神の娘 7

「何を、馬鹿な」

 気付けばカイは、ハリスの発言を笑い飛ばしていた。

 はじめは小さな失笑だったが、徐々に耐えられないほどおかしくなり、腹を抱えながら声を出して笑ってしまう。

 唐突に現れて、ありえない真実とやらをいくつも並べたあげく、口にした台詞が「大陸を救ってくれ」とは。もはや冗談以外には思えず、笑う以外にどうすれば良いのか、カイには判らなくなっていた。

 いきなり「おまえは神の子だ」と言われて、信じられるわけがない。いや、仮に信じたとして、だ。神の子とはなんなのだ。カイは、自分ひとりだけでは、トルベッタもアシェルも救えなかった事を知っている。神の子の力とは、その程度のものなのだろうか。その程度の力しか持っていない人物に求めるものとして、「大陸の救済」は、あまりに大げさすぎやしないか。

「俺が誰の子供かは、この際置いておきましょう。でも、滅び行く大陸って何です? 滅びの前兆なんて、俺は感じた事もありません。いつ、どうやって、滅ぶんですか。仮に滅ぶとして、俺に何ができるって言うんですか。俺は唯の人です。特別な力なんてひとつも持ってない」

「いいえ。ございます。エイドルードが貴方にのみ授けた――」

「ジークさん! 大変だ!」

 鋭く扉が叩かれ、3人はほぼ同時に振り返った。最も扉に近い位置に居たハリスが開けると、男は白鎧が現れた事にいったん驚いてから、家の中のジークとカイを見つける。

「魔物が出た! しかも、街の中に! 広場のほうだ!」

「門は閉めなかったのか? 見張りは何をしていた」

「物見のやつらが見つけて、すぐに門は閉じたんだ。けど、今日の魔物は空を飛びやがって、壁を越えてきた! 兵士や白鎧の連中が戦ってくれていて、まだ死んだやつは居ないんだが――とにかく、はやく来てくれ!」

 ジークは素早く剣を取り、扉の前に立つハリスを押しのけ、家を出た。ハリスは何か言いたげに口を開いたが、引き止めはせず、家の外に待機していた聖騎士たちに目配せすると、ジークに付き従うように後を追う。

 カイも続いて家を飛び出したが、広場へと駆けていくふたりの背を見送るだけで、走りだす気にはなれなかった。ハリスの話を聞かされて精神的に疲れている事、確実にカイよりも腕が上の男たちが向かったならば大丈夫だと安心している事もあるが、一番の理由は、嫌な胸騒ぎがしたからだった。

 空を見上げた。男が語った通り、コウモリの羽根に似たものを大きく広げた黒い生き物が、広場上空で旋回している。それ以外にもう1匹、まさに今壁を越えた魔物が、近くを通る大通りに飛び込んでいく様子が見えた。

 行かなければならない。父が無理ならば、自分が。

「カイ様! どちらへ!」

 カイと共に残った聖騎士たちが、ジークたちとは逆方向に走りだすカイを引き止めようとする。

「俺に逃げられて困るなら、ついてこい!」

 一喝し、カイは全力で走った。切るように通り過ぎていく風が、トルベッタの民の悲鳴を伝えてきて、無意識に唇を噛み締めていた。

 大陸を救ってほしい、などと言われても、よく判らない。自分にそんな力があるとは、到底思えない。

 だが、これまでカイを守ってくれていたトルベッタを、そこに住む優しい人たちを、救いたい。己の力をすべて振り絞り、トルベッタを守りたい。

 今、カイの足を動かしているのは、カイの中でただひとつ、揺るぎない真実だった。そのためだけに、走る事ができた。

 逃げ惑う人々を掻き分け、道を進み、やがて大きな羽根を持つ異形と対峙する。

 近くで見るといっそう大きい魔物は、対面するカイに畏怖の念を抱かせる。カイは怯む自身を断ち切るように剣を引き抜き、魔物に向けて剣を振り下ろした。

 逃げ惑う女性を追っていた魔物は、カイに対する反応がわずかに遅れる。咄嗟に飛び上がって避けようとしたが、浮き上がった体にカイの剣が掠る。引っかいたような傷跡が魔物の足に残り、その傷口からじわりと青い血が滲み出た。

 魔物は唸り、カイを睨んだが、がむしゃらに突進してくる事は無かった。剣が届かない高さまで浮き上がったまま、牽制している。

 相手が動かなければ、カイも動けなかった。いつ降りてきてもいいように剣を構え、いつでも地面を蹴られるように踏みしめながら、魔物を警戒する事しかできない。

「カイ様、ご助力いたします」

 言われた通りついてきたらしい聖騎士たちが、剣を構えてカイの隣に並んだ。

「それもありがたいけど、沢山居てもどうしようもないから、住民の避難とか、そっちやってくれるとより助かる。とくにさっきまで魔物に襲われてた女の人、多分怪我してるから」

「お任せください」

 カイの周囲から人の気配がいくつか消えた。同時に、魔物が動きはじめた。鋭い牙が並んだ大きな口を開け、逃げ惑う民に突進しようと急降下する。

 即座に反応したおかげで、カイは魔物の降下位置に先回りする事ができた。開かれた口を割くように剣を振るうと、魔物の悲鳴と思わしき奇声が響き渡り、鼓膜を刺激した。

 魔物はそのまま剣を飲み込む勢いで、カイの腕に噛み付いてきた。素早く後退したカイだったが、完全に逃れる事はできず、牙が数本腕に食い込んでくる。

 カイは歯を食い縛った。あまりの激痛に、反射的に悲鳴を上げそうになったが、必死に堪える。魔物狩りであるカイが大打撃を食らったと思われては、民が不安がる。それは避けたかった。

