三章 神の娘

神の娘 1

 暗雲が空を覆い太陽が隠れてしまう雨の時期には、魔物の出現率が増し、毎日何体もの魔物を斬る事となる。その日々を思えば、晴天が続いたおかげか5日も魔物を見ていない最近は、長期休暇を貰っているようなものだった。

 体が鈍らないよう毎日鍛えてはいるが、それでも魔物を斬る感覚を徐々に忘れていく手がもどかしく、ジークは己の手を見つめる。古傷がいくつも残る荒れた手をわずかに眺めたのち、自分の考えがあまりに不謹慎だと気付くと、小さく笑った。トルベッタの平和を守るために雇われている自分が、平和が壊れる事を望むなどと、あまりに滑稽ではないか。

 ジークは水を飲んで喉を潤すと、玄関扉を開け、晴れ渡る空を仰いだ。爽やかな空は清々しいほどだが、心穏やかに見る事はできず、きつく睨んでしまう。

 陽射しは温かくジークの身にふりそそいだ。涼やかな風は心地よく肌を撫で、遠くから子供たちのはしゃぎ声を運んでくる。

 本当に、平和だ。このまま魔物の斬り方を忘れてしまっても問題ないのではないかと、錯覚してしまうほどに。

「ジーク! ちょうどいいところに!」

 しばらく身じろぎひとつせずに空を眺めていると、遠くから駆けてくる男の影が視界の端に映った。

「魔物が出たのか?」

 挨拶などを省略し、ジークは男に問いかける。

 ジークは長年この街に住んでいるが、街の者たちがジークの所にやってくる理由は、仕事絡みがほとんどだった。今回も同じであろうと疑わず、街の平和を堪能するなどと自分には似合わないのだなと、半ば諦めじみた事を思いながら、起きている時間は常に腰に佩いている剣の柄に手を置く。

 しかし男は、首と手を左右に振ってジークの問いに答えた。

「いや、魔物じゃない。もしかしたらどこかで出てるかもしれないんだが、それを報告に来るとしたら他のやつだ」

「ならば……」

「街に変なやつらが来てるんだ。馬に乗って綺麗な鎧着た偉そうな男たちが、なんか豪華そうな馬車を牽いていてな。とりあえず領主のとこに行ってるみたいなんだが、そいつらが街に入ってすぐに、俺は道を訊かれて」

 ジークが目を細めると、男は少し怯えた様子を見せ、一瞬口をつぐんだが、更に続けた。

「どうも、カイの事を捜しているみたいなんだ」

「なぜだ」

 その質問を目の前の男に投げかけても意味などないと気付いた時には、すでに疑問は口を吐いていた。そして、口から飛び出した疑問が己の耳に入るわずかの間に、答えをすでに知っている事を思い出したジークは、もとより鋭い眼光を更に厳しくする。

 男は街に来た者たちを具体的には描写しなかったが、ジークの頭の中では、どのような鎧を纏い、どのような剣を腰に下げているのか、すぐに想像できた。直感でしかなかったが、確信はある。そうだ、彼らはこんな辺境までわざわざカイを探しに来たのだ。

 とうとう来てしまったのか、その時が。

「なんでかは言ってなかったけど、でもさ、話が合わないんだよ。そいつらが探しているのはカイだけじゃなくって、カイの父親を名乗る男もらしいんだけどさ、そいつらが口にしてた男の名前は、あんたの名前……ジークじゃなかったんだ」

 投げかけられる疑いの眼差しは、トルベッタに辿り着いた頃に向けられたものとよく似ていた。

 当時その視線を向けられた事を、ジークは恨みに思ってなどいない。ひどく薄汚れていて、旅を続けるために必要な最低限の荷物だけを持ち、腰に下げた剣だけが不似合いなほどに美しい、全身に傷を刻んだ愛想のない男。それだけでも充分に怪しいというのに、小さな子供を片腕に抱いていたとなれば、不審な目で見られて当然だろう。

 15年近い時をこの街で過ごしながら、元来の性格が影響してか、ジークは街の者たちにさほど溶け込んでいなかった。しかし、常に魔物に怯える街の住人を守り続ける中で、ある種の信頼関係は築けている。息子であるカイは素直に街に馴染んでいた。人生のほとんどを過ごしたトルベッタを故郷と定め、愛し――そうして街の住民たちは、自分たち親子をトルベッタの民として認めてくれていたのだ。

 だというのに、いまさら。

「カイは俺の……ジークの息子だ」

 ジークは力強く言い切る事で、男の眼差しを断ち切った。

「その男たちに、この家の事を言ったか?」

「い、いや。オレは言ってない。だが、領主がどうするかは判らん」

「そうか」

「言っちゃいけないのか? あいつらから隠れなきゃならない事情があるのか? それじゃまるで、うしろめたい事があるって言ってるようなもんだぞ。なあジーク、あんた一体何者なんだ。それに、カイは?」

