約束 8

「探索に来て良かった」

 洞窟の最奥に広がる光景を目にした瞬間、カイは無意識に呟いていた。

 一見しただけでは、さほどおぞましいと言える光景ではない。洞窟を深く潜り続け、最終的に到達した楕円状に広がる空間に、十数個にも及ぶ球体と、蟻を2匹発見しただけだ。

 蟻の体長はリタの半分ほどだったが、力いっぱい噛み付けば、人間の腕程度ならば噛み千切れそうな歯も持っていた。通常の蟻と比較すれば充分化け物だが、これまで戦ってきた魔物と比べれば、明らかに小さく、弱い。おそらくは、昨日かそれ以前に倒した魔物の幼体だろう。

 そして球体は――きっと、卵だ。

「そうだね。明らかに、繁殖してるよね。昨日案内してくれた人、凄く嫌そうにしていたけど、感謝してもらわないと」

 リタは同意しながら、腰の剣を引き抜いた。

「とりあえず、片付けようか」

「数は多いけど昨日よりは明らかに楽そうだな」

 カイもリタに倣って剣を抜いた。

 もちろん、昨日折ってしまった愛用の剣ではない。昨日アシェルに戻ってセウルに報告と事情説明をしたところ、快く譲ってくれたのだ。アシェルの町の衛視たちが使っている一般的なもので、予備として倉庫に数本眠っていたものの1本らしい。

 刃の長さ、剣そのものの重さ、柄の形や細さなど、あらゆるところが愛用の剣と少しずつ違うため、使いやすいとはけして言えないのだが、贅沢は言っていられない。トルベッタに戻るわけにもいかないし、戻ったところで剣が直せるか、同じ剣が入手できるかも判らないのだ。先の事はともかくとして、今はこの剣に自分を馴染ませるしかない。幸いにも、今日の相手は昨日ほど強敵ではなさそうだ。

 体が小さい分すばしっこく感じる魔物を、使い慣れない剣で捕らえた時、すでにリタはもう1匹の息の根を止め、卵の方の始末をはじめていた。すでに孵っているものがある事から予想した通り、生まれる寸前の卵ばかりで、潰れた卵からはほぼ蟻の形をしたものがこぼれ出てきている。

「これ、全部孵ってアシェルを襲ってたらどうなってたかな」

「全滅の可能性も充分あるな。魔物に慣れてるトルベッタでも、どうなる事か」

「だよね。あたしたち、町の英雄になってもよくない? ま、こんな通りすがりの町で英雄になっても、あたしのほうが忘れちゃうだろうから、ちゃんと報酬払ってくれればそれでいいけど」

「冷たい意見だな」

 カイは率直な感想を口にしてみたが、リタは機嫌を損ねる様子はなく、むしろ楽しそうに笑みを浮かべて、切り返してきた。

「あたし、なんか間違った事言った?」

 カイは柔らかな笑みを浮かべ、首を左右に振った。

「俺も同意見だよ。アシェルの町を助けられた事は純粋に嬉しいけど、トルベッタに帰りたいって気持ちの方が強い。俺が守りたいのは、やっぱりトルベッタなんだな――それが理解できただけでも、この仕事に意義はあったのかもしれない」

「じゃ、報酬まるごとあたしに譲る?」

「それは別問題だ」

 ふたりは顔を見合わせ、ひとしきり笑った。魔物は滅び、互い以外の生物が存在しない洞窟の中は寂しいほど静かであったはずなのに、笑い声が絶えないその時間は、むしろ賑やかと言えた。

 最後の卵を潰し終え、こびりついた魔物の血を拭い、剣を鞘に納める。ほぼ同時に作業を終えたふたりは、どちらからともなく来た道を振り返った。

 並んで、ゆっくりと歩き出す。暗い洞窟の中である事は変わらないが、魔物が残っていない事が判っている今、往路ほど緊張感に包まれていなかった。心なしか足取りと気分が軽くなる。

 カイはリタの横顔を見下ろした。誇り高く胸を張って歩く少女の表情は達成感に満たされて明るく、空色の瞳は眩しいほど輝いている。

 だが、カイは直感的に思った。何か物足りない、と。

「ほとんど分岐のない道のりだったし、分岐がある所も、しらみつぶしに全部探索した。完璧な仕事だよね」

「そのつもりだ」

「これでアシェルに魔物は来なくなるだろうし、アシェルに帰ったらこの仕事は終わりかな。もう2、3日、様子見で残る事になるかもしれないけど」

「そうなるだろうな」

 カイははじめ、リタの横顔を眺めながら、彼女の表情に欠けているものは何なのだろうと考えていた。しばらく考えて、欠けているわけではなく余計なものが加味されているのではないかと思い至った頃、突然大きな瞳に睨み付けられ、思わず仰け反った。

「すごい生返事だけど、あたしの話聞いてる?」

「え……あ、うん」

「本当かな」

 真っ直ぐに見上げてくる瞳に、思考を傾ける方向を強引に変更された。

 少し前、具体的にはそう、昨日からだ。何かがカイの中で引っかかっており、しかし何が引っかかっているのかは判らなかった。気持ちが悪く、はやく理由を知りたいと思ったのだが、どれほど考えても思いつかない。やがて、考えるだけ無駄だとの結論に至り、無理矢理忘れ去った――その問題を、目の前につきつけられたのだ。