「カイ様!」

 聖騎士たちが切りかかると、魔物は空へと逃げていく。カイは血が溢れ出る右腕を押さえながら、彼らに小さく礼をした。彼らが居なければ、カイは腕を丸ごと持っていかれていたかもしれなかった。

「空を飛ぶ魔物ってのは初めてだからな……俺は投げられる武器って短剣一本くらいしか持ってないんだが、誰か弓とか持ってない……よな」

「残念ながら今集まっている者たちは、剣と、カイ様と同様に短剣を持っている者が居るのみです。ですが集合の指示と共に空中の敵に使える武器を持ってくるよう指示しておりますので、今しばらくお待ちいただければ」

「なるほど。とりあえず、時間稼ぎをするしかないか」

 カイは目を細めて空に浮かぶ魔物を睨む。

 左手で強く抑える傷口から溢れる血は、すぐに止まる様子はない。今はまだ大丈夫だが、このまましばらく放置していては、出血の多さと激痛とで意識が遠ざかりそうだ。

 魔物が負った傷もけして浅くない。とっとと退散するか、あるいは勝負をつけるため、さっさとしかけてきてくれれば助かるのだが。

「カイ様、傷は大丈夫でしょうか」

「傍から見るとやばそうか?」

「少なくとも、軽いものには見えません。あの魔物は私たちが抑えますから、せめて応急処置をされたほうがよろしいかと」

「……まだなんとか、剣は振るえそうなんだが」

 魔物と戦う事に慣れていなさそうな彼らに任せる事は正直不安だったが、彼らの言葉を否定できない程度に傷は深かった。カイは短い時間逡巡したが、悩んでいても仕方がないと無理矢理結論付け、口を開く。

 突然、空気がざわついた。

 魔物を警戒していた聖騎士たちが、一様に振り返る。戦いの最中に何を馬鹿な事を、と叱咤しかけたカイは、戦闘の場に不似合いとしか思えない可憐な声が耳に届くと声を失った。

 カイが知らない響きの言葉を発する声は美しかった。だがけして耳に心地良くはない。冷たく、寂しく、胸が痛くなる声。

 カイは迷わず魔物から目を反らし、振り返った。魔物の絶命を確かめるその前に目を背けるなど、魔物狩りを生業とする者としては有り得ない事だったが、大丈夫だとの予感があった。

 見るからに上等な布地をたっぷり使われ、細かな刺繍が縫い取られている白い服を着た、綺麗な、美しすぎるあまりに綺麗としか言いようのない少女が、眩しいほどに白い腕を天へと伸ばして立っていた。声と同様に可憐な容姿でありながら、魔物に動じる様子はなく、凍りついた表情を魔物に向けている。

 澄み切った青空から落ちる、一筋の雷。

 雷は真っ直ぐに魔物へと落ちる。刹那、轟音が響いた。背後で起こっているはずだが、突如世界が輝いたかのように眩しく、カイは目を閉じ両腕で顔を庇った。

 力を失った魔物の巨体が地上に叩き付けられる音が耳に届くと共に、カイはゆっくりと目を開け、再び少女を視界に納めた。

「貴方が、カイ様ですか?」

 冷たい声も、表情も、先ほどと何ひとつ変わらなかった。せっかく綺麗な少女であるのに、温かみがないせいか人間離れしていて魅力がない――そこまで考えて、カイは悟った。人としての魅力を感じないからこそ、少女は恐ろしいほど美しいのだろうと。

「そう、だけど……今の雷は、君が?」

 少女は小さく肯いた。

「はい。わたくしが与えられた力の内のひとつです。エイドルードに逆らう存在を罰する力」

「……凄い、ね」

「当然の力です。わたくしは、神の娘なのですから」

 少女はカイに歩みより、白い両手をカイの右腕に翳した。肉が抉られ、血が溢れる傷口は、普通の娘ならば目を反らしたくなるものであるはずなのだが、少女が怯む様子はなかった。

 淡く白い光が少女の両手から生まれ、光は傷を包み込む。じわじわと皮膚を撫でる暖かな光は心地良く、痛みを忘れさせる力を持っていた。

 否。これは、痛みをごまかす力ではない。

 光が消え去った時には、カイの腕の傷もきれいさっぱり消え失せていた。魔物に噛まれた事が悪い夢かと思うほどだ。しかし、夢ではなかったと示すように、腕にはべっとりとまとわりつく血だけが残っている。

「君は……」

「わたくしはシェリアと申します」

 少女は服の裾を掴み、優雅に礼をすると、顔を上げ、空ろな瞳でカイを見つめた。

「参りましょう、カイ様」

「参りましょうって、一体どこに」

「王都セルナーン、エイドルードの大神殿へ。そうして、わたくしたちに与えられた使命を果たしましょう」

「俺たちの使命……?」

「ご存知無いのですか?」

 カイは正直に肯いた。

「大陸を救ってほしいとか言われたが、それに関係があるのか?」

 そういえば、ハリスはカイが並べた疑問に次々と応えてくれたが、具体的にどうやって大陸を救うのかについては、まだ説明がなされていなかった。確か、魔物が現れた事を報告に来た男によって、ハリスの言が遮られたのだ。

 シェリアは小さく肯く。やはり表情を変える事なく、平然と続けた。

「カイ様とわたくしとのみが為せる使命です。真なる神の力を受け継ぐ、新たなる神の御子を生す事は」

「……は?」

 咄嗟に飛び出した短い言葉は、相手を問い質す意味の篭ったものだったが、少女はすべてを語ったつもりになっているのか、追って説明をしてはくれない。

 今日は信じがたい事、訳の判らない話が、多すぎやしないか。

 すでに混乱気味だったカイは、今日一番の衝撃を連れてきた少女を目前に、途方に暮れるしかなかった。

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