんだろう」

「気が緩んだんじゃないか。色々な意味で」

「そうかもしれない。ひさびさに追いかけられる事なく塔の外に出られたし、知ってる顔にも会えたし。同じ部屋の中に居るのに、昨日までに比べて全然窮屈に感じない」

 リタは思いきり体を伸ばし、大きく深呼吸をしてから立ち上がると、緩やかな風が吹き込む窓に歩み寄った。白い道や大聖堂、緑鮮やかな木々を見下ろす穏やかな瞳はそれなりに明るく、昨日までとまったく違うものなのだろうと、カイはおぼろげに感じ取った。

 しばらく風と景色を堪能した後、リタは服の下に身に付けていたメダルを取りだした。父かもしれない男の形見と言っていた、あのメダルだ。リタはメダルを小さな両手で包み込み、祈るように胸に押し当ててから、カイに振り返る。

「神殿に来てね、とりあえず最初に通りすがった聖騎士に、このメダルを見せたんだ。そしたらすぐ、あたしが誰だか判っちゃったみたい。このメダル、代々の聖騎士団長だけが身につけるもので、こんなもの持って失踪したのは、アシュレイ・セルダただひとりしかいないらしくて。裏にね、番号が書いてあるの。78って。これ、持ち主が何代目の聖騎士団長か示していて、78代目の聖騎士団長は、アシュレイ・セルダなんだって」

 ぽつり、ぽつりと、落とすように、微笑みながらリタは言った。

「傷付いて、ぼろぼろになってまであたしを抱いて逃げていた人は……父親じゃなかったんだなあ」

 メダルに向けられた笑みが何を意味しているのか、カイには理解しきれなかった。悲痛を押し隠す類のものではなかったが、現実を優しく受け止めるようにも見える表情は、カイに作れるものではなかったからだ。

「父親だよ」

 リタはアシュレイ・セルダが父親ではなかった事を喜んでいるようにも見え、彼女に対して発するには相応しくない言葉だったのかもしれないが、カイは力強く言い切った。

「血の繋がりなんて関係ない。俺の父親がジークであるように、君の父親はアシュレイ・セルダなんだ」

 聖騎士団に従ってここまで来てしまった以上、自分の身に流れる血がジークのものではないと、認めた事になるのだろう。

 だがそれはあくまで体だけの事だ。カイを動かす心そのものは、ジークによって育まれたものなのだ。だから、自分の心の父親は間違いなくジークなのだと、カイは信じている。

 リタとてそうなのだ。幼少期から今日この日まで、彼女の身には苦悩を導く不幸が多く降りそそいだが、それを乗り越える強い心を育んだものは、死の瞬間まで慈しんでくれた、アシュレイ・セルダの存在だろう。

「そうなのかな」

「絶対そうだ」

 メダルを抱く少女の両手にわずかに力が篭った。

「そっか」

 リタは満面の笑みを浮かべる。何かから解放されたように清々しい、華やかな笑み。それは見ているカイをも幸せな気持ちにしてくれるものだった。

 多くの喪失に苦しむ事を繰り返す中、愛された事実が糧となって、リタの笑顔を守ってくれた。そして今のリタがある。カイは名前しか知らない男に、心から感謝した。

 とても幸福な事だ。そう思うと同時に、この幸福を知らない、真に親を持たない少女の顔が、脳裏にちらついた。

 シェリアを許せる日は、はるか遠くにあると思っていた。しかしどうした事だろう。カイがシェリアを思うと同時に胸に湧く感情は、同情が最も色濃いものとなっている。

「リタ。君もシェリアを見ただろう?」

「え? ああ、うん。さっき一緒に居たからね。会話はしてないけど」

「彼女を見てどう思った?」

 自分たちの幸福を思い知ると同時に、ひとりの少女の不幸を思い出す事は、とても失礼なのだろう。判っていながら、カイはリタに問いかける事を止められなかった。

「どうって……」

 リタはしばし言葉を詰まらせる。椅子に腰を下ろしたままのカイを真っ直ぐに見下ろすと、ふいに唇を尖らせた。

「すごく綺麗な子だったね」

「……は?」

 予想外の返答に、カイは間の抜けた声を上げた。

「あたしと双子だってのは、嘘じゃないと思う。もともとのつくりは同じなんだろうなって思うし。でも育ちの違いがはっきり出てるよね。あの子の体にはどこにも傷なんて無いし、肌もずっと白い。手入れが良いからだろうけど、肌はすべすべで髪には艶がある。あたしと違っていいもの食べて育ってるのは明らかだよね。背だって向こうのほうが少し高いし、体つきはずっと女らしいし?」

