神の娘 3

 気付けば窓から差し込む光に赤が混じりはじめていて、ハリスの足音が遠ざかってから長い時間が過ぎたのだと知った。

 ただひとり残された静かな家の中で、力無く椅子に腰掛ける。そうして音に出さず、呼んだ。「リリアナ」と。

 無意識に唇が紡ぐ名は、脳裏に蘇る若い女性の微笑みは、16年も前に失った、永遠の伴侶のものだった。

 いつの間に、共に過ごさぬ時間のほうが長くなったのだろう。山の麓の小さな村で、3ヶ月違いで生まれたリリアナは、出会った記憶が無いほど前から共にあったというのに。

 息を吐き、投げ出した手に視線を落とした。小さな傷が無数に残る、硬い、くたびれた手。

 昔から綺麗な手ではなかった。砂漠の女神であったリリアナのすべらかな手を取る事を躊躇した日を思い出し、自嘲気味に笑う。

 だが、リリアナの美しい手は、この手を取ってくれた。

 硬く握り合い、罪の重さをかき消すように笑いあいながら逃げ出した日からの記憶が、次々と蘇る。自分は幸せだった。リリアナも幸せそうに笑っていた。奪われ、失われた時を取り戻すように、ふたりは片時も離れなかった。

 カイが産まれるその日まで。

「幸せよ」

 リリアナは何度も言った。砂漠の神殿から共に逃げ出した日から、最期の瞬間まで、何度も、何度も、繰り返し語りかけてきた。

「私、幸せよ、エア。本当に、幸せなの」

 長いと言える人生ではなかった。だが彼女は死の瞬間、笑ってくれた。男にはけして知る事のできない苦しみに長く責められながらも、引き換えに手に入れたひとつの命を抱き締めながら、満足げに微笑んで生涯を終えた。

「俺も、幸せだ、リリアナ」

 共に生きようと誓った相手は失われた。だが、最後までそばに居てやれた。手を握り、リリアナの声を聞き、リリアナの声に応えてやれた。神に奪われたまま「それが運命だ」と諦めていたならば、けしてできなかった事ができたのだ。

 そしてリリアナは、新たな家族を残してくれた。

 膨らみはじめた腹を撫でながら、男の子ならカイを名付けようと、リリアナはしきりに言っていた。ああ、そうだな、それがいいと、自分も返した。

 だから生まれた子にはカイと名付けた。リリアナの弟妹の面倒を見た経験があったため、赤子の面倒の見かたはおぼろげに理解していたが、男の自分ではどうしようもない事もいくらかあり、周囲の協力を得ながらなんとか育てていった。

 扉が急に開いたのは、カイが支えなく歩けるようになったばかりの頃だったか。

 見覚えのある鎧を纏い、見覚えのある剣を携えた、10人ばかりの集団。親しい顔は無かったが、見知った顔がいくつかあった事を覚えている。

「その子を渡したまえ」と、一番年かさの男が言った。

 当然、「渡すものか」と返した。リリアナが命と引き換えに残してくれた大切な家族。無条件で愛情をそそげ、また情を返してくれる存在。残された唯一の温もり――手放すわけにはいかなかった。

「エイドルードは女神リリアナの子を必要としている」

 だからなんだと? エイドルードが望んだものは、すべて差し出せというのか?

 神と呼ばれる存在は、またも自分から大切なものを奪おうと言うのか?

 認めない。それが運命だと言うのならば、再び抗うまでだ。

「大人しく渡したまえ。無断で聖騎士団から脱走した件、門外不出の地図を複製した件など、これまで罪とされていたものすべて不問と処し、望むならば聖騎士団への復帰も許可すると、大司教様は仰せだ」

「ずいぶんな温情措置だな」

 何が起こっているか理解できず、無垢な瞳で見上げてくる息子を引き寄せながら言った。

「当然だ。すべてはエイドルードの御意志であったのだから。お前は神の与えもうた試練を乗り越え、神の使命を果たした、立派な神の徒。我ら聖騎士団が誇るべき男だ」

「なんの事だ」

「判らぬか?」

 隊長と思わしき年かさの男は、誇り高く胸を張って続けた。

「エイドルードは元より、お前がリリアナ様を砂漠の神殿より連れだす事を望まれておられたのだ。その子の誕生のために」

 カイを抱き締める手に無意識に力が篭っていくのを自覚した。

「何を、馬鹿な」

 否定しようとして、協力者の言葉が脳裏に蘇った。自分と同じように愛する者を神に奪われた男。女神ライラを奪い返すため、森の神殿に旅立った男――アシュレイ・セルダ。

 奪い返されたくなければ、はじめから人のものを奪わなければいい、天涯孤独な娘を娶れば良い、とアシュレイは言った。だからこれは罪ではない、神の意志に従う事なのだ、と。