 うしろめたくなどない。ジークは背筋を伸ばし、胸を張り、青き空の下に堂々と立ち、無言で語った。

 男は恥じるように目を閉じる。項垂れる様子は、謝罪しているようにも見えた。

 そうだ。ただ家族で幸せに暮らしたいと願い、実行したまでだ。立ち塞がる障害を排除した事も、家族の生活を守るために必要であったからだ。

 悪は向こうではないのか。自分たちは正しいと主張し、そのために犠牲を強いる連中ではないのか。

「もしまた同じ事を訊かれたならば、そんな親子は知らないと返してくれるとありがたい。他の者たちにもそう伝えてくれ。みな、ジークとカイという親子しか知らんのだから、嘘にはならんだろう」

「しかし」

「やつらに居所が知れれば、俺たちはこの街を出なければならん」

 ジークが冷たく言い放つと、男はごくりと喉を鳴らし、踵を返して走り去った。

 ほぼ脅迫だった。長く魔物と戦い続けてきた歴史を持つトルベッタにおいて、この15年間に起こった魔物の襲撃による死亡事故が極端に少ない事実とその理由を、この街に住む大人が知らないわけはないのだから。

 ジークは男の背中を見送ると、家の中に戻り、扉を閉める。椅子に浅く腰掛けると、思考に耽った。

 今の口止めにどれほどの効力があるかは判らない。仮に街中の住民にジークの意志が伝わったとしても、それが街に来た男たちと接触を持つ前とは限らないし、すべての者がジークの意志に従ってくれるとは限らない。そもそも、領主にはすでに接触されているのだ。領主の対応によっては、住民たちの協力など、丸ごと無意味になってしまう。

 なぜ、どうやって、彼らはカイの居場所を突き止めたのか、ジークは考えた。アシェルの町に同情し、カイを向かわせてしまった事が原因かもしれないと考えて、即座に違うと否定する。それが原因だとすれば、彼らは真っ直ぐにアシェルに向かうはずではないか。

 では、彼らの地道な探索が身を結んだのだろう。監視の目が届かないところだからと、ひとつの街に住み着いた事が敗因なのかも知れない。

 ジークは深く息を吐く。彼らの最大の目的であるカイが今現在トルベッタに居ない事は、運が良い――いや、やはり、逃げ隠れしろと指示できない事は、不運と言えるかもしれない。アシェルでの仕事が早々に片付き、トルベッタに戻って来る事になれば、カイは何も知らずに連中と鉢合わせする事になる。

 ジークは落ち着いて息を吸った。少なくとも今は、運の良し悪しを考える必要はない。必要なものは、最善の対処なのだ。

 決意を秘めて立ち上がる。そうだ、自分ならば見つかったところでどうにでもなる。だが、カイだけはけして見つかってはならない。15年前、戦いを繰り返しながらトルベッタまでやってきた事からのすべてが、無駄になってしまう。何とかして、この街に帰ってくる前に、どこか遠い街まで避難させなければ――

 ジークは自身の顔に手を触れた。指先に古い傷跡が触れると、ゆっくりとなぞって苦い感情を蘇らせた。

「絶対に、渡さん……!」

 強い意志を秘めた声が、空気を震わせる。

 いざとなれば戦っても良い。むしろ都合が良いではないか。魔物が出ず、腕が訛りそうだと思っていたところなのだから、魔物の代わりに人を斬ればいい。ためらう必要などない。相手はこちらを人だと思っていないのだから――おとなしく捕まってやったところで、ジークが最後に辿りつくところは、おそらく死であろうから。

 ジークの指が剣の柄を撫でる。

 同時に、ゆっくりと扉が叩かれる音がした。

 ジークは柄を強く握りながら、驚愕に顔を上げた。その扉の向こうまで人が近付いてきている事に気付かなかった自身に驚いたのだ。

「誰だ」

 絞りだした低い声で訊ねる。剣を静かに引き抜き、構えながら。

 魔物が現れた事を報告に来た街の者か。それとも他所から来た者たちなのか。後者だとすれば、行動が早すぎはしないか。

 ジークは喉を小さく鳴らし、扉の向こうの人物の反応を待った。

「存じませんでした。今はジークと名乗られておられるのですね」

 優しい声だった。家の中に充満している緊迫した空気を、ゆっくりと解していく力がある声。

 若い青年の声ではなく、自分とさほど歳が変わらない男のものだと判断した瞬間、ジークは知っている、と思った。この声を、自分は知っている。

 ジークは構えを少しだけ緩め、声を記憶の奥から手繰り寄せた。記憶に残る声は、今聞いたものとほとんど変わらない声でありながら、より若々しい青年の声だった。

「お前は」

「お久しぶりです」

 再会を告げる男の声は、ジークに確証を抱かせた。

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