「いや、それは……」

 残念な事に否定できない事実だったが、素直に肯定するほどカイは愚かではない。だが、素早くさりげない嘘を産みだせるほど器用でもないため、何を言って良いか判らなくなり、結局は肯定と同じ意味を持つ沈黙で返してしまう。

 リタは眉間に深い皺を刻んだ。

「よかったね。あんな綺麗な子と結婚できて。トルベッタ在住のただの魔物狩りだったら、一生お目にかかる事もなかったんじゃないの? あんな綺麗な子」

「いやっ、それは、まだっ……!」

「そうなの? あたし、塔に軟禁されてる間さ、よくシェリアの話聞かされたよ。小さい頃からずっとここで育ったけど、でも今は結婚相手を迎えに行ってるから居ませんって。で、シェリアは、あんたと一緒に帰ってきた。つまり、そういう事なんでしょ」

「違っ……いや、違うわけではないけど、違う!」

 カイは上手く出てこない言葉の代わりに、大げさな身振りで主張する事で、動き続けるリタの口を止めた。

 リタは激昂こそしていないが、間違いなく腹を立てていた。それは彼女に与えられるべき当然の権利で、自分が謝罪すべき事であるとカイは思っている。カイはリタに気があるそぶりを見せ、トルベッタで待つと約束までしておいて、別の娘と結婚する事を前提にセルナーンに来てしまったのだから。

 しかしカイとて喜んでこの状況に甘んじているわけではないのだから、言い訳くらいはしておきたかった。

「色々あったんだ。トルベッタでは」

「まあ、色々ないと、結婚の決意なんてしないよね」

「そうじゃなくて!」

 今度は声を張り上げる事で、リタの言葉を遮った。

「あいつ……ハリスって判るか? シェリアの護衛隊長で、俺が殴った奴だよ。あいつが、トルベッタを助けてほしければ従えって……そりゃ、ひとりでトルベッタを守れない俺の腕のなさが一番悪い事は認めるけれど……」

「酷い人だね。ハリスって」

「ああ」

「でも、そのハリスとの約束を破ったら、あんたハリス以下になるんじゃない?」

 カイを見つめるリタの大きな瞳は、カイが語る言い訳じみた真実など必要としていなかった。経緯や理由などに意味はなく、カイがシェリアとの結婚を承諾してここに来たとの事実のみが、意味を持っているのだろう。

「逃げ道がない状況に追い込まれて、どうすれば良かったんだ」と問い返しかけたカイは、そうしたところで結論の無い口論の火種がこれ以上大きくなるだけだと判断し、必死に耐えながら別の言葉を探した。

「俺は別に、シェリアと結婚すると約束したわけじゃない」

 リタは冷たく目を細めた。

「その言い訳、ちょっと無理がある気がするけど」

「いいや、無理なんてない。俺は『世界を救う』と『セルナーンに行く』のふたつしかハリスに言ってないんだ。つまり俺は、セルナーンで神の娘と結婚すれば、約束を守れる事になる」

「なにそれ。結局同じ事じゃ――」

 カイは立ち上がり、力強い足取りで歩み寄る事で、リタとの距離を詰めた。メダルを抱く手を取り、重なる手をリタの目の高さまで持ち上げる。

 布1枚隔てる事もなく温もりを伝え合うふたつの手を目の当たりにし、リタは頬を染めた。その薄い赤は、カイが言葉にせずに伝えようとした事を、彼女が理解した証だった。

「君だって神の娘だ」

 はっきりと言葉にして伝えると、リタの頬の赤みはいっそう増す。

「言っただろう? 俺だけが君に触れる事ができる理由が偶然ではなかった事、それは俺にとって幸運だったって」

 請われれば死すら拒めない状況で、カイがシェリアとの婚姻を拒否した理由は、いくつもある。だが一番は間違いなく、リタの存在だった。本音を言えば、この先一生を共に生きようとまで考えていたわけではなかったが、偶然の出会いを最後にしたくないと願い、再会の約束を取りつける事ができて本当に嬉しくて――だというのに、約束を放棄しなければならない事実に嫌悪した。