 男の言葉を信じるならば、アシュレイの解釈が正しかった事となる。神への反逆心をもって行動していた自分は、ただの道化だったのだと。

「何が神だ。カイは誰にも渡さん」

 それからの事はよく覚えていない。いくつか会話を交わした後、いつか必要かもしれないと捨てる事なくとっておいた剣を引き抜き、高圧的な態度で向かってくる者たちを斬り捨てた。何人かは逃げ出したが、それを追う事をせず、カイを抱いて逃亡した。

 ひとつのところに安住する事はできなかった。すぐに追っ手が来ると思ったからだ。しかし、ひとつの所に安住せずとも、追っ手は幾度も目の前に現れた。

「エイドルードの目はお前を取らえて放さん。無駄な足掻きをするな、エア・リーン!」

 合わせて何人斬ったたかは覚えていない。傷を負わせ、すぐに動けないようにしただけのつもりだが、何人かの命は失われたかもしれない。はじめは夜が訪れるごとに悔いたが、やがて思い悩む余裕がほとんど無くなった。カイを守らなければならない。カイと自分と、家族で過ごす生活を壊してしまえば、死んでいったリリアナにどう詫びればいいか判らない。

 トルベッタに辿り着いたのは、不毛な追いかけっこに疲れた頃だった。最初の追っ手を撃退してから、半年近い時が過ぎていた。

 負わされた傷がじくじくと痛んだ。ひとつひとつは致命傷とは縁遠いものだが、ろくな治療をする余裕もなく、跡に残る傷となったものもある。一番大きいものは顔の傷で、やがてそれは罪の象徴となって、心にも深く刻まれた。

 がむしゃらに逃げ続けた先にあったトルベッタは、これまで通りすぎてきたいくつもの街と雰囲気が明らかに違っていた。はじめは何が違うのかが判らなかったが、3日も滞在すれば充分すぎるほど理解できた。

 この街には魔物が出る。エイドルードの加護の中ではけして現れないはずの魔物が、頻繁に。

「おそらく、エイドルードは結界を張っているんだろう。大神殿と、森の神殿と、砂漠の神殿。この3点を繋ぐ、巨大な三角形の結界を。この三角形は、大陸のほとんどを網羅してはいるが、トルベッタはわずかにはずれている」

 教えてくれたのは、部屋と食事と傷薬を与えてくれた、街を守る衛視長を勤める男だった。

「そんな危険な場所に、なぜ、これほどの街が?」

「海だ。3つの神殿がひとつの大陸にある以上、エイドルードの加護の内側にある海はほとんどない。塩にしろ、海産物にしろ、海が与えてくれるものを得るには、誰かが危険を承知で海に近付かなければならない。おかげでこの街は富んでいるよ。もっとも、その富の大半を魔物から守るために使わねばならんがね」

 同程度の他の街とは比べ者にならないほど、厚く高い堅牢な外壁。八方を完全に見渡せる監視の塔。衛視の数も他の町と比べて桁違いに多く、夕焼けが近付く頃には完全に外門を閉じている。その理由を知った時、手は自然と剣に伸びていた。

 今までは3日とあけずに新たな追っ手が現れたものだが、ここ5日は追っ手の姿を見ていなかった。

 もしかすると、結界外ならばエイドルードの監視の目が届かないかもしれない。

 もしかすると、カイに安住の地を与えてやれるかもしれない。

 迷う自分を支えるように、無垢な瞳を輝かせた息子が、腕にしがみついてくる。

 この手を放したくない。放してなるものか。

「俺を雇ってはもらえないか。剣の腕に自信はある」

 迷いを掃ってしまえば、決意は早かった。

「魔物と戦うのは、人と戦うのとわけが違うぞ」

「判っている。だが、俺は息子とふたり、この街で生きていきたい。やれと言われれば大抵の事はするが、剣の腕ならば人に誇れるだけの力をすでに持っている。それが、この街の役に立てるならば」

 掃いのけた迷いが、そのまま衛視長に移ってしまったようだった。誰の目から見ても明らかに困惑した衛視長の目が、親子の間を行ったり来たりする。

 行き倒れかけた親子に救いの手を差し伸べてくれた彼の事だ、迷う一番の理由は不審ゆえではないだろう。きっと、父親が魔物に倒されたあと、母もなく残される子の事を心配してくれているのだろう。

「判った。そこまで言うなら、次の魔物が出てきた時にでも、腕を見せてもらおうか。それで判断する。いいか?」

「それでいい。必ず、役に立ってみせる」

 カイの小さな頭を撫でた。カイは小さな手を伸ばし、大きな手に触れながら、無邪気な笑みを浮かべた。

 目を伏せ、強く、それでいてできうる限り優しく、息子を抱きしめる。温もりと触れあうと、涙が出そうになった。

 永遠に、共に生きよう。今度こそ。

 心の中で語りかける。息子と、今は亡き生涯の伴侶に向けて。

 神無きこの街ならば、きっと大丈夫だ。

 神の代わりに街を守りながら、この街が世界のすべてだと思いながら、生きていこう――

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