 得体の知れない不愉快な気分が胸の中を占領しはじめ、カイは自身の胸元を抑えた。まったく気分が悪い。だが、どうして気分が悪いのかも、どうすれば解決するのかも、やはり判らないままだった。

「カイはこの仕事が終わったらトルベッタに帰るんだよね、もちろん」

「ああ」

「そうだよね」

 短い間表面に出ていた苛立ちが、リタの表情から消えた。

「君はこれからどうするんだ?」

 話の流れから自然に湧き出てきた問いが自身の唇から放たれた瞬間、カイは唐突に悟った。疑問に思っていたふたつの問いの答えが、目の前に揃って置かれた気分だった。

 リタは仕事を完璧に終えた事に誇りを抱き満足している。それは間違いない。それによって浮かぶ明るい表情の中に、隠れるように混ざりこんだ感情――不安なのか寂しさなのか、カイに具体的な事は判らなかったが、何にせよ、仕事が終わったあとの事をいまだ定めていないせいだろうと予想が付いた。実に簡単な答えだ。

 そして、答えどころか問すらもはっきり理解していなかった、もうひとつ問題。

「どうしようかって考えていたんだけど、やっぱり」

「あのさ」

 リタの答えをわざと遮ってカイは続けた。

「俺は昨日からずっと引っかかっていた事があって、それがなんなのか今ようやく判ったんだが」

「それは、自分から訊いた質問に答えようとしているあたしの声を遮ってまで言わないといけない事?」

「だと思う。君のこれからに関わるかもしれないし」

 リタは息を飲んで間を開けてから続けた。

「一体、何?」

「いや、だから……」

「なんで口ごもるの」

「その……俺には、君を口説く権利があるんじゃないかって、思って」

 カイは手袋をはずし、剥き出しになった暖かな手で、そっとリタの手を取る。少女の手は、カイよりも少し冷たかった。

 大きな瞳を更に大きく見開いたリタは、しばらくの間は呆けた様子でカイを見上げていた。カイの言葉を消化し、言葉の意味を脳の奥まで浸透させるには、多くの時間が必要だったようで、リタが瞬時に顔中を朱に染め上げたころには、ふたつの手の温度が同じだけになっていた。

 リタはカイの手を振り切る。自由になった両手で、熱を計るように己の頬に触れる。カイの視線から逃れるように顔を反らしてから、続けた。

「そんな、義務みたいに思わなくてもいいよ。ただの偶然、うん、偶然なんだから」

 カイは静かに息を吐いてから返した。

「放っておけば数日後には半永久的にさようならできる相手に、果たす義務なんてどこにあるんだ」

「で、でも」

「義務とかではなくて、俺は心から、このまま何もせず、数日後に半永久的にさようならする事を、嫌だと思ったんだ」

「ま、待って」

 リタは言いながら片手を突き出し、カイの言葉を遮ろうとした。しかしそれでもカイが言葉を続けようとすると、カイの唇に両手を押し付け、力ずくで声を止める。

 唇に触れる手は、震えていた。

「それ以上は言わないで。今は、まだ」

 リタはぎゅっと目を閉じるた。

「今言われたら、あたし、絶対、流されるから。それが凄く嫌だから。自分がなんなのか、この力がなんなのかも判らないうちに、この力に踊らされているみたいで、すごく癪に触るんだよ。魔物狩りになったのはいい。あたしがこの力を利用してやってるんだから。でも、今、あんたを選ぶ事は、あたしがこの力に利用されているような、そんな気になる」

 カイがリタの手の下で、唇を硬く引き締めると、リタは片腕を自身の胸元に入れ、首にかけたメダルを取りだした。

 中心で輝く空色の宝石が、灯りを受けてきらりと輝く。

「これね、エイドルードに仕える、それなりに偉い人しか貰えないものなんだって。これを、あたしを抱いていた男が持っていたんだって。だから、その人を知る手がかりになると思うから――だから、あたし、この仕事が終わったら、王都セルナーンに行って、男の事を調べてみようと思ってる。少しは判ると思うんだ。そしたらあたしの事も、少しは判ると思うんだ」

 リタは大きく息を吸ってから続けた。

「だから、ごめん。自分でも凄くわがままだって判ってるんだけど、判っても判らなくても、気が済むと思うから。気が済んだら、あたし、トルベッタに行くから」

 ゆっくりと、リタの手が離れていく。

 同時に、固く閉じられた空色の瞳が再び開かれ、困惑の色を濃く浮かべながら、カイの表情を確かめるように見上げてきた。

「その時に、続きを聞かせて……くれたら、って」

 いつも自信に満ちた声は見る影もなく、おびえるように願望を伝えられてしまえば、微笑む以外に何を返せるというのだろう。

 共にあったのはたった数日。けれど、リタの事をひとつずつ知るたびに、彼女の強さや優しさが、眩しかった。

 その輝きを守るために、セルナーンに向かう事が必要だと彼女が言うのだ。ならば、引き止める事などカイにできるはずがない。

 こころよく送り出さなければならない――それを、どんなに辛いと感じても。

「待ってるよ。トルベッタで」

 いや、辛くはない。

 カイはリタに拒絶されたわけではないのだ。彼女なりの精一杯で、繋ぎ止めようとしてくれてた。それはわがままなのだと、言ってくれた。

 嬉しいと、心から嬉しいと、カイは素直にそう思えたのだ。

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