 だからこそ、約束の場所とは違っていてもこうしてもう一度会えた事は、共に歩むとの選択肢が残されている事は、カイにとって最上の幸運だったのだ。

「やだ!」

 首まで真っ赤に染めながら戸惑い続けていた少女は、突如カイの手を振り切って叫んだ。

「今うっかり流されそうになったけど、冷静に考えたら、どっちかならお前とのほうがいいって言われてるだけな気がする」

「な、なんでそうなるんだよ」

 カイは慌てて反論したが、リタは聞き入れてはくれなかった。

「なんでもそんな気がするからやだ! とりあえず、出てって!」

「じゃあ俺はなんて言え……っ」

 リタの誤解はカイにとってあまりに理不尽で、不毛な口論になろうとも今度こそ問いかけてやろうとカイは思った。だがリタは突然全力でカイの肩を押してきたため、体勢を崩されよろけてしまう。

 カイが体勢を立て直すよりも早く、リタはカイの背中を押し続け、しまいには扉の向こうにカイを突き飛ばす。カイが振り返る頃には、すでに扉は閉められていた。

「っと、待てよ、リタ! いくらなんでも一方的すぎるだろう!」

 カイはありったけの力を込めて扉を叩く。ぶ厚い扉を相手に、手を痛めそうになったが、どうせしばらく剣での仕事をする事などないのだから、お構いなしだった。

「うるさい! とにかく帰れ!」

 扉の向こうから聞こえてくる声は、叫んでいるはずだと言うのに、何とか聞き取れるほどに小さい。ふたりの間を遮る力の強さを思い知らされるはめとなったカイは、しばらくその場で粘ってみたものの、やがてリタに折れる気がないと理解すると、諦めてその場を去った。

 今のリタに必要なものは、落ち着くための時間なのだ。そう自分に言い聞かせながら長い螺旋階段を下る足取りは、普段では考えられないほど乱暴だった。蹴り飛ばさん勢いで階段を下りていたため、響き渡る足音は今まで聞いたどの足音よりも激しい。

 そうして周りに当たっても、苛立ちは時間と共に増す一方だ。カイは足を止めて壁に向き直り、踏みつけるように蹴った。踏んで当り前の階段を蹴るよりは少し気分が良かったが、苛立ちが解消されるほどではなく、薄く残った自身の足跡に重ねてもう一度蹴り飛ばした。はあ、と大きく息を吐いて、壁をじっと見下ろす。

「受け取りかたがひねくれすぎだろ……!」

 腹の底から湧きあがる言葉を吐き出したカイは、再び階段を下りはじめた。ゆっくりと繰り返される自身の足音を受け止めながら。

『どっちかならお前とのほうがいいって言われてるだけな気がする』

 足音の中にリタの言葉が蘇る。すると、一度は落ち着きかけた足取りが、再び荒々しく変化した。

「誰もそんな事は言ってないじゃないか」と、カイは吐き捨てるように呟く。すかさず「思ってもいないからな」と続けたのは、自身へ言い聞かせるためだった。

 カイに残された時間がどれほどかは判らないが、そう遠くない未来に、リタかシェリアのどちらかを選ばなければならない。他の選択肢がない以上、心の中でふたりを比較した事は否定しきれないが、悪意があっての事ではないし、リタの言っているように「どちらも嫌だが比較的ましなほうを」とリタを選んだわけではない。

 カイがリタに対して好意を抱いている事はさすがに判ってくれているだろう。ならばリタはどうして、あのようにありえない誤解を抱くのか。

 それが女心というものならば、一生理解できそうにない、とカイは思った